【創作断片】星降る庭で

s.nakamitsu

庭草の露

(一)


「あぁ、なんて明るい色かしら」

 貴女は新緑に輝く庭を見わたして、夢うつつのように小さく感嘆したきりの長い沈黙。私はその気配に耳を傾けながら少し離れた池の辺で、貴女のために青い菖蒲をまた一輪摘みとった。それから顔を上げて目に写った光景に、思わず心中嘆息する。

 あぁ、それこそなんて明るい色だろう。胸元に贅沢なフリルをあしらった純白のドレスを纏って貴女は太鼓橋の上。まばゆい日差しが衣装に透き通った水色の影を落として、新緑を背景に白をなお白く輝かせていた。細い体を半ば欄干に預けては水面を覗き、かとおもえばすいと体を離してゆるゆると歩く。なんてゆったりとした仕種だろうか。その足取りは雲さえ踏み抜かずに歩けそうだ。繊細な細い手は、まるで誰か手を引いてくれる者を待つかのように所在なさげに揺れている。なにか思案しているものか、時折ほっそりした首をちょっと傾げてみせた。

 つい手を止めてぼんやり眺めていると、橋から降りて傍の茂みを観察していた貴女が、不意に顔を上げて私の名を呼んだ。慌てて取り繕ってみれば弾むように駆けてきて、小さな花を沢山付けたタイムの一枝を説明もなく私に差し出す。私は意図を掴みかねて戸惑いつつも、鋏を持っていた手でそれを受け取った。

 ドレスによく合う花飾りのついた白い帽子のした、風ですこし乱れた淡い金色の髪。それがひとすじ落ちかかった頬を仄かに上気させて、ちょうど今もう一方の私の手にある菖蒲の花のようにはっきりとした青色の瞳を、貴女はすいと細めた。

「神様のお使いよ」

 落ち着いた、柔らかな声でそれだけ告げて、またふらりと行ってしまわれる。改めて手元に視線を落とすと、星を背負った赤い甲虫が茎の裏からのろのろと姿を現したので思わず頬が緩んだ。

「お嬢様、あまり池に近付かれませんように」

 顔を上げて少し声を張ると、貴女は白い手をひらりと振って返した。薄紫色の花冠の先からてんとう虫が飛び立って、そよと風が香った。


 ふと思い出すのは先日のこと。

 早朝の温室で庭師から譲り受けた花の苗を植え替えていたところ、誰かがのそりと入って来たので庭師と思って気楽に振り返ってみれば、この場所にはめずらしい当主の姿であった。

 仕立ての良いブラウンの背広に恰幅のいい体躯を包み、艶のある明るい髪を撫で付けたその姿はいかにも貴族然として洒脱である。私は慌ててグローブを外し、続けて土で汚れた前掛けを外したものかと躊躇していると、当主はそのままで良いと手を振りながら話しだした。

「お前を離れに就けてから、あの子はずいぶん健康になったようだ」

 当主はすこし微笑んだようだったが、すぐに真面目な顔に戻って咳払いをひとつした。彼は豊かな髭を蓄えた顎を撫でながら続けた。

「あの子はお前のことを信頼しているようだ。執事の息子であるお前を見込んで任せてよかったと思っている。

 だが、今更何をと思うかもしれんが、専属で男の使用人をつけたのはやはり外聞が悪い。お前のことを信じているが念のためにな……あの子の縁談が決まりつつある。問題はないな?」

 灰がかった翡翠色の瞳が鋭く光るのを見ながら、この方はなんて残酷な自覚を強いるのだろうかとぼんやり考えた。私は努めて平静を装っていた。幸いにも当主は私の答えに満足げに頷き、最後まで宜しく頼むぞと言って去った。その場に残された私は再び苗の鉢に手をかけたが、自分が何をしていたのかをすぐに思い出せなかった。

 貴女の婚約の話が噂に上り出したころ、その時の鉢がひとつ枯れた。どうやら肥料の配分を間違えたらしかった。


 もうすっかり春だというのに、その日の夜は意外なほど冷え込み、貴女がまた風邪を召されるのではないかと思われて薪を惜しげなく暖炉に焼べた。リンデンとカモミールのハーブティーに蜂蜜を添えたものを持って居間に入ると、貴女は赤々と燃える火のそばの長椅子で、本を開いたまま物思いに耽っていた。私が磨き込まれた樫のテーブルにトレイを置いた時、貴女は不意に顔をあげた。東洋の花瓶に活けた菖蒲に目をやって、それから私の方をまじまじと見つめる。

「どうかなさいましたか……?」

 何となく決まりが悪くなり問うてみると、しばらく逡巡してから貴女は言った。

「ずっと不思議だったのだけど……なぜあなたは、私が好きなものがわかるのかしら。 私もあなたに何かお礼がしたくて……でも、私には貴方が欲しいものがわからないの」

 消えてしまいそうな小さな声だった。伏せがちな長いまつげの影が頬で揺れて寂しげに見えた。私は思わずその場に釘付けになった。おそらく間の抜けた顔をしていただろう。

 由緒のある貴い血統に加えて美貌にも恵まれたこの方は、しかし常に不幸の中で生きてきたようだった。理解も愛もなにか遠い憧れであるようによそよそしく人に接し、令嬢らしい華やかさや高慢さなどとは無縁といってもよく、謙遜によってではなく自尊心の低さ故にこうした発想をするのが常であった。そのことに気づいた時、私はこの方の支えになれるのならばなんだってしようと心に決めたのだった。

「……お嬢様、私は使用人です。貴女のお言いつけを守り、貴女が心地よく過ごすためにできる限り心を尽くし、貴女の腕にかわり、足に代わって働く事が私の勤めです。そのような事はお考えにならずとも宜しいのですよ」

 やっと気を取り直して私は答えたが、慎重になるあまり些か無感情に響いてしまったようにも思えた。

「貴方がしてくれたことに感謝したいだけなの。貴方が私のことを知ってくれたように、私も貴方の事を、少しでも知りたいと思うことは迷惑……?」

 貴女は珍しく語気を強めて返そうとしたが、言いながらそれが現実的な発想ではないことに気付いたらしく、打ちのめされたように言葉は弱々しくなって、最後はとうとう空気に溶けてしまった。

「お気持ちだけ、有難く」

 追い討ちをかけるとわかっていながらつれなく立場を守れば、貴女は今度こそ本当に泣きそうな顔をなさった。まるでそのまま消えてしまいそうに貴女の気配が薄くなるのを感じ、私は胸のあたりに鋭い痛みを感じて思わず視線を落とした。なんて痛々しいのだろうか、このような些末な者の言葉にこのように傷付いておられる貴女は。

 トレイからソーサーごとカップを取り上げて貴女に手渡しながら、私は結局慰めずにいられなくなる。しかし許された言葉は少ない。

「……お嬢様が幸福で心安く居られたら、私はそれで満足なのですよ。そのように案じていただける事がすでに私にとって最上の褒美でございます」

 貴女はすこし首をかしげて縋るように私を見た。そして貴女はそれきり黙ってしまわれた。夏の日差しが作りだす紫がかった影のような、黯然とした色の瞳だった。


(二)


 初秋の庭もまた花の盛りで、薔薇は再び咲き誇り、夏の残り香のような明るい色の花々がそこかしこを彩っていた。これから訪れる長い冬を前にして、ありたけの生命力で咲かんとするその力強さには畏怖さえ覚える。対照的にその頃お嬢様の憔悴ぶりはいっそ哀れなほどだった。

 今年ばかりはみな庭の賑わいに目を向ける暇もないほどで、唯一仕事熱心で聞こえる庭師が常と変わらぬ真面目さで世話を焼くばかり。私も庭の事は庭師に任せて、様々な雑事に忙殺される日々だった。婚礼の準備は整いつつあった。


 式が間近に迫る頃、貴女はとうとう伏せってしまわれた。ただでさえ忙しい中、夜遅くまで天体観測で無理をされたものらしい。

「お嫁に行ったらもうこんな事も出来ないでしょうから、これが最後ね」

 望遠鏡を弄りながら寂しげにそう言われて、私たちは諫めることができなかった。

 来客のために駆け回っているメイドに代わり、医者が帰ったあとの寝室に食事を持って入ると、貴女はゴブラン織りの天蓋のついた大きなベッドの端に身体を折って横たわっていた。

「起きておいでですよ。悪いけど、私ランドリーへ行かなくては」

 リタが囁いて入れ違いに部屋から出て行った。ドアは開けたままとはいえ、この時期に男の私がお嬢様と2人取り残されるのはいたたまれなさがあるのだったが、メイドたちは大して気にしていないようだった。信用されているという事なのだろうが、どことなく複雑な心持ちになる。しかしすこし待てばハンナが来るだろうと観念して務めて静かに盆を置いた。

「……如何ですか、ご気分は?」

「平気よ……もうだいぶいいの」

 柔らかな枕と毛布に顔を埋めたまま貴女は答えた。

 その声はふわふわと宙に浮くような妙な抑揚で、私は思わずため息をつきそうになる。

「嘘をつくのは感心しませんね。先程お医者様が、いつに無く熱が高いのでお辛いだろうとおっしゃっていましたよ……失礼します」

 額のあたりに軽く手を添えてみれば、はっとするほどの熱を感じて思わず手を引く。貴女は観念したように顔を覗かせたが、頬は上気し目も潤み、渇いた唇の隙間から苦しげに息を吐いている有様だった。辛さを打ち明けていただけなかった事実が、私の心にわずかな影を落とした。

「お辛い時には、どうか、そう言ってください……」

 なにか喉につかえた様に言葉は途切れがちになった。

「スープを……。できれば薬の前に食べておくようにとの事でしたが、この熱では……」

「……食べられるわ。お医者様の仰せの通りにいたしましょう」

 あなたはおどけたように言いながら、どこか居心地悪そうに私の顔を見上げた。


 ひと匙またひと匙と貴女の口元へ運びながら、親鳥が雛に餌を運ぶような心持ちとはこんなものであろうかと考える。貴女はよく体調を崩して、それも決して軽い病ばかりではなかった。人手の少ないこの離れでメイドたちと仕事を分かち合ううちに、私もすっかり看病慣れしてしまった。

 貴女は当初、人に看病をさせたがらなかった。自分の弱さを見せたくなかったのか、それともただ世話を焼かれるのが疎ましかったのだろうか。真意は未だにわからないが、ともかくそのせいで治る病さえ拗らせて、年中医者の世話になっていた。しかし次第に私たちを受け入れてくださり、強張っていた表情が少しづつ和らぐのに従って体調を崩すことも減ってきていた。

 食事を終えて薬を用意し食器を下げながら、懐かしい記憶を辿って感傷に浸っていると、不意に貴女が小さく呟いた。「久しぶりね」と。思考を読まれたような気がして、思わず「ご病気がですか?」と笑って誤魔化したつもりだったが、貴女は意外に真剣な眼差しだった。

「近頃は貴方とゆっくり話す時間がなかったわ」

「……出入りも多うございましたからなにかと慌ただしく」

「私、貴方に話したい事がたくさんあるの……今日は聞いてもらえる?」

 どこかおそるおそる、けれども期待をはらんだ声で、子供のように澄んだ眼差しで、病さえ嬉しがるかのようにそんな事を仰る。ああ、寂しい思いをされていたのだと私は得心する。それで先程は少し拗ねてみせたのだ。今は多分それを少し悔いて、私を気遣ってくださっている。その眼差しが私の存在を赦す。私はこんな時、この方の為だけに存在しているような気さえしてくる。

「時間の許す限り、お付き合いいたしましょう」

 言葉は幸福に響いて、貴女は花が咲くように微笑んだ。



 その日、私は主館おもやの使用人と同様に、エントランスの前に並んで貴女を見送った。貴女が現れたとき、私は思わず目を細めた。レースの重なった上品なドレスは、リタやハンナと一緒にああでもないこうでもないと言いながらみんなで選び、みごと一回で厳しい夫人のチェックを通過した衣装だった。やっと伸びた髪は美しく結い上げられてヴェールの下にあった。貴女は豪奢な馬車の前で足を止め、振り返り、自惚れでなければ……おそらく私を見てくださった。そして何も言わず微笑んだ。濡れたように煌めいた瞳と、引き結ばれた口元を私は見た。白百合にも似た透明に美しい微笑みを見た。しかしすぐにヴェールが揺れて、それを隠した。


 貴女が行ってしまったあとでリタから手渡されたのは貴女からの贈り物だった。充実のうちにその日が終わり、高揚と寂しさとが満ちた階下を後にして、部屋に戻ってから包みを丁寧に広げてみた。

 貴女が好む紺色の封筒に、金の飾り模様の縁取りがついた美しいカード、絹のチーフ、そして小さな日記帳。

 私が貴女と出会うより前の日付で始まるその日記には固有名詞が一切使われていなかったが、貴女の心のあり様が切々とつづられていた。

 二つ折りのカードを広げると、抑揚の少ない繊細な細い線が滑らかに踊っていた。


――明日になれば私はもう、あの庭の径をあなたと歩くこともなく、貴方が摘んだ草花を暖炉辺で眺める喜びもないのだと思うと寂しくてなりません。

 貴方が来る前の私は、星の輝きほど価値のあるものが地上にもある事を知りませんでした。貴方と歩く庭の道が、毎年ごとにどんなにたくさんの温かな思い出に彩られていったか、それがどんなに嬉しかったか、あなたは気付いてくれていたでしょうか。

 私がどんなに幸福に過ごしたか、あなたに知ってほしくてこれを置いて行く事にしました。中を見てもどうか笑わないで。ただ、私が貴方と過ごしたひと時のことを、できれば、どうか少しでも覚えていて欲しいのです。――


(三)


 貴女が暮らす離れを囲む庭は野趣溢れる造りで、細い径を覆うように草花が茂っていた。毎日でも違った発見ができるこの庭を私たちは気に入っていた。 ある朝、病み上がりの貴女のためにハーブを摘んでいた時のこと。珍しく早起きの貴女がそれを見て庭に出ていらした。とりとめのない会話のあと、突然沈黙が訪れたので顔を上げると、貴女は何やら思いつめた顔をして足元をじっと見つめていた。つられて視線を追ってみれば、群れて咲く鈴蘭の葉が、磨かれた水晶のような露を纏って輝いていた。そして、その粒が一つ二つと光りながらこぼれ落ちて行くのが見えた。

「……何だか私は葉の上の露みたいだわ」

 唐突に、貴女はそう言った。

「地面に落ちるまでの短い時間を、危うげに生かされている気がするの」


 私はぎくりとした。どうにかして貴女に幸福な人生を見出してほしいと尽くしてきても、この方の寂しさはこれほど根深い。せめてここに貴女のことを想っている人間がいる事に気がついて欲しかった。とっさに出たのは身の程知らずな言葉だった。しかし、偽りのない言葉だったと思う。

「では、私は茂る葉群れの一枚として、貴女ができるだけ葉の上に居られるように心を配りましょう。地に落ちてしまわないように。……もし、滑り落ちてしまっても、より居心地良い葉の上にゆけるように」

 貴女は少し驚いたように、確かめるような瞳で私を見た。それから蕩けるように微笑んだ。

「……今より居心地の良い場所なんて有るのかしら」

 それが、私が初めて目にしたお嬢様の笑顔だった。


 しかし実際にはいざとなって私にできることなどたかがしれていた。相手方の家族はお優しい方々だろうか、ここで暮らしたよりも幸せに暮らしておいでだろうか。まるで田舎の母のような心境……と言ったら貴女は笑ってくださるだろうか。

 私は再び主館おもやでの仕事に戻った。しかし何もかもが以前とは違って見えた。ふとした拍子に想うのは貴女のことばかりだ。この料理は貴女も好みそうだとか、この色はきっと貴女に似合うとか。そして、その度にもう貴女のために働く必要はないのだという現実に打ちのめされた。


 貴女の滑らかそうな頬に触れてみたいと、一度も思わなかったといえば嘘になる。細い肩を抱きしめ、思いの丈をありのまま打ち明けることができたらと思ったこともあった。持ちうるすべての美しい言葉で貴女を賛美し、無遠慮に瞳を覗き込んで愛を囁けたら。そうして、もしも貴女が明るい瞳で私を受け入れてくださったらどんなに幸福であっただろう。

 けれど貴女が持って生まれた様々な高貴なものを奪ってしまうくらいなら、やはりこの虚しさの方がずっと好ましかった。貴女から高貴なものを奪うということは、貴女から生きる術を奪うことに他ならないと思われたからだった。

 あの日々はひとときの夢。幸福な微睡みだった。そして朝露の輝きのように儚いものだった。貴女が通り過ぎたあと、私は乾いて緑を失ってしまったような気がする。けれど私は思い出を糧にして土の中に生きることができるはずだった。そうするより他にできることは何もなかった。

 ふと窓に目をやると、冬の寂しい庭は西陽を受けて温かな金色に染まっていた。その奥で、貴方の居ない離れはすでに森の陰に入り、群青色に沈黙している。あの場所には、今は誰も覗くこともない望遠鏡と本の山だけが残されて悲しみにくれているはずだった。

 しかしいずれ日はまた高くなり、花々の咲き乱れる季節がくるだろう。庭の草木に露が降りて、朝日に輝くのが見られるだろう。

 庭師は変わらずあの庭を美しく手入れし、私も隙を見てそれを手伝ってはついつい貴女が好みそうな草花を増やしてしまう。いつかあなたが帰っていらしたら、あの庭を見て頂こう。あの頃と変わらず、むしろより美しく輝く想い出の庭を、きっと、芳しい青葉の薫りのなかで。



 了

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