ビートルズを聴けおじさんとぼく
小学生の頃、通学路の途中に立ち、登下校をする小学生に「ビートルズを聴け!」と声をかけ続けるおじさんがいた。そのおじさんが一体どういう存在なのか、何をして生活をしているのかは大いなる謎だが、春夏秋冬、雨の日も風の日も、平日の朝夕に小学生に向かって「ビートルズを聴け!」と言うことに時間を割いているおじさんが社会における最頻値的な生活をしているとは思えない。ビートルズを聴けおじさんは当時小学生たちからビートルズを聴けおじさんというあまりにもそのままな呼び方をされていた。
ビートルズを聴けおじさんは執拗に「ビートルズを聴け!」と言ってくるだけでそれ以外は何もしなかった。子どもたちに声をかけているとは言っても、おじさんは正面を真っ直ぐに見据えて視線も表情も動かさず、「ビートルズを聴け!」と繰り返すだけだ。向かいの道路を見ているような、それとももっと遠くに彼にしか見えない何かを見ているような、そんな目をしていた。彼が現れ始めた頃は不審者として通報もされたし、警察から事情聴取もされたようだった。やがておじさんが子どもたちに特定の文字列を発音する以外何もする気がないことが分かってくると、おじさんは店舗の呼び込み音声を発するスピーカーと同様、街に存在するある種の音声出力オブジェクトとしてみなされるようになった。何が起こるか分からない時勢ではあるので、一応、教員や保護者有志が毎朝毎夕、通学路に立って警戒はしたが、それも長い期間が立つと相互に差し入れをし合うような、監視する側とされる側の癒着関係が成立するようになる。そんなこんなでビートルズを聴けおじさんは、その根気強い活動により、無害な街のオブジェクトとしての地位を確立した。
小学生にとって、害の無い変なおじさんは日常に現れた非日常的存在であり、やいのやいのと色々な声をかけた。「ビートルズって何?」「おじさん仕事行かなくていいの?」「おじさん確定申告した?税理士雇える?」等など、子どもだから許される、あるいは許されない無礼な発言をしたかもしれない。子どもたちが声をかけると、普段は正面を見据えて視線も表情も動かさないおじさんは、ちらりと声の方を見て、少しだけ口角を上げた。そしてまた正面を真っ直ぐ見据えて「ビートルズを聴け!」と繰り返す仕事に戻る。「あ、反応した!」「おじさん何か他のこと喋って!」などと囃し立てるも、周囲で監視している大人たちに「ほら、早く学校行きなさい」あるいは「早くお家に帰りなさい」などと促され、しぶしぶ正しい登下校に戻らなければならなかった。
中学生になって、ギターを買ったぼくは流行りのバンドの曲を練習していた。ある日、そのバンドが動画でやっぱりビートルズの曲は今振り返っても色んなアイディアが詰まっていて云々と言っていたのを聞いてビートルズを聴けおじさんのことを思い出した。いくつか音源を検索して聴き、耳コピをしてみた。最初、「普通だなぁ」と思ったけれど、なるほどこれを「普通」にしたのがこの人たちなのかもしれないと思った。おじさんはなぜ貴重な人生の、少なくない時間をかけてあんなことをしていたのか、ビートルズの耳コピをしてみてもよく分からない。
今でもおじさんは通学路に立って小学生に声をかけ続けているのだろうか。「ビートルズを聴け!」と発声するおじさんの目は真剣だった。人間があんな目をしているところを見る機会はあまり無く、正直なところちょっと怖い。目は口程に物を言う、目は心の窓、など様々な物言いがあるが、つまるところそれらはコミュニケーションの窓口として、目が他者に開かれていることを示していた。しかしおじさんの目にはそれが無かった。つまり、目の前にいる小学生に話しかけているというよりは、上位存在と交信しているような、あるいは神に祈りをささげているような、そういう気配があった。当時は無遠慮な子どもだったので、そんなおじさんに話しかけて反応を見て遊んでいたが、おじさんは無視することなく、曖昧な笑みを返す。そんな時のおじさんはきまって少し居心地が悪そうで、声をかけているのはおじさんの方なのに、それに反応したぼくたちが少し悪いことをしているような錯覚に陥ることもあった。言葉もやはり、多くの場合は他者とのコミュニケーションの手段として用いられる。確かに独り言として発される言葉もあるが、おじさんはわざわざ小学生の通学時間を選んで通学路まで足を運び言葉を発しているわけで、ただ独り言のために家から出て来ているとは思えなかった。しかし、やはりおじさんの在り方はコミュニケーションのために他者に向けて開かれているそれではなかった。
そんなことを思い返していると、ふとおじさんが元気にしているか気になってきた。それで、朝礼に遅れてしまうけれど、今日は遠回りして登校しようと思った。普段住宅街を西に進むところを北に進んで大通りに出ると、地下鉄の駅の出入り口がある。ちょうどかつてのぼくのような登校中の小学生が列を成して歩いていた。しばらく小学生の列と同じ方向に進むと、東西南北に道路が延びる交差点がある。その交差点の北西の角がおじさんの定位置だ。
しかしそこにおじさんの姿はなかった。
どこの誰かもしらないおじさんだから、そこにいなければおじさんの現況を知ることはできない。しばらく待ってみてもおじさんは現れなかった。1限目に遅刻する時間になったがやはりおじさんがやってくることはなかったので、今日は諦めることにした。たまたま、今日はビートルズを聴けおじさんをするのを休んでいたのかもしれない。あるいは、しばらく風邪をひいてビートルズを聴けおじさんができないのかもしれない。もしくは、おじさんの新しい仕事はビートルズを聴けおじさんの活動と両立できないものなのかもしれない。
あれから何回か例の交差点の北西を見に行ってみたが、ビートルズを聴けおじさんに遭遇することはできなかった。親に聞いてみても「ああ、そういえばそんな人いたね」といった反応でビートルズを聴けおじさんのその後に特に関心はなさそうだ。あれだけ強烈な存在感を放っていた人物のその後が気にならないのか、と少し問い詰めてしまったのだけれど、父も母も「そうは言ってもねぇ」と少し困った顔をした。大人になると他人への関心が薄くなってしまうのか、それとも多くのことを経験したが故にビートルズを聴けおじさん程度の現象は珍しくも何ともないのか、ぼくには判断がつかなかった。それで、弟や妹のいるクラスメイトに彼らや彼女らはビートルズを聴けおじさんを知っているのか、いつまでビートルズを聴けおじさんはビートルズを聴けおじさんをやっていたのか知らないかを聞いて回った。怪訝そうな顔をする者も、「そういえばそんな変なおじさんいたねぇ」と懐かしそうにする者もいた。しかし、誰かが知っていてもよさそうなことなのに、街の横断歩道がいつ綺麗になったのかを誰も思い出せないのと同じように、おじさんがいつビートルズを聴けおじさんをやめてしまったのかを答えられる人はいなかった。その他、何人かの大人にも当たってみたが、誰もおじさんが誰なのか、その後どうしているのかを知っている人はいなかった。なるほど無害な街のオブジェクトは、こうして出現したり消えたりしてしまうものなのかもしれない。いや、あまり納得はできないが。
あれからぼくはビートルズを聴けおじさんを見つけることはできなかった。あるいはビートルズを聴けおじさんに類似した何らかのオブジェクトが街に顕現することもなかった。この世界はビートルズを聴けおじさんを欠いているにも関わらず成立していた。ぼくが知らないだけで、この世界にはビートルズを聴けおじさんと同様の何かを大量に欠いているのだろうと思う。でも何が欠けているのかぼくには分からない。あらかじめ失われた何かを認識することは極めて難しい。ビートルズを聴けおじさんのその後にあまり関心を示さなかった両親のことについて、大人になった今なら少し分かる気がする。ビートルズを聴けおじさんはあらかじめ失われていたのだ。そしてきっと、この世界に存在するあらゆるものはあらかじめ失われている。それに気づいた時にはそうした切迫感を持っていたのだけれど、大人になってある程度の時間が経つとそれすらも失われた。ぼくたちは重大な何かを見落としていて、それゆえにぼくはうまく生きていけないのではないか、という漠然とした不安は生活上の具体的かつ解決可能な問題に置き換えられた。だから、ぼくはもうあらかじめ失われたものについて悩まなくても大丈夫になった。
ぼくは救済されてしまったのだ。
大いなる救済の後にやってきたのは大いなる虚無であった。
今のぼくが「そこに欠けているものがあるじゃないか」と子どもに問い詰められても、きっと「そうは言ってもねぇ」と困った顔をするだろう。だって人々はそれぞれの役割を果たしていて、その理由も、その必要性も、なんとなく曖昧にそこに在るからだ。そのように在るものの外側について、それが何であるのかをわざわざ認識したり言語化したり確認したりすることがなくなったからだ。もちろん、それをしようと思ったら誰にだってできるのだろう。だが人間に与えられた時間は有限で、自分のすることに優先順位をつける必要がある。無限の時間が許されているわけではないのだから、ぼくたちは可能な限り必要なことをしなければならない。生活を、あるいは生存をするために。精緻に、しかし曖昧に構築された透明な虚無がぼくから迷うことを奪っていった。今のぼくは、ビートルズを聴けおじさんを探しに行くようなことを悪い贅沢だと考えてしまう。
では、ビートルズを聴けおじさんとは何だったのか。彼は一体なぜあの交差点に立っていたのか、あるいは立つことができたのか。大いなる救済、あるいは大いなる虚無の後で、おじさんはなぜビートルズを聴けおじさんになることができたのか。もしかすると、ぼくは、あるいは他のみんなも、本当は救われてなどいなかったのではないか。仕事の帰り道、ふとそんな考えが頭をもたげて離れなかった。そうして、気がつくとずいぶん長い間立ち止まっていた。人々が足早に歩く真冬の街路で、何もせずに立ち尽くしている。道行く人が一瞬怪訝そうな顔で静止しているぼくを見るが、彼ら彼女らにとってぼくというオブジェクトに関心を払うことは優先順位が極めて低いことであるから、当然ながらそれ以上のことは何も起きない。しかし、やっぱりそれもこれもあらかじめ失われたものだったのだ。
それに気づいてしまったのなら、おしまいになっていく全てについてぼくは祈りをささげなければならない。
そういうわけで、ぼくは明日仕事に行かないことにした。終電に乗って実家に帰ると両親は少し驚いていたが、ぼくの顔を見てしばらくゆっくり休むように言ってくれた。翌朝、早起きをしたぼくは小学生の頃の通学路を歩いていた。地下鉄の駅の出入り口の前を通り、しばらく進む。ぼくの歩幅も通り沿いに建っている建物のいくつかも随分と変わっていたが、道はそこに通ったままだ。そのまま歩けばやがてあの場所にたどり着けるだろう。ビートルズを聴けおじさんがいなくなっても、そのことは変わらなかった。
こうして、ぼくはあの交差点の北西の角に立った。
#random @pokkero
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