第18話 自分を明らかに

 後ろに迫る怪物。それに追いつかれないよう必死に走る。

 もし、どこまでも漆黒の瘴気を放ち、あんなに血走った眼をしたアレに捕まってしまったら。想像するだけでも恐ろしい。

 逃げる先は1階、団地棟の外だ。神林の少女が話した通りなら、現実世界と異界の境界線、つまり霧の向こう側が現実世界と繋がってくれるはずだ。

 一瞬だけ外へと飛び降りることも考えたが、地面が見えない上に4階。良ければ怪我、最悪の場合は死ぬかもしれない恐怖が勝った。


「このまま一階に降りるぞ!」

「わ、わかりましたぁっ!! がんばりますぅっ!!」

「私は、私は……ああ」


 3階に続く階段を降りながら、考えてみる。

 怪物の正体は、おそらく404号棟の男性なんだろう。

 だとすると、あの人形に込められた願い――この団地棟の住民を殺すこと。

 男性は住民に対して異常なほどの被害妄想を抱いていた。そして、それが妄想だと、異常なことだと気づいていなかった。

 それを七星顯宗は利用したのだろう。神林の少女が言っていたように、彼は男性に入れ込み、男性も様を付けて崇拝するくらいに信用していた。

 ……そう考えると、今回の怪異においては、この異界団地よりもあの怪物と化した男性よりも、七星顯宗の行動の方が恐ろしく思える。

 と、ここまで思考を巡らせてから、逃げるのに専念しようとした時。


「――あっ」


 千夏がバランスを崩し、階段を踏み外した。

 呆然とした何もない表情のまま、千夏が重力のママ落ちていく。


「千夏!!」


 それを見た僕はとっさに彼女を庇うように体を動かす。

 無意識での行動。そこに合理性や行動の結果を鑑みることはない。

 僕の体も千夏と同じように落下して……コンクリートの床に叩きつけられた。


「が、がっ……!」


 踊り場から2階の床の高さによる衝撃が体全体に激突した。

 その直後に千夏の体が僕の上に落ちてきた。とりあえず千夏は守れたらしい。

 だが、そんな安心もつかの間のことだった。404号室の時の痛みと相乗して、この受けた激痛が僕の体を飲み込もうとするかのように暴れ初めた。


「ぐっ、ぐぅ……」


 ……痛い。そのままでも、動かしても、何をしても痛かった。

 だけど、ここで苦しみ続けるわけには“絶対”に許されなかった

 何故なら――後ろには、あの怪物が迫っているのだから。僕の都合なんて知ったことではない言わんばかりのそれは、赤黒の眼を光らせて近づいてくる。


「は、早く! 逃げないと、まずいですよぉぉ!!?」


 烏丸さんの声を聞いて、僕は立ち上がろうとする。

 だが、やはり動かした瞬間に走る激痛で、上手く立ち上がれなかった。

 逃げないと殺されるというのに。そんな恐怖と苛立ちを覚えていた時……不意に感じたのは人の体温だった。それと首元に落ちる生ぬるい雫。

 前まで無感情だった千夏が口元を悲しく歪め、涙を浮かべていた。


「ご、ごめんなさい! 私のせいで……誠也先輩!!」


 その極めて人間らしい感覚と、今の言葉で頭が鮮明になった。


「誠也先輩、か? 千夏、君、もしかして!?」

「ああ……せんぱい、って……えっ、だれ……なんで、私」


 再び忘れてしまう。しかし、千夏が僕を思い出しかけていた。

 そして、その時だった。今にも襲いかけていた怪物の動きが急に止まる。

 ……何故なんだ? その理由は分からない。だけど、絶好の機会。

 痛みが走り続ける体を必死で起こして、千夏の手を引いて階段を降りた。

 1階と2階の間の踊り場を抜け、外へと向かえるところで――足を止めた。


「わわっ!!? 急に止まらないでぇ、って、ええっ!!?」

「……う、嘘だろ。こんなの」


 向かっていた1階には――あの怪物が立っていた。

 先ほどまで僕たちの後ろを追いかけていた怪物が、前触れもなく。

 怪物は僕たちを見据えると、ゆっくりと階段を上がってくる。表情は完全に伺えなかったが、嬉しそうに口元を歪ませているように見えた。


「ど、どうするんですかぁ!! 青何とかさぁん!!!」


 極限の状態、僕は意識を思考に集中させた。――考えるんだ。

 今のままでは怪物に殺される。なら、抵抗の手段は“これ”しかない。

 この前の調査で麻耶先輩が言っていたように、お化け屋敷ではないんだ。

 襲えるのなら、きっとすぐ襲いに来ていたはず。なのに、怪物は長い時間を費やしても僕たちに牙を向けなかった。

 この不可解な事象。怪異を暴き出せるヒントはそれに隠されているはずだ。


「上の階に逃げるぞ! あれに捕まったらお終いだ!!」

 

 だが、時間や体力に限界が近い。時間切れになる前に怪異を暴く!

 前提として、あれが404号室の男性だと仮定するならば。

 男性の願いは住民の殺害。怪物はそれを元に行動していると考えられる。

 つまり住民になった、即ち自身の記憶を失った千夏を殺すために襲ってきた。

 だからこそ、今の今まで姿を表せず、僕たちを襲うこともできなかった。このように考えてしまえば、これまで起きた事実に辻褄が合ってくる。

 しかし、今の僕が知りたいのは怪物を倒す方法。いや、倒さなくても構わない。千夏の記憶を取り戻すことさえできれば、住民ではなくなるのだ。

 もう一度、さっきみたいに僕たちのことを思い出させられないのか?

 

「千夏、聞こえるか!? 君は」

「あ、ああ」

「やはり駄目か!?」


 だが、話しかけてみても千夏に声が届かない。

 つまり僕から記憶を蘇らせることはできないみたいだ。

 ……別の方法はないか。あれこれ考えながら、逃げられる場所を探す。


「ま、またっ! 先回りされてますぅ!!?」


 だが、各々の住宅に続く2階の道では、怪物が待ち構えている。

 逃げ回る僕たちに苛立っているのか、迫る速度が増しているようだった。

 逃げないと。だが、逃げても今のように先回りをされて、ジリ貧になるだけ。

 この状況、僕はどうすれば良いんだ? もし手がかりがあるとするならば?


「もう終わりだぁ……! 私はここで死ぬんだぁー!!」

 

 そうだ。鍵を握るのは烏丸さんだ。彼女は何故生きている? 

 あの怪物の被害に合うことなく、僕たちより団地棟の中で居続けている。

 なのに、自身に関する記憶を失った素振りが今はない。何故なんだ?

 烏丸さんはお守りのおかげだと言っていたが、それは信じられなかった。

 見たところ、あれは手作りの代物。それ相応の思いが込められていることは確かだろうけど、怪異を制する力があるかと言われれば、微妙だった。

 ……だとすると、他に財布の中に入っていたものが?

 他の物といえば、あの写真。それは更に有り得ない。あれは女性の下着を盗撮した写真だった。関係していると思えなかった。虚しい量の小銭も。

 となると、残されたのは――彼女の学生証。

 いや、それはどうだろうか。そう否定しかけた一方で、記憶が蘇ってくる。

 あの神林の少女。彼女は最後に“自分を明らかにしなさい”と言っていた。

 そして、404号室に大量の身分証明書。普通に考えれば何の意味もないのに。

 そう考えると、確かにこれは歪にされた主観に惑わされずに自分の存在、それだけでなく周りの要素、即ち社会的な地位や立場を証明してくれるもの。

 もしかすると。半信半疑だけど、現時点の結論はこれしか考えられなかった。


「烏丸さん!!」

「な、何でしょうかぁ!?」

「千夏のポーチを持ってるよな? それを彼女に返すんだ!」

「ええっ!!? 今さらですか!!?」

「むしろ今しかないんだ!! お願いだ、早く頼む!!」


 つまり、僕の出した今回の怪異を対抗するための結論。


 “異界の一部として住民にならないためには客観的な自分の証明”


 七星顯宗の行動は、すべてこれを潰すためなのだろう。団地棟という一種の封鎖空間を利用したのも、あらゆる郵便を封じたのも、身分証明書を没収したのも。

 思い返してみると、千夏がおかしくなったのもポーチを渡してからだった。

 あのポーチには大切な物が入っている。だから、あれを本人の元に返せば、もとに戻ってくれる。彼女の自分を明らかにしてくれるはずだ。


「千夏さん、受け取ってください!!」


 烏丸さんは、僕のトンチンカンな発言にも素直に理解してくれて、頷いてポーチを思いっきりぶん投げた。……強すぎだが、大丈夫か?

 もちろん大丈夫ではなく、勢い余って千夏の体に当たってしまった。

 そして、ポーチの中に入っていた物が目の前で広がる。ペンにメモ帳、烏丸さんの食べ物のゴミ。それと学生証、夕闇倶楽部のみんなと一緒の写真。

 それを見ると、千夏の眼に色が灯る。黒から、青みを帯びた薄い黒に。


「小山千夏……私の。それと、これは、みんなの写真」


 ポーチから飛び出した物を眺めながら、千夏がぶつぶつ呟いている。

 反応を見る限り、どうやら記憶を取り戻せたらしい。それと入れ替わるように、あれほど猛威を振るった怪物の動きが急に鈍くなった。

 良かった。僕の導き出した推測は、どうやら正解だったみたいだ!


「今だ!! 逃げて、烏丸さん!」


 このチャンスを逃す訳にはいかない。

 怪物が戸惑う内に床に散らばった物を集め、千夏に渡そうとする。

 未だに本調子ではないようだが、学生証と僕たちが写った写真を握らせる時には、彼女の手には力が戻っているのを感じた。


「大丈夫か、千夏」

「あっ、はい。ご迷惑をおかけしました!」

「よし、それはちゃんと持っておいてくれ。逃げるぞ!」

「わ、わかりました! 誠也先輩!!」


 千夏の安否を確認したところで、再び身を翻して駆け出す。

 もちろん怪物は僕たちを追跡してきたが、前の迫力は感じられない。

 今なら逃げ切れるはず。一気に1階に降りると、あの玄関口から外に出た。


「あ、あそこに! 霧が薄い場所がありますぅ!!」


 棟を出ると烏丸さんが言う通り、霧が晴れた空間があった。

 きっと、あれが現実世界への出口なのだろう。道の先は完全に見えなかったが、霧の中を彷徨った時とは違って、今回は大丈夫そうな予感がしていた。

 その道をしばらく進み続ける内に、霧の中から何かを見つける。よく見ると、古びた道祖神だった。あれって、昨日の僕たちが見つけたものだろうか。

 近づくと、広がっていた霧が全て晴れて、眩い光が僕の周りを支配し始めた。

 思わず目を瞑ってしまう。何秒か過ぎた後で目を開くと――コンクリート製の道路が目に入ってきた。後ろには道祖神、雑木林があった。


「ここは……元の世界、らしいな」

「私たち戻れたんですねぇ!! ぃいやったぁぁっ!!」


 烏丸さんが全身を使って喜びを表現する。

 帰ってこれたことの安心感で、息を大きく吐き出してしまう。

 そして、僕たちのところに駆け寄ってくる温かい気配を感じた。

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