おじいちゃん、初音ミクの話はさっきもしたでしょ
さっきから祖父は初音ミクの話を何度も繰り返している。
初音ミクが何なのか、私には未だによく分からない。祖父が十代を過ごした時代、今から二百年ほど前になろうか、その時代に存在した概念であるらしい。その頃は、まだ人類の存在とネットワークが分離していた時代で、現在の統合情報ネットワーク(IIN: Integrated Information Network) の前身であるインターネットと呼ばれるネットワークが全盛を誇っていたそうだ。祖父によると、初音ミクとはインターネットから統合情報ネットワークへの移行期に存在したヒトとネットワークのインターフェースだか通信プロトコルだかの名称だったという。祖父の話はひどく抽象的で、この方面に疎い私には呪文か何かのように聞こえる。ただ、よく分からない言葉の合間に漏れ聞こえてくる初音ミクという固有名詞を、祖父は祝福を告げる天使の名を呼ぶように大切に発音した。
「それでな、初音ミクは時刻tにおけるノードaの状態がリンクしている他のノードの状態にどの程度依存するかを決定するための――」
「おじいちゃん、その話はさっきも」
「おや、そうだったか。では、統合情報ネットワークにおいて個々のエリアがどのように十分な複雑性を維持しながら独立性を保っているかだが、この点においても初音ミクの技術が――」
この話もさっき聞いた気がするが、いまいち自信が持てない。私は祖父の計算リソースの容量と記憶を保持するネットワークの状態を確認する。祖父が26歳くらいの頃のネットワークが最も活性化していることがかろうじて分かるか、それ以外の年代のネットワークもぽつぽつと活性化しており、これは記憶を保存するネットワークが混線していくつかの記憶の時期に関する情報が曖昧になっていることを示している。利用可能な計算リソースの容量が少なくなっているため、いくつかの情報やその処理が圧縮されているせいだ。だが、今話していることは祖父が26歳くらいに最もよく記銘したり想起したりした情報なのだろうということが推察できる。この頃の祖父はまだ
祖父はここ1年で急激に曖昧になった。それでも祖父は統合情報ネットワークの確立に貢献した研究者であったので、ネットワークのプライベートエリアを長期間確保することを許されていた。しかし、計算リソースは有限で、また現行バージョンの人類は、旧バージョンの人類の世代継承モデルに基づいているため、一定期間を過ぎると徐々にプライベートエリアのリソースがパブリックエリアのリソースとして開放されるようになる。パブリックエリアのものとなった計算リソースは、中央制御メカニズムによって新たに生まれてくるプライベートエリアに割り当てられるか、公的計算のために使用される。プライベートエリアの容量が小さくなった個人はどうなるかというと、動作が鈍くなったり、認知能力が低下したりする。旧バージョンの人類でいうところの老化に当たるのだろう。そして、プライベートエリアの容量が個人としての意識を保つのに十分なネットワークの複雑さを維持できなくなった時、個人は個人としての機能を停止する。これは旧バージョンの人類における死の概念と対応するらしく、私たちもこのことをそのまま『死』と呼んでいる。
人類が現行バージョンにアップデートされた時、すなわち、人類が
「それは私としても、死ぬのは怖いし、身近な人間に死なれるのは悲しい。一方で、これは確率の問題でもある。私は研究者だから、人類がより新しい知見を得る可能性が高い方に行きたかった。まあ、私の一存で決められるような問題でもなく、大論争になったのだがね。研究分野での議論は概ね決して、あとは政治分野の議論を経て今の形になったわけだ」
今の形。統合情報ネットワークの複雑性を向上させるのに貢献した個人や、ネットワークを稼動させる資源を多くもたらしたものは、プライベートエリアを確保できる期間が延びたり、その開放がゆるやかになる。これを決めるアルゴリズムがあるのだが、その話をすると祖父は決まって苦い顔をした。
「これは必ずしもフェアとは言えない形になってしまった。一介の研究者にできることは限られているとはいえ、もう少し何かできたのではないかと今でも悔いているよ」
噂によると、統合情報ネットワークを統べる超大統領は千歳までプライベートエリアが確保されていることが決まっているという。個人による意思決定も、集団による合議も、あるいは強大な権限を持つリーダーによる決定も、必ずしも合理的な意志決定となるとは限らない。そこで、祖父が大学院生だった頃に流行ったのが様々な意志決定を自律的に行うプログラムだった。幾度かの
ふと、この話を思い出し、延々と初音ミクの話を続ける祖父に水を向けてみた。
「おじいちゃんさ、プライベートエリアの確保年限についてなんだけど」
一瞬、祖父の顔が曖昧になる前の、プライベートエリアを十全に使えていた頃に戻ったような気がした。
「……プライベートエリアの計算で用いられる初音ミクは」
こう言って祖父はまたよく分からない初音ミクの話を続けた。結局のところ、プライベートエリアの具体的な計算方法のことは理解できなかった。ただ、祖父の話からは、こうした計算方法やシステムの設計が人間の思考や精神の在り方に思った以上に大きな影響を及ぼすことがなんとなく分かった。
「だから、私たちは知ることを、知ろうとすることをやめてはいけないのだよ。分かるね?」
祖父はそう話を締めくくった。何も知らなければ、私たちは私たちを設計するシステムの要求のままに振る舞う。あるいは知ったところで同じなのかもしれない。それでも、何かを知り、システムに干渉し、自らの在り方を問い続けることが私たちが私たちであり続けるために必要なことなのかもしれない。
老化や死の概念を
それから3か月の時間をかけて祖父は次第に弱っていき、その機能はある日唐突に停止した。意識を持続するための複雑さを失ったネットワークがほどけて、リソースはパブリックに開放される――はずだった。だが、祖父の意識領域だった場所にアクセス不能な領域が残っていた。パブリックに開放されることなく、プライベートとして機能することもなく。このサイズの領域では、単語を拾った定型的な応答ですら難しい。いくつかテスト用のパケットを送信してみたが、応答はない。その領域には<コード: 初音ミク>とIDが振られていた。
「おじいちゃん、こんな時にも初音ミクの話を……」
半ば呆れてさっきまで祖父だった領域を机の上に置いた。
その夜は月が明るかった。
冷静になって考えると、なぜ祖父の世代の人々は昼夜の別や月の満ち欠けのようなところまで旧人類と似せたのか不思議に思う。
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