怒声の中でほのかに笑いながらソフトクリームを食べていたい
十代目鮭場小桜
第1話 ずっと探しているもの
生きとし生ける者、もこもこの頭の中の夢、希望、あるいは嬉しいこと、もの、そういったあれそれを実現したい、やりたい、楽しんでいたい。そういう気持ちってあるよね……と私は密かに笑っている会社のトイレの中でひとり、今日もここはプライバシーのサンクチュアリであり続けながらご不浄。ひとりの冗談にも慣れてしまいました。夢や希望と言えば私にとってただひとつ、頭の中の空想であります。夢のごとき空想の世界にひと日中浸っていたい、まるでミルクの中のパンのやうに。といって私は別にパンをミルクに浸して食べたことはないのだけれど、ほほっ、オレオのパッケージ思い出す。マクビティーフォーメン。そういって、そうひとりごちてわたくし、ビーグル犬のキャラクターの描かれた腕時計そっと確かめる。ああもう10分も過ぎていてこれ、同僚に白い目で見られてしまう。心苦しいことおびただしい。誰か、誰か世界規模のトイレ作れ。
トイレの扉をそっと開け、他に客のいないことを確かめてオレンジ色の照明の下、手洗い場に出る頃にはもう顔がきちんとしている。空想にふけってはにやにやしているあの名状しがたい何者かの私は消えている。鏡に映った真っ黒な巨大なナス――名状できている――をじっと見やった後、いそいそと廊下に出ると、正面から美しい女人がしのしのと歩いてきて私をチラと見つめ頭を下げた。私も彼女に合わせてそっとお辞儀し、そうして二人の間に電気がチリチリと走る。20アンペア。アクションとリアクション。そうこれ、つまりアガペー。マナーやルールとは善意のもとに成り立っているのだ。となんだか不意に思って、社会って暮らしやすくできてるんだなあと先人の皆さんにぬかずきたく思う次第。愛の挨拶――というとはっきり言ってエグいから、この女人のことはもう書くのはやめて、廊下をぴたぴたサンダル鳴らして歩いて作業場にたどり着くと、やはり同僚の一人の、ちょっと太った額井さんが私をひたと見つめ、椅子にふんぞり返って「うんこか」と申し述べる。これが悪意である。
日中はぱりぱりと仕事をすることにしている。一生懸命やっていれば神様はきっと私によいことをしてくださると信じること。これが仕事を頑張れる秘訣であるのですが、私達のリーダーであるところの川岡さんが唐突にやってきて私のパソコンを覗き込み、
「あのね鮭場さん。君、ちょっとミスしちゃったよ」
奥歯に物が挟まって口がうまく開かないみたいな感じで話しかけてくれる。気遣いなのか皮肉なのかはっきりしやがれこんちくしょう。とは思うものの、私だって社会人です。言い方云々の前にミスをはっきり認めましょう。言い訳なんてかっこ悪いです。ミスは誰だって起こすもの。大事なのは後始末。進んで灯りをつけましょうの心なのです。
「すみませんでした。今後気をつけます。本当に、すみませんでした……」
「いや俺、何のミスか言ってないんだけど……」
「神は死んだ」と言ったのはどなたでしたでしょうか。よく思い出せませんが、たぶんその方も、早とちり名人だったのでないかと愚考致します。そのうえで具申致しますが母上、何故私を生み給うた……? 我が生の根源を呪ってみても事実は微動だにしませんね。こういうときは頭の良いふりをせず、馬鹿正直に聞きましょう。頭を下げ、自分の悪い点をはっきりと教えていただくのです。
「すみません。早とちりしてしまいました。あの、私はなんのミスをしてしまったんでしょうか……」
「どうでもよいことなんだけれどね、ほれ……このエクセルファイルの……」
と言いつつ川岡さんは作業済のエクセルファイルを開き、
「A1セルを選択して保存することになってるじゃん? これがA2で保存になってたよ……」
「ああ、はい」
「それだけだよ……」
「気をつけますね」
「うん……」
私、思うんです。
マジでどうでもいいな。と。
そして更に思考を重ねるのです。
こういうどうでもいいことが積み重なって、どうでもよくない事が出来上がっているんだろうなあ。と。
だからこの私の、ケンミジンコのような小さなミスも、やはり正式に本式に本格的ミスなのでしょう。
唇と唇が触れ合っただけのキスとも呼べないキスがやはりキスであるように……。
急に心に詩が降りてきてしまって、もう頭の中には夢のようなあれこれがやってきます私、空想の中に生きていますもう、現実に戻れないかもしれませんこうやって、20年以上も現実から逃れ、逃れて遠くまで来てしまいました東京ジャングル。歩くだけでも楽ではないですね、人という名の猛獣が、今日もあちこち跳梁跋扈。嗚呼、生きていくだけでも奇跡でございます!
そうして退社までぽつりぽつり仕事をしておりますと、終業のベルががちゃがちゃ鳴りまして、ようやくお役御免ということになります。ため息ひとつ吐きまして、川岡さんと額井さんに「お先に失礼します」と挨拶をして、会社を飛び出します。
自由だ!
私の心に溢れる開放感。
これを得るために我々は労働をしているのだ。
就学しているのだ。
これが為に、生きているのだ。
生きて、生きて、生き抜いてやろう!
私は帰りの電車の中でそんなことを考えながら、大好きな小説を、スマートフォンで読みました。
生きていること。生かされていること。社会、そしてミス。からのキス。解放。そういったあれこれを反芻しながら、私の街まで帰って来ます。
狭いながらも喧騒に満ちた駅前には数多くのお店がありまして、私の目を楽しませてくれます。古い八百屋さん、小さくて綺麗な花屋さん、ネオンがぎらぎら輝いているパチンコ屋さん、コンビニの本棚の前にはたくさんの人が並んでいて、どこからかやき芋のよい香りがしてきて、マクドナルドから飛び出してきた小学生の月見バーガーについて会話が秋で、立ち飲み屋の前に、黒いうさぎが一匹、うずくまっています。
えっ?
と思いました。
どうしてこんな往来にうさぎがいるのか。
うさぎは、飲み屋のテーブルになっているドラム缶の横で、鼻をぴくぴくさせていて、実におとなしい。逃げる気配もないし、人に怯えている様子もない。
飼われているのかと思い、うさぎの周囲を見渡してみるけれども飼い主らしき人はいない。
しかも客はその異様な存在を見慣れているのか、注意を向ける様子もない。
不思議なこともあるものだと思ってその脇を通り過ぎようとしたその時、
「こっちに来い」
と男の低い声が耳元で聞こえる。
私はひどく驚いて声のした方を見る。
誰も居ない。
酒を呑んで顔を赤くして騒いでいる人達がいるばかりで、私に話しかけそうな人なんて一人もいなかった。
何が起きたのか判断がつかなくてひとり、雑踏の中で少し立ち止まってから、ふとあのうさぎが、なんて思ってその姿を探すと、あれはもういなくなっている。
その出来事が何を意味しているのかなんて私にはわからない。
けれど、あの時確かに聞こえた声は、あの時に見た黒うさぎは、空想を飛び越えて現実に接続してしまった何かだと思うんだ。
私はずっと、そういうものを探している。
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