第6話 クロシェ・ローズ・リヴェ
――一週間後。
アメリがレイチェルの誕生日パーティーに出席するため、少し離れた町、アバウィールへと向かうことになった。ママもアメリの保護者として、一緒について行く。だが、パーティーに出席しないあたしとメニーは屋敷で留守番。ママが留守にしている間、娘たちが悪さしないように、出かける前に、見送りをするあたしたちにママが言った。
「この機会に、二人には勉強をたくさんしてもらいます。今後、素敵な殿方の元へ嫁ぐのにふさわしい貴族となるために、礼儀作法や国の歴史について、多く学ぶように」
メニーが良い子ちゃんの返事を返す。
「はい。お母さま」
あたしは腕を組んで、眉をひそめた。
「たくさん勉強してもらうってことは、なに? 家庭教師でも来るわけ?」
「そうよ。新しい先生がいらっしゃるのよ」
前の先生は雇用期間が切れた後、更新しなかったらしい。年の違う三人の生徒。一人では見られないわよね。そりゃ。
「新しい先生ってどんな人?」
「とても利口な人だと聞いているわ。今回が初めての家庭教師らしいから、テリーもお利口にするのよ」
「ふーん」
そこまで聞いて、――ふと、今日の日付を確認した。
(……)
あたしはもう一度、質問をする。
「その人、年はいくつ?」
「19歳」
「え?」
あたしはきょとんとした。
「19歳?」
「なにか問題ある?」
ママが訊いてくる。あたしは否定する。
「そうじゃなくて」
あたしはもう一度、日付を思い出す。雪の降る前の季節。いつ降ってもおかしくない秋と冬の間の季節。
(違う)
家庭教師は確かに来る。――だけど、
「ママ、手違いじゃない?」
「ん?」
「もう二人くらい、来るんじゃない? 太ったおばさんと、細いおばさん」
「……お前はなにを言ってるの」
ママが呆れたようにため息を吐いた。
「前の先生は、教え方が下手だと文句を言っていたけど、今度という今度は、ちゃんと理解できるまで勉強なさい。いいわね。全てはお前たちの未来のためなのよ」
「はい。お母さま」
「はい。ママ」
メニーとあたしが返事をすると、ママがメニーとあたしの頭にキスをした。
(まただ)
ママの唇を感じながら、思う。
(また、歴史が変わった)
「それじゃ、出かけてくるわ」
「奥さま、アメリお嬢さま、お気をつけて」
「じゃーね! ギルエド」
アメリとママが使用人に荷物を持たせて、屋敷から出ていく。外は風が吹き、今日も寒そうだ。
(ああ、やっぱり行くのね。アメリ)
アメリは普段着用のドレスを着て、馬車に乗り込む。
(行っても、ろくなことにならないわよ)
一度目の世界では、あたしもついて行った。見送ったのは、ギルエドと灰の被ったメニー。羨ましいでしょ、ふふっ。っていう視線を送りながら、あたしたちは馬車に乗り込んだ。
しかし、パーティーは酷いものだった。嫉妬と憎しみ合いの関係が増えただけだった。レイチェルとアメリは喧嘩勃発で、あたしも加わり、レイチェルの取り巻きも加わり、それはそれは大暴れのパーティーだった。
帰ってくる頃には二人ともぼろぼろ。ママは呆れていた。
その際に、あたしはレイチェルのドレスから金のブローチを引きちぎって大暴れしたため、そのブローチをポケットにしまったままであるということが、帰ってから発覚した。
――げ、最悪。
レイチェルの金のブローチなんていらないと思った。
――どうしよう。捨てようかな。
使うのも嫌だし、プレゼントする知り合いもいない。
――あ、そうだ。
ひらめいて、その日に素材を買いに行った。部屋で作業を行った。ブローチの中に埋め込まれた石を取って、串につけて、リボンをつけて、装飾して、髪飾りに変えた。
――えへへ。
部屋を掃除しに来たメニーに、投げつけた。
「それ『リサイクル』に出しておいて」
そう言えば、メニーが地面に落ちた髪飾りを拾った。まじまじと、見つめて、少し、口角を上げていた。
「素敵な髪飾り」
「『リサイクル』よ。そんなものいらない」
「こんな素敵なもの、もったいないんじゃない?」
「うるさい。掃除サボってるってママに言われたいの? 『リサイクル』に出して」
そう言って睨むと、メニーが大人しく頷いた。
「……はい。お姉さま」
メニーがエプロンのポケットに、髪飾りを入れた。
「ちゃんと、出しておきます」
「行っちゃったね」
その声に、はっと我に返る。横を見ると、窓からなにもない景色を眺めるメニー。青い目をあたしに向ける。
「家庭教師の先生、19歳だって。若いね」
「……」
「ん?」
メニーが首を傾げた。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
ああ、そうか。歴史が変わった原因は、これか。
(メニーが貴族令嬢として屋敷にいて)
(あたしは屋敷に残って)
(残ったから)
ブローチは手元になくて、『リサイクル』に出す必要がなくなった。
(……)
メニーを見れば、メニーの髪の毛には、四つ葉のクローバーのピンがつけられている。
(あたしがプレゼントしたもの)
メニーが毎日のようにつけている。『リサイクル』は必要ない。じーっと見てくるあたしに、メニーが眉をひそめませた。
「……わたしの顔、なにかついてる?」
「ううん」
あたしはメニーから視線を外す。
「なんでもないの」
「そう?」
「ええ」
「そっか」
そして、二人で再び窓を眺めていると、後ろから声。
「お二人とも、窓を拭きますよ」
「わ」
振り返ると、サリアがバケツと箒と雑巾を持って立っていた。メニーが驚いて、思わず声をあげ、胸を押さえる。
「サリア、驚かせないでよ」
「ふふ。申し訳ございません」
サリアが笑いながらあたしたちを見下ろす。
「窓を見ていても、奥さまとアメリお嬢さまはしばらく戻ってきませんよ。お部屋でお勉強されてはいかがですか?」
「勉強嫌い」
メニーが唇を尖らせた。
「つまんないんだもん」
「あら、メニーお嬢さまはお勉強がお好きなのかと思ってました」
「ううん。わたし、嫌い。本を読むのは好きだけど、教科書は見てたら眠くなるんだもん」
「苦手な科目は繰り返しです。メニーお嬢さまが一番苦手だと思う科目を理解するまでやれば、自然と楽しくなってきますよ」
「楽しくなるの?」
「理解出来れば、ですけどね」
サリアがくすりと笑った。
「先生も午後にはいらっしゃると聞いてますよ。今のうちに予習をしておくことをお勧めいたします」
「はぁい」
「テリーお嬢さまもですよ」
「わかってるわよ」
あたしとメニーが窓から離れる。
「行こう。メニー」
「うん」
メニーを連れて、階段を上っていく。サリアが微笑ましそうに笑い、窓を拭き始めた。
(午後には来るのね。先生)
「家庭教師の先生、今度はどんな人かな?」
メニーがあたしに訊く。あたしは知らないふりをする。
「さーてね?」
「男の人かな? 女の人かな?」
「ああ、それは聞いてなかったわね」
「怖い人じゃないといいな」
「大丈夫じゃない?」
大丈夫よ。彼女は怖い人なんかじゃないわ。
(むしろ)
天使のような人よ。
三階への階段を上り始めると、ドアが開けられる音が聞こえた。
(あ)
庭師のリーゼが花瓶を持って、部屋から出てきたのだ。
「あら、これはこれは!」
リーゼがあたしとメニーを見て、にこにこ笑って近づいてきた。
「ご機嫌よう。テリーお嬢さま、メニーお嬢さま」
「ごきげんよう。リーゼ」
「なにやってるの?」
挨拶するメニーの横で訊けば、リーゼが花瓶を見せた。
「お花が古くなっていたので、取り換えたのですよ。あ、よろしければごらんになります?」
リーゼが再び部屋の前に戻り、ドアノブを掴む。
「ほら、お二人とも、早く!」
あたしとメニーがリーゼの横に並ぶ。リーゼがドアを開けた。部屋の窓辺に、美しく咲いた白の花が供えられていた。
「ほら、綺麗でしょう?」
「ここ、なんのお部屋?」
メニーが首を傾げて訊くと、リーゼが笑った。
「ああ、そうですわね! メニーお嬢さまは初めて見られるかもしれませんね」
リーゼが中に入る。メニーもついていき、中に入り、辺りを見回した。
「綺麗なお部屋」
「ここはですね」
リーゼが言う前に、あたしが教えた。
「お婆さまの部屋よ」
メニーがきょとんとする。
「……お婆さまって、テリーお姉ちゃんの?」
「そうよ。アメリとあたしの、お婆さまの部屋」
ママのお母さま。
「その通り。ここは元ベックス家当主、アンナさまのお部屋ですわ」
メニーが辺りを見回す。
「すごく綺麗にされてる」
「もう誰も使いませんし、客室にしてしまおうというご意見もあったのですが」
リーゼがクローゼットを指差す。
「あれをどう処分していいか、誰も決められないので、思い出のお部屋として残してあるんです」
「あれ?」
「見てみる?」
ぽかんとするメニーの横を通りすぎ、あたしはクローゼットを開けた。クローゼットの中にはびっしりと本棚が詰められ、そこには本がびっしりと埋められている。メニーが驚いて、クローゼットに近づいた。
「わあ、なにこれ?」
あたしは一冊取り出して、本を開く。メニーが覗く。覗いて、目を丸くする。
「え?」
「これはアメリ」
髪の毛の無いアメリ。
「これはあたし」
髪の毛の無いあたし。
「アルバムだ」
メニーが古ぼけた写真を見て、思わず呟く。リーゼが笑顔で頷く。
「ええ。アンナさまは、それは、大層、お写真を撮ることが好きな方でしたの。お出かけするたびにカメラを持参しておいでだったんですよ」
「これ、お姉ちゃん?」
メニーが泣きわめくあたしの写真を指差す。
(もっといい写真あるでしょうが……)
あたしは黙って頷く。メニーが微笑む。
「わあ!」
メニーがあたしの横にくっついて、アルバムを眺める。
「お姉ちゃんがちっちゃい!」
赤ちゃんのアメリ。赤ちゃんのあたし。アメリがお人形を抱えてカメラを見ている写真。あたしがテディベアを抱えて寝ている写真。アメリとあたしが喧嘩している写真。綺麗なドレスを着て嬉しそうにしている写真。パパの腕を抱きしめて甘えているあたしの写真。
メニーが指を差した。
「これが、お姉ちゃんとお姉さまのお父さま?」
「そうよ」
笑顔のパパ。その横で笑っているあたし。あたしが笑っている写真には、必ずパパがいる。
(……)
メニーが興味津々に、アルバムを見ていく。
「お姉ちゃん、楽しそう」
パパの横で笑うあたし。
パパにテディベアを貰って喜ぶあたし。
パパと話しているあたし。
パパの腕を抱きしめるあたし。
パパの膝に頭を乗せて眠るあたし。
「こっちのアルバムも見ていい?」
「ええ」
あたしも一冊取り出す。メニーも一冊取り出す。二人で座ってアルバムを眺める。
「見て、お姉ちゃん。アメリお姉さまが小さいよ」
「そうね」
ママの横で笑うアメリ。
あたしと横に並ぶアメリ。
お婆さまが間に入ってあたしとアメリが並ぶ。
「これがお婆さま?」
「そうよ。この部屋の主様よ」
「優しそうな人」
メニーが微笑ましそうに眺める。不思議な光景だ。メニーがこの部屋で、お婆さまのアルバムから、お婆さまの顔を眺めている。
(一度目では、見なかった光景ね)
そもそも、この部屋に近づくことさえなかった。
お婆さまなんてすぐに死んでしまったし、死んでしまったら、いつの間にか忘れてしまった。そんなに大した思い出も覚えてなくて、アルバムをこうやって開くよりも、パーティーでわいわいお話してる方を、アメリもあたしも選択した。
(メニーはこの部屋の掃除もしていたのだろうか)
この屋敷は、メニーには大きすぎる。
(覚えてない)
あたしはアルバムを開く。屋敷の光景が映っている。
カメラが好きだったお婆さまは、何枚も何枚もこの屋敷の写真を撮っていた。小さなアメリとあたしにも、何度もカメラを触らせていた記憶がある。そしてシャッターボタンを押すと、お婆さまが笑うのだ。
――素敵なお写真が撮れたわね!
お婆さまが死ぬまで、フィルムはずっとあたしたちを観察していた。その集められた記録が、このアルバムだ。
次のページをめくる。若いパパが、屋敷の前で今よりずっと若いママと並び、微笑んでいる。ママも幸せそうに微笑んでいる。
(幸せそう)
本当に幸せそう。
次のページをめくる。笑っている写真。
次のページをめくる。お婆さまも写った写真。優しそうな顔。確かに、こんな顔していたかもしれない。
次のページをめくる。パパがママと手を繋いでいる。
次のページをめくる。パパとママが大きな誕生日ケーキを囲んでいる。
次のページをめくる。写るパパとママの端にメイド姿の少女が見える。
(うん?)
メニーと同じくらいじゃないだろうか。子どもだ。
(こんな子どもを雇っている時があったのね)
次のページをめくる。ママのお腹がふっくらしてきた。
次のページをめくる。パパがママのお腹に触れている。
次のページをめくる。赤ん坊を抱きしめている。アメリだ。
次のページをめくる。アメリばかり。
次のページをめくる。アメリばかり。
次のページをめくる。アメリばかり。
次のページをめくる。アメリばかり。
次のページをめくる。アメリばかり。
次のページをめくる。アメリばかり。
(『ばあば』め……)
思わず、フッと笑いがこみ上げてくる。
(嬉しかったのね)
よっぽど初孫が嬉しかったのか、アメリが生まれてからは、ママとアメリの写真ばかりだった。
(ママが笑ってる)
とても幸せそうな写真ばかり。
(パパが笑ってる)
まだあたしがいない時の、家族写真。
(みんな、笑ってる)
どこで、間違えてしまったのだろう。
「お姉ちゃん?」
はっとする。メニーがあたしを見ている。
「なに?」
返事を返すと、メニーが眉を下げた。
「お姉ちゃん、今日ぼーっとしてばかり」
「え? そうかしら?」
「そうだよ」
「そんなことないわよ」
あたしはアルバムを閉じる。
「メニーもアルバム持ってきてたわよね」
「うん。どこかにあったと思う」
「また二人で見ましょうよ。メニーの赤ちゃんの時の写真、見たいわ」
「やだ」
「ん、なんで?」
「恥ずかしいから駄目」
「あんたは見たくせに」
「それでも駄目」
メニーがアルバムを開く。古ぼけた写真を見て、微笑む。
「えへへ。小さいお姉ちゃん、可愛い」
パパにべったりなあたしを見て、メニーが笑う。
「見て、お姉ちゃん、髪の毛短い」
「小さい時から長かったら怖いでしょ」
「短髪のお姉ちゃん、見たことないもん。すごく新鮮」
メニーが写真を見て、あたしを見る。
「でも、今の方がいい」
(当然よ)
あたしはお前と違って美意識が高いのよ。髪を払い、閉じたアルバムを本棚にしまう。ドアの方を見ると、リーゼはすでにいなくなっていた。
(……思ったよりも長居したわね。今何時?)
お婆さまの部屋の時計を見る。
(一時間も経ってる……)
そういえば、お腹も空いてきた。
「メニー、もうこんな時間」
「あ、お昼ご飯の時間だ」
「そうよ。食べに行かないと、ギルエドに怒られるわ」
「うん」
メニーもアルバムを閉じて、本棚に戻す。
「食べる」
「行きましょう」
二人で立って、クローゼットの扉を閉める。
(じゃあね、ばあば)
あたしとメニーがお婆さまの部屋のドアを開けた――、
――直後、叫び声。
「ギルエドさま! ギルエドさまぁあああ!!」
メイドが走っている。あたしとメニーがきょとんとして、どちらも手すりから下を覗き込んだ。下では男の使用人もギルエドに走っている。
「ギルエドさま!」
「一体、何事かね?」
「ギルエドさま、大変ですわ!」
メイドと使用人がギルエドの背中を押す。
「裏庭で、ネコが」
「ネコ?」
「先生が!」
「わかった。わかった。行くから落ち着きたまえ」
「とにかく、早く!」
ギルエドが走り出す。使用人、メイドが走り出す。裏庭に向かう。メニーがぽかんとして、眺める。
「なんだろう?」
「行ってみる?」
「うん!」
あたしとメニーがすぐさま廊下を走り、階段を駆け下りた。一階に足をつけて、騒ぎになっている裏庭に向かう。
(裏庭か)
いつもドロシーがいるはずの裏庭。
(なんだろう?)
メニーと廊下を走る。部屋を抜ける。ドアの前を通る。廊下を進む。近道を走る。
「あ、お二人とも、美味しいサンドウィッチが出来てますよ!」
「あとで!」
あたしが叫ぶ。我が家のシェフであるドリーが料理をしているキッチンを抜ける。ドアを開ける。ニワトリがニワトリ小屋でコッコ、コッコと鳴いている。馬小屋で馬が静かにしている。牛小屋で牛がのんびりしている。通り過ぎ、裏庭のドアを開けた。
そこで起きている光景を見て、メニーが目を丸くし、指を差した。
「お、お姉ちゃん! あれ!」
「わお……」
あたしもぽかんと、その光景を見る。
裏庭の木をメイドと男の使用人が囲み、ひやひやした様子で見上げていた。しばらくしてギルエドが到着する。ギルエドが木を見上げ、ぽかんと口を開けた。
木の上に、女性が乗っていたのだ。木の枝にしがみついた女性が腕を伸ばす。
「さあ、怖くないわよ。こちらへいらっしゃいな」
女性が腕を伸ばす先には、緑色のネコが毛先を尖らせて、「ぎゃああああ」と鳴いていた。ギルエドが木の側により、大声を出す。
「そこの者! なにをしているんだ!」
ギルエドに怒鳴られ、女性が慌てて下を見下ろした。
「ああ、ごめんなさい! でも、あのネコちゃんが木から下りれなくなったようでして!」
「とりあえず下りてきなさい!」
「ネコちゃんが来るまで、わたしは下りません!」
(あ)
その声を聞いて、その姿を見て、あたしは目を見開く。
(見覚えがある)
あの髪の色。あの古臭いドレス。あの白い肌。太陽の光に反射する眼鏡。優しそうな笑顔。女性は腕を伸ばして、ネコに微笑んだ。
「さあ、おいで。大丈夫だから」
ネコは怯えたように、ぎゃああああ! と鳴く。女性が微笑んだ。
「怖いと思うから怖いのよ。あなたはネコだけど、いい? 思い込みって大切なのよ。ここは地面。そう思えば、なんにも怖くないわ。さあ、おいで」
女性はもうひと段落、体を伸ばし、腕を伸ばした。しかし、手が滑った。途端に体のバランスが崩れ、彼女の体が宙に浮かぶ。
「あっ!?」
女性が思わず声をあげ、木から落ちていく。メイドたちが悲鳴をあげた。使用人たちが慌てて腕を広げた。しかし、ギルエドが真っ先に動き出す。屋敷内で怪我人を出すまいと、その前に一人の女性を助けようと、ギルエドは年老いた年齢など関係なく走り出し、女性を見事に受け止め、地面に倒れた。
腕は見事に女性を抱き抱えていたが、当のギルエドはその体重に負け、女性の下敷きになってしまった。女性がギルエドを見て、口を押さえる。
「きゃあ! ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「お、お退きなさい……」
「まあ、なんてこと! 本当にごめんなさい!」
女性が慌てて立ち上がり、ぼろぼろになったギルエドから離れる。使用人たちがギルエドを起こし、メイドたちも安堵の息を吐いた。
――その瞬間、強い風が裏庭に吹く。
木の枝で動かなかったネコがその風に反応し、びくんと体を揺らし、全速力で木の枝から飛び出した。ありえないほどの速さで木から駆け下りる。
「きゃっ」
「わっ」
「ネコちゃんが!」
「ひゃっ!」
そのまま地面を走り、使用人たちの足の間をすり抜ける。そして、全速力であたしたちの方へ走ってきた。
「わ」
あたしは体を反らした。ネコの方向に、メニーが残される。
「え」
メニーが声を出すと、ネコが走り、そこから高くジャンプして、メニーの胸に飛びついた。
「わわわっ!」
今度はメニーが声をあげる。慌てて両腕で胸に飛び込んだネコを抱きしめた。ネコが急に大人しくなる。メニーが呆然とする。あたしが呆然とする。見ていた使用人たちが、みんな呆然とメニーの胸に収まったネコを見る。
ネコはメニーにすりすりと顔を寄せ、一瞬、横目であたしのことを見た。
その目の色は、ガラス球のように光っているのを見て、その目にどこか違和感があって、その目にどこか見覚えがあって、その緑色に見覚えがあって、あたしは、五秒で答えを出した。
「あ」
「お前、どこからきたの?」
メニーが言いながらネコを見下ろす。ネコはごろごろとメニーにすり寄る。メニーが眉をへこませて、あたしに顔を向けた。
「……どうしよう。お姉ちゃん」
「……」
あたしは黙って緑のネコを見る。緑のネコは、もうあたしに見向きもしない。あたしはメニーに微笑んだ。
「メニー、飼っちゃえば?」
「お母さまに怒られるかも」
「大丈夫よ。ママ、ネコが欲しいって前言ってたもの」
「そうなの?」
「うん。だから飼いましょうよ」
「飼いネコかも」
「大丈夫よ。首輪つけてないもの」
「じゃあ、飼ってもいいかな?」
「平気じゃない?」
「わあ」
メニーがネコの頭を撫でた。ネコがごろごろと甘えだす。
「可愛い!」
「ギルエド」
あたしはギルエドに歩く。ギルエドと使用人たちがあたしとメニーを見た。
「ね、いいでしょ?」
「いけません。テリーお嬢さま。奥さまに相談してからでないと……」
「とりあえず部屋にいさせるわ。ね、いいでしょ?」
「はあ。また怒られても知りませんよ」
そう言って、ギルエドがため息をつき、――土を叩き払う女性に顔を向けた。
「で、あなたはどなたです?」
「ああ、これはこれは、申し遅れました! 執事のギルエドさんですね?」
ふわふわな茶色の長髪。三つ編みのハーフアップ。丸い眼鏡。赤い唇。長いまつ毛。綺麗な顔立ち。とても美しい女性。
女性が微笑み、胸に手を添える
「初めまして。私、クロシェ・ローズ・リヴェと申します!」
女性がさらに微笑み、続ける。
「こちらで、家庭教師として雇われました!」
女性が大きく頭を下げる。
「これから、よろしくお願いいたします!」
ギルエドがぽかんとする。使用人たちがぽかんとする。クロシェ・ローズ・リヴェが頭を上げる。そして、うふふ、とまた笑う。ギルエドの横にいるあたしを見て、まっ! と声を出した。
「あなたは、テリーね?」
「はい」
「ふふ! 写真で見た通り、とっても可愛い子だわ」
クロシェ・ローズ・リヴェがメニーに振り向く。
「あの子はメニーね?」
「はい」
「この家の事情は聞いてるわ。二人と仲良く出来るといいんだけど」
クロシェ・ローズ・リヴェ先生が、あたしに近づき、しゃがみこんだ。あたしと目の位置が近くなる。
(ああ、そういえば)
この人は、目線の位置を合わせてくれていた。いつだって声をかけたら、屈んであたしの顔を覗いてくれていた。だから嫌いじゃなかったのよ。この先生だけは。
クロシェ・ローズ・リヴェ。
「テリー、クロシェよ。どうぞよろしくね!」
あたしに手を差し出す。あたしはその手を握り締める。すると、先生はゆっくりと手を上下に揺らし、あたしに満面の笑みを浮かべる。
これが、あたしの大好きだった先生。
19歳の若い先生。
優しいお姉さん。
大好きだった。
大好きだったこの人は、19歳のままで、20歳になることはなかった。
「……ね、お願いがあるの」
先生があたしにひそりと言った。
「今の騒動、奥さまには秘密にしてくれない?」
苦く笑う彼女は、雪が積もった日に、変死体となって見つかったのだ。
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