第10話 失われかけていた少女
鈍い金属音を奏でながら、103号室の扉を閉じる。
廊下の外は、依然として霧みたいなもので覆われて何も見えない。
「…………」
それにしても、この場所。人間に食われた形跡の部屋、誰からも見えないように窓や鏡がアルミホイルで覆われた部屋、子どもと大人が入り混じった歪な部屋。
あらゆるものが捉えられそうで捉えられない要素の集まりで。
――この空間は何だ。そして、何があったんだ?
分からない。分からないからこそ、堂々巡りの思考回路に阻まれる。
もし、あいつがこの場所に居たとしたら……この状況でどうするんだろうか。
「先輩、どうかしましたか?」
心配そうにしていた千夏の声で、僕は気を取り直した。
居ない奴のことを考えてもしょうがない。今は行動するだけだった。
「何でもないさ。軽い考え事をしていただけだ」
「なら良いんですけど。それで、最後はこの部屋だけですね」
「そうだな。中に入るぞ」
神妙な気持ちで、104号室の扉を開ける。
瞬間に、直感で安全を感じた。……あの奇妙な人形がなかったから。
別に人形があるかで、異常かどうかが分かるわけではないのに。
なのに、胸を撫で下ろす自分がいる。複雑な気持ちのまま、玄関へ入った。
『う、う、うぅ……』
安心していた、その時。か細い唸り声が耳に入った。
同時に、全身を小さな針で突かれたような感覚が襲ってくる。
……この場所に誰かがいる。命が感じられないはずの、この空間に。
正体は分からない。ここの住民なのか、僕たちと同じように迷い込んだ者なのか。まともなのか、そうではないのか。そもそも人間なのかも分からない。
そう、いろいろと考えていると、ふと千夏のことが気になった。
「…………」
目が合った。千夏も僕の様子を伺っていたのだろう。
2人で頷くと、音を立てないようにこっそりと奥の部屋に進んでいく。
部屋の中は、3つの部屋と比べると普通だった。
本が多かったが、それだけ。この部屋の住民は読書家らしい。
物が壊されているとか、窓や鏡が何かで隠されているとかはなかった。
しかし、先ほどの声はまだ聞こえている。警戒は解かずに辺りを見渡す。
部屋の右側面の、本棚が並んでいる壁の辺り。そこに、見たことのある制服を着ている少女が隅のところで座り込んでいた。
「き、君は……」
突然のことに、思考の前に言葉が出た。
まずい、と思った時には遅かった。少女の指がピクリと動く。
そして、急に立ち上がり――僕に向かって駆け出して、首を締めてきた。
「う、うがっ、うがぁぁっ!」
「な、なに、を……!?」
突然の衝撃と、呼吸ができない。驚きと苦痛が支配する。
少女の顔は長い髪に覆われていて、その奥には獣を思わせる瞳。
まるで捕らえるべき獲物を見つけた、そう言いたげな様子に見えた。
だけど、僕も苦しみから逃れようと必死に引き剥がそうとする。……不思議と、簡単に押し返すことができた。糸が切れたように、少女は倒れてしまった。
「せ、誠也先輩! 大丈夫ですか!?」
「はぁ……。ひ、ひとまずは大丈夫だ。それよりも、この少女だ」
呆然としていた千夏が、駆け寄ってくる。
僕は喉を押さえながら立つと、まっすぐに目の前の少女を見据えた。
すると、少女の上半身が起き上がる。髪で隠されていた顔があらわとなった。
童顔だった。学生のようだ。だけど、表情は老化したように動かない。
突如、微かに唇が動いた。何をするか警戒しつつ、彼女の行動を伺う。
「……お」
「お?」
「お腹が、空いた」
「「…………」」
少女が、千夏がポーチに入れていた食料を貪っていく。
鬼気迫る形相で口に運ぶ。それを僕たちは眺めるしかできなかった。
「いや~、ありがとうございます! 危うく死ぬところでしたよ~!」
そして、食べ終わると元気を取り戻したのか、あっけらかんとした笑顔と鼓膜まで響きそうな大声で感謝してきた。ちょっと騒がしい人だな。
「そ、それは良かったね」
「あっ、記念写真良いですか? いや~、美男美女! 兄弟なんですか?」
「……私は小山千夏。“大学”1年生。こちらは1個上の青原誠也先輩です」
「すみません! 命の恩人になんてことを……てっきり中学生かと~」
「…………」
飢餓の状況とはいえ、僕を殺そうとしていた人に命の恩人と言われた。
複雑な気持ちに駆られていると、少女は呑気に小型のカメラで撮ってくる。
そして、一通り彼女の撮影が終わったところで、僕は話を切り出す。
強引だが、このような類の人間はペースに飲まれたら話ができなくなるのだ。
「いきなりで悪いが、君は誰かな」
「私ですか! 私のことですか! 私はですね……あれ、えっと」
「えっと?」
「あれ、誰でしたっけ、私って! 思い出せませんね~、あははっ!」
名前が思い出せないとは大変なはずだが、気にしてない様子だ。
どうやら彼女は想像を絶するレベルの楽観主義者のようで。
それはさておき、本人に聞かなくとも彼女の名前には心当たりがあった。
「烏丸茜さん、じゃないのか?」
「あっ、そうです、そうです! 気軽に茜って呼んでくださいね!!」
やはりか。一秋くんが言っていた、神隠しに遭ったという少女。
現に雨宮さんと同じ制服で、写真を取るためのカメラも所持している。
「……自分の名前を忘れるものなんでしょうか、先輩」
「今まで極限状態にあったからな、有りうるだろう」
「あっ、そういえば、もぐっ、お二人は調べ物を、むしゃむしゃ、してるみたいですけど、ぱくぱく、何して、ごっくん、るんですか?」
「……できたら、食べ終えてから話をしてね」
「ああ、失礼しました! それで、何でなんですか?」
「この場所から脱出する。そのための情報収集だ」
「あっ、なら、ここって黒羽団地ですっけ、ふさわしい資料がありますよ!」
自信満々の声に反応して、僕たち2人が烏丸さんの方を見る。
彼女は、いつの間にか手にあった黒い手帖を見せびらかすように振った。
「ここの住民が書いてたらしいです。怖いですよ~、ホラーですよ!」
「……君に言われても説得力がないな。とりあえず、見せてもらえないか」
僕たちだって情報が知りたい。
それを受けろうとして……思いっきり手が払い除けられた。
「ぶっぶー。何の見返りもなしに渡すと思いましたかぁ?」
「渡すも何も、それは君のものじゃないだろう……」
「今は私の手にあるんですから、私のです! 私的財産権ってやつです!」
「あなたが脱出する手助けになるけど?」
「それはそうなんですけど。でも、タダで、というのは嫌ですよね~。タダより怖いものはないと偉い人が言ってましたし!」
……無理矢理のようで、のらりくらりと流されている。
なんだろう、とても話しにくい。意識してやってるならただの意地悪な人間だが、無意識にやっていそうに見えるから恐ろしい。
「じゃあ、私たちは何をすればいいの?」
「その瞬間を待ってました! うーんと、そうですねぇ……」
嫌な笑みを浮かべる烏丸さんに、僕たちは身構える。
何が言い出すのかまったく読めないし、とんでもないことを言い出すんじゃないかという変な恐怖すらも感じていた。
「この、○本満足バーを全部頂いても構いませんよね!!?」
そして、勢い良く言われて、僕たちは言葉を失った。
確かに彼女には死活問題だろうが、しょうもない雰囲気だ。
そして、隣からは大げさなくらい大きな溜め息が聞こえてくる。
「……別に全部あげるわ。てか、そのポーチごと持っておいて」
「ほんとですか、嬉しいなぁ! でも中学生から財布をもらっても」
「わ・た・しは大学生よ! それと団地を出たらポーチは返して!!」
「はいはい、わかってますよ~」
そう言って、棒状の携帯食料にかぶりつく。本当に分かってるか。
……とりあえず、今は烏丸さんから投げられたものを見よう。
渡されたのは、ズボンのポケットに入るかどうか怪しいサイズの手帳。
どうやらスケジュール帳らしい。日毎に、こまめに内容が書き込まれて――
「これって、1979年のものじゃないか」
「本当ですね」
「そうなんですよ~。不思議ですよ、そんな昔の奴を残してるなんて!」
いや、これは昔の物を保存していたわけではないだろう。
紙質の劣化がないし、ペンのインクも掠れている形跡は見られなかった。
――まるで、ここ最近に書かれたような新しさ。
そのことから出現する1つの事実。辿り着くのに抵抗はなかった。
以前に、時間の流れが狂っていた異界に迷い込んだことがある。
物体に流れる時間が遅く、存在全てが足を止めていたような空間。
思い返してみると、あの現象の正体は未だに不明だった。どう考えても理解できないものはそうと受け入れると結論を出して、結局そのままだった。
つまり、こういった現象がそれ特有だという証明はなかった。即ち。
「もしかして、あの廃寺のように!」
「ああ、黒羽団地4号棟は1979年の時間で止まっている」
廃寺の現象がここで起きている。停止に近い、より強力なものとして。
そして、ここが1979年だとすれば、掲示板の張り紙にも説明ができる。
息を呑むような緊張感の中、手がかりとなるだろう日誌を読み進んでいく。
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