第27話 4階■■科病棟
「着いたぞ、ここが目的地だ」
無骨なエンジン音を響き渡った車が、廃病院に辿り着いた。
無造作に位置する自然の木々の中、同化して風化した人工物の廃病院。
奇怪なナニカを空間全体に撒散している“それ”からは、老人の話を聞いた後だと余計に不穏なものを感じ取ってしまった。
――数十年前、虐殺が行われた場所。――幻死病を生み出した場所。
呪いの映画から始まった怪異もここまで巡り回った。そう考えると不思議だ。
「俺はここまでだ。ここにいるだけで嫌な過去を思い出しちまうからな」
「送っていただき、ありがとうございます。えっと……」
「松原だ」
「ありがとうございます、松原さん。あなたのおかげで辿り着けました」
「感謝したいなら、迷い込んだ馬鹿ども連れて顔を見せに来い。それだけだ」
どこか照れ臭そうに告げた後、彼は車で去っていった。
ここにいるのは僕たちだけ。他の場所はみんなに探索を任せているし。
できれば、他の場所に居れば良いのだけど……あまり期待できそうにない。
「準備は良い? 誠也に葵、千夏の弟さん?」
「誰にものを言ってるのよ。あなたたちこそ」
「その調子なら大丈夫そうね。……さて、行きましょうか」
遠乃が、自分に言い聞かせるように告げると扉が開かれた。
向こうの空間には、暗闇で不気味な存在が待ち受けているように思える。
あらゆるものが荒廃した、合室。僕たちは恐る恐る侵入していった。
1歩、2歩、3歩。暗い中、僕たちが歩いたところで――目の前が変わった。
「……えっ」
――周りが、世界が、紅一色に染まっていた。
何の赤か。血だ。おびただしい量の血が辺りに散らばっているのだ。
確かにここは診療室だった。右側には申し訳程度の受付のスペースがある。
だけど、視界だけが変わった。それを意味するのは1つ。ここは同じ場所であり、違う空間。即ち……異界だった。
「病院の本来の姿がこれなの。明らかに異常だわ」
「この感覚、もはや現世じゃない。あの時点でもう異界となってたのね」
理解した時、一足遅れて他の感覚が異界を認識し始める。
吐き出しそうな、血と腐肉の匂い。微かに聞こえる不気味な囁き声。
粘り気がある湿っぽさと、肌を逆撫でするような空気を肌が感じ取った。
ふと、足元に固い感触が。見てみると……誰かの手が僕の足首に触れていた。
体が引き攣った感覚と同時に、蹴り上げる。空中に飛んだそれは奥の壁に叩きつけられて、重力に従い壁を伝って地面に落ちた。
異常な世界の中で重力が認識できたことに安心した。不思議なことに。
――なんだよ、ここは。
理解不能な状況に思わずよろめいて、壁に手を当ててしまった。
ぬめり、とした触感。嫌な予感がして手元を見ると……べっとりと血が。
「っ!!?」
反射的に汚れた手をズボンで擦りつける。ハンカチを出す余裕はない。
何度も、何度も何度も何度も、血を落とそうとする。だけど、生命の危機を感じさせる濃紅と、気色悪い感触は手にしっかりと刻まれていた。
この血、生温い。流れてからそれほど時間が経過してない血液。周りの肢体を見る限り……これは老人の話の“虐殺”後の時間だ。
もしかして、ここの空間も時間が止まっているのか。あの“異界団地”と同じく。
「瀬川から逃げる時、アイツは扉越しに必死に訴えてた。怪物が来るって。明らかに異常な様子だった、もしかしてアイツはこれを見ちまってたのかよ」
「……一秋くん」
「それにしても、どうするんだ、これ。本当に大丈夫なのかよ!?」
「どうやら行くしかないみたいよ。後ろを見てみなさい」
七星さんに言われて、振り返る。扉は錆びた鎖に閉ざされていた。
老朽したそれだったが、手で壊せそうにはない。つまりここから出られない。
「……嘘だろ」
「一秋くん、私から離れないで。あなたたちも無理はよしなさい」
「わかってるわよ。んじゃ、夕闇倶楽部。調査開始よ」
調査が始まる。異様な空気に焦る心を抑えつつ、慎重に足を前に進めた。
……しかし、何処から探せばいいのか。この病院の何処に隠れているかもわからないんだから、階を隈なく探してみるべきか。
松原さんの話によれば、4階に彼女たちはいるはず。真っ先に4階に向かうべきか。
「何これ……花の飾り、かしら」
あれこれ考えて言い出せないでいると、遠乃が何かを床から拾った。
床の血液で汚れているが、白い花の……アクセサリーの類、だろうか。
だけど、特筆すべき点は――これは、現代の製造物ということ。それは、つまり。
「これ……楓の髪飾りじゃない!」
案の定。これは彼女たちがこの場所にいる証拠となった。
「えっ、そうなの?」
「そうっす。アイツ、髪は短いんで髪飾りは付けないんですけど。大切なものみたいで、いつも持ち歩いてるはず――って、葵! どこ行くんだよ!!」
遠乃から髪飾りを強引に奪い取ると、七星さんが走り出した。
向かう方向は、2階に続いている階段。おそらく彼女の目的は4階だろう。
……これ、マズくないか。いくら彼女でも単独行動はマズいんじゃないか!?
「まったく、あれだけ偉そうなこと言ってたのに自分のことだと!」
状況を理解した瞬時に、僕たちは後を追うために階段を上った。
踊り場、2階、踊り場、廃病院の空間を抜ける。その度に世界が悪化した。
無残な死体、死と血に匂い、誰かの呻き声。比例して巨大なものに変容する。
そして、ついに辿り着き――昨日、僕が見た“アレ”が姿を現したのだった。
「……ここからが、4階ね」
存在しない、存在するわけがないはずの、4階に続いている階段。
異様な靄がかかり、向こうは見えない。それが階段の恐怖に直結していた。
おそらく七星さんは階段の先にいるはずだ。……きっと、葉月も雨宮さんも。
「2人とも、大丈夫よね」
「だ、大丈夫っす」
「問題ないよ。……行こうか」
互いに確認し合った後、意を決して会談に足を踏み入れた。
1歩ずつ、靴と固形物がぶつかる音を立てる毎に世界が悪化する。
視覚が、聴覚が、嗅覚が、感覚が死に染まる。僕の直感でさえも感じ取れるくらい、微かな生気でさえも消失している。
僕の心臓が、これ以上進んではならないと。警鐘を鳴らして止めようとする。
だけど、進むしかない。むしろそう思わないと精神の安定が保てない気がした。
なんとか4階に辿り着こうとした時、階段のゴールに七星さんの背中が見えた。
「見つけた。アンタ、なに勝手な行動を……!?」
その姿を見ると走り出した遠乃。七星さんに声をかけて――絶句する。
何があったのかと僕と一秋くんも駆け寄った。そして、4階が見えてきた。
「……えっ」
視界に存在する光景には、僕たちも微かな声が漏れるだけだった。
今まで見たことがないような、人が、患者が、空間に犇めいていた。
ある者は体育座り、ある者は立ち尽くし、ある者は頭を壁に叩きつけている。
壁や床は黒みがかった紅に染まって、人間の体内を思わせる惨状となっていた。
もはや一欠片も生命を感じない、異界の最深部のこの場所は――まさに松原さんの話に出た精神病棟と化していた。地獄絵図、狂気の世界だ。
「楓!!?」
奇々怪々なる空間に呆然としていると、七星さんの声が聞こえた。
視線の先を見ると、あの後ろ姿は……確かに雨宮さんだ。だけど、七星さんの大声にも気づかず……向こうの病室に入っていった?
「楓!! 待って!!」
「お、おい! 葵!!? 楓も!!」
「ちょ、ちょっと、また!!? 待ちなさいよ――きゃあ!!」
後を追いかけようとした遠乃が――“怪物”に阻止された。
顔中に包帯を巻いた怪物。現実では幻覚だったそれも異界では違っていた。
彼が襲い掛かってきた時、風を感じた。彼が動いたことで風が起きたのだ。
気づけば、異界の何人かの患者は僕たちを奇妙な様子で見据えていた。
鉈、メス、クワ、包丁。本来の用途では使われないだろうソレを手に持って。
彼らの行動、反応、そして僕の直感が告げている。彼らの目的は明確だった。
「コ、コイツラ……あたしたちを引きずり込もうとしてるの!?」
死が蔓延して、赤と黒に構成されて、“患者”が蠢いた絶望の世界。
僕たちは最後の調査を、そして葉月を助けるために一歩を踏み出した。
……といっても。その一歩を怪異から逃げるための一歩になってしまったが。
「楓を見る限り、囚われた人たちは病室にいるみたいね!」
「ど、どうする!? 僕たちは葉月を見つけ出さなければならない!!」
「手がかりもない以上、そんなもの片っ端から探し出すしかないでしょ!!?」
遠乃の言う通りだった。葉月がここにいることを祈って
幸いにも雨宮さんがこの異界に囚われていた。つまり葉月も同じ可能性が。
希望が持てると、それだけ行動に繋げられる。彼女たちを救うためにも、僕たちが異界から無事に抜け出すためにも、僕たちは駆けだした。
「どこなの、どこにいるのよ……!?」
「きっと、この中にいるはず。いるはずなんだけど……!」
4階病棟、異様な空間の中、目に入る限りの病室を探していく。
無数に思えるほど存在し、廊下は地平線が見えると錯覚するほど長い。
そして、病室。これが異界の奇怪さの証明、いや、最たるものだった。
1つ、1つ、内装が違う。和室、子供部屋、仕事場など。赤い何かで埋め尽くされたことを除けば、あるテーマがもとに病室が構成されている。
それは、まるで……囚われた彼らの精神を象っているようにも見えた。
途中で、映画の機材や小道具のようなものが置かれた部屋もあった。やはり映画同好会の彼らも、この異界に囚われていたのだろうか。
どこかやり切れないもの感じながら、迫る殺気を躱しつつ病室を探る。
葉月の探索が続いて分かったこと。僕たちを襲う“患者”は少数だった。
だけど、全体数が多いだけに……時間が長引けば長引くほど、迫り来るのだ。
……実のところ、こういう状況で僕は“あるもの”に淡い期待をしていた。
“マモリガミ”。炎失峠で襲われた時も僕を助けてくれた、謎の存在。
だけど、正体どころか何もかもがわからない存在に縋るわけにもいかない。
――捕まったら、終わる。考えるだけに呼吸が荒いものになるほどの恐怖と緊張感の中、僕は探索を進めなければならないんだ。
「ここなら、どうなの!!?」
もはや半ばヤケになった遠乃が、壊れんばかりに扉をぶち開けた。
見えたのは隙間がないほど絵が壁に貼られ、床に放置された光景。
絵はどれもこれも悲惨で、哀愁を感じさせる内容だった。だけど……絵か。
思い当たる人物は1人だけ。期待と確信と一緒にベッドの上の人に目を向けた。
「葉月……!」
歪な部屋の中、虚ろな目でスケッチブックに絵を描く葉月を見つけた。
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