博士後期課程に進学した兄が失踪した話
失踪した兄が実家の庭先に並べていた睡眠を片付けられずにいる。
博士後期課程に進学した兄は三年目になると「論文が書けない」「公募に通らない」「生活が苦しい」などと言っていた。
「まあそういうものなんじゃないの?」
と僕が聞けば、
「まあそういうものだよ」
と言って笑っていた。
だから、兄はそういった状況のことを気にしていないのだと思っていた。兄もそうだし、僕の友人もそうなのだが、大学院に進学した僕の知人は幾分か浮世離れをした性質を持っている。ともすればこの人たちは霞でも食って生きているのではないかと疑念が湧く程だ。それで、こうした人たちは現実的な問題に関してどこか鈍感だという先入観があったのかもしれない。実際のところ兄がどうであったか今は確かめようがない。
僕は学部を卒業してから民間企業に就職したので、兄がいる世界のことはよく分からない。兄は夜遅くまで研究室に居たし、帰ってきてからも深夜まで勉強していたようだ。その代わり朝は遅くまで寝ていた。
「ほとんどの人が寝静まった夜の方が勉強に集中できるし、何だか夜は寝つけなくてね。うちの研究室はコアタイムが無くて決まったミーティングに出ていればいいから、朝は寝ているんだけどね」
兄はそのように言っていた。
兄は大事そうに睡眠を拾ってきた。そのうちのいくつかを、帰省した時に持ってきて整然と庭に並べては嬉しそうな顔をした。
睡眠は無機質な立方体のように見えたが、よく見るとそれぞれ微妙に形状が異なっている。それは規則的な繰り返しの中にアクセントをもたらした。兄は並べた睡眠を愛おしそうに眺めて言う。
「大域的に見れば、規則的な構造が繰り返されているように見える。これはこれで好ましい。一方で、局所的な特性に着目すると、規則的な構造の中にも小さな差異が見出される。これもまた好ましい」
僕は兄が並べた睡眠の隣に市販のたけのこを模したお菓子を並べた。パッケージから取り出したお菓子は一様に同じ形状をしている。それと比べると、確かに睡眠は形状のばらつきがあるように思われた。なるほど兄の言うことも一理ある。
兄は、当たり前のようにそこにあるものを拾ってきては丁寧に並べていたのだ。具体や抽象の間を行ったり来たりして、新たに見出される規則性を探す。見つかった規則性を手がかりにして、さらに深いところまで探索する。
僕は二年くらい前に兄と話したことを思い出していた。
「研究は未知の海に潜るようなものでね。今日は昨日よりも深く、明日は今日よりも深く、誰もたどり着いていない深さまで潜っていく」
いつどこにいても居心地が悪そうな顔をして口数も少ない兄であったが、研究やそれにまつわる事柄を話す時だけは生き生きとして饒舌になった。
「独りで、静かにものを考える。それは孤独な作業だけれど、僕はその静かさが好きだ。でも、僕たちは孤独なばかりではない。時々見つかる新しい発見を、地上に戻って仲間と分かち合う。あそこではこんな面白いものが見つかったぞ、だからあの先にはもっとすごいものがあるに違いない、といった風にね。それで、僕たちが孤独に潜って得たものは、他の仲間が潜る時の道標になる」
どうしてこういう話になったのか、きっかけはよく覚えていない。僕は就職して一年目でようやく仕事に慣れてきた頃だった。
「『巨人の肩の上に立つ』という言葉があってね。『私が彼方を見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです』とニュートンが手紙に書いたという話が有名かな。出典はシャルトルのベルナールという哲学者だとされている。先人たちが積み上げてきた知恵の上に立って初めて遠くが見えるようになるんだ。ニュートンやベルナールのような人たちでもね。そういう意味でも僕らは独りじゃない。過去も含めたたくさんの人が知恵を持ち寄って、未知の世界に挑むんだ」
そういう話をして、少し真面目に語りすぎたかな、と照れくさそうにした後、「でも、だから勉強をするんだ」と付け加えた。
実家の庭に整然と並べられた睡眠にせよ、研究にせよ、兄は美しいものを美しいままにしていなくなった。身勝手で不器用な選択だと思う。それでも、兄の研究は研究室の同僚に引き継がれ、美しい探求は続いている。僕は変わらず仕事に行き、人々の生活は続く。
兄がいなくならずに済む道があったのかどうかは分からない。兄のことだから、思い出したようにふらっと帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれない。失踪してなお、そういうふわっとしたどちらでもなさを感じられるのは兄らしいと言えば兄らしい。そう思えば、時々こうして兄のことを思い出しておくのも悪くない。
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