タータンチェックの恋模様
橘冬
第1話
家に帰ると、水を打ったように静かだった。ほかの家ではそれが当たり前なのかもしれないが、すくなくとも僕は十六年生きてきて初めてだ。どきりとした。僕の家は、いつも揺れていて、音がして、それがふつうなのだ。僕はおずおずと二階を見あげて、―やっぱりぴくりともしない。この不安感がわからないというならば、その逆で想像してみるといい。地震を経験したことのない人が、とつぜん震度7の揺れを体験したらどうなるか、ということを。僕は、その静けさにおびえながら、とりあえずコーヒーを淹れるためにお湯を沸かした。粉末にお湯をそそぎかけて、あたりにコーヒーの香ばしいにおいが漂いはじめたころ、階段の音がして、二階から母さんと姉さんが降りてきた。僕は、びくりと肩のあたりで緊張しながら、素知らぬふりをしてコーヒーを点てつづけた。
僕の家は、あるブランド(言えないけれど、かなり有名だ)の服の制作を請け負っている。まさかこんな下町の家の二階があのブランドの工場になっているなんて、だれも想像できないだろうとおもう。父、母、そして去年からはこれまで雇っていたバイトさんに代わって姉が入って、一家三人でやっている。したがって、ミシンの音やなんかで、二階が揺れているのが当然というわけだ。―それなのに・・・。緊張している僕の背中に、母さんが声をかけてきた。
「いいわね。なかなか似合ってるわよ、その制服」
「うん・・・」
生返事をしながら、僕は一年前のことをおもいだした。どちらの高校にしようか迷っていると僕が相談をもちかけると、母と姉はまず当然、学校名を聞いてきた。しかし、僕がその名前をいいながら、
「Aのほうが偏差値が高くてむずかしいけど、入れないこともないんだ。やっぱりチャレンジしてみようかなって・・・」
と説明するのを、ふたりの女性はまるで聞いていなかった。真剣になってスマホでなにやら調べていて、終わるとふたり同時に、
「Bにしなさい」
と断言したのだ。
「どうして!?」
あっけにとられる僕に、姉はスマホを突きだして僕に見せながら、いった。
「ちゃんと調べたの?これがA高校の制服。三年間もこんなダサい服を着て学校に通うあなたを、お姉ちゃんは見たくないわ」
「B高校のほうも、そんなに良くもないけどね。ズボンがチェック柄なのは、高評価ね。まあ、中に着るカーディガンしだいで、なんとか見られるでしょう」
母が、つづいた。僕はしばらくことばを失っていたけれど、まあさすがに長いつきあいなので、どうにか態勢をたてなおしながら言った。
「・・・あのさ、おかしいと思うんだけどな。高校は、勉強しに行くところなんだし―」
言いかけると、
「柚季」
母さんが、厳しい声で僕をおさえた。
「―はい」
「今まで、なにを学んできたの?中身は外見、外見は中身。呉葉の言うとおりよ。こんなダサい服を人様の息子に押しつけようとする学校なら、その程度のものに決まってるわ。ほら、見なさい?この校長」
僕が母のさしだすスマホをのぞきこむと、A高校のホームページに校長の写真が掲載されていた。
「―この校長がどうしたの?」
「ハゲデブでしょう」
「あのさあ、よくないと思うなあ、そういうの」
おもわず抗議の声をあげる僕に、姉がいった。
「なにがよくないのよ。ハゲはともかく、デブは自己管理能力のなさの表れよ。こういうヤツにかぎって『人間は中身です』なんてえらそうに言いたがるのよ。Bにしなさい。―待って、でももっとステキな制服の高校がきっとあるわ・・・」
このままいくととんでもない所(というのも失礼だけど)に行かされそうだったので、僕はあわててBにすることを伝えた。僕はちらりと救いをもとめて父のほうを見たけれど、父は新聞に顔をかくして知らんぷりを決めこんでいた。うう、と僕は心のなかでうめいた。―
わが高梨家は、そういう一家だった。母も姉の呉葉も、大の服好き。それだけならよくあることなのだろうけれど、我が家の場合、それが仕事であり、生活思想なのだ。職人気質で無口な父はとりたてて何もいわなかったから、僕は母と、専門学校を出てすぐ家に就職した五歳はなれたこの姉と、ふたりの女性の強力な支配のもとに育てられてきた。それにしても、ここまで元気のないふたりを見るのも初めてだった。あきらかに、何かがあったのだ。僕は緊張しながら、ふたりの前になみなみとブラックコーヒーの入ったマグカップを置いた。そしてじぶんの分もことりとテーブルに置いて、座りながら聞いた。
「あのさ。一体、何があったの?」
こくんと唾を飲みこみながら待ちうけていた僕に、ため息とともに返ってきた母さんの答えは、かんがえられる限りで最悪のものだった。
「切られたのよ、契約を。これからは工場で大量生産したいんだとさ」
「悪魔に魂を売ったってわけね。それをやらないのがあのブランドのよさだったのに・・・。見てなさい、これから評判がた落ちになるから」
くやしそうに姉がつづいて、僕はあわてて身をのりだすように聞いた。
「じゃ、じゃあ、家はこれからどうなるの?」
「知らないわよ。とりあえずは仕事なし・・・ってことね。まあ柚季が心配することはないわよ、働いてばっかりで、まだ当分は貯金があるから」
母さんがいって、キッチンテーブルで肩をおとすふたりに、僕も加わった。いや、二階でおそらくは父さんも、こんなポーズでいるのだろう。畳の上で、なんのアテもなく、しゃがみこんでいるのだろう。そして、まだ高校一年生の僕には、どうしてあげることもできない・・・。
「―ごめん。僕にも、なにかできるといいんだけど・・・」
しかしそのことばに予想外の反応があったので、僕はおどろかされた。
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