第10話 仕事案内紹介所(2)



 キッドに抱えられたまま、行列の出来る建物に、裏口から中へ入る。少し進んだところにあったエレベーターにキッドが乗りこんだ。三階へのボタンを押して、扉が閉まる。キッドが壁に背をついた。


「ふー。疲れた」

「…もう下ろして」

「やだ」

「…疲れてるんでしょ」

「それとこれは別」

「何が別よ」

「だって、腕が寂しくなるだろ?」

「………」

「くくっ、いい顔。テリーのその表情、大好き」


 キッドが笑うと、エレベーターが三階にたどり着く。

 あたしを腕に抱えるキッドがエレベーターから下りて、三階の廊下に並ぶ手すりの前で立ち止まり、あたしに訊いた。


「テリー、高い所は好き?」

「…別に、嫌いじゃない」


 だが、高いところにいい思い出がない。ギロチンの死刑台を思い出す。


(ああ、やだやだ)


「じゃあ、この光景はどう?」


 キッドに視線で促され、あたしはキッドの視線を辿る。三階から、建物の光景を見る。


 ここから、二階、一階のホールが見える。行列が一階のホールに並び、奥には一人一人座れる椅子があり、机があり、制服を着た一人がその座る人の目の前で机に書類を並べている。


 あたしは眉をひそめる。


「…ここ、何なの?」

「何言ってるの。ここは仕事案内紹介所。お前の会社じゃないか。テリー社長」

「え?」


 きょとんとして、キッドに振り向く。キッドが愉快げに顔をにやけさせ、口を開けた。


「お前と打ち合わせした通りだ。ここは仕事を求める人に、より良い仕事を紹介をする所。相談と紹介は無料。仕事を紹介するには登録制で、一人一人にこの会社から紹介を受けた者として個人情報を登録させてもらう。紹介した仕事先で犯罪を起こさないためにね。お金は広告費用として仕事を募集している企業から、一社三万ワドル。月額。募集を引き下げるまで頂戴することになった。掘ってみれば人手不足の店や企業が出てくる出てくる。で、今、現在で紹介している企業はざっと数えて、200社ってところかな」

「に…にひゃ…!?」

「そう。一社三万ワドルって言ったら最初は渋ってたけど、実際企業の方は人手不足だし、格安のたった三万ワドルで企業の情報を拡散してもらえて、なおかつ良い人材が入ったら一石二鳥だろ? この通り、安さを重点したら、逆に登録企業の数が増えて大儲け。過程はどうであれ発案はお前だよ。テリー。お前が間違いなく社長だ。そして、今や、その発案は企業の革命になってる。話を聞いた時、確かに役所の窓口のことは前々から問題になっていたが、特に何も言う人はいなかったし、そういうところだと思って、誰も手をつけないでいた。それを利用して、この紹介所を作ってみたら大当たりだ。これで貧困に困る人が少しでもいなくなってくれるといいね」

「ま、待って。話が、あの、混乱して」


 あたしは一旦、深呼吸した。落ち着いて、キッドを見上げる。


「…本当に、200社も集めたの?」

「打ち合わせしてからの一ヶ月。なかなか楽しかったよ。廃墟と化した建物をリフォーム工事して、この会社で働いてくれる人材を集めて、それはそれは大変で、わくわくして、実に楽しかった。俺一人の力じゃないよ。手伝ってくれた人たちのおかげで登録会社を一週間で100社を集めて、そこから情報が一気に広がって、一ヶ月で200社。もちろん、企業は人手不足。すぐにでも人が欲しいというところばかりだ。この紹介所に来た人たちは、さっそくそこへ派遣される。人気のあるところだったら、面接に行ってもらって、採用不採用を企業側に決めてもらう。不採用なら、その繰り返し。何度だって無料。役所の仕事紹介よりも迅速。身分は関係ない。誰でもかれでも自由に仕事を選んで紹介してもらえる」

「………」


 愕然と言葉を失ってると、キッドがあたしを見下ろした。


「ほら、何か言うことは? うん?」

「……じゅ、重要なことを、聞いてないわ」


 油断は出来ない。こいつはただの子供なのよ。肝心なところが抜けてる可能性がある。


「誰でもかれでもって言ってるけど、年齢は? 子供は?」

「もちろん、子供も働けるよ」

「…そんな企業もあるの?」

「ああ。雑用とかだけど」

「子供も働けるの?」

「ああ」

「労働条件は?」

「それは、仕事を求める人達の条件次第。色んな条件の企業が登録されている。そこから自分の条件にあてはめて、紹介してもらう」

「……………」

「ここに来れば、興味のある事、自分に合った仕事、長続き出来る仕事、条件の良い職場を探せる。ここはそういうところ」

「……じゃあ、あの、並んでた人は、皆、自分たちの職場を紹介してもらうのを待ってる人ってこと?」

「そうだよ。国中の人たちが噂を聞きつけて並んでる。誰でも無料だからね。子供でも大人でも、ホームレスでも、犯罪者でも、貴族でも、どこかの使用人でも」

「どこかに仕事を持っててもいいの?」

「その人が仕事を変えたければ」

「誰でも働けるの?」

「条件が当てはまっていれば」


 キッドが視線を上げる。


「ほら、見てごらん。お前の言ってた通り、ゴージャスで上品さを取り入れたんだよ」


 天井のシャンデリア。


「建物の形ちゃんと見た? お前の言ってた通り、可愛くしたんだよ」


 まるでお人形の家のような形の建物。


「中はどう?」


 レイアウトがとにかく美しい。


「三階建て。実は、地下もあるんだ。個人情報を管理するために作った」


 大きな建物。


「ほら、見て。あの安心しきった顔」


 条件の良い職場を見つけたのか、貧相な格好の親子が笑顔になっている。


「さあ、どんな気持ち? テリー」


 あたしは自然と、手に力を入れていた。


「かんっっっっぺきよ!!!!」


 あたしの瞳が感動に輝く。手が感動で震える。気持ちが昂る。ママを唯一倒せる会社が出来上がったのだ。あたしの会社。条件の良い仕事を紹介する場所。自分にとっての都合がいい職場を開拓できる場所。


(誰もが、より良い条件で働ける場所を、探し出せる場所!)


「これで、ママにぎゃふんと言わせられるわ!」


 どうだ、ママ、ざまあみろ! あたしはやり遂げたのよ! 使用人の信頼は、あたしのものよ!!


「素晴らしい! あたしの理想が全部詰め込まれた場所! 夢の帝国! ああ、なんてこと! シャンデリアが輝いて見えるわ! 今にもシャンデリアが踊り出しそうよ!」


 食器の親子が動き出しても、シャンデリアが動き出しても、一緒にワルツを踊れそうな気持ち。


(やった! やった! これで、あたしは助かるのよ! 裁判回避! 嘘証言の回避! 使用人達を助けたあたしは、正義のヒーロー! 皆の味方! 築き上げた信頼は全て、あたしのもの!)


 にやけるあたしを見て、キッドがくすりと笑った。


「喜んでくれて良かったよ」

「素晴らしいわ! やるじゃない! キッド!」

「満足?」

「満足なんてところじゃない! 大満足よ!」


 あたしはキッドを腕を伸ばした。


「ありがとう! キッド!」


 感動の勢いに、ぎゅっと、キッドを抱きしめる。突然のことにキッドがぽかんとする。あたしは気にしない。上機嫌で、キッドにすりすりする。


「いいわ! 褒めてあげる! キッド! あたしのためによくやったわ!」


 ぎゅーーーーーーっと抱きしめる。そして、拳を天に掲げる。


(これで使用人の信頼は、完全に、あたしのもの!!)


 裁判嘘証言の未来は、回避確定!!


(っしゃあ!!)


「…ふふっ」


 キッドの肩が、笑い声と共に揺れる。


「やった。ようやく笑ってくれた。テリー」


(ん?)


 体を離すと、嬉しそうに微笑むキッドがいた。魅力的なその目で、抱き抱えるあたしを見上げ、眺め、見つめ、美しく微笑む。


「だって、俺と会うと、お前はすぐに不機嫌になるから」

「…それは、あんたがからかってくるからでしょう」

「誤解だよ。からかうのは、愛しのテリーに構ってもらいたいからやるのさ」

「…他の人に構ってもらえばいいじゃない」

「テリーがいい」

「…………」


 あたしは目を逸らす。


「また、そうやってからかう」


 せっかく上機嫌だったのに、台無しだ。ふい、と顔を逸らすと、キッドがまた不思議そうに首を傾げた。


「んー? どうしてかな。なんでお前は口説き始めたら不機嫌になるの?」

「あんたの言葉が胡散臭いから」

「胡散臭いなんて失礼だな。お前以外の女の子に言ったら、皆喜んでくれて、照れてくれて、上機嫌でデートしてくれるよ」

「おほほほ! それが実話なら笑える。あんたに魅力があるとすれば顔だけよ」


 鼻で笑い飛ばせば、またキッドがきょとんとした。


「え?」


 キッドが声をもらした。

 だからあたしも、きょとんとした。


「ん? 何?」


 あたしが訊いてるのに、キッドは頭の上にはてなを浮かべた顔をしている。


「テリー。俺、今なんて言った?」

「はあ? あんたとうとう忘れ癖でもついたの?」

「今の会話の内容覚えてる?」

「あんたの胡散臭い言葉に女の子が喜ぶってやつ?」

「あ、ちゃんと認識してるんだね」

「あん?」

「じゃあ、なんでかな?」


 またキッドが不思議そうに、眉間にしわを寄せた。


「なんでそれを聞いたお前は怒らないで、笑ったの?」

「え? だって、あり得ないじゃない。あんたの胡散臭い口説き文句だけでレディが惑わされるなんて」

「何言ってるの。違うよ。テリー。そうじゃなくて、ここは、お前がヤキモチを妬くところ」


 ………。


「は?」


 眉をひそめて聞き返すと、キッドが吹き出した。


「ぶふっ」


 笑えば、それが火になったのか、爆発したように笑い始めた。


「あははははははは!」


 いかれたように、キッドが一人、笑い出す。


「はははは! 俺、初めてだよ! 女の子の話をして、妬かれなかったの! あはははは!! はあ? って、はあ? って呆れられたよ! あははは! こんなの、ははっ! は、初めてだ! あははは! あっはっはっはっはっ!」

「あんたのコミュニティを聞いて、いちいちヤキモチ妬けっていうの? 冗談じゃない。あんたとの約束は、あたしが婚約者って名乗ることだけのはずでしょ」

「い、いや、くくく…確かに、確かにそうなんだけどさ…くふふふひひひひ…!」


 キッドが我慢しきれず、抱えるあたしに顔を押し付けて、笑いをこらえようと悶える。そんなに笑いたいなら、あたしを下ろしてから笑いなさいよ。


(そろそろ下りたい)


 この建物を歩いてみたい。


「キッド、もう下りる」


 とんとん、と肩を叩いて、立つ姿勢になると、キッドの腕がそれを拒んだ。


(…ん?)


「くくっ」


 笑いをこらえるキッドがにやにやしながら顔を上げ、笑顔で言った。


「やだ」

「………」

「こうやって俺に抱っこされて、下りれなくなったテリーをずっと眺めてたい」


 あたしの目がぴきっと引きつった。


「変なこと言ってないで早く下ろして」

「そんなに下りたい?」

「下りたい。早くお前から離れたい」

「よし、そんなに下りたいなら、条件を呑んでもらおう」

「…条件?」


 何それ。

 きょとんと瞬きすると、キッドがあたしを安心させるように優しく微笑んだ。


「頑張った俺にご褒美ちょうだい」

「……何よ。お駄賃でも欲しいの?」


 キッドが首を振る。


「ううん。お金はいらない。もっと違うもの」

「………」


(あ、なるほど。そういうことか)


 一瞬で理解し、あたしは頷いた。


「そうね。確かに今回はあんたの手柄よ。いいわ。社長の権利は譲ってあげる」

「えっ」


 キッドが目をぱちくりと、瞬きさせた。


「社長の座を俺にくれるの?」

「うん」

「なんで? ここはお前の帝国なんだろ? 理想が詰まってるんじゃないの?」

「でも、作ったのはキッドでしょ? あたしがどうのこうの言う方がおかしいじゃない」


 いいわよ。欲しいなら。


「あたし、ママにぎゃふんと言わせたかっただけだもの。キッドが欲しいならあげる」

「この会社、思った以上に上手くいくと思うんだ。ねえ、社長だったら、売り上げの分、お前のお財布にもお金がたくさん入ってくるよ」

「ママからのお小遣いで間に合ってるもの。いらない」

「それ以上に入ってくるよ。お金があれば、ドレスもアクセサリーも、より高級でいいものが手に入るよ」

「ああ、大丈夫。ドレスもアクセサリーもいっぱい持ってるから」

「………他に、欲しいものも買えるよ?」

「今のままで満足」

「…………」

「何よ。もしかして、遠慮してるの?」


 ご褒美なんでしょ?


「あたしはまだ小さいし、こんな素敵な会社の管理なんて出来ないだろうから、あんたに任せるわ。提案したもの作ってくれてありがとう。もう満足よ」

「馬鹿だな、お前」


 キッドが腕を寄せ、抱えたあたしを強く抱きしめた。


「むぐっ」

「言ってるだろ。ここはお前の会社だ。お前が発案した社長で、管理は俺の知り合いに任せておけばいい。頼りになる人を置いてるから」

「…そうなの?」

「そうだよ。だから、この会社はお前のもの」


 キッドがあたしにすりすりと頭をすりつける。


「もう、駄目だよ。せっかく作ったのに、権利をあげるなんて、簡単に言ったら」

「だって、欲しいものって言われたら、そう思うじゃない」

「俺はね、もっと違うものが欲しいの。お前と違って、俺はすごく欲深いから」

「欲深いのに、会社はいらないの?」

「もっと大切なものが欲しい」

「大切なもの?」


 ますます分からない。

 あたしは眉をひそめて、ひたすらはてなを浮かべる。キッドはそんなあたしの顔を見て、クスクス笑う。


「俺、テリーの大切なものが欲しいんだ」


 キッドがあたしに顔を近づけた。


「キスして?」


 キッドがご褒美を欲しがる。


「お前の唇をちょうだい」


 キッドが目を開けたまま、口を閉じた。


「ん」


 色っぽい唇。

 見つめてくる瞳。

 伝わるキッドの吐息、体温。

 あたしに顔を近づけるキッド。

 唇が近くなる。



 それを見て、あたしは、





「やだ」



 キスを、断った。

 キッドがにこりと笑って、またねだる。


「キスしてよ」


 あたしは首を振った。


「やだ」

「お願い」

「やだ」

「キスしてほしいなー?」

「やだ」

「キス」

「やだ」

「俺頑張ったよね」

「それはありがとう」

「ご褒美」

「他」

「キス」

「却下」

「キス」

「無理」

「キス」

「駄目」

「キス」

「お断り」

「俺の婚約者だろ?」

「それは認める」

「キス」

「やだ」

「キスは?」

「やだ」

「会社」

「ありがとう」

「ご褒美」

「他」

「キス」

「無理」

「キス」

「やだ」


 …………。


 キッドが首を傾げた。


「どうしても?」


 頷くと、キッドが訊いてくる。


「好きな人でもいるの?」


 ………。

 あたしは首を振る。


「いない」

「じゃあ、いいだろ?」

「だからってあんたのご褒美如きに、あたしの唇はあげたくない」

「酷いな。俺、頑張って、お前のためにこの会社を作ってあげたのに」

「キッド、一つ教えてあげるわ」

「ん?」


 あたしはキッドの頬に、そっと手を添えた。


「キスは、本当に好きな人が出来た時のために、取っておくべきよ」


 キッドがあたしを見つめる。あたしはキッドを見つめる。


「その方がいいわ」


 好きじゃないのに唇にキスをするなんて、そんなのおかしい。


「好きな人が出来た時に、ちゃんとキスが出来るように、取っておきなさい」

「テリー、俺も一つお前に言っておこう」


 キッドがにこりと笑って、言った。


「現実は、おとぎ話じゃないんだよ」


 そんな都合のいい話、あると思ってるの?


「スポンサーにご褒美と言われたら、ご褒美を渡す。貴族なら分かるだろ? それが契約なら、なおさらね」


 あたしはキッドを見つめる。キッドは、笑うだけ。


「ま、とはいえ、そうだね。テリーはまだ小さな可愛い女の子だ」


 しょうがないなあ。


「ほっぺたでいいよ。さっきお前が鷲掴みにしてたところでいいから」

「……」


 あたしの口が開けられる前に、キッドが言った。


「断るの?」


 あたしは黙る。キッドは笑う。


「断ったら無理やりでも唇にするよ」


 あたしはキッドを睨む。キッドは笑う。あたしは言葉を飲み込んだ。目を逸らす。


「…他の子なら、あんたからのキス、喜ぶんでしょうね」

「まあね」

「…だったら、他の子にすればいいじゃない」

「俺はテリーにしてほしい」

「キスしたことない」


 キッドが一瞬、きょとんとして、にこりと笑った、


「へえ」

「ファースト・キスよ」

「ご褒美としてちょうどいいじゃないか」

「何がちょうどいいのよ」

「だってテリーのファースト・キスなんだろ? うん。素敵。最高のご褒美。俺、それが欲しい」


 あたしはキッドの肩に手を置き、無理矢理、下に下りようとした。だが、キッドの腕があたしを捕まえる。


「駄目だって言ってるだろ」


 あたしはキッドの肩をぐっと前に押す。


「悪い子め」


 キッドの足が動き出した。あたしの体も揺れる。


「わっ」

「よいしょ」


 キッドが廊下に並ぶ手すりにあたしを置いた。


「っ」


 後ろにいけば、一階まで真っ逆さまだ。


「ちょっ」

「くくっ」


 キッドの支えがないと、あたしは後ろに落ちてしまう。


「おまっ」

「さあ、どうする? 究極の選択だ」


 キッドがあたしを支え、にんまりと笑い、あたしの顔を覗き見る。


「このまま一階に落ちて怪我するか、それとも俺のほっぺたに愛のこもったキスをして助かるか」

「またそうやって脅迫する気?」

「脅迫なんて、とんでもない。テリーちゃんからの愛を感じたいだけだよ」

「好きでもないくせに」

「お前だって好きな人いないんだろ? だったら、この関係を利用して、俺を好きになっちゃえば?」


 ………?


 あたしは眉をひそめる。


「何、言ってるの…?」


 キッドは楽しそうにあたしを見つめる。

 楽しそうに、何を考えているかわからない、笑みを、にたにたと、浮かべる。

 気味が悪いくらいに、微笑んで、あたしの背中を支える。


「ふりだけなんて楽しくない。ねえ、テリー。どうせやるなら楽しくないと」

「キッド、あんたの嘘ついてる時の顔、あたし何となくわかるのよ。今すぐにこの茶番を終わらせないと、あたし、本気で怒るわよ」

「へえ? 怒ってどうするの?」


 キッドの手が緩んだ。


「一階まで落ちる?」

「っ」


 あたしの手に力が入る。ぞっと体を強張らせると、キッドが笑った。


「あははは!」


 キッドの手が再びあたしを支える。落とさないように、しっかりと。


(本気だ)


 こいつ、本気であたしを落とす気だ。


(ここから落ちて、あたしが死んでも、怪我しても、構いっこないって顔してる)


 これはキッドの駆け引きだ。


「俺はね、拒絶されることが嫌いなんだ」


 猫なで声で、あたしに語り掛けてくる。


「ねえ、俺、テリーにはとっても優しくしてあげてるんだよ。他のレディ達よりも特別に優しくしてるんだ。こうやって会社も建ててあげた。ね? キスくらい、いいんじゃない?」

「…そんなにキスが必要?」

「好きな人からのキスって、嬉しいものだよ」

「あたしのことが好きなの?」

「そうだよ」

「嘘つき」

「結構。何とでも言えばいい」


 俺は欲しいんだ。お前からのキスが。


「お前だって欲しいんだろ?」


 幸福が。


「ほっぺたでいいって言ってるだろ? ほんの一瞬だけだよ」


 キッドが、あざとく、可愛い笑みを浮かべた。


「婚約者だろ?」


 だとしても、あたしの唇は、誰にも渡さない。


(あたしは貴族令嬢よ)


 怖がってるところも、弱ってるところも、見せてたまるか。


「婚約なんて」


 ―――そんなの無効よ。

 そう言う前に、キッドがあたしの声に被せてきた。


「婚約解消したら困るのは誰だろうね? 困るのは俺だけじゃない。誰がお前を守るんだろうね? お前、ボディーガードは他に出来たのか?」


 キッドの手が緩んだ。あたしの体重が後ろに下がった。あたしは目を見開いた。ふらりと、体が後ろに下がる。下がる。下がって、


 キッドの手がまた支えて、前に引き寄せる。

 キッドが、にっこりと笑った。


「駄目?」


 あたしの口が閉じられた。

 キッドは、微笑んでいる。

 その目には、確信が持たれていた。

 あたしは眉間にしわを寄せて、唇を噛んで、キッドを睨んだ。


「…卑怯者」

「なんとでも」


 キッドがあたしを抱きしめた。


「ほら、キスして」


 キッドがあたしに囁く。


「落とされたいの?」



 あたしは冷静に、自分に言い聞かせる。


 テリー。

 死刑台にいた時に、この時間軸に戻ってきた時に、やり直しが利くとわかった時に、ドロシーの話を聞いた時に、こう思ったはずでしょう?


 死刑にならないために、何でもするって。


 無駄なプライドは、どこかに置いてきたはずでしょう。テリー。


 だからメニーに笑顔を浮かべてきたんじゃない。

 だから家族を説得したんじゃない。

 だから使用人達に良い顔をしてるんじゃない。


 だったら、出来るわよね。

 これくらい、楽勝よね。



「……キッド」



 プライドがないなら、出来るわよね。






 あたしは、キッドの頬に手を添えて、本当に、これ以上ないほど、優しく微笑んだ。

 キッドが、目を丸くするほどに。



「本当にありがとう。全部、貴方のおかげよ。これからも大好き。愛しいあたしのキッド」



 ―――ちゅ。



 子供の、幼稚な、キス。

 キッドの頬に唇をくっつける。

 それだけの行為。

 何も意味はない。


 ただ、不快なだけ。



「……なんか、お前を汚した気分だ」



 そっと、あたしの足が地面についた。



「でも、どうしてかな」



 キッドが微笑んだ。



「最高にいい気分だ」






 キッドが力をこめて、あたしを抱きしめる。押しつぶされる。ぎゅっと、締め付けられ、苦しくなる。けれど、離れない。あたしを人形か何かと勘違いしているように、愉快げに、キッドがあたしを抱きしめる。


「愛してるよ。テリー。俺に汚されるお前が、もっと愛しくなってきた」


 あたしは黙る。何も言わない。キッドは、あたしの反応に笑うだけ。


「くくっ。いいね。いいよ。テリー。ふふっ。やっぱり、お前面白い。くふふふっ! いいよ。よしよし。契約継続だ」


 キッドがあたしの頭を、優しく撫でた。


「守ってあげるよ。何があっても、絶対に守るよ。テリー」


 当たり前でしょ。そういう契約なんだから。


「愛してるよ。テリー。だぁいすき」


 くくくくくく!!


 耳には、人々がざわつく声が、キッドの笑う声が、混じり合って、響く。

 あたしはキッドの不快な体温を感じながら、ゆっくりと、瞼を閉じた。





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