第12話 愛しい忘却(1)

 生理二日目。


 重い。お腹がもちゃもちゃする。体がだるい。しんどい。重力がドーーーン! とあたしの体に畳み掛けてくる。


「………」


 あたしは枕を叩いた。


「うーーー!」


 あたしはベッドを叩いた。


「だるい!」


 あたしは仰向けになった。


「もう、やだ!」


 だるい。


「あたし、なんて可哀想なの!」

「たかが生理ごときで大袈裟なんだから」


 ドロシーが天井に張り付いて、ため息をついた。


「薬飲んで寝る。これに限るよ」

「昨日から寝っぱなしよ! もう眠くないの! もう睡眠は結構なの! このままじゃ、あたし、眠りの美女になっちゃう!」

「じゃあ、元気に起きて授業に参加してくれば? 眠りの美女。メニーも心配しながら待ってるよ」

「まあ! 酷い! ドロシーってばよくもそんな血も涙も無いこと言えるわね! あたし、病人なのよ! だるいのよ! 体が重たくて仕方ないのよ! でも眠れないのよ! 冷血魔法使い! この人でなし!」

「そう。僕は人じゃないのさ。魔法使いだからね」

「畜生! この恩知らず! このあたしが、具合悪いって言ってるのよ! こう、回復魔法で、ひんやり気持ちいい、体が楽になる魔法とか、出来ないの!?」

「言ってるだろ。魔法を使うにもルールがあるんだ。ルールを破ってまで、君に使えっての?」


 ドロシーが鼻で笑った。


「冗談じゃないね。ここから弱った君を見ててあげるよ。やーい。ざまあみろー」

「くそ魔法使いがぁあああああ!!」


 あたしはシーツを被って、お腹を押さえる。


「あたしはね、生理には弱いのよ。生理だけは勝てないのよ。ああ、この世は非常に冷酷なり。生理なんて無くなればいいのに。痛い。もやもやする。なんかだるい気がする…」

「気分転換に庭でも散歩してくれば?」

「………」


 あたしはゆっくりと起き上がる。


「…そうね、ちょっと外を歩くだけでも違うかも」


 あ、そうだ。


「だったら、ちょっと遠出してこようかしら」

「ん、大丈夫なの?」

「街まで行くだけよ。歩けそうな気がする」


 クロシェ先生も、血行を良くするために歩くのがいいと言っていた。


「持て余した体力を使うのに丁度いいわ。ついでに金平糖も買ってきてあげる」


 そう言いながらベッドから抜けると、ドロシーが瞳を輝かせた。


「そういうことなら仕方ない! 君が倒れないように、おまじないをしてあげよう!」


(ん?)


 ドロシーが天井から、ふわりと体を浮かせて下りてくる。地に足をつけると、星のついた杖をくるんと回した。


「偉い子良い子はお使いへ、途中でお花を摘んでいく、寄り道悪い子、迷子の子」


 きらきらと光りが走っていく。あたしのクローゼットに入っていたドレスが輝く。赤いドレスが光る。


「そのドレスにまじないをかけてあげたよ。それを着て出かけるといい」

「どんなまじない?」

「怪我をしないようにとか、事故に遭わないようなやつ」

「ふーん」


 あたしはドレスを着る。チラッと窓を見る。


「今日は曇りなのね」

「朝からずっとだよ。今日一日曇りじゃないかな」

「…そう」


 あたしはブーツを履いた。


「そろそろかもしれないわね」

「ミス・クロシェかい?」

「ええ」

「そうだね。彼女が来てから一ヶ月が経った。君の言っていた通り、クリスマス前だ」


 ドロシーが瞳を閉じる。


「…確かに最近、また風がおかしくなってる気がするんだ」

「低気圧じゃない?」

「あーーー。低気圧かーー」


 ドロシーが納得した。


「確かに、そろそろ雪が降りそうだもんね。そっか。ああ、だから最近僕もイライラムカムカしていたのか、道理で生きてる事がしんどいと思っていたわけだ。低気圧だ。僕の気分は、全て低気圧のせいなんだ。この憂鬱さ、間違いない。低気圧のせいだ」

「帰りは馬車で帰ってくるわ」

「ご飯は?」

「食欲ない」

「歩いてる時にお腹痛くなったら?」

「…わかった。キッチンでスープだけでも貰ってくるわ」

「気をつけてね」


 コートを着たあたしは、部屋から出て行った。




(*'ω'*)




 街までの道の野原を歩きながら考える。


(どこを歩こうかな)


 ぐるぐる歩こうとは思ってたけど、空も暗いし、なかなか元気に出歩こうとは思わない。


(ああ、そうだ)


 仕事の紹介所。

 まだ並んでるのかしら。


(この間、所長に会えなかったのよね)


 見学には回ったけど、従業員全員が忙しそうで話せないねって、キッドと話していたのだ。


「まあ、でも俺にとっては好都合さ。お前を独り占め出来るんだから」


 ぱちんと、ウインク付き。


「はあっ! 気持ち悪い!!」


 思い出して、背筋がぞくぞくして、体がぶるぶる震え出す。


 あんな気持ち悪い口説き文句をさらっと言える奴が、女の子は良いっていうの? あたしもそうだったかしら? どうだろう。覚えてない。ああ、今の年頃のレディって分からないわねぇ。あたしも歳を取ったもんだわ。若い子にはついていけない。やれやれ。


 そんなことを考えながら、11歳の足を使って、てくてく街の中に入っていく。


(今日はどうかキッドに会いませんように)


 会いたくない。生理中に、キッドに会いたくない。


(匂い大丈夫かしら。一応、外に出る前に軽くシャワーは入ったけど)


 ああ、生理って本当に面倒臭い。匂いのことまで気にしないといけないなんて。女の体ってなんて理不尽な作りなのかしら。


(生理なんて、くたばってしまえばいいのに)


 あたしはてくてく歩いていく。見れば、やはり行列。


(今日も忙しそうね)


 あたしは建物の裏に回る。


(あ)


 この間はいなかった警備員がいる。窓からぼうっと外を眺めている。あたしはてくてく歩き、かかとを上げ、窓から警備員に声をかける。


「すみません」

「おやおや、お嬢ちゃん、何の用事かな?」

「関係者なんですけど、入っても良いですか?」

「おやおや、そうかい。関係者かい。ふふふ。お嬢ちゃんのお名前は?」

「テリー・ベックスです」


 名乗った途端、警備員の目が見開かれ、慌てて頭を下げてきた。


「こ、これは失礼いたしました!! テリー社長!!!」

「………なんか、慣れないので、社長はやめてもらえます?」

「え!? 社長を社長と呼ばず、何と呼べと!?」

「今みたいにお嬢ちゃんで構いません。中、入れます?」

「お嬢ちゃんで構いません!? ああ! なんと慈悲深い方なんでしょう! 先程は、大変失礼致しました! キッド様から話は聞いております! さあ、こちらへ! ご案内します! テリー様!!」

「………お願いします」


 警備員が部屋に振り向いた。


「ディラン! 仕事だ! 俺はテリー様を案内してくるぜ!」

「なんだって!? テリー様って、社長のテリー様か!?」

「俺はやってくるぜ!」

「ここは見せ場だぜ! これでお前の運命が変わるんだぜ!」

「イエス!」

「丁寧なご案内を!」

「ヒア、ウィ、ゴー!」


(……大丈夫かしら……)


 あたしは会社を見上げる。


(ところで、この会社、倒産したら誰が責任持つんだろ…)


 キッドは、俺しーらないって言いそう。


(ああ、なんか、子宮だけじゃなくて、胃まで痛くなってきた…)


「テリー様! ご案内します! さあ! おててを!」


 あたしと警備員がるんるん手を繋いで、建物の中へ入る。エレベーターに乗り、三階に行き、てくてく歩いて所長室にたどり着く。


(挨拶なら任せて。長年の貴族経験で身についてるわ)


 警備員がノックする。


「ジェフ所長、社長がお見えです!」


 扉の中から、返事が聞こえた。


「どうぞ」


 警備員が扉を開ける。


 その部屋の先には、鼻の下に左右に分かれた立派なひげのついた男が立っていた。

 かしこまったスーツを着て、書類を見て、机に置き、瞳をあたしに向ける。目が合う。

 ジェフ所長と呼ばれた男は、胸に手を当て、ぺこりとお辞儀をした。


「初めまして。テリー・ベックス様。ご挨拶が遅れて誠に申し訳ございません。所長に任命されました。ジェフ・カレインと申します」

「どうも初めまして。テリー・ベックスです。こちらこそ挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。そして、弊社がお忙しい中、訪問してしまいましたこと、どうかお許しください」

「とんでもございません。ここは貴女の会社です。いつでも大歓迎でございます。さあ、そちらにお掛けください。今、温かいものを用意させます」


 黒いソファーに促され、腰をかける。ジェフが手を叩いた。扉が開いた。


「失礼致します! にこっ!」


 とても素敵な笑顔の従業員らしき男がハーブティーを持ってきて、あたしに差し出す。


(……湯気が立ってる)


 猫舌のあたしはハーブティーを睨む。


「「失礼致します!!」」


 案内してくれた警備員と、ハーブティーを持ってきた従業員が所長室から出て行く。ジェフがあたしの向かいのソファーに腰をかけた。


「お気を楽に。ようこそ。貴女の会社へ」

「ご丁寧な対応、誠にありがとうございます」

「とんでもございません。お話ししたいと思っておりました。以前にも来ていただいていたそうで」

「ええ。けれど、皆さんお忙しそうでしたので、挨拶は控えさせて頂きました。本当にすみません」

「いえいえ、そのお心遣いに感謝しております」


 ジェフがハーブティーを飲んだ。


「所長の話が来た時に、話を聞いて驚きました。会社が会社を紹介するなど、聞いたことがありませんでしたから。役所では仕事が重なり、手間も色々と多いため、確かに仕事の案内には時間がかかってしまうんです。それをビジネスとしてやるだなんて、貴女は天才です」

「ただ、提案しただけです。なので、あの、社長と呼ばれて、戸惑ってるばかりで」

「今や貧困者で仕事に困っていた人達は、皆、貴女に感謝をしている事でしょう。今日も行列がすごいんです」

「ええ。見ました」


 ただ、


「あの、ミスター…ジェフ? あたしは、その、本当に提案しただけです。手配も会社の設立も、キッドが全部やってくれました。むしろ、あの、社長はキッドがなるべきだと思うんですけど…」

「いいえ。そんな事はありません。キッド様からも、色々と事情は聞いております。貴女はお屋敷の使用人方を助けようと、人々に働きやすい環境の職場を探されるために、この提案をしただとか。ここは、間違いなく貴女の会社です。貴女が社長です」

「社長だなんて、変です。あたし、まだ11歳なのに」

「ああ…その…」


 ジェフが咳払いをして、あたしに訊いた。


「テリー様、とお呼びしてもよろしいでしょうか…?」

「別に、テリーで構いません」

「いいえ!! 様をつけさせてください!! やはり、会ったときから思いました!! 貴女こそ!! キッド様にふさわしいお方だ!!!」

「……………はい?」


 目が点になると同時に、突然静かだったジェフが熱く拳を握り出した。


「テリー様、我々は、心配していたのです。あの自由奔放なキッド様に、将来共に人生を歩める相手が見つかるのかと!」


(ほら、キッド、言われてるわよ)


「しかーし!! キッド様が、あのキッド様が、ある日、突然我々に言ったのです!! 最高の相手を見つけたと!! 必ずしも! 彼女を俺のプリンセスにしてみせると!!!」


(出来るもんならしてみなさいよ。あの嘘つき野郎)


「その謙虚でおしとやかな令嬢の振る舞い!! わざわざ挨拶のために遊びたいお時間を割いていただいた優しさ!! とても11歳の令嬢とは考えられない!!」


(そりゃ実際の年齢は………………やめておこう)


「テリー様! ああ、テリー様! キッド様をどうか、ああ、どうか、よろしくお願いいたします…! あの方は自由過ぎるが故に、あなたを困らせてしまうかもしれませんが、何かあったら、このジェフにご相談ください! 何なりとお力になりましょう!!」

「あー…。えっと、おほほ、そうなんですね。ありがとうございます。でも、今のところ、あたしがキッドに助けてもらってばかりで、少しくらい自由にさせてもいいくらいで…」

「あああああ! なんとお優しいお方なんでしょう!! 婚約者だからと言ってキッド様の行動を制限しないだなんて!! なんと、なんというお方だ! 女神だ!! あなたこそ女神だ!!!」


(いや、そうじゃなくて、自由にさせてあたしに構わなくなったらそれはそれで助かるのよ。あいつと関わるのはボディーガードの時だけでお腹いっぱいだわ)


 つーか、なんで婚約のこと知ってるのよ。くそ。あいつ言いやがったわね。


(くたばれ。キッド)


 何を勘違いしているのか、ジェフは大粒の涙を流し、感動している。


(あいつ、契約のことは何も言ってないみたいね。婚約者でいてくれってそういうこと?)


 キッドの知り合い皆の前で、あたしが婚約者のふりをすれってことね。


(いいわよ。契約だもの。その代わり、何かあったらあたしを完全に危険から守ってもらうわよ)


 あたしはにこりと微笑む。


「少しだけ、キッドから聞いてます。ここには、とても信頼できる方々を従業員として迎えたと。あたしはまだ子供で、経営のやり方など全くわかりません。どうか、この会社をよろしくお願いします」

「ええ! このジェフに全てお任せを! 必ずや、企業の天下を取ってみせます!」


(そこまではしなくていい…)


 ジェフがハンカチで涙を拭き、鼻水をかみ、濡れたハンカチをポケットにしまった。


「せっかくキッド様から有難く頂いたお話でございます。何なりとお申し付けください。テリー様」

「助かります。でも、今の段階では、特に言うことはありません。このまま会社の利用者を増やしていただければ…」

「今はまだ実験段階ですからな。様子を見ていくことにしましょう」


 優秀な所長に、優秀な従業員達。素人のあたしから見ても、この仕事案内紹介所には有能な人材がそろっているようだった。


 全て、キッドが用意したこと。


「…あの…、Mr.ジェフ」

「はい、なんですかな?」

「キッドは」


 ―――これは、きっとルール違反だ。

 けれど、一回だけ、訊いてみたい。


「…何者、なんですか?」


 詮索してはいけない気がした。

 それでも、違和感を感じずにはいられない。


 この所長は、大人である。大人が、キッドを、キッド様と呼んでいる。

 それだけじゃない。キッドの周りにいる人々は、大人は、皆、キッドを敬っている。彼は金持ちの御曹司か?

 いいや、違う。

 彼は、ただの一般市民だ。

 そのはずだ。

 なのに、なぜ、こんなにも、感じたことの無い違和感を感じるのだろう。


(あたしは、半年前、何者の命を救ってしまったのだろう)


 この違和感さえ、

 この謎さえ、

 答えが見つかれば、まだ、これ以上、詮索しなくていいように感じた。


 だが、ジェフはにこりと微笑んで、静かに口を動かした。


「それは、直接ご本人から訊くべきかと」


 ………。


 あたしは頷いた。


「その通りです」


 本人のことは、本人から訊くべきだ。他人から訊くのは、完全に、契約違反だ。


「ごめんなさい」


 あたしは付け足して、誤魔化した。


「あたし、彼のことが大好きだから、もっと知りたくなってしまったの。ごめんなさい。Mr.ジェフ」

「おお、そんな…! テリー様、どうか謝らないでください。こちらこそお答えできず、申し訳ございません。しかし、キッド様は、ご自分のことはご自分で言いたい主義の方なので、私達からは、何も言えないのです」

「分かってます」


 キッドは、自分のことをよくわかっている。

 だからこそ、必要なことは口に出して、詳細の情報は、背中に隠す。


(秘密を暴くのってすごく楽しい。だから、多分、あたしはキッドが気になるのよ)


 キッドの、秘密が、気になってしょうがないのよ。


(でも)


 それは本人に直接訊けばいいだけのこと。キッドなら答えてくれるだろう。

 ただ、あたしは詮索しない。してはいけない気がした。詮索して、キッドを知ってしまうと、あたしは、もう元には戻れない気がした。


(あたしは婚約者。キッドは、あたしのボディーガード)


 それだけの関係だ。

 あたしは、キッドなんかに興味ない。

 キッドが隠している謎に、興味があるだけ。

 だったら、その興味を失くせばいい。

 知らなくていい情報は、知らない方がいい。

 知って、巻き込まれるのはごめんだ。

 あたしは怖いのだ。

 これ以上、背負いたくない。

 キッドの運命を変えた。

 あいつは死ぬはずだった。

 この世に既にいないはずなのに、あの子供は生きている。


 あたしの婚約者として、生きている。

 これ以上、変なことに関わるのは御免だ。


「また、キッドと話す話題が出来ちゃった」


 あたしは可愛く微笑む。


「わーい。嬉しいなぁー」

「ふふっ。キッド様も、さぞ喜ばれることでしょう。貴女の事をそれはそれは、大層お気に召しておいででしたから」


(玩具としてでしょ…)


「お話しできて良かったです。Mr.ジェフ」

「こちらこそ。せっかくのテリー様の会社、我々が必ずや、たくさんの人と企業を笑顔にする紹介所にしてみせます。何かありましたら、キッド様と、テリー様に報告をさせていただきます。その際には、わかる範囲でご説明が出来ればと思います」

「わかりました。よろしくお願いします」


 あたしとジェフが握手を交わした。ジェフがにこにこと微笑む。


 確かに、キッドの言う通り、このジェフという男は、悪い人ではなさそう。あくまで、あたしが見た印象だけれども、悪い人ではない。どちらかというと、この人は、善人なのだと思う。目が優しい。


 ジェフなら、うまくやってくれるだろう。あたしもそんな気がした。


(さて、そろそろお暇しましょう)


 いつまでも居座って、ジェフの仕事の邪魔をするわけにはいかない。


「それじゃ、あたしはこれで…」


 帰ります、と言う前に、扉がノックされ、慌てたように開かれる。そこには、困った顔の従業員がいた。


「すみません、ジェフさん。こちらで一度仕事を紹介した方がクレームを言いに来てまして…」

「クレーム?」

「これがまた、少し厄介で…」


 ジェフの眉間にしわが寄らせ、立ち上がったあたしを止めた。


「テリー様、少しこちらでお待ちを」

「え」


 ジェフが立ち上がり、従業員と共に部屋から出ていく。あたしは部屋に残される。


「………」


 しばらく部屋で待っていると、扉の向こうから、そのもっと奥から、怒鳴り声が響いて聞こえた。


(……誰かがすごく怒ってるみたい……)


 あたしは所長室の扉を開けて、廊下に出る。手すりから下を見下ろすと、一階のホールで男が一人、従業員に怒鳴りこんでいた。


「ふざけやがって! よくも僕にあんなクソみたいな店を紹介したな!!」

「失礼。所長のジェフ・カレインです」


 あっという間に一階に下りていたジェフが、ぴしっと背筋を伸ばして、男と対面する。


「クソみたいな会社などと、企業に対しての侮辱は相手方に失礼ですよ。言葉を考えてください」

「お前! よくも偉そうにそんなことが言えるな! 所長だと? だったら聞かせてもらおうか! 僕の希望に合った職場を紹介するのがここなんだろ!? なんでそぐわない場所を紹介したんだ! まずはそこからだ!」

「我々が紹介して、貴方が条件に合うと言って、その職場に行ったのではないですか?」

「僕はなぁ! 赤い屋根に、赤いレンガを使った勤め先がいいと言ったんだ! でもいいか! お前たちが紹介したところはな、店の中まで赤色じゃなかった!! 建物の中は青かった!! なんで青いんだよ!!」

「それは、店側が決めているイメージレイアウトなのでしょう」

「なんでわからないかなあ! 青はダメなんだよ!! 青はダメだって言っただろ!! なんで青なんだよ!!!」

「お客様、いいえ、貴方はどうやら少し頭を冷やした方が良さそうだ。ここは本当に困っている人たちが来るべきところです。貴方に時間を費やすくらいなら、その方々に費やした方が全然ましだ」

「なんだと!! お前、よくも、青が、赤に、赤に、青で、お前、青と赤で」

「お帰りだ。連れていけ」


 ジェフが指を鳴らすと、入り口から巨体の警備員が二人入り、暴れる男の腕を無言で掴んだ。


「な、や、やめろ!」


 暴れる男など気にせず、警備員二人が男を外へ引きずっていく。


「くそ! 離せよ!! 絶対、てめえら絶対、赤にしてやるからな! 赤にしてやるからな!!」


 男が店の外に連れていかれた。

 紹介所の中にいた人々の視線が出入口に向けられる。まだもめているようだ。


(…変わった人が客に来ると大変ね…)










「やだ、あの人、こわぁい」









 あたしの耳元で声がした。

 驚いて、すぐに振り向く。

 振り向くと、背の低い、小さな少女が視界に入る。赤い頭巾をかぶった少女。白いシャツに、赤いスカート。左右に赤いリボンで長い髪を結び、ゆっくりと顔を上げる。


 赤い瞳があたしを見る。


 眉を凹ませて、泣きそうな顔。


「あの人、もういないかな?」

「……出て行ったみたい。もう大丈夫じゃない?」

「お姉ちゃん、お外まで一緒についてきてくれない? 私、一人なの」


 小さな少女はあたしの手を握った。あたしに少女の手の体温が伝わる。


(冷たい。冷え性かしら。それとも、ずっと外にいたのかしら)


 あたしはこくりと頷く。


「あたしも帰るところだったの。いいわ。途中まで行きましょう」

「わーい! やった!」


 小さな少女が笑顔になり、手を握ったままあたしと一緒に歩き出す。少女が一人、ここに来ている。ということは、


「貴女も仕事を探しに来たの?」

「うん!」


 少女が笑顔で頷く。


「私のお家、お金がないの! だから、働ける私が出来るだけ働いて、少しでも家族が楽になればなって!」

「貴女、何歳?」

「9歳!」

「今年で9歳?」

「うん!」


(…………)


「妹と同い年だわ」


 そう言うと、少女がきょとんとした。


「……お姉ちゃん、妹さんがいるの?」

「ええ。実際は早生まれだからまだ8歳だけど、でも、同い年よ」


 メニーと同じ年頃の少女が、仕事を求めている。


「そう思うと大変ね。お仕事見つかった?」


 あたし達は階段を下り始める。


「うん! ここ、すごいところだよ! 私、今まで子供だから誰も雇ってくれなかったのに、ここで探したらすぐに見つかったの! お掃除とか雑用とかだけど、私、それしか出来ないし、家でもお手伝いたくさんしたから、きっと大丈夫だと思うの!」


 階段を下りていく。少女は会話を続ける。


「でね、私の担当になってくれたお姉さんがね、すごく優しい人だったの。だから、わがままもいっぱい聞いてもらっちゃって」

「そう」

「お姉ちゃんもお仕事探してるの?」

「あたしは遊びに来ただけ」


 身分も地位も違う。仕方のない事だ。あたしはお金持ち。この子は貧乏。仕方のない事だ。あたしは働く必要がない。ママのお小遣いで十分なのだ。何かあればママが出してくれるし、この子と違って、あたしは働く必要がない。


(お金持ちと貧困者がこんなにも違うだなんて、この世界は残酷ね)


 一度目がどうであれ、今のあたしはお金持ちのお嬢様だ。こんな少女のようにならないように、あたしは未来を変えていくだけ。


(…とは言え、少しくらい同情してあげてもいいかしら)


 この子はまだ9歳の、小さな女の子だ。

 あたしは少女の顔を覗き込んだ。


「ねえ、あたし、今、少しお小遣いを持ってきてるの」

「え?」

「お菓子と飲み物買ってあげるわ。えっと、どこかに売店があったはずよ」


 あたしと少女が階段を下りる。少女は首を振る。


「私、大丈夫だよ」

「遠慮しなくていいわ。それに、人の好意は受け取っておくものよ」

「ふふ! お姉ちゃん、優しいのね」


 少女があたしの手を握りしめる。


「だったら、飲み物だけ欲しい」

「飲み物だけでいいの?」

「うん。お菓子はいらない」


 少女の赤い瞳が揺れる。


「私、飲み物が欲しいの」


 少女があたしに微笑んだ。


「甘いのがいいな」


 少女の赤い目玉が動く。


「砂糖をいっぱい入れたみたいに甘いやつ」


 少女が静かに呼吸した。


「あれ、お姉ちゃん」


 少女が立ち止まった。


「髪の毛に、何かついてるよ」

「なんですって?」


 あたしの足がぴたりと立ち止まった。


「取ってあげる。じっとして」

「助かるわ。お願い」


 少女があたしの頭に手を伸ばす。少女がかかとをあげる。少女の吐息が、あたしの首に当たった。


 熱い吐息が、近づく。


 ―――途端に、少女がはっとしたように、慌てて後ずさった。


「っ」

「ん?」


 あたしは少女を見る。


「どうかした?」


 少女がにこりと笑った。


「ゴミだと思ったら、虫だったの!」

「なんですって!?」

「大丈夫。どこかに飛んで行ったから」


(あたしの髪に、虫がついていたというの!?)


 ああ! 寒気がする! ぞくぞくする!! 今夜は髪の毛を完璧なキューティクルに洗ってあげないと!!


「もう大丈夫。下りよう?」


 少女がそう言って、あたしの手を再び握ってきた。一緒にまた階段を下りていく。


「お姉ちゃん、今日のご飯って、何食べた? 私はね、美味しいパン!」

「ん? ご飯?」


 子供って急に話題を変えるのよね。あたしは答える。


「スープよ。ニンニクスープ」

「わあ、いいなあ! 美味しそう!」


 ドリーが作ってくれたのよね。


「ニンニクは体にいいんですよ! 体を温めるんですよ! テリーお嬢様! ニンニクさわやか野菜スープを召し上がれ!」


(おかげで体がぽかぽかだわ)


 二人で階段を下りる。一階に辿り着く。一緒に売店まで歩く。棚の前で止まる。


「ほら、どれがいい? 好きなの選びなさい」

「じゃあね、これ」


 少女がトマトジュースを選ぶ。あたしはお財布を取り出し、レジに持っていく。支払いを済ませ、少女にジュースを渡した。


「はい」

「ありがとう、お姉ちゃん!」


 トマトジュースを手に持って、少女が微笑んだ。


「トマトジュース、大好きなの。ふふ! ありがとう!」

「どういたしまして」

「私、これ飲んだら帰る!」

「そう」


 あたしは肩をすくめた。


「じゃあ、あたしはこれで帰るわ。気を付けて帰るのよ」

「あ、お姉ちゃん」

「ん?」

「お名前、なんて言うの?」


 あたしは首を振った。


「駄目よ。知らない人には名前を名乗っちゃいけないの」

「それは大人にでしょ?」

「ねえ、あたしが実は犯罪者一家の娘だったらどうするの?」

「え、犯罪者一家なの?」

「違う」

「じゃあ、いいじゃない。教えて」

「次会えたら教えてあげる」


 貴族でも何でもない貧乏な子供に、名前を知られたくない、というのが本心。貴族だと知られたら、知り合いだからお金を貸してくださいとせびられても困るじゃない。

 それに、この子にとってもいい勉強だ。知らない人に名前を名乗ってはいけない。


 あくまで、お互いの身を守るためよ。


「じゃあ、また会えたら教えてくれる?」

「ええ。いいわ」

「約束だよ? 絶対教えてね?」

「ええ。約束してあげる」


 どうせもう二度と会うことはない。


「さようなら。赤いレディ」


 にこりと微笑んで言ってから、出入り口に向かって歩き出す。すると、背中から、少女の声が飛んできた。


「ねえ、お姉ちゃん、一個だけ、いいこと教えてあげる」


 あたしの足が立ち止まる。また少女に振り向く。少女は赤い瞳をあたしに向け、変わらず微笑んでいる。


「夜は家に帰った方がいいよ。最近物騒だから」

「…物騒って?」

「通り魔が出てるの。もう何人も犠牲になってる。ふふ。この街でね」

「通り魔? そんな事件が起きてるの?」

「そうなの。ふふ。だから、お姉ちゃんも、襲われる前に早く帰った方がいいよ」

「だとしたら、貴女も危ないんじゃない? 何だったら家まで送るわよ」

「私は大丈夫」

「…ふーん」

「気をつけてね」


 少女は微笑み続ける。


「お姉ちゃんみたいに優しい人が襲われてるの。だから、気を付けてね」


(ああ、だったら心配ないわ)


 これは優しさじゃない。ただの同情よ。お前みたいな子供が哀れで、可哀想だから、同情してあげてるの。これは偽善よ。

 あたしは善人じゃないから、襲われないわ。


「ありがとう。気を付けるわね。貴女も気を付けて」

「あなたじゃない」


 少女が笑った。


「私はルビィ」


 フードを被り直した。


「小さいから、リトルルビィ、なんて呼ばれてるの」


 そしてまた笑う。


「じゃあね。お姉ちゃん」


 女の子が、ふふ! と笑った。


「ジュース、ありがとう」


 そう言って、足を跳ねさせ、スキップした。スキップして、廊下を進み、その姿を消した。


(…馬鹿な子供。知らない人には、名前を名乗っちゃいけないのよ)


 あたしはリトルルビィの背中を見届け、紹介所を後にした。





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