第17話 過ぎていく日常の怪異譚

 迎えたいようで迎えたくなかったような朝。

 気分と裏腹に、空には清々しく暑苦しい晴天が広がっていた。

 蝉はけたましく鳴き、空気はじめじめとして、日差しが肌を刺してくる。

 といっても、今日の気温は幾分か耐えられるくらいの暑さではあった。

 学校に来る前に見た天気予報によると、今週はまともな気温が続くらしい。

 ……来週には、茹だるような暑さに戻るようだが。


「はぁ……」


 憂鬱が形となって出た溜め息。異常な暑さに対して、でもあったが。

 やはり怪異に関する昨日の出来事と今日への不安が大きかった。

 あれが日常を侵食したままかもしれない不安。それが完全に拭えてないからだ。

 ――しかし、そんなものは大学の最寄り駅を出た時に吹き飛ばされた。


「おはよう、愛ちゃん! 今日も良い日になりそうだねぇ」

「……おはよう。今日も騒がしいわね」


 馴染みのある大学の通学路。見えてきたのは、生き生きとした人々。

 そして、聞こえてきたのは様々な色で満ち溢れているような、賑やかな会話で。

 誰一人として何かの“登場人物”ではなく、人間として生きている。

 何の他愛もない、いつも通りの光景に……僕は胸を撫で下ろしていた。




「えっ? 何であの場所に辿り着けたかって?」


 その日の午後。日常を取り戻した夕闇倶楽部の部室。

 何か作業をしてる千夏に、暇そうにスマホを眺めている遠乃。

 それに僕と、鼻歌交じりで四人分の紅茶を準備中の雫。その四人だけだった。


「あのお店のじじいが知ってたのよ」

「何で店主さんがそんなことを知ってたんだ?」

「さぁ? わかるわけないでしょ、あたしに」

「……そうか」


 結んだ髪先を弄りながらそう話す遠乃に、とりあえず納得した素振りを見せる。

 しかし、そうなると、店長さんが女性の居場所が知っていたのは何故だろうか。

 僕たちだって、あれを見つけられたのも複数の偶然が重なったおかげ。

 なのに店長さんは僕たちより早く知っていた。

 ……何者なのだろうか、あの人は。


「ま、もう怪異を暴けたんだから良いでしょ。終わり良ければ全て良しよ!」


 確かに遠乃の言う通りで、あの魔本の影響は完全に消滅していた。

 狂花月夜という存在、その痕跡の全てを抹消されているらしい。

 といっても、記憶が完全に消えていなかったのか、彼女に関する噂話をする人も確認できた。

 しかし、それは本当に噂程度のもの。七十五日を待たずに消えていくだろう。


「遠乃先輩、怪異って何の話でしょうか?」

「……ああ、こっちの話よ。んで、あんたは何してんの?」

「この付近で野良犬や野良猫の死骸が大量に発見されたんですよ」

「ふーん、可哀想ね」


 そして、千夏は怪異の記憶を失った人間の部類らしい。

 今はあの小動物連続殺傷事件が関心事らしく、大量の資料と共に頑張っている。

 ……そういえば、あの女性は逃げた後に何処へ向かったんだろうか。

 事件として受理され警察が動く以上、日を待たずに逮捕されるだろうけど……。

 逃げた女性が持っていた魔本。ほとんど破り捨てたとはいえ、何枚かはあった。

 そう思った時、僕の心の中に、何か黒く濁った感情が芽生え始めていた。


「なぁ、遠乃」

「何よ」


 素っ気なく返事をする遠乃に、僕は言葉を続ける。


「怖く、なかったのか? みんなが変わっていって」


 名状しがたいような狂気、創造された理想の主人公。

 何より恐怖なのは彼女が作り上げていた世界そのもの。

 全てが空虚となって、そこに生きる全ての人格が変えられていく。

 そして、それを怪異だと認識できない。気づいた時には飲み込まれている。

 少し間違えていたら、遠乃や雫、僕だって怪異に支配されていたかもしれない。

 もしも、そのような怪異に遭遇したら。――僕たちはどうすれば良いのか。


「ふーん、誠也も変なことで悩むのねぇ」

「変ってなんだよ」


 こっちは真剣に悩んでるというのに。

 しかし、遠乃は僕の心中なんて気にすることなく軽い様子で向き直ってきた。


「決まってるじゃない。世界が信じられなくても、自分を信じればいいのよ!」


 ――自分を信じればいい、か。

 堂々とした幼馴染の言葉。無茶苦茶だけど何かを思わす言葉。

 ……まさか、遠乃から学ぶことがあるなんてな。

 我以外皆我師也、とはよく言ったもの。そして、やるべきことが増えた。


「だから悩まずに……って、何してんの? 急に鞄から物を取り出して」

「今回の怪異の考察だ。書いてなかったからな」

「そういえば。でも、あれ記録に残すの? みんな覚えてないのに」


 言葉は返さず、力強く頷いた。

 むしろ記憶に残っている内にするべきだろう。僕が忘れてしまう前に。

 衝動のまま、僕は文章を書き殴るように連ねていく。



 ――日常が崩れてしまったら、どうすればいいか。

 日常を構成するあらゆる物が、信用できなくなったらどうすればいいか。

 答えは決まっている。いや、元々決まっていたというのが正しい。

 仮に世界が変わったとしても、自分が信じるもの全て疑わしきものだとしても。

 その何かを認識する『自分そのもの』は、確実に存在しているはずだ。

 あとはそれに従えば良い。それで失敗することも、過ちを犯すことはある。

 だけど“自分”として生きられる。“自分だけの物語”を楽しむことができる。

 そして、それは怪異という“理不尽”を明らかにするためにも同じなのだろう――



「失礼するわ」


 ちょうど僕がそれを書き終えた時、外から凛とした声が聞こえてくる。

 目を向けると卯月の姿。彼女がここに来るなんて珍しいな。


「あっ! 文系根暗女!」

「馬鹿な言葉しか喋ることができない口を閉じなさい、猿女」

「だ・れ・が・さ・る・よ!! そっちこそ本を読むしか能がないくせに!!」

「……怪異を暴く、とか宣ってる愚か者よりは勝ってると思うけど?」

「なんですってぇ~!」


 開口一番、飛び交う雑言に漂う険悪な雰囲気。

 このまま放置しておくと、喧嘩を初めそうな勢いの二人。


「それで何の用だ、卯月」


そうなると、更なる混沌を呼びかねないので話題を強引に持っていく。

幸いなことに卯月はすぐに僕に関心を向け、遠乃も渋々だが引き下がってくれた。

しかし、彼女がここに来てまで伝えてくる用なんてあったか――


「青原くん。あなたに頼んでいた短編なのだけど」

「……あっ」


 ――あった。そして、うっかり忘れてた。

そうだ、あの怪異に振り回されてたから抜け落ちていたんだった!


「まさか何もしてなかった、とは言わないでしょうね?」

「は、ははっ」


 戸惑う僕の心を見透かす、そんな冷たい笑み。

 卯月の言う通りだった。僕は先日見てもらってから何もしてない。

 指摘を受けた、細かい描写と起承転結におきる転の勢いが訂正できてない。

 ……額に汗が滲んでくる。おかしいな、この部屋には冷房があるというのに。


「あ、誠也。そういや、来週の放送で使う台本は出来てんの?」

「……あっ」


 喧嘩する仲と思えない、的確な遠乃の追撃。

 そうだ、僕は放送のための脚本も任されてたんだ。その締切期日は


「放送クラブだっけ、そこに提出すんの明後日でしょ。前期最終日の」


 明後日。それは作品を提出する日と同じだった。

 つまり、だ。僕は明後日までに2つの課題を終わらせなければならない。


「……嘘だ。こんな現実、信じたくない」

「残念だけど、これは現実よ。頑張ってね、誠也?」


 僕の肩にぽん、と片手を置いてにやにや笑う遠乃。

 こいつ、他人事だと思いやがって……自業自得とはいえ腹立たしい。


「ふっふーん。それでも夕闇倶楽部は休ませないわよ。夏季休暇中もね!」

「どこぞの飲食チェーン店も驚きのブラックっぷりですね。手当も無いですし」

「まあ、できてないなら私が手伝ってあげるわよ。……そ、その、付きっきりで」

「えっ!? あ、じゃ、じゃあ私は珈琲を入れるよ! つ、付きっきりで!!」

「いや、良いよ。……1人でやるから」


 低い声で二人にそう告げると、僕は机に向かう。

 流石に自分の過失で人のお世話になるわけにはいかないしな。

 しかし、量的にも質的にも労力のいる課題。……終わるだろうか。


「あと私たち優先ね。どうせ文芸同好会、1週間遅れても気にしないでしょ」

「ふざけないで。こっちはスケジュールが崖っぷちなのよ!!」

「あたしたちだって! あー、どこかに放送のための面白い怪奇物語書ける人いればね~、誠也の負担も減るんだけどね~、まあいないわよね~」

「あら、それなりに優秀な物書きがここにいるわ。それくらい書いてやるわよ!」

「言ったわね? なら書きなさいよ、もし面白かったら誠也を1日貸すわ!」

「……わかったわ。あなたの心臓を破壊するような怖い話を考えてくるわよ!」

「さりげなく誠くんが売られてる……」

「気にしたら負けですよ、雫先輩」


 再び戻ってきた喧騒。集中したいから静かにしてくれ。

 だが、これも日常が戻ってこなかったら――起こらなかった事で。

 そう考えたら、この困難も乗り越えられる……ような気はした。


「…………」


 ふと、現実逃避も兼ねて窓の外に目を向ける。

 地上を照らす太陽に巨大な入道雲、いたって普通の青空が広がっていた。

 おそらく明日も同じような空があるんだろう。そんなことを呑気に思った。 

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