第12話 愛しい忘却(2)
「テリーは、将来どんなお仕事をしてみたい?」
「仕事はしません」
あたしはにこやかに答える。
「あたしは将来、お嫁に行くんです。だから、働かなくてもいいんです」
「あら、テリー。それは勿体ないわ。この国は、女が働いてても偏見がない国なのよ。もしあなたがお仕事をするなら、どんなことをやってみたい?」
「お仕事って、辛いんでしょう?」
「時にはね」
でも、とても楽しいものでもあるのよ。
「私は先生になるのが夢です。たくさんの生徒を持ち、教師として人生を終える予定です。もしも、貴女がなるとしたら、どんな仕事をみたい? 何でもいいの」
「何でも?」
「そう。何がしてみたい?」
あたしは眉をひそめた。
「…考えたことありません」
「じゃあ、今考えてみて」
あたしは考える。
「楽な仕事がいい」
「貴女にとって楽なお仕事って何かしら」
「わかりません」
「例えばよ」
クロシェ先生の授業が始まる。
「絵を描く。お金を貰う。これもお仕事よ」
「絵を描くだけでお仕事になるんですか?」
「そうよ。お金を貰ってる時点で、それは一つの作品になるのだから、それをお客様が求めれば、それは立派なお仕事よ」
「他には?」
「そうね。ここのお屋敷で働く人。ギルエドさんも、そうね。執事もお仕事」
「ええ」
「それから、楽器の演奏者。彼らもお仕事よ」
「え?」
あたしはきょとんとした。
「楽器を弾くことが、お仕事なの?」
「なぜプロの演奏者と呼ばれる人達がいると思ってるの? 彼らはお金を貰えるから楽器を弾くの。だからこそ、その分に見合う技術を磨くの」
「じゃあ、あたしも楽器を弾けば、お金がもらえるの?」
「そうね。お客様がつけば、それも立派なお仕事よ」
クロシェ先生が教えてる。
「仕事って辛い内容のものもたくさんあるわ」
「雑用、掃除、その他色々」
「でも、趣味を仕事にしてしまえば、それはそれでまた楽しいでしょう?」
「私の場合はそれ。人に教えることが好きなのよ」
「ただ、好きなことが仕事じゃない人は、数多くいるわ」
「でも、これはただの授業だから」
「だから、テリー、考えてみて」
「貴女は、どんな仕事をしてみたい?」
何でもいいの。
答えてみて。
(その末が、囚人を集めた工場の従業員って、笑っちゃうわね)
あたしはベッドの上で、遠い記憶を思い出していた。
(色んな雑用をこなした。トイレ掃除、給食、瓶の蓋を塞ぐ、裁縫、果物を切る、生ものをパックに詰める、誰にでも出来る雑務だったわ)
その合間、あたしとアメリは周りから嫌がらせを何度も受けた。主犯の顔は今でもはっきり覚えている。
(ああ、嫌な記憶)
あたしはランプの置かれたチェストに手を伸ばす。置いてあった本を手に掴んだ。
(仕事なんてしたくない)
(お金持ちの坊ちゃんのところに嫁に行って、遊んで楽しく暮らすのよ)
あたしは本を開いた。
美女と野獣はどんどん仲良くなっていく。
野獣は美女に図書館をプレゼントした。使用人達はそれぞれ仕事をしながら美女と野獣を見守る。野獣は美女に惹かれていく。美女は野獣に惹かれていく。
錆びれた城で、舞踏会が行われる。野獣が踊る。美女が踊る。野獣が魔法の鏡を見せた。美女が父親の容態がよろしくない姿を目の当たりにする。しかし、野獣の正体は呪いを受けた王子様。薔薇が散る時、野獣の命が散ってしまう。美女が野獣とキスをすれば、野獣は助かる。このまま恋を実らせ、一度でもキスしてしまえば、野獣は助かる。けれど、野獣は恋を知った。彼女に恋をした。
野獣は、美女を解放した。一週間で戻るようにと、約束をして。
美女は父親に会いに行く。姉の二人は、幸せそうな三女を見て、それはそれは、深く嫉妬をした。カレンダーを隠し、美女が戻る日程をずらしてしまった。
(…こういう本ってそうなのよね)
大抵三女が美人で、長女と次女が嫉妬深いのよ。それで意地悪するのよ。
(気持ちわかるわ)
逆に長女が美人で、下二人が醜かったらどうする? 長女が皆のお姫様になって、醜い二人は意地悪な妹役に抜擢されるのよ。
(次女って、大抵意地悪なのよね)
次女はくっつく役が多い。長女と意地悪をする。三女と意地悪をする。次女は意地悪役なのだ。
(ああ、読む気失せた)
あたしは本を閉じて、またチェストの上に置いた。
(この本を書いてる人も作家なのよね)
作家という仕事をしている。
(このランプを作った人も、これが仕事なのよね)
職人の仕事をしている。
(このベッドを作った人も)
(この枕を作った人も)
(この部屋を作った人も)
皆、皆、仕事をしている。それらを商売に、生活している。
(仕事か)
あたしはどんな仕事が出来るだろうか。
(仕事か)
あの小さな少女はこれから雑用の仕事をすると言っていた。
(仕事か)
試しに、あたしが天才だったらという程で、考えてみよう。
(ビジネスウーマン)
(紹介所の社長)
(可愛いグッズを作る社長)
(ジュエリーショップの社長)
(レストランの社長。そうね、イタリアンがいいわ。お洒落だし)
(コーディネーター)
(歌手)
(役者)
(演奏者)
ヴァイオリン。
「…………………」
空しくなって、妄想をやめる。御覧なさい。テリー。自分の姿を。
手鏡を持って、自分を映す。11歳のあたしがいる。
(ほら、これがあたし)
無能なあたし。
(何も出来ないテリーちゃん)
無能なテリー。
(あたしに仕事は無理よ)
あたしは手鏡を置く。
(あたしには何も出来ない)
あたしが一番よく分かってる。
(もう寝よう…)
もう良い子は寝る時間だ。メニーだって、どうせ本を読みながら寝てしまっている。ドロシーも丸くなって、すやすや寝ているはずだ。
あたしはベッドに潜る。
(…痛い)
こつんと、あたしの脇腹に硬いものがぶつかった。
(あ、忘れてた)
鍵。
(……………)
鍵が、ポケットに入ったままだった。
(今、何時かしら?)
部屋の時計を見る。良い子は寝る時間。
(皆、寝静まってる時間だわ)
あたしはにやりと笑った。
(邪魔者はいない)
あたしはそっとベッドを抜けた。
(気分転換にちょうどいいわ。この鍵がアルバムの鍵かどうか、確認しよう)
あたし、まだ全然眠くない。
(本を読んで、目が冴えた)
あたしはろうそくを持って、静かに部屋を抜け出す。
(ばあば)
あたしはお婆様の部屋に向かう。
(ねえ、あのアルバムって何なの?)
廊下は既に暗い。
(ばあば、隠し事って良くないのよ。子供は、秘密を暴くのが大好きだから)
駄目よ。ばあば。隠し事なんて。
(あたしに教えて)
ばあば。
ねえ、ママ。
「駄目よ。テリー」
「どうして?」
「もうオルゴールは触ってはいけません」
「ママ、そのオルゴールはパパのものよ」
「あの人とは離婚したと、何度も言ってるでしょう」
「オルゴール触るぐらい、良いじゃない」
「駄目です」
「ママ」
「駄目よ」
「ママ」
オルゴールがどこかに消えた。
「ママ、オルゴールどこ?」
あたしは泣きわめく。
「パパのオルゴール、返して」
あたしは泣き叫ぶ。
「オルゴール。オルゴールがない」
あたしは泣く。
「ママ、オルゴール出して。オルゴールの歌が聴きたいの」
ママは黙る。
「ママ」
あたしは泣く。
「オルゴール…」
あたしは忘れる。
「このリボン可愛い!」
消えてしまったものなど、忘れてしまえ。
忘れてしまえば、傷つかない。
オルゴールに興味なんて失くしてしまった。
あたしの視界から消えたから。
あたしは忘れる。
忘れたらママが怒らない。
忘れたら泣かなくて済んだ。
忘れたら悲しまなくて済んだ。
だからあたしは忘れた。
オルゴールなんて、最初から無かった。
ばあばの部屋の扉を開けて、ゆっくりと閉めた。
(ぐふふふふ!)
あたしはにやにやとクローゼットに近づく。
(まるでこれから悪戯でも始めてしまうような気持ち。わくわくが止まらないわ。ああ、あたしっていけない子!)
ああ、楽しくて仕方ない!
(どれどれ?)
あたしはろうそくを置き、クローゼットを開ける。アルバムがびっしり詰め込められた本棚が現れる。
(ここら辺に…)
本棚に隠れた奥の本棚。小さなアルバムはそこにある。ろうそくを近づけて、明かりを灯す。南京錠がきらりと光る。
(あった)
あたしはアルバムを掴んで、引っ張った。ポケットに手を突っ込ませる。
(これをこうして…)
南京錠に鍵を挿す。
(さあ、どうだ?)
回すと、かちりと音が鳴り、南京錠が解放された。
(なんですって?)
あたしは瞳を輝かせる。
(まさかの奇跡ね!)
あたしは南京錠を取り外した。
(なんで鍵があのオルゴールに入っていたかは知らないけど、まあ、いいわ。鍵は解除されたんだから)
忘れておくれ。テリーの花よ。
(このアルバムには、何が入ってるの?)
あたしはわくわくして、期待の眼差しで口角を上げる。
(教えて。ばあば)
アルバムを開いた。
あれ?
―――忘れておくれ。テリーの花よ。
アルバムの後ろに薄く書かれた文字。
―――忘れておくれ。テリーの花よ。
忘却を望んだアルバム。
―――忘れておくれ。テリーの花よ。
封印されていたアルバム。
―――忘れておくれ。テリーの花よ。
鍵がオルゴールの中に隠されていたアルバム。
ベッドで寝込んでいるパパが写った写真がしまわれた、アルバム。
「……………………」
あたしはページを開く。
パパの傍に居るママが写っている。
あたしはページを開く。
ママがパパの手を握っている。
あたしはページを開く。
出て行ったはずのパパがベッドで寝ている。
あたしはページを開く。
パパの髪の毛が無くなっていく。
あたしはページを開く。
パパの髪の毛が無くなった。
あたしはページを開く。
パパがどんどんやせ細っていく。
あたしはページを開く。
パパの顔色がどんどん悪くなっていく。
あたしはページを開く。
ママがパパと微笑み合っている。
あたしはページを開く。
ギルエドがパパの手を握っている。
あたしはページを開く。
サリアが花を変えている。
あたしはページを開く。
パパが寝たきりになる。
あたしはページを開く。
サリアがママの肩を撫でている。
あたしはページを開く。
パパに機械が取り付けられる。
あたしはページを開く。
パパの目が虚ろになる。
あたしはページを開く。
パパが骨みたいになる。
あたしはページを開く。
パパが細くなる。
あたしはページを開く。
パパが小さくなる。
あたしはページを開く。
やせ細ったパパが笑っている。
「ダレンとは、離婚しました。もう戻ってきません」
戻ってきません。
「あの人は私達を捨てました。アメリアヌ、テリー、あの人の事は一刻も早く忘れなさい。お前達に、父親はいなかったんです」
忘れなさい。
「オルゴールなんかに触ってないで、勉強しなさい。テリー、貴女の将来のためなのよ」
忘れておくれ。テリーの花よ。
「新しいお父様よ」
「こんにちは、アメリアヌ、テリー」
「妹になる、メニーよ」
忘れてしまえば、傷つかない。
「パパ?」
パパは、もう、どこにもいない。
パパは出ていった。あたしは確かに覚えている。
大きい荷物を持って出て行った。
大切な本や、コレクションは、書斎に全部残して、出て行った。
あたし達を置いて行った。
裏切り者。
家族を捨てた。
ママと、よく喧嘩をしていた。
喧嘩の内容は聞いてなかった。
ママはよく泣いていた。
パパはママを抱きしめていた。
パパとママは、よく何かについて、言い争っていた。
パパの顔が、
ママの顔が、
寂しそうだったのを、
あたしは、
覚えている。
思い出す。
アルバムが地面に落ちた。
(あ)
あたしはアルバムに手を伸ばす。
(あ、いけない)
見たこと、隠さないと。
(鍵)
南京錠で、写真を隠す。
(鍵)
手が震えて、南京錠を掴めない。手が震えて、滑ってしまう。
(あ、あ、あ)
南京錠がどうしても掴めない。
(あ)
あたしは南京錠をようやく掴む。アルバムに挟んで、鍵をかける。
(もう、寝る時間だわ)
あたしは震える手でアルバムを掴む。
(もう寝ないと)
あたしの手からアルバムが落ちた。
(あ)
またことんと、床に落ちた。
(あ)
文字が目に入る。
忘れておくれ。テリーの花よ。
息が荒くなる。
呼吸が乱れる。
正常に息が出来ない。
苦しくて胸を押さえる。
手が震え続ける。
アルバムが掴めない。
目が熱い。
アルバムが掴めない。
あたしは手を押さえる。
アルバムを掴んだ。
奥へと、投げ入れた。
「……………………」
あたしはゆっくりとクローゼットを閉じる。鍵をポケットに入れる。
(もう、寝ないと)
あたしはろうそくを持つ。ふらふらと立ち上がる。
(もう、寝ないと)
もう夜だ。良い子は寝る時間だ。
(もう寝ないと)
あたしはろうそくを震える手で持って、歩き出す。ばあばの部屋から出る。
(気づかなかった)
あのアルバムの存在。
(気づかなかった)
あんな奥にある、小さなアルバム。
(気づかなかった)
気付かずに生活していた。
(気づかなかった)
一度目の世界で、一度も見なかった。あんなアルバム。アメリの目にも、あたしの目にも触れなかった。
アルバムは、鍵は、パパは、パパの書斎は、パパのオルゴールは、
一回目の世界では、忘れ去られた。
忘れておくれ。テリーの花よ。
言葉通り、あたし達は忘れた。
忘れたら、傷つかなくて済むから。
あたし達は、パパを忘れた。
忘れてしまった。
「キッド」
あたしは呼んでみる。
「キッド」
誰も来ない。
「キッドってば」
キッドは来ない。
「キッド」
キッドが来るはずない。
「なんでよ」
あたしは呟く。
「なんで来ないのよ」
あたしは歩く。
「いつも変なタイミングで現れるくせに」
あたしは歩く。
「なんで」
「なんで肝心な時に」
「なんで」
「感情が乱れてる時に」
「なんで」
「なんで来ないの」
「婚約者なんでしょう」
「規約違反よ」
「ルール違反よ」
「来てよ」
「あたし、今ならあんたにキス出来るわ」
「抱きしめて、愛してるって言える」
「それくらい頭がぐちゃぐちゃなのよ」
「キッド」
「ほら、来ないの?」
「アメリ」
「ママ」
「なんでいないの」
「誰もいない」
「誰もいないじゃない」
「誰も来ないじゃない」
「なんで」
「なんでよ」
屋敷は暗い。皆、眠っている。
「なんで誰も来ないの…」
あたしはうずくまった。
「誰もいない…」
あたしは動けなくなった。
「いない…」
あたしは膝を抱えた。
「もういない」
あたしは認めた。
「パパはいない…」
ママは嘘をついた。
パパを隠した。
オルゴールを隠した。
あたしとアメリから隠した。
ママは忘れなさいと言った。
ママは再婚した。
あたし達はパパの事を忘れた。
あたし達は破産した。
ママが病気になった。
ママは死んだ。
けれど、ママは最後まで、あたし達を愛した。
「このままでも十分綺麗よ。だけど、もっと綺麗におし。顔に煤がついているわよ。ほら、お金持ちの殿方が迎えに来るわ。支度なさい。ほら、早く」
パパのことは何一つ言わず、
「お母様の言う事を聞きなさい」
その生涯を終えた。
「…痛い」
あたしは胸を押さえた。
「痛い」
あたしはお腹を押さえた。
「いた、いたい」
あたしは更にうずくまった。
「痛い」
あたしは身を引きずらせた。
「あ、いたい」
誰も来ない。
「痛い、痛い」
あたしはお腹を押さえた。
「ああ、だめ」
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!
「キッド」
あたしは助けを求める。
「痛い」
あたしは助けを求める。
「ねえ、助けて」
あたしは求める。
「お腹痛い」
あたしにはどうしようも出来ない。
「痛い」
「誰だ?」
明かりが近づく。あたしは丸くなって、動けなくなる。
「ん…? テリーお嬢様?」
使用人が駆けてきた。
「お嬢様、どうされました。お嬢様!」
あたしは口を利けない。
お腹が痛い。
胸が痛い。
何もかもが痛い。
(あ、もう駄目)
あたしの意識が遠くなっていく。
(あたし、死ぬんだわ)
あたしの視界が、真っ白になった。
( ˘ω˘ )
「パパ、どこにいくの?」
玄関にパパがいた。あたしは階段からその姿が見えて、近づく。
パパは大きい鞄を地面に置き、あたしに振り向いた。
「おはよう。テリー。今日は早起きなんだな」
「うん。おきちゃった」
「そうか。ふふっ。なんていい日だろう。朝からお前に会えるなんて」
「パパ、どこかにいくの?」
「ちょっと出かけてくるよ」
「そうなんだ。ばんごはんまでには、かえってきてね」
「間に合うかな」
「じゃないと、アメリがないちゃう」
「大丈夫さ。ママがいるんだから」
「でも、らいげつには、りょこうにいくんでしょう? そのじゅんびのおかいものにも、いかないと」
「ああ、そっか。約束だったね」
「うん。アメリもあたしも、たのしみにしてるんだよ」
「そうだったね」
「おるごーる、つくるところいくんでしょう? こんどは、ぱぱのおるごーるとおなじうたのやつ、あるかな?」
あたしがパパを見上げると、パパの腕が伸びた。あたしの頭を、パパの手が優しく撫でる。
「テリー、元気でな」
「うん。あたし、きょうはすごくきぶんがいいの。すがすがしいの」
「そうだね。パパもとても清々しいよ」
「あ、そうだ。パパ。でかけるなら、おみやげかってきて」
「お土産?」
「なんでもいいから。おみやげちょうだい」
「ふふ。わかったよ。テリーはお土産が大好きだからね」
「うん!」
「わかった。帰る頃には、何か買ってこよう。沢山買ってこよう。ママと、アメリと、お前にも」
パパは笑顔だった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
パパは光の中に消えていった。
あたしが覚えているパパの背中。
パパと会ったのは、それが最後だった。
パパは、帰ってこなかった。
ママがパパと離婚したと言った。
あたしとアメリは、パパを忘れた。
月日が流れた。
メニーが屋敷にやってきた。
メニーが召使いになった。
クロシェ先生がやってきた。
クロシェ先生も出かけた。
教材を買ってくると言っていた。
帰ってきたら、授業をしましょうと言った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
あたしは手を振った。クロシェ先生が出ていく。屋敷から出ていく。あたしに背中を向ける。光の中に消えていく。
彼女は帰ってこなかった。
「先生は辞められました。次の先生が来るまで、準備して待っていなさい」
ママはそう言った。でも、メイド達が噂していた。
「ミス・クロシェ。あの人、変死体で見つかったんでしょ?」
「ああ、あの広場の外でってやつでしょう?」
「そうそう。街から外れたところで倒れてたって」
「教材を買った帰り道だったとか」
「お嬢様達への参考書を買いに行っただけなのに、可哀想に」
「何でも」
体内にあるはずの血液が一滴も残ってなくて、首に小さな穴が二つあっただけなんですって。警察は狼にやられたんじゃないかって言ってたけど、狼が人間の血を一滴残らず飲んだりすると思う? あれは絶対何かに巻き込まれたのよ。
「何か得体のしれない獣とかに、襲われたに違いないわ!」
「やだーあ! こわーい!」
あのメイド達は、何を言っているんだろう。
クロシェ先生は生きてるわ。
だって、帰ったら授業をすると言っていたもの。
「初めまして、新しい家庭教師の」
クロシェ先生は?
お前は誰?
あたしの先生は、クロシェ先生だけよ。
クロシェ先生は帰ってくるわ。
だって、クリスマスに一緒にパーティーをすると言っていたもの。
夜は、寝静まって、屋敷が静かになると、伝えたもの。
彼女しかいないのに。
先生しかいなかったのに。
「初めまして、新しい家庭教師の」
勉強なんかしたくない。
お前なんて先生じゃない。
「テリー」
暖かい手袋が、あたしの背中を撫でる。
「君は今、喜怒哀楽で、どの感情?」
誰かがあたしの背中を撫でる。その手が、酷く安心する。
「テリー」
懐かしい声がする。
「テリー」
顔を上げると、クロシェ先生がいる。
「ほら、勉強を始めるわよ」
「先生」
あたしは手を伸ばす。
「先生」
クロシェ先生がぺったんこになって消えた。
「せんせい」
クロシェ先生が消えた。
「消えてないわ」
雪は降ってない。
「まだ死んでない」
あたしは立ち上がる。
「世界は一巡したのよ」
冷たい冬風が吹く。
「クロシェ先生は、まだ死んでない」
あたしの髪が揺れる。
「パパは」
もう手遅れだけど。
「そうよ」
あたしは思い出す。
「そう」
「そうだわ」
「あたし、手紙を書いたのよ」
「ギルエドにお願いしたの」
「大好きだったから」
「離れてても愛してるって書いた」
「どうか届いてって願った」
「違う」
「届かなかったんじゃない」
「ギルエドが出さなかったのよ」
「もういないから、どこにも出せないから」
「返事はいつまでも来なかった」
「あたしはパパを嫌いになった」
「本当に捨てたんだと思った」
「捨てられたんだと思ってた」
「こんなに近くに真実が置かれていたのに」
「あたしは気づかなかった」
「誰も気づかなかった」
「認めるわ」
「パパはもういない」
「パパはもう死んでしまった」
「パパはもう戻ってこない」
「馬鹿」
あたしは拳を握った。
「パパのばか」
あたしの頬が濡れる。
「ママのばか」
よくも騙してくれたわね。
「もうパパは戻ってこない」
だけど、
「クロシェ先生は戻ってくる」
まだ彼女は生きている。この世界で、まだ、『生きている』。
「死なせるものか」
まだ、間に合う。
「これ以上、死なせてなるものか」
まだ間に合う。
「先生」
あたしは手を伸ばす。
「お願い」
あたしは願う。
「いなくならないで」
あたしはクロシェ先生の手を、掴んだ。
「おはようございます」
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