だからあたしだったんだね
東海道そば
だからあたしだったんだね
どうしてあたしは、こんなに辛いのだろう。
高校二年生になってからできた友達の美佳に、日暮アサヒは思いきって言ってみた。
「ねえ、美佳。申し訳ないんだけど、ちょっとお金貸してくれない?」
「マジで? 何? お金ないの?」
「ちょっと今月きつくて…できれば二万とか、いける?」
「は? 二万って、それ何か高いもの買う気じゃん」
「ははは。ごめんバレた? やっぱムリだよねー」
必死に冗談めかすように笑って、アサヒは話を打ち切った。
美佳は少しも笑っていない。
アサヒは思う。また一人、友達減ったかも。仕方ないけど。
夕方のアルバイトまではまだ時間があるので、アサヒは一度家に帰ることにした。
学校から家までの道のりは自転車に乗って十五分ほどで、途中の長い鉄橋から見える景色がアサヒは好きだった。梅雨の傘立てのように並ぶビル群の隙間から、ちょうど空が広く見える場所が橋の中央付近にあった。
自転車で通り過ぎながら、アサヒはそこにある空を見る。
青い色は見えるが、薄く曇っている。
最近、きれいな青空を見ていないことに、アサヒは気付く。ちょっと昔は、もっと抜群に文句なしの晴天って、あった気がする。最近は全然見ない。環境汚染のせい?
アサヒは橋を渡り切った。
洋食料理店「グリル日暮」に到着し、入り口に掛けられた準備中の札を見て、アサヒは気が重くなった。
店の裏手に自転車を停めて、通学カバンから取り出した合鍵で玄関の扉を開けた。今日も母親は出かけているようだった。パートのおばさんもおらず、誰もいない家に帰ってきたアサヒは自分の部屋に行き、制服から着替えた。上下ねずみ色のスウェットは中学生の頃から着ている。
ベッドに寝ころんだ。ここ数か月で部屋の中からあらゆる物が減った。アサヒは次々に要らないものを売ったり捨てたりした。
アサヒは高校を卒業したら、調理学校に入学して同時に一人暮らしを始めるつもりだった。節約しながらアルバイトをして、自分の力で生活しようと考えていた。
よく目につく、天井のシミを見た。そのシミは小さいがはっきりとしていて、アサヒが幼い頃からそこにあった。そのシミを見ると、アサヒはこの家であった色々なことを思い出す。
昔、アサヒは店でせわしなく働く両親を見るのが好きだった。特に夏休みの間は、ランチの時間もディナーの時間も、一日中、店の様子を見ているのが楽しかった。
父親が厨房に立ち、ほとんどの料理を一人で作っていた。次から次へと様々な食材を手にし、ペンでスケッチするように素早く包丁を動かしていた。グリルやコンロを自由自在に操る父親の姿は、コクピットから宇宙船を動かす優秀な操縦士のようだった。大きくなったらお父さんに料理を教えてもらおうと思っていたのに。
お母さんも当時は、お客さんの席と厨房を行ったり来たりして、いつも楽しそうに働いていた。たまに厨房に入ってお父さんを手伝うときに短く何かを話して、クスッと笑ったりしていた。
店に来るお客さんは、近所に住む常連さんが多かった。料理も間違いなく美味しかったけど、みんなお父さんとお母さんのいきいきとした働きぶりが好きだったんじゃないかと、アサヒは思った。料理を食べ終えて、レジで会計を済ませて店を出ていくときのお客さんたちの笑顔が、本当に輝いているようにいつも見えたのを、アサヒはしっかりと覚えている。心の奥底の、さらに深い部分に、一生取れない火傷みたいに残っている。
気がつくと、電気を点けないままの部屋は真っ暗になっていた。家に一人でいることにアサヒはすっかり慣れていた。そろそろ夕飯時だが、店の入り口には準備中の札が掛かったままだ。
居間でアルバイトに出かける準備をしていると、母親が帰ってきた。
「アサヒまだいたの? ごはん食べた?」
「まだ。買って休憩のときに食べる」
「これ、景品のカップラーメンあるけど、食べる?」
今日の戦利品だ。アサヒは母親を気遣うように言った。
「今日はそれだけ?」
「ごめんね。全然いい台で打てなくて」
バイトに出勤しなければいけない時間まではまだ少しあったが、アサヒはとにかく家を出なければいけない気がした。
アサヒの頭には、母親の口から聞きたくない言葉が浮かんでいた。
「どうだった?」
「何が?」
思わずアサヒは母親から目をそらした。
「お友達に、お金借りられた?」
聞こえなかったふフリをしてみたが、母親は続けた。
「ダメだったの? 何で?」
「知らないよ」
「何で借りられなかったの?」
「え? そんなの、知らないよ」
急いでカバンを掴み、暗い廊下を歩いてアサヒは玄関へ向かう。
「いってきます」を言うつもりはない
背中に母親の言葉が当たる。その感触はひどく冷たい。
「ねえ他のお友達には借りられそう? 少しでもいいんだけど」
振り向けば、涙ぐんでいることがバレてしまう。そうなると余計ややこしくなるからいやだ。アサヒは玄関のドアを開けた。自転車に乗って、ずっと閉まったままの「グリル日暮」の看板の前を急いで通り過ぎた。
今日も明日も母は、店を開ける気がないらしい。
日没後の風を正面から受け、アサヒは思う。
あの頃お店に溢れていた幸せは、もう二度と戻ってこないかもしれない。
でも……少しでもお金が作れたら、お母さんも、お店も、少しはあの頃みたいにまたなるのかな?
夜の暗闇に潜む希望と疑いが、一緒に纏わりついてくるようだった。振り切ろうとして、アサヒはペダルを強く踏んだ。
二時間目の授業が終わり、休み時間になった。
アサヒは自分の席から、教室の中をひそかに見回し、観察した。
三、四人のグループになって何やら話が盛り上がっている女子グループが教室の前に1つ、もう1つ男子グループが後ろ側のドアの近くに固まっている。それ以外は他のクラスに行ったり、廊下でふらふらと立ち話をしているようだった。残りの生徒は一対一で話していたり、寝たフリをしながら女子のスカートのあたりを見ていたり、次の授業の予習のためか、イヤホンをつけて教科書とノートに向かっている生徒もいる。
アサヒはある事実に気付いていたが、認めたくなかったので、無視しようとしていた。
こんなにも教室を入念に観察するのは、自分の現在地を確かめるためだ。
直感的に、アサヒは想像した。
立派な大輪の花を晴天に向かって開くひまわり畑の中に、関係ない雑草がいくつか生えてしまっている。むしるほどの意味もない雑草が。
アサヒの席の周りでも、何人かの女子がおしゃべりをしている。アサヒと同じ中学校でバレー部でも一緒だった遥もいる。遥は今、新しい友達と二人で話している。アサヒの周りにいる女子たちのほとんどが、アサヒに背を向けている。体だけアサヒの方を向いている女子も、アサヒとは目が合わない。
アサヒは誰にも聞こえない声で尋ねた。
いま話をしていないだけで、無視されてることにはならないよね?
さっき終わったばかりの古文の教科書とノートに視線を落とす。自分で書いた文字をひたすら目で追ってみた。そうしているしかなかったので、頭の中になるべく集中することにした。
去年まで同じクラスだった坂下のことを考えた。
中学校から野球をやっていて、高校でも野球部に入ればよかったのに帰宅部になり、授業が終わると足早に自転車で下校していた。
最初に話しかけたのは、運動会のときだ。クラス対抗のリレーで、あたしの次が坂下くんだった。なつかしい。
アサヒは坂下と仲良くなれたらいいと思った。恋人同士になりたいと思ったが、自分にはそれは無理だと思った。
坂下と恋仲になるには、自分はあまりにも足りない部分が多いとアサヒは感じた。
あたしに足りないのはお金と安定した家庭環境と、その他いろいろだ。
坂下から意識を遠ざけるように、アサヒは教室の中に視線を戻す。
先ほどと状況は変わらない。背を向けたままおしゃべりを繰り広げている女子生徒たちに、アサヒは囲まれて、ひとりで席に座っていた。
こんな感じになったのは、いつから?
思い出してみても正確にいつから始まったのかは分からなかったが、その代わりに、アサヒは薄々気付いていた事実をふと直視した。
もう、かなり広まってるんだ。お金貸してって、希子とか、美佳とか遥とかに言ったこと。
そういえば、希子に一万円借りてまだ返せてなかった。
思い出してアサヒは息がしづらくなり、そのまま机に顔を伏せた。泣いていると勘違いされたくなかったので、すぐに顔を上げ、カバンから出したスマホをいじった。意味もなくLINEの友だちリストを上から下までスクロールしたが、すぐにその場で立ち上がり、どこかへ走って逃げてしまいたいほど、周りの視線が気になった。
誰かがあたしの異常に注目してたりしないよね?
あたしはイヤな風に目立っていないよね?
物凄い力と速さでぶつかってきた津波が、今度は反対方向にアサヒを引っ張った。
こんなに近くにいるのに、誰とも目が合わないのはやっぱりおかしくない?
これじゃみんなにはあたしが見えないみたいじゃん。
透明人間でもあるまいし。
いや、そうか……とアサヒは妙に納得してしまった。
あたしはきっと透明人間になったんだね。
呼吸が浅くなり、アサヒはゆっくりと窒息していくような感覚になった。
その日アサヒは、透明人間になったつもりで残りの時間を過ごした。
そう考えていれば、誰とも会話せずに過ごすことも納得できる気がした。放課後になってから、アサヒにはわかった。こういう態度は良くないのかもしれない。あたしの方からも誰にも話しかけないでいると、きっとあたしはいじめられてる子みたいに見えるはずだから、自分からそういうイメージを作っちゃうことになる。しかし、アサヒは次の日も同じだった。嫌いな人から話しかけられたら、普通は嫌なはずだから、あたしの方から話しかけるなんて、怖くてできない。休み時間に、アサヒは女子トイレに逃げこむ。本当は、あたしだって、みんなに嫌われたくないんだよ。個室の鍵を閉めて、アサヒは少し泣いた。
「この前のスカートどうだった?」
アルバイト先の先輩である菜々は、以前、何の前触れもなくアサヒに手作りのスカートをあげた。
「家で履いたら、やっぱりすごく可愛かったよ。サイズもぴったりだったし。ありがとうね」
「アサヒちゃん、いつも同じ服着てるんだもん。たまには服にもお金使いなよ」
「ふふふ。ありがとう。なんか昔からオシャレに疎いんだよね」
菜々の笑顔が見られて、アサヒは嬉しくなった。
「菜々ちゃんって、やっぱり将来はデザイナーとかになるために、専門で頑張ってるの?」
自分の本心に近いことを話し始める前の菜々の恥ずかしそうな笑顔が、アサヒは憧れるくらいに好きだった。
「昔から洋服つくるの好きだったから」
「確かおばあちゃんが先生なんだよね?」
「町の小さい洋裁教室のね」
アサヒは、眼鏡をかけたやさしいおばあさんにミシンの使い方を教わる、幼い頃の菜々を想像した。今までに見せてもらった菜々の作った服は、どこか懐かしい柄とデザインがいずれにも共通していた。
「でも実は専門ってすごいお金かかるから、学校にいる時間より、バイトの時間の方が長くなってるかも」
菜々は笑って言うが、アサヒは同じくらいには笑えなかった。
アルバイトからの帰り道も、アサヒは菜々のことを考えた。
大好きなおばあさんに教えてもらった洋服づくりが、もらった相手を喜ばせたり、それ自体を職業にできるとしたら、どんなに嬉しくなれるだろう。アサヒは羨ましく思った。
菜々ちゃんは服飾の専門に通っている。学費は両親が払っているのだろう。洋裁教室をやっているくらいの家系だから、両親も別に止めたりはしなかったはず。
あたしも菜々ちゃんみたいになれるだろうか?
夜闇に埋もれた「グリル日暮」の入口が薄ぼんやりと見えた。家に着くと母親は寝ていたので、できるだけ静かにお風呂に入った。
一時間目の後に、これまでほとんど話したことがない美紀子にアサヒは頼んでみたが、あっさり断られた。丁寧に、かつ必要以上に重たい口調にならないように気を付けた。美紀子は冷たく笑って、無理、とそれ以上会話をすることすら拒否した。
昼休みにコンビニ弁当を食べながら、アサヒは美紀子のことを考えた。
美紀子は完全にあたしのこと嫌いみたいだった。
あたしはもう、友人関係を諦めるしかないの?
お金なんかのせいで友達いなくなるなんて、やっぱり嫌だ。でも、そのお金があれば、もっといい方向に進めるのかもしれない。
お金なんていっそのこと、盗んでしまえばいいのかな?
アサヒは見つけた。二つ前の机の脇に掛けられていた、だらしなく開けっ放しにされたカバンと、その口からのぞく分厚い二つ折りの財布が見えた。
でも、とアサヒは気付く。
アサヒにはそれを成功させる自信が、どうしても持てなかった。
一人で黙々と食べるので、アサヒ昼食をすぐ食べ終えてしまう。
黒板の上の時計に視線を向けた。
昼休みが終わるまで、あと三十分もある。
その日の朝に配られた小冊子に、夏休みの読書感想文が優秀作品として載っていた。アサヒは何となくそれを読んだ。太宰治の「晩年」を読んで書かれた感想文だった。同じクラスの橋本清が書いたらしい。ほとんど会話をした記憶は無いが、根暗な印象はあった。
そういえばこの前、休み時間に寝たフリしながら女子のスカート見てたな。そう思い出しながらアサヒは感想文を読んだ。
そこに書かれた内容によると、橋本は常に正しく清い人間でありたいと思っているらしいのだが、この夏「晩年」を読んで、太宰と同じように自分も割と裕福な家庭に生まれたこともあり、そこに書かれた言葉や思想に深く共感したらしい。自分という人間にこびりついている汚らしさ、いやらしさを思い知らされ、さらに今度は自分の汚らしさに気づくことができたそれが出来ない他の人よりもよっぽど聡明なのだと感じ、そうやって優越感に浸る態度に気分が悪くなり、そんな正しい拒否反応を示すことができた自分を誇らしく思い、またさらに……と続く苦しみを「太宰スパイラル」と呼ぶことにしたらしい。
だから何なんだ? アサヒは眉をひそめた。
ふと目を上げると、あと数分で昼休みが終わる時間だった。
菜々と同じ時間にアルバイトのシフトが終わった日、アサヒは菜々と駅まで一緒に歩いた。
「アサヒちゃん、そのスカート履いてくれてるね」
「うん。だってお店で売ってるのよりオシャレなんだもん」
菜々の嬉しそうな顔をもっと見たかったが、強く吹いた風にアサヒは目を細めた。
「アサヒちゃん、高校出たらどうするの?」
「うーん……まだ考えてないけど、一人暮らししたいかな」
「アサヒちゃんの家、洋食屋さんだったんでしょ?」
今もそうだよ、とはあえて言い返さない。
「そう。だからちょっと調理学校に行きたいかも」
「一人暮らしで専門通うの、いいね。あたしの友だちにもそういう人いるよ」
「そうなの!?」
思わず声が大きくなった。菜々は驚いていたが、すぐに微笑んで続けた。
「なんかね、わたしが勝手に唱えてる説なんだけど、何かを諦めずに頑張ってる人の周りには、別の何かを諦めずに頑張ってる人が集まってくる気がするんだけど、どう思う?」
「類は友を呼ぶ、ってやつ?」
「ちょっと違くて、例えばわたしとアサヒちゃんって、別に趣味とか似てるわけじゃないでしょ?」
そうかな?
「でも、こうやって仲良くなってるのは、やっぱり二人とも、何かを諦めずに頑張ってるところが同じだからな気がする」
そうかな? と思い、続けてアサヒは考える。あたしは何を諦めずに頑張ってるのだろうか。調理師になるために頑張っていることは、今のところ特に思い当たらない。
「なるほどね。深いね。菜々ちゃんが言うと説得力ある気がする」
アサヒにはそう応えるのが精一杯だった。
それから菜々は別の話題に変えた。それに応じてアサヒも会話を続けたが、どこか上の空で、楽しげに話す菜々の声をぼんやりと聞いていた。
じゃあおつかれ、またね。そう言って菜々と別れた後で、家に帰る前にコンビニのトイレに入り、アサヒは鏡を見た。きっと別れ際の作り笑いもバレてたな。少しずつ後悔が膨れていくのを感じながら、アサヒは家までの道のりを帰った。
家に着いてすぐにアサヒはシャワーを浴びた。シャンプーが残りわずかになっている。スーパーで売ってる一番安いやつをまた買ってこないと。できれば買わずに、お母さんがパチンコの景品でとってきてくれるといいのだけど。
コンビニで買ったカップラーメンを、アサヒは居間で食べた。テレビは点けてあるが、アサヒはスマホに集中している。同級生と作ったLINEグループはここ最近誰も使っていない。きっとあたしを抜きにした新しいグループが作られたのだろう。アサヒはそのことに動じないようにした。どうせあと一年と半年くらいで卒業するんだ。その先には、学校の同級生とも、この家とも、お母さんとも、解放された自由な人生が待っているんだ。
「アサヒ」
お母さんだ。
「どうだった? 学校のお友達から、お金借りられた?」
またその話だ。アサヒはできるだけやさしい口調で答えた。
「無理だったよ。これ以上頼んだら友達なくしそうだよ」
「そう、ごめんね。他の友だちはどう?」
「もう何人も聞いてるよ。あたしちょっといじめられてるかも」
母親は正座をしてアサヒと話している。背中を向けてカップラーメンを食べているアサヒには母親の姿は見えなかったが、固いフローリングの上でわざと「かわいそうな人」を演出するのが、母親のいつものやり口だったが、アサヒは苛立った。
「じゃあ、アルバイトの方のお友達は?」
アサヒは箸を置いた。なるべく冷静になろうとした。
「前も聞いたかもしれないけど、何でそんなにお金が要るの?」
「お家のローンとか、お店に掛かるお金とか、色々あるでしょ」
「お店、やってないじゃん」
「やってなくてもお金かかるのよ。オーブンとか…」
「何? オープンって。いつもお店閉まってるじゃん」
「違う。オープンじゃなくてオーブンって言ったの。全部リースで借りてるから使わなくてもお金とられるのよ」
「もっと活舌よく喋ってよ」
「アサヒが聞き間違えたんでしょ? もっと注意して聞いて」
アサヒは黙ったまま箸を取り、スープの底に残っているわずかな麺を探して食べた。
母親はしつこく、正座のままを続けた。
「お父さんからの養育費だけじゃ、足りないの?」
「うん……そうなのよねぇ」
母親の言葉尻がなんとなく他人事のように聞こえた。
「それってお母さんがパチンコに使っちゃうからじゃないの?」
アサヒはつい言ってしまった。
それを言うと母親が怒ることを、アサヒは分かっていた。
「だからお金を増やすために、仕方なく始めたんでしょ? お店だってお父さんがいた頃みたいにもうお客さん来ないし、あなただって大学いかせたいし、お母さんだって老後のこともあるし、何とかしなくちゃって毎日思ってるんだよ?」
「あたし、大学にはいかないよ。それにお母さんに頼ろうなんて思ってないし」
「アサヒ……」
アサヒは悔しさが目から滲み出そうだった。
「なんでうちは貧乏なの?」
母親は何も答えなかった。アサヒも、母親からの答えを期待してはいなかった。
アサヒは今の家庭環境がどのような経緯から生まれたのかを、十分に理解していた。
昔はあんなに幸せで、お客さんもいっぱい来ていたお店の経営がある時からだんだん厳しくなっていった。でもその頃から、お父さんとお母さんがケンカしているところをよく見るようになって、離婚することになった時は、あたしは何故か特に悲しくなかったけど、それより何だか恥ずかしい気持ちが強くて、学校では誰にも知られちゃいけないなって思ったことぐらいしか印象に残っていない。しばらくはお母さんが知り合いのおばさんにも手伝ってもらってお店を開けてたんだけど、お父さんがほとんどのメニューを作ってたから、残されたレシピと記憶だけを頼りに作られた料理はあんまり美味しくなかった。なんでだろう? お母さんはあんまりお店をやりたがらなくなって、手伝ってくれていたおばさんの影響でパチンコにはまって、お金を無駄使いしたり、たまに増やしたりする日々が続いて、それで最近あたしにお金借りようとしたり、友達からお金借りさせようとしたりしてくる。
一旦落ち着くことにした。感情に頭を埋め尽くされて思考が停止してしまう自分の性質を、その鏡写しのような母親をいつも目の当たりにすることで、少しは対処できるようになっていた。ああいう風になってはいけない。ああいう風になっては、何もうまくいかない。深く呼吸をするように、アサヒはその言葉を繰り返した。
スープを飲み干し、キッチンのゴミ箱に箸と空のカップを捨てた。テーブルにこぼれた水滴をティッシュで拭き取ってから、ようやくアサヒは冷静になれた。
アサヒは母親に聞いた。
「お金のこと、もしなんとかなったら、またお店やれるかな?」
「あたしもそうしたいのよ」
「本当?」
「できたらまた、お店やりたい」
その母親の言葉を聞いて、アサヒは迷子が母親を見つけた時のように嬉しくなった。
「わかったよ、お母さん」
アサヒははっきりと言った。
「明日、学校で何とかしてみるよ」
冷たいフローリングの上で正座をしたまま俯いている母親の姿を、アサヒは見たくなかったので、またスマホをしばらくいじった。
翌日は珍しく、母親が店の仕込みをしていた。お店を開けるかはわからない。仕込みだけして結局お店を開けなかったことは、過去に何回もあったからだ。
今朝は仕込みのついでに、母親にお弁当を作ってもらえた。四角い弁当箱に詰め込まれたおかずとごはん。ふわっと舞い上がるその香りを、アサヒは久しぶりに嗅いだ。なつかしい箸で小さなハンバーグをつまんで、口に入れた。奥歯で噛みしめた。かつて父親が作ってくれたあの味が、ほんの少しだけ混じっていた。一瞬、それがアサヒは嬉しかったが、同時に微かな悔しさが染み出すのが不思議だった。
昼食を食べ終えたアサヒは、カバンから小冊子をつかんで、女子トイレに向かった。個室に入り、制服のスカートを下ろさずに便座に腰かけた。
橋本清の読書感想文を、その要点をまとめるように読んだ。女子トイレから出る前に鏡の前で立ち止まり、前髪を整えた。
アサヒは教室へ戻り、自分の席には戻らず、一人で席に座っている橋本清のところへ歩いて向かった
アサヒの様子に気がついたのか、橋本清は寝たフリをするように慌てて机に突っ伏した。
「橋本くん、ねえねえ」
二の腕のあたりを指で突っついた。
橋本清が女子に声を掛けられている様子が珍しいのか、同級生たちはこそこそと様子を窺っていたが、アサヒは気にしなかった。
橋本清がゆっくりと顔を上げる。少し眠たそうにしているのは何をごまかすためなんだろう? 少し不思議に思ったが、アサヒは無視した。
「何の用ですか?」
「あの読書感想文、橋本くんが書いたの?」
何の話をしているのか分からない、といったフリをする橋本清が面倒くさくなって、アサヒは小冊子を見せた。
「ああ、そういえば書きましたけど」
「これってさ、本当に橋本くんが書いたの?」
今度は本当に、何を言っているのか分からないといった顔になった。
「これってさ、ネットで拾ってきた誰かの文章だったりするんじゃないの?」
「違うよ」
「本当に? だってこんな難しい言葉とか何で知ってるの?」
「知ってるからだよ。前になにかの本で読んで。ていうかそんなに言うほど難しい言葉じゃないから」
橋本清が少し怒っているのが分かる。物静かそうな今までのイメージとは違い、アサヒは意外に思った。
「そっか。本当に橋本くんが書いたんだ」
「そうだって言ってるじゃん」
「それなら良かった」
「何で?」
「あたしこの文章読んで、感動したから。こんなこと考えてる人が他にもいるんだなあ、って。何とも言えない気持ちになったの」
口を開けたまま、橋本清は、へー、と情けない声を漏らした。
「もしよかったら今度、おすすめの本とか教えてよ。橋本くんとは趣味が合いそうだから。あと一応、LINE交換しよ」
近くで様子を窺っていた男子のグループがどよめいた。
アルバイトから帰宅すると、母親が居間でテレビを見ていた。
「アサヒ、お金どう? 何とかなりそう?」
「うん。まだ分かんないけど、学校の友だちからイケるかも」
その言葉を聞いて安心した様子の母親に、アサヒは久しぶりに気分が良くなった。
自分の部屋のベッドに仰向けに寝転んだ。そこから見える天井のシミに向かって、アサヒは手を伸ばしてみた。
土曜日の午前中から、アサヒは橋本清と一緒に、駅前の大きな書店に向かった。
「日暮さん、どんな本が好きなんですか?」
「何でも読むよ。あと何で敬語なの?」
「あ、ごめん。なんとなく」
橋本清が勧める本は、文庫になっている小説ばかりだったので、アサヒは安心した。たかが小説に千円以上も払いたくなかった。
ランチの店はアサヒが決めた。バイトの給料が入ったら行ってみたいと思っていた、まだ開店して間もないイタリアンの店に入った。
「日暮さん、そんなに本が好きなイメージ無かったな」
「そう? 人は見かけによらないって本当なんだね。今日買った本で、橋本くん的にはどれが一番オススメ?」
橋本清はじっくりと考え始めた。その内に注文したパスタが来てしまった。アサヒは我慢できなかったので、とりあえず食べることにした。
「ん! おいしい!」
「夏目漱石の『草枕』かな」
「何が?」
「いや、一番のオススメ」
「ああ、じゃあそれから読んでみよう」
パスタを食べ終えると、セットのデザートとコーヒーが運ばれてきた。
向かい合って座っている橋本清を、アサヒは改めて観察した。中学生みたいなパーカーを着ている。到底オシャレとは言えないが、何か頑張ってオシャレに見せようとしている感じを受ける。何となく周りの目が気になり出したので、本題に入ることにした。
「ねえ、橋本くん」
「何ですか?」
「また敬語じゃん」
「あれ? いま、敬語だった?」
橋本清が何かを警戒し、身構えているのが分かった。アサヒはなるべく何気ない口調で話した。
「あのね、ちょっと相談があるんだけど、いいかな?」
「どんな相談なの?」
コーヒーを一口すすった。アサヒは、その動作が余計に橋本清を警戒させるかもしれないと、アサヒは後悔したが、そのまま話を始めた。
「橋本くんって彼女いる?」
「いや、今はいないけど?」
「今までは?」
「今までもちゃんとした彼女はいないかな」
「あたしで童貞、捨てない?」
引きつった顔でアサヒを見たあと、橋本清は他の客に聞こえなかったか心配するように、周囲に視線を向けた。
橋本清は茶化すように笑いながら訊き返した。
「え? どういうこと?」
「どういうことって……さすがにそれくらいは分からないかな」
アサヒはコーヒーに添えられたティースプーンをつまみ、置き直したりしながら、橋本清の言葉を待つことにした。
橋元清は少しずつ冷静さを取り戻し、少し腰を浮かせて座り直した。それが余裕を表す動作のようだった。
「それって、もしかすると、告白、ですか?」
「まあそう受け取ってもらっても構わないけど、ちょっと違うかな」
橋元清は黙った。無言でアサヒに補足を求めているようだった。
「だからあたしが、橋本くんの童貞を処理してあげるよってこと」
「余計わかりづらい言い方じゃん」
橋元清が馬鹿にするように笑ったが、アサヒは耐えて続けた。
「じゃあ、はっきり言うね。いまどき高校二年生で童貞はヤバいよ?」
「そうかな? 結構いるんじゃないの? 大学生になって初めてそういうことする人も」
「それはイケメンに限りだよ。橋本くんみたいなタイプは若さの勢いで済ませておかないとマジでタイミング逃すと思う」
アサヒは、いつか読んだファッション誌の記事を思い出した。合間に一口飲んだコーヒーが思ったより熱かったが、その温度を舌で受けとめて、アサヒは続けた。
「それに、女子高生とそういうことできるのって今だけなんだよ? 大人になったら条令違反で社会的にアウトだよ」
「ちょっと待って。何で、そんなに言ってくるの?」
橋本清はもう笑っていなかった。目の前の橋を渡ってもいいのかどうか、よく確かめながら言葉を吐いたようにアサヒには見えた。
「橋本くんのことが好きだからだよ」
完全な沈黙のあとに、橋本清がそっと置くように、本当に? と訊いた。
「うん。前からいいなって思ってて、でもあたし、高校卒業したらどっか遠いところに引越す予定だから、今は恋人作らないようにしてるのね。で、それだったらせめてそういうことだけでも、最後に橋本くんとしておきたいなって思ったんだけど……」
橋本清は黙って聞いていた。アサヒは続けた。
「でもそれで橋本くんも、あたしのこと好きになっちゃったりしたら、ややこしいじゃん? 遠距離恋愛なんて、あたし続ける自信無いし。だから、橋本くんがもし良ければ、あたしにお金払って、あたしとしない? タダより怖いものは無いって言うでしょ?」
これでいいのだ。間違ってない。アサヒは自分に言い聞かせた。
口を閉ざし、アサヒの胸のあたりに視線を落とし、何かを迷っているような橋本清を、アサヒはじっと待った。対面して座る橋本清が、いざ事に及ぶときにはどんな風に変わるのかを想像した。カラフルで少し派手な店の内装がやけに目についた。奥の厨房でホールの若い女と厨房に立つ男が目配せして笑ったのが見えた。
いつの間にか早くなっていた鼓動に合わせるように、体中がほんの僅かに脈打って揺れた。世界ってこんな風だったっけ? アサヒの問いに答えてくれる人はいなかった。
「日暮さん」
「はい」
「日暮さんが、多分正直に、言ってくれたから俺も言うけど、俺童貞なんだよ」
わかってるよ。めんどくさいな。アサヒは思った。
「だから、日暮さんが今言ったこと、確かにほとんど当たってるし、俺だってもちろん男だから、そういう気持ちがあるんだけど、俺、なんかやっぱりいやだよ」
「何で?」
「何で、って?」
橋本清の目はアサヒを睨みつけた。怒ったの? アサヒは戸惑った。なにか気に障ることを言っただろうか? お金でそういう提案をされて、馬鹿にされたと感じたから? 少なくともこのタイミングで急に怒るのはちょっと意味が分からない。それに橋本清の様子を見る限り、怒っているというよりも、緊張しているように見える。
「ああ、ゴメン。日暮さん。いや、多分はっきりとは説明できないけど、とにかく俺、そういうことはしたくない。しかも、これも多分だけど、日暮さん何か隠してない?」
アサヒは、橋本清の次の言葉を待った。
「間違ってたらゴメン。でも、日暮さん、もしかして借金とかある?」
アサヒは呆然とした。女子と接点がありそうにない橋本清にも、例の噂は伝わっていたのだろうか?
「答えづらかったら無理に言わなくてもいいんだけど、俺、なんかそんな気がして……」
何を言うべきか考えたが、何も思い浮かばず、アサヒの口からはひとつも言葉が出なくなってしまった。代わりにため息が出たのをきっかけに、アサヒは諦めた。
「橋本くん、何で知ってるの? 誰かに聞いたの?」
「直接聞いたわけじゃないけど、前に教室で座ってたら、誰かが話してるの聞こえて」
「誰が話してた?」
「えっと……山口さんと田代さんかな、多分」
希子と美佳か。その様子がすぐに目に浮かんだ。
「でも、借金のことは言ってなかったよ。何か日暮さんがクラスの女子たちにお金貸してって言ってきてしつこいみたいな話が聞こえてきただけで、あとは俺が勝手に想像しただけなんだけど、やっぱりそうなの?」
改めてアサヒは傷付いた。そんなにしつこく頼んだわけじゃないのに。
「まあね」
アサヒはすっかりぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。
「この際だから聞くけど、最初からそれが目的だったら、どうして俺にもお金借りる相談しなかったの?」
あんたとヤりたかったからよ、と、いっそ嘘をついてみようかとも思ったが、そうしても何の意味もないことをアサヒは理解した。
「もう、お金貸してって言うの嫌だったから」
返せる当てのないお金を借りるより、自分が持っているものと引き換えにお金をもらう手段をアサヒは選んだのだった。しかし、それも失敗に終わった。
「借金はいくらぐらいあるの?」
「何でそんなこと聞くの? あと借金じゃないよ」
「じゃあ、何でお金必要なの?」
「だから何でそんなに聞いてくるの?」
橋本清は一呼吸おいて、慎重に言葉を選ぶように言った。
「俺、日暮さんとここまで話したのに見ないフリするの嫌だよ。日暮さんが可哀そうとかじゃなくて、そんなことしたら、俺が俺を許せない」
「何それ?」
その一言がとっさにアサヒの口からこぼれたが、アサヒは、橋本清の気持ちが分かるような気がした。目の前に座る橋本清は、聞いてて恥ずかしくなるようなことを本気で言った。店の内装はにぎやかで楽しそうな雰囲気を演出していて、厨房の男女はもしかしたら若い夫婦なのかもしれない。そんなことをぐるぐると考えているうちに、やがてアサヒは橋本清に対して申し訳ないような気持ちになっていった。
「日暮さんが読んでくれた読書感想文にも書いたけど、俺、できればなるべく嘘をつかずに生きたいと思ってるんだ。でも本質的にはそれが無理だって分かるから辛いけど、そのままの自分を許すこともできないから……何か、ごめん、話が変わってるね。要は、日暮さんを助けずにはいられないってこと」
アサヒは思わず口を開けて驚いた。
「さすがにそこまで恥ずかしいセリフ言われると思わなかったわ」
「ごめん……迷惑?」
「いや」
アサヒは冷たくなったコーヒーを飲み干した。
「でも、ありがとう。橋本くん、今、なかなか恥ずかしいこと言ったと思うけど、おかげで、今のあたしが同じくらい恥ずかしい状況なんだって分かったよ。だから、いいんだね」
橋本清は不思議そうな様子だったが、アサヒは構わず、今自分が置かれている状況を話した。その原因になっている両親の離婚、実家の洋食屋の話や、母親がパチンコにはまってしまっていることまで、堰を切ったように、アサヒの口から流れ出した。橋本清は真剣な表情で、アサヒの長い話を聞き続けた。アサヒが抱えている困難をできるだけ正確に理解しようとする、橋本清の態度が、アサヒの心をさらに開かせた。
アサヒの話が終わり、橋本清はしばらく考えた後に言った。
「もう一回、お母さんときちんと話してみようよ。それにお母さんは、アサヒのお母さんなんだから、アサヒのことが何よりも一番大事なはずだよ」
電車の中で冊子を開き、アサヒは橋本清の言葉を思い出した。読書感想文を読みながら、アサヒはよく考え、そして確信した。うん、やっぱり大丈夫だ。今回のことで、きっと橋本清はあたしのことを好きになったりはしないだろう。あたしのことを助けずにはいられないからといって、その気持ちを恋愛感情とひとつにして考えたりしないようなやつなんだ、橋本清は。
それにあたしも、橋本清のことを好きにならないだろうな。
それよりも、仲間って感じ。
それもよく考えると妙な感じだけど。
家に着いて玄関の扉を開けると、鍵を開ける音で気がついたのか、母親が玄関まで来て迎えてくれた。
「アサヒ、お金、どうだった?」
母親の満面の笑顔を見て、アサヒは音を立てて唾を飲み込んだ。
「あれ、お母さん、日曜日なのにパチンコ行かないなんて珍しいね」
母親の横をすり抜けて、自分の部屋へ向かう。
母親の声が背中に強く当たる。
「アサヒ! ちょっと! 今日、お友達にお金の相談してくれたんでしょ?」
まずは態勢を整えよう。アサヒは部屋着に着替え、脱いだ靴下を洗面所の洗濯かごに入れるために、また母親の横を通り過ぎた。
アサヒについてきた母親が、洗面台の鏡に映った。
「アサヒ、どうして何も言わないの?」
アサヒは振り返り、母親の顔を見た。
そのまま勢いに任せて言った。
「もう友達にお金借りるの、嫌」
困ったような母親の表情が、アサヒを悲しくさせた。
「今日、何かあったの? ひどいこと言われたの?」
涙が出そうになるのを堪えながら、うつむいたままアサヒは、首を横に振った。
「今日会ったのは学校の友だち? アルバイトの方の友だちには聞いてくれたの?」
「バイトの友だちはもっとイヤ」
「アサヒ」
アサヒは顔を上げた。母親の表情が変わっている。困った顔から、叱りつける時の顔に。母親のそんな表情を見るのは久しぶりだった。
「じゃあどうすればいいの!?」
「知らないよ!」
アサヒは洗面所の床を強く踏んだ。その衝撃で涙がこぼれてしまった。
「何であたしが、そんなことしなくちゃいけないの!?」
「お母さんだって、もう知り合い全員にお願いしたのよ?」
「それも何回も聞いたよ! もう借りる相手もいないんでしょ!?」
「だからアサヒにお願いしてるんでしょ!?」
「だからあたしはそんなこと知らないって!」
「どうしてそんなこと言うの!? お母さんのこと見捨てて、もうお母さんのことなんて、どうでもいいって言うの!?」
「違うよ……」
涙を拭い、鼻水をすすった。アサヒはそれ以上何も言えなくなった。
疲れ切ったような母親の声が聞こえてきた。
「アサヒ、よく聞きなさいよ? 本当につらいけど、世間は厳しいの。誰も可哀そうな人を助けようなんて思ってくれないの。だから、お母さんがパチンコで一発当てるしか無いでしょ? そのためにもっとお金が必要だってこと、どうして分かってくれないの?」
橋本清との話は無駄にしてしまった。せっかくお母さんが抱えている問題と、正面から向き合ってみようと思えたのに。どうすればこんな風にならなかったんだろう? そもそもこんな風以外に、あたしにはできたのだろうか?
「お願い。本当にお願い、アサヒ。誰でもいいからお金借りてきて。それさえあれば、あとはお母さんが何とかする。必ず。約束する」
「何とかって、どうするの? お店またやるの?」
「お店は、お父さんがいないからもう無理だよ。でも、必ずパチンコで当てるから」
じゃあお店なんか早くやめて、この家と一緒に売っちゃえばいいじゃん。
いつも頭に浮かぶその言葉は、アサヒには言えなかった。
結局、アサヒの母親はアサヒに期待しているままだった。アサヒはもう誰にもお金の相談をする気になれなかった。顔を合わせる度に聞いてくる母親に、嘘をつくしかない日々が続いた。
「友達にお願いしてみたけど、今日もダメだったよ。お母さん」
母親に嘘をつき続けることも、母親の残念そうな顔に耐えるのも、もう限界だった。
橋本清とは、あの日の後も学校ではほとんど口を聞かなかったが、時々LINEでやりとりをしていた。母親との関係についての近況報告がほとんどだった。アサヒから送ったメールに既読マークが付いてから返信が帰ってくるまでにいつも時間が掛かった。その時間の長さが橋本清の真剣さを表しているようだった。
アサヒがいつも通り登校し、教室に入ると、いつもは先に着いて席に座っている橋本清の姿が無かった。担任の教師が、橋本清は体調不良で休みだとクラス全員に告げた。
その翌日も橋本清は来なかった。LINEも全く返信がないし、既読すらつかない。それ以外に連絡の取りようがなかったので、アサヒは特に気にせず過ごそうと思った。
昼休みになり、朝にコンビニで買ったお弁当を食べようとした時、スマホにLINEが届いた。アサヒにLINEで連絡してくるのは、今では橋本ぐらいになっていたが、見ると希子からだった。
〈アサヒ、マジでクラスの男子相手にサポってんの?〉
訳が分からなかった。すぐに『サポる』をグーグルで検索すると、どうやら援助交際のことらしい。
何のこと?
アサヒはしばらく返信できず、代わりに頭の中で大量の言葉と疑問符がぐるぐると回った。
〈何のこと?〉とシンプルに返してみた。
アサヒが送ったメッセージはすぐ既読になった。そのまま不気味な沈黙が続いた。お弁当に手を付ける気にはなれなかった。
〈遥が橋本から聞いたって。橋本とヤるとかマジキモいわ〉
血の気が引いた。冷たくなっていく唇が小刻みに震えるのが分かった。教室の中を見回した。希子も遥も、教室の中には見当たらなかった。美佳もいなかった。
〈は? 何もしてないんだけど、勘違いじゃないの?〉
〈でもアサヒ、最近お金貸してってしつこかったじゃん〉
アサヒは震える指を必至に動かした。
〈だからってあたし、さすがにそこまでしないよ?〉
〈つか他の男子にも声かけてるの見た子いるんだけど〉
〈本当にやってないから。ウソじゃんそんなの〉
〈お前がウソだろ。同級生としてマジ引くわ〉
橋本清に持ちかけた話を思い出し、アサヒの指が止まった。
〈サポなら外で親父相手にやってろよ。学校でやるな。キモいから〉
〈オヤジ〉ではなく漢字に変換してあるのは、あたしの親が離婚してるの知ってるから? アサヒは涙をぐっと堪えた。それでも出てこようとする大粒の涙は、全て体の内側に流し込んだ。
少しだけ手を付けて食べるのを止めた弁当をカバンに戻し、アサヒはスマホの画面を見つめた。いつの間にか時間が過ぎ、昼休みを終わらせるチャイムが鳴った。希子と遥が教室に戻ってくる。美佳も一緒だ。
アサヒと目を合わさないのも、声を掛けたりしないのも、いつも通りだった
同級生たちのアサヒに対する陰湿な嫌がらせが始まった。誰かが食べたお菓子のゴミが机の上にあっても、アサヒにはどうしようもなかった。アサヒにも聞こえるくらいの大声で話される陰口には、ただ耳を傾けているしかない。目と同じように、耳もとじることができたらいいのに。アサヒはもう自分がどうなろうともよくなってしまった。そんな心境に至った日の放課後、これ以上傷付く部分がないような気がしていたアサヒは、教室から部室へ向かう遥の後を追った。
テニス部の部室の前で、アサヒは遥を呼び止めた。
「遥、ちょっと聞きたいんだけど?」
遥はすっとぼけた顔で頷き、アサヒと体育倉庫の裏側へ回った。
「聞きたいことって何? 橋本のこと?」
普段の遥の口調とは違っていた。
「橋本くんが遥に、何て言ったの?」
「えーと、ごめん。忘れた」
「でも、遥が橋本くんに言われたこと、希子とかに言いふらしたんだよね?」
「言いふらしたって、そんな言い方しないでよ」
「でも、そうなんだよね?」
「何が?」
「だから……ねえ、遥? 橋本くんに何を聞いたの?」
あのさあ、と遥はうんざりしながら不機嫌な目でアサヒをにらんだ。
「アサヒがいじめられんの、あたしのせいだと思ってない?」
アサヒは驚き、同時に突き刺されるように悲しくなった。
「何が?」
「いや何がじゃなくて、アサヒがいじめられてるのって、アサヒが自分で招いた結果だと思うんだけど。だってアサヒ、ちょっと前までクラスのみんなにお金貸してお金貸してって、しつこく言ってたよね? ああいうのマジで嫌われるよ」
アサヒはだんだん視界が黒ずんでいくのを感じた。
「他の子は知らないけど、あたしはアサヒのこと別に嫌いじゃないよ? でもいじめってそういうもんじゃん。あたし一人でアサヒのこと助けるのなんて無理だし、そうしたらあたしも同じ目に合うだけだもん。だからアサヒは自分で自分の身を守らなくちゃいけなかったんだよ」
「あたしがいけなかったの?」
「そうじゃない? 別に今のことだけじゃなくて、普通に生きてて起こる不幸なんて、突き詰めたら全部自分のせいなんだから」
そう言い残して遥は部室に行ってしまう。
中学までは仲が良かった遥とアサヒは、それまではほとんど一緒に行動して、同じようなことで笑ったり、同じような男子を好きになったりしていた。
それなのに、遥とあたしはこんなにも違う。どうしてなのだろう? あたしが遥のように楽しそうじゃないのは、どうして? アサヒは自分が遥になった場合を想像した。
これから練習着に着替えて、サッカー部や野球部の視線を受けながら、テニスコートでさわやかな汗をかいたりタオルで拭いたり、制汗剤のCМみたいな青春を過ごすのだろう。
一方で、とアサヒは思う。
なんで私はこんな誰もいないところで、一人で泣きそうなんだろう?
悔しくて、その悔しさをぶつけられる相手に、たとえ読まれなくてもメールを送ってやろうと思いスマホを見ると、橋本清からメールが届いている。
〈日暮さん、僕は逃げました。日暮さんに申し訳ないのと同時に、自分自身が憎くてたまりません。最近学校に行っていないのは、何日もかけて自分自身を消し去ろうと試みているからです。しかし、それもうまくいきません。僕は日暮さんのためになる形で、自分自身を消し去ろうと思っています。今度、どこかで謝らせてくれませんか?〉
深く考えず、アサヒはすぐに返信した。
平日のマクドナルドは思ったより客が少なかった。アサヒはホットコーヒーを注文し、四人掛けの席に座った。橋本清は本当に来るだろうか? どんな顔をしてあたしの前に現れるつもりなんだろう? 頭の中はせわしなく動き、全く落ち着かなかった。約束の時間まであと十分以上ある。アサヒはまた熱いコーヒーに口をつける。橋本清が来る前に飲み終わっちゃいそう。
アサヒは深呼吸を三度することにした。二回目の息を吸ったときに、コーラを持った橋本清と目が合った。
寝癖がついたままなのは、演出なのだろう。その他の容姿もボロボロを装っているように、アサヒには見えた。
「まず謝らせてくれ。ごめん」
今日は敬語じゃないの?。
「橋本くん、学校来ないで何してたの?」
まずはどうでもいい質問から、とアサヒは考えた。
「ずっと、家にいたよ」
「家で何してたの?」
「堕落」
「本当は?」
「死のうと思って、でもできなかった」
どうでもいいので本題に入ろう。
「橋本くん、遥に何か喋った?」
橋本清の表情が曇る。その顔すらも演技のようだったが、アサヒの知る限り、橋本清はそんな器用な男ではなかった。
「本当は日暮さんのお母さんに直接、アサヒの気持ちとか、置かれている状況を、もう少し思いやってあげてくださいって、言うべきだったんだ。だけど」
そんなこと考えてたのか。アサヒは驚いたが、動揺が橋本清に伝わらないように隠した。
「まずはできることからやろうと思って、それで日暮さんが大変な状況にあるってことを、日暮さんに冷たくしてるクラスの女子にも理解させた方がいいと思って、長峰さんに話した」
たまらずアサヒはコーヒーをまた一口飲み、ほとんど空になったカップを置いて、短く咳払いをした。
「なんて話したの?」
「日暮さんが、どれだけ大変な状況にあるかってこと」
「橋本くんに体売ろうとするほど苦労してるってこと?」
橋本清は黙って下を向いた。
「やっぱりそうじゃん。橋本くんのせいじゃん!」
あたし、お母さんみたい。そう思った次の瞬間、自分がドラマの中のひとみたいな行動を取ったことに、アサヒは気付いた。
橋本清に向かって投げつけたカップの中身はほとんど空で、誰も火傷しなかったし、誰の服も汚れなかった。あまりに都合がよく、それすらもありきたりなドラマみたいで、アサヒはどうしようもなく恥ずかしくなった。
アサヒは席を立ち、店を出た。そのまま駅を通り過ぎて、あまり知らない道をどんどん歩いていった。
もう自分がどういう風に見られようが構わなかった。このまま迷子になってもいいや。それよりもアサヒは歩いて遠くのどこかまで、歩きたい気分だった。
朝、教室に入ると橋本清が席に座っていた。平然と、少し前までの当たり前の風景が蘇ったように、橋本清が登校していた。もともと橋本清に関心がない同級生たちは、橋本清の久々の登校にも無関心だった。
机の上に置かれた誰かの髪の毛を払って、アサヒは自分の席に座った。橋本清の丸い背中が見える。机に突っ伏して、眠くもないのに寝たフリを続けているのだろう。
橋本清への怒りは無くなった訳ではないが、まるで海外からやってきた転校生のように、アサヒにとって珍しい感情ではなくなった。
他の同級生のように橋本清に対して無関心になれる訳ではなく、アサヒは橋本清について考え続けた。橋本清はなんて不器用な奴なんだろう。遥にあたしの苦境をありのままに話して、橋本清は本当にあたしのことを助けられると思っていたのだろうか? このクラスの女子たちが、あたしの状況に理解を示すと、本気で信じていたの?
だとしたら、とアサヒは思う。
あいつは相当のバカだね。
自分の正直さと真っすぐさを貫き過ぎなんだよ、とアサヒは胸の内で叫ぶ。
お前が正直で真っすぐなせいで、誰かを傷つけるとしても、お前は自分が正直でいることを選ぶのかよ。
お前がそこまでして守りたいお前の正直さって、何の価値があるの?
アサヒの叫びは少しずつ勢いを落とし、ある疑問が浮かんだ。
その価値を橋本清は知っているのだろうか? あたしは何故、その価値を知らないのだろうか?
その疑問への答えなんて当然誰も教えてくれないし、訊ける人もいない。
休み時間になると、橋本清は教室中を徘徊し始めた。足音すら立てずに机と机の間を、するすると歩き回った。
スマホをいじりながらおしゃべりしている何人かの女子グループが、背後に立っている橋本清に気付いた。
「何?」
「そっちこそ何?」
そう言い捨てて橋本清はまた歩き出した。背後から飛んでくる抑えた罵声に背中を押されて、ふらふらと教室を出ていった。
気付かないうちに、アサヒはその一部始終を目で追っていた。
その次の休み時間も橋本清の徘徊は続いた。昼休みも同じで、クラスの同級生たちが橋本清は頭がおかしくなったのだと思った。アサヒもそう思ったが、同時に悔しくも思った。
ねえ、橋本くん。どうしてお前がおかしくなるの? あんたがそんな風になっちゃったら、あたしはどうすればいのよ?
おかしくなりたいのはあたしの方だよ。
「あれ? アサヒちゃんどうしたの? 今日シフト入ってたっけ?」
それだけはしたくない、と思ってたはずなのにな。アサヒは思う。今だってそうだけど、でももうどうでもいいや。アサヒは泣き出しそうになるのを必至に我慢しながら、休憩室のドアを開けた。シフト表で、その日その場所に菜々がいることは知っていた。
「菜々ちゃんバイト中にごめん。ちょっと相談があるんだけど」
「ちょっと待って。今日、このあと八時に上がれるから、その後どっかでにしよう」
何かを察したように、菜々は言った。
近くのドトールでアサヒは二時間ほど時間をつぶした。注文したホットコーヒーはすぐに飲み切ってしまい、カップの底には琥珀色の円が堅くこびりついた。菜々を待つ間、苦々しい時間をアサヒは過ごした。
八時を過ぎた。もうすぐ菜々がやってくるはずだ。その前に連絡が来るだろう。スマホが鳴るのが怖く感じた。
どうしようもない状況に置かれたあたしを、誰も救えない。そんな言葉が浮かんだ。
スマホが鳴る前に、店の前の通りを歩く菜々が、窓ガラス越しに店内のアサヒを見つけた。
カバンだけ席に置き、菜々は財布を持ってレジへ向かった。何故かオレンジジュースを二つトレイに乗せて戻ってきた。
「待たせちゃったお詫びだから、これ飲みながら話そう」
「ありがとう」
これからお金の相談をすることを思うと、アサヒは吐きそうになった。
菜々はしばらくの間、その日のアルバイト先で起きた何気ない出来事や愚痴などをアサヒに話して聞かせた。その間に、アサヒは心の準備をしていた。菜々の話が一区切りついたとき、アサヒは重たい口を開いた。
「でね、菜々ちゃん。今日はちょっと相談があってね」
「ああ。そうだったね。あたしの話ばっかりしちゃってごめんね」
「いや、いいの。でね、菜々ちゃん、その相談っていうのが、お金の相談で」
菜々はのんきな表情を続けている。
気が重たかったが、アサヒは思い切って言った。
「菜々ちゃん、お金貸してほしいの」
「いくら?」
「え?」
「額にもよるよ。あたしだって、あんまりお金ないしさ」
心に明りが差したが、その後一瞬で雲がかかったような気分になった。疑問と不安が雲のように浮かんだからだった。
あたしはいくら貸してほしいんだっけ?
そもそも、菜々ちゃんからお金を借りてしまって、あたしはそれでいいんだっけ?
黙ってしまったアサヒに、菜々はやさしく声を掛けた。
「ちなみに、何に使うの?」
深く考えられるほど頭に力が入らなかったので、アサヒは正直に話した。
「あたしの家、すごく貧乏で、お母さんに渡さないといけないの」
「お母さんに?」
菜々は質問を続けた。
「でも、最低限っていうか、普通の生活できるくらいはお金あるんでしょ? 何でお母さんにお金渡さないといけないの?」
何でだっけ? アサヒは思い出そうとするが、あまりうまくいかない。
「お母さん、パチンコにはまってて。家のためにお金稼ごうとしてるんだけど、それって明らかにおかしいじゃん?」
「うん。それは止めた方がいいと思う」
「でも、それを止めるのって本当にムリなのね。だから、あたしが貸したお金で、お母さんが本当にパチンコで稼いでくれない限り、いろいろなことが上手くいかないみたいで……」
そんなこと、あたし本当に思ってるんだっけ? アサヒには分からなかった。
少しの間、沈黙が続いた。菜々も何も言わず、じっくりと考えているようだった。アサヒが菜々の顔をちらっと見ると、菜々は不機嫌そうな顔をしていた。
「何でアサヒちゃんがそんな目に会わないといけないの?」
あたしにだってわからない。
「わかんないけど、あたしのせいかな?」
「ちょっとアサヒちゃん、適当にそういうこと言うの、止めてくれない?」
やっぱりこんな目に会うのは、あたしのせいなんだろうか?
アサヒの目から涙がこぼれた。
「ごめんね、菜々ちゃん。本当にごめんなさい。あたしだって、本当はこんな話、菜々ちゃんにしたくなかったんだけど……でも、もうどうしようもなくなっちゃって」
菜々は再び黙った。これ以上菜々を困らせてしまうことが怖くて、アサヒは続けた。
「でも、調理の専門学校も行きたいし、菜々ちゃんを見てたらすごい羨ましくなるし、どうしてあたしはこんな辛いんだろうなって」
「待ってアサヒちゃん」
アサヒは涙を拭いて、菜々の顔を見た。
「アサヒちゃんは、調理の学校に行きたいんだよね?」
「うん」
「そのためにお金のこととか、お母さんのこととか、色々な問題を解決したいんだよね?」
そうなの? と逆に聞きたくなった。だんだん、そうかもしれないと感じ始めた。
「そのためには、それ以外のことは全部諦めて、自分の夢に突き進まないとおかしくない? あたしはそう思うよ。あたしだって、自分の夢のためにそうしてるつもりだし」
菜々の言っていることは正しいのだろうか? 正しくはあっても、アサヒには共感できない気がした。だんだん、菜々と自分はやっぱり別の世界の人間だったんだという考えが浮かび、アサヒの心をさらに悲しさで埋め尽くした。
下を向き、うつむいて涙が止まらないアサヒのつむじあたりに向かって、菜々は本心を吐き出すように口走った。
「何で泣いてんの? そういう友人関係とかを諦めて捨てて、自分の夢目指すんじゃないの? もしかしていま泣いてるのって、自分の夢のためにその他を犠牲にすることに、迷いが出てきたから? だとしたら最悪だよ。あたしバカにされてるみたい。笑われてるみたい」
「違うよ」
「何がどう違うの?」
「あたしが思う夢と、菜々ちゃんの思う夢は違う。違いは少しだけど、根本的に全然違う」
「うん。あたしもそう思う。なんかごめんね、アサヒちゃん。やっぱり、あたしお金貸せないわ。ごめんね?」
どうしてこんな風になるんだろう?
アサヒはその場で潰れてイスのシミになってしまいたいと、強く力を込めて願った。
橋本清の徘徊は毎日繰り返され、最初はからかって面白がっていた男子たちにも、やがて興味を持たれなくなった。風にあおられてぶつかってくる教室のカーテンのように、誰も橋本清のことを気にしなくなっていった。
数週間後の火曜日、登校してすぐにアサヒは、自分の机に珍しく何もされていないことに気付いた。
誰とも目を合わさずに席に着いたアサヒがスマホで適当に時間をつぶそうとしていると、遥と美紀子の話声が聞こえてくる。
「これって本当かな……?」
「どうかな? 本人に聞いてみれば?」
「ええ……怖くて聞けなくない?」
「返信してみたら?」
「ええ…美紀子、代わりに希子にLINE送ってみてくれない?」
「無理だって。あたし昨日からスマホ落として行方不明だって。それ知っててわざと言ってんの?」
「そうだった。ごめん……あ、希子来た」
思わずアサヒもつられて教室の入り口を見る。希子がちょうど登校してきたところだ。特に何も変わった様子は無いが、遥とその周りの女子たちはエイリアンか幽霊を見るような顔で希子を見ている。
希子が、おはよう、と普通に挨拶した。
遥たちも小さい声でおはよう、と返したが、引きつったまま、それ以上希子に言葉を掛けられないようだった。
それから何日も続けて、同じような風景をアサヒは見た。毎日違う誰かが、誰かに対してひきつった表情を浮かべた。最初に見かけた一週間後には、教室の後ろで激しく言い合っている希子と美佳の声が聞こえた。
「だからあたし、そんなLINE送ってないって!」
「ウソつくなよ。裕斗のスマホ見る? 明らかに証拠残ってたんだけど」
「知らないって。何であたしが美佳の彼氏にそんなこと……」
「だからキレてんだよ! ふざけんなこのクソビッチ」
「あんなブサイク興味ねぇよ!」
「はあ?? 希子お前調子乗ってんじゃねえよ!」
二人のあまりの迫力に、誰もが後ろを見ないようにした。
それから同じような口論が頻繁に起こり、クラスの女子たちの空気はみるみる険悪になった。他のクラスからも、二組の女子たちは相当仲が悪いと思われていた。女子刑務所みたい、と言う生徒もいた。
一方で、アサヒに対するいじめはほとんど無くなっていった。
アサヒは弁当を食べながら、狐につままれたような気分だった。一体何が起きているのだろう? あんなにひどく悪かった状況が、勝手に好転するはずはなかった。それなのに、今こうやっていじめは煙のように消えてしまった。同時に、とアサヒは思う。クラスの女子たちはみんな仲が悪くなった。みんながお互いに疑心暗鬼になっている。常におしゃべりばかりしていた女子たちと同じ人たちとは思えないくらい、みんなつまらなそうだ。
明らかに重たく、険悪な空気が漂う教室を見回したとき、アサヒは久しぶりに橋本清と目が合った。
横顔しか見えなかったが、そこに座ってこっちを見た男が、橋本清になりすました別の誰かにアサヒには見えた。
下校途中に、アサヒは箸の途中で空を見た。薄く曇った空からは、雨が降り出してもおかしくはなかった。
学校でのいじめはほとんど無くなっていたし、嫌な噂のこともみんな忘れてしまっているようだった。アサヒは久しぶりに、部屋の片づけをしたくなった。しばらく手を付けずにいたせいで、様々なものがあっちこっちにバラバラに点在していた。それらをきちんとあるべき所に戻していく。その単調な作業をアサヒはしばらく無心で続けた。
久しぶりに開いたカバンの中から、以前、橋本清に借りた、太宰治の『晩年』が出てきた。
随分前から借りているものの、アサヒはほとんど読んでいなかった。久々に手に取ってページをパラパラめくって、そこに書かれている単語や一文を読んでみると、正直であろうとして、それ故に苦悩する橋本清の性格が思い出された。
ほぼ一か月ぶりに、橋本清にLINEを送ってみた。
〈久しぶり。前に借りた晩年、借りっぱなしだったので今度返します〉
送信してスマホを机に置いた。するとすぐに返信があった。
〈その本はもう返さなくていいよ。むしろ日暮さんが持っててよ〉
その返信は一見不思議に思えたが、アサヒは何かに感づいてしまったような気がして、すぐに返信した。
〈もしかしてだけど、最近橋本くん、何かした?〉
すぐに既読になった。しかし、返信は無かった。
翌日、アサヒは橋本清に声を掛けた。
「橋本くん、これ、やっぱり借りたままなのはよくないし、返すよ」
目の前に差し出された文庫本を見つめて、橋本清は低く落ち着いた声で応えた。
「いや、受け取れない」
「どうして?」
「もう……この本に会わせる顔がない」
少しの間考えたが、その言葉の意味がアサヒには分からなかった。
「それってどういう意味?」
橋本清は黙った。どこか苦しそうな表情を浮かべたかと思うと、みるみる内に泣き出してしまいそうなほど、辛く苦しそうな顔になっていった。
なぜ橋本清が悲しいのか分からず、アサヒは困ってしまった。どれほど苦しいことが橋本清の中にあるというのだろう?
「メールでもいいから、教えてね」
橋本清は唇をぴったりと閉じたまま、何かを覚悟するように小さくうなづいた。
目を覚ますと、カーテンからのぞく窓の外は真っ暗だった。
真夜中に起きてしまったのだろうと思ってスマホで時間を確かめると、LINEが届いている。
〈やっぱりあの本は受け取れません。なぜなら僕は完全に卑劣な人間になってしまったからです。あいつらがスマホをいじるのを待って、パスワードを開ける指の動きを見逃さないように、注意深く観察しました。それから体育の授業中や部活中を狙って、スマホを勝手にいじって、LINEを悪用しました。同性の同級生に「ずっと前から好きでした」と送ったり、友達の彼氏にも同じようなメール送ったりして、あいつらの仲を悪くしようとしました。それが思いのほか上手くいったのには僕も驚いたのですが、一方で、取り返しのつかないことをしてしまった、もう自分は戻れないところまで来てしまったのだと、深く後悔するのでした〉
LINEは続けて届いている。
〈しかし同時に、これでよかったのだ、こうするしかなかったのだとも思いました。日暮さん、何故だと思いますか? 本当は日暮さん自身で気付いてほしかったのですが、もうこうやってメールを送るのも最後になるかと思うので、打ち明けようと思います。それは、日暮さんにはこの出口のないような困難から抜け出してほしかったからです〉
〈勘違いしてはいけません。僕は日暮さんのことが好きだから、そのように考えるのではありません。そうではなく、僕は、僕と日暮さんは似たようなところがあり、同じような世界を目指しているのではないかと勝手に思ってしまったのです。だから僕が身代わりになって、日暮さんを今の困難な状況から逃がしたかったのです〉
〈日暮さん、あなたが何故、そんなにも苦しい目にあっているか分かりますか?〉
〈それは、あなたが素晴らしい世界を諦めてないからです。あなた以外の世界はそれをとっくに諦めているので、あなたをひねり潰そうとしたり、嫉妬したりして、摩擦が起きることは当然の帰結なのです〉
〈つまり、日暮さんの目指す世界が素晴らし過ぎるので、この世界とは反りが合わないのです〉
スマホの画面を消すと、アサヒの部屋は再び真っ暗になった。
何も見えないまま、布団から首だけ出して仰向けになった。天井のシミは見えなかったが、アサヒは過去の幸せな「グリル日暮」と今自分がいるこの場所が、ようやくつながった気がした。
その代わりに、橋本清との間に渡されていた頼りない吊り橋が、無残に壊れて谷底に落ちていくように感じた。橋本清自身も、崩れ落ちるつり橋を追うように、谷底へ飛び込んだ。
さようなら。あたしのために、ごめんね。
そして、ありがとう。どうしてあたしがこんな目に会うのかを、説明してくれて。
そんな思いがアサヒの中で形のないまま生まれて、少しずつ輪郭を描き始めた時、アサヒはそれが安心という気持ちなのだと気がついた。
だから、だったのか。とアサヒは思い至る。
だからあたしだったんだね。
目が覚めると、まだ夜が明けていなかった。早く起きて、やらないといけないことがたくさんあるような気がしたが、焦る必要はないのだと自分に言い聞かせた。
それでもすっかり目が冴えてしまったので、アサヒはトイレに行った後、洗面所に向かった。アサヒは手を洗いながら、清潔になった自分の指や手のひらを見つめた。これなら美味しい料理を作ってもいい、と思った。
だからあたしだったんだね 東海道そば @tymr030
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