王子
現王キルデリク一世の嫡子、クロビス・バジナ・テューリンゲンは退屈だった。
彼自身二十歳を迎えたものの、現王たる父は齢五十を数えまだまだ
彼に求められるのはただひたすらに勉強だった。
国の歴史や、算術や語学、乗馬や剣術格闘術、帝王学や兵法、様々な法や式次第……やがて王となる者として、毎日毎日詰め込まれる君主道の授業と訓練。
一国の長として、他国の王侯貴族を相手に知性や人格で「勝つ」ために、それらが必要であることはクロビスにも理解できる。
だが、それはそれとして、活かす機会のない知識や技能をただただ教え込まれ練習だけさせられる毎日というのは掘っては埋める穴のようなもので、充実感もなければ面白さも楽しさもない。さりとて立場上、適当に投げ出すことも嫌がって拒否することもできない。
積み重なる鬱憤を晴らす手段として彼が編み出したのが、タイミングを見つけて変装して城を抜け出し、アーガスバーグの街で買い食いをしたり祭り見物をしたりする秘密の社会見学だった。
その日、陽が落ちると彼はいつものように下男が着るジャックと外套をベッドの下から出して着込み、バルコニーから渡り廊下の屋根へ降り、更に庭への階段へショートカットして庭の池へ抜け、池と外堀を繋ぐ城壁の曲がった鉄格子の隙間に身体を捩じ込んで外に出て、裏の通用門まで回って跳ね橋を渡り、街へと降りる道を何食わぬ顔で歩いて脱出に成功した。
適当に街をぶらついて、だがそれだけでもクロビスの足取りは軽かった。
夕食は早めに摂ったが、少し小腹が空いて、おまけに小雨までぱらついて来たので、彼は適当な店で軽食でも食べることに決めた。賑やかな店ならとんでもなくマズい食事が出ることもないだろう。彼は夕闇の中、一際明るい光が漏れる二階建ての大きな酒場の振り戸を入った。
酒場の名は「良き再会邸」と言った。
***
エール酒とパン、鶏肉のスープを頼んでクロビスは注文の品が来るのを待ちながら、酒場に集まった街の人々の様子を眺める。
クロビスはこの光景が好きだった。
国とは何か。王子であるクロビスは何かに付けてそれを繰り返し教えられる。
父王は国民と貴族と王家との契約であるといい、母は王家の血だといい、教育係の一人であるグベルナンテ老は軍事力と経済力であると言う。そのどれもが正しいことを二十歳の彼は理解すると共に、そのどれにも実感を持てないこともまた、彼にとっては揺るぎない事実だった。
この光景がそうではないか、と彼は思う。
様々な立場のものが食事を共にし、肩を組んで歌をがなり、腕を交えて酒を酌み交わす。彼からみたら些か下品だが、それ以上に生きてる感じがするし、何より楽しそうだ。国とは、その主体とは、こういう市井の人々の生活のまとまりなのではないかと考えた時、彼の理性と心情とはかっちりと重なって彼の胸は満足に満たされるのだった。
そんな思索に身を委ねながら気分良く場の雑然とした空気を堪能していると、エール酒とパン、鶏肉のスープが運ばれて来た。気立ての良さそうな給仕の娘に礼を言い、短く祈りを捧げて食事を始めると、店の奥の小さな舞台に上がった吟遊詩人が
「不死の騎士グリステル」のサーガだった。
クロビスは声を上げて喜ぶ所だった。彼はこの歌が大好きなのだ。
サーガには幾つかのバリエーションと話の流れの部分がある。誰が作って流布しているのかクロビスの知る最新の部分では彼女はエルフやドワーフのみならず改心した魔物までをも自分の配下に統率し、自由軍の遊撃部隊として相棒のザジと共に戦場を駆け、魔物の大軍を破る大活躍をしていることになっているはずだ。
まあそんなことが実際にあるはずがないことはクロビス自身も理解している。
エルフやドワーフはお伽話の中の存在だし、この世に山を横切るような竜がいるなど、真に受けるのは小さな子供か未開の蛮族くらいだろう。
興味を持って調べてみたが、驚いたことに「グリステル・スコホテントト」という名の女騎士は王国の神聖騎士団に実在したらしい。だが三年前。ナターラスカヤ平原での衝突戦の折、彼女は敵の罠に落ち、黒焦げの腕だけになってこの世を去った。なんとかという教会に墓もあるそうでその点は疑いがない。周りの侍従やたまに面会する騎士などに彼女の話を聞いてみても皆揃ってあまりいい顔をしない。どうも彼女は女だてらに人望もあり騎士として戦果を上げ仕事ができたために、教会や一部の有力貴族の子弟からは疎まれていたようなのだ。
狭量なことだ、とクロビスは思う。冷遇されながら戦場に命を散らせた彼女を哀れだとも。
だが、そんな特異な立場や終焉の悲劇性が大衆の興味を惹き、こうしてサーガとなって歌われているのだ。中には、自分は戦場でグリステルとザジを見た、と本気の情熱で主張するものまでいる。人は英雄を求め、その活躍に自分を重ねて酔うのが好きなのだ。いつだって、悲劇を背負って無敵の活躍をする誰かの物語を希求して止まないのだ。だからグリステル・スコホテントトは現実の呆気ない死を開幕として、歌の中で魔物の将軍と友となり、冥界の底でエルフの女王を救い、邪竜を倒して黄金を得、命を取り戻してまた戦い始めるのだ。王国の、
クロビスは安いエールを少しずつ飲みくだしながら、こんな酒でもグリステルと飲んだら美味いかもしれない、とふと思って、その考えを自分で笑った。だが考えは勝手に進んで、彼女か配下ならとか、いやもし自分の妃なら、と想像は膨らんで、彼はその愉快さをしばし楽しんでいたが、それを外から聞こえた小さな悲鳴が中断させた。
雨音に掠れていたが、それは確かに女の悲鳴だった。
無視することもできた。
いや、違う。今夜のクロビスにはそれはできなかった。
彼の中では今、不死の騎士グリステルが剣を掲げて正義を叫んでいたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます