うしろとらやまいだれ
伏潮朱遺
第1話 猛き獣はジュラシック
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辞表を出しに行ったら、院長は堂々と昼寝をしていた。起こすのも忍びないが、こちらとて無限に休憩時間があるわけではない。
頭を掻く。今日こそ湯船に浸かりたい。
「すんません」
書類に眼を通しながら眠ってしまったのだろう。ペンを持った手が印刷物の上で所在無く待機したまま。顔は天井と向かい合って、涎がいままさに流れ落ちようとしている。首が疲れるだろうに。
肩を揺する前に、その気の毒な首を戻すことにした。
来客用のソファだってある。仮眠用のベッドだって、院長専用は硬くないし痛くない。何故知っているのかというと、何度か貸してもらっているから。
あんな板で寝れるか、と文句を言いにいったら、じゃあ使う?と思いがけない提案が返ってきた。以来、当直の日はそこを借りている。
そこで寝ろよ。
俺は今日当直じゃない、珍しく。
「提出に参りましたよ」デスクに辞表をセッティングする。院長が眼を開けたときに真っ先に眼に入るように。
あ、駄目だ。入らない。
老眼だった。
老眼鏡を。
あっちこっち散らばった書類山脈の中から発見したはいいが、雪崩が発生した。なにやってんだか。辞表が雪崩に巻き込まれてしまった。
頭を掻く。
どうしてこう、書類は白い紙で作るんだ。字が黒いからか。字を白くすれば、紙は黒くなるんじゃないだろうか。どうだろう。
とか莫迦なこと考えてないで、さっさと辞表を救出しないと。
今日はそのために来た。短い休憩時間棒に振って。
「なにやってんの?」院長が覚醒した。
「いや、お構いなく」
「構いたい」
「いいえ、ホントお構いなく」
院長は大きく伸びをする。お昼寝時間を終えた園児のようだった。涎に気づき、慌てて白衣の袖で拭う。
「見た?」
「救出活動に必死で」
「ならいいけど」
それにしても、なかなか見つからない。何が悲しくて、提出目前の辞表を、提出すべきデスクの上で紛失しなければならないのか。
しかも提出すべき人間は眼の前にいて、心配そうに見守ってくれている。
「手伝おうか」
「いえ、そんなお手を煩わせるほどの」
「変な敬語使わなくていいよ。言ったじゃん。君には使って欲しくないって」
「ですが」
院長は院長だから。
「そうゆうとこ、そっくりだよね」
院長は、俺の親父と同僚だった。ここの病院じゃない。昔、どこかの研究所にいたとかで。そのとき多大に世話になったとかで、俺に特別に目を掛けてくれている。
どれだけ暴れようが、どれだけ上に楯突こうが、クビにならなかったのは、俺の実力だけじゃない。楯突いた上のさらに上にいる院長がフォローしてくれたからだ。
「ご恩を仇で返すようで誠に心苦しいのですが」
「敬語やめないと話さないよ」
「今月一杯で」
「寿退社?」
「まさか」
「だよね。結婚できないもんね」
深い意味を探らないことにした。
いま探るべきは白い紙の下の下。
なんで、ないんだ。
雪の下の山肌だって見えてるのに。
「経緯はいいや。一番の原因はなに?それだけ聞かせて」
待遇も給与もまったく不満ではない。それは院長もわかっている。
たがかそんなことで、俺が辞めるとは思っていない。
「いじめられてんの?」
「むしろいじめてるほうすね」
「敬語やめてったら」
退けよう。
白い塊をまとめて床に放る。
一瞬、後ろのテーブルと迷ったのだが、院長の目線がゴーサインを出していた。
「別にいいよ、そんな紙。僕におべっか使いたいだけなんだから」
「言いますね」
「だってほんとのことだし、あ、敬語」
なんで見つからない?
A4からA4を探せってんじゃない。A4からそれ以外を見つければいい。たったそれだけのことがなんで。
「ねえ、そうゆうのは、またあとで出してくれればいいよ。なんで辞めるの?それが聞きたい」
「医者を辞めたいんで」
「ここに不満があるんじゃなくって、医者を辞めるためには病院を出てく必要があるってこと?そうゆうこと?」
「いままでお世話になりました」
「今月一杯かあ。寂しくなるね」
「親父に言いますか」
「会う口実になるね。そうしよっかな」
「止めると思ったんすけど」
「止めたいよ。でも止めたって止まんないでしょ。だから」院長は、白衣のポケットから白い長方形の封筒を取り出す。
二本の指で挟んで。
取り返そうと手を伸ばしたが、院長が手を翳すと。
何もなくなっていた。
「どう?子どもに受けるんだよ」
「止める気満々じゃないすか」
寝たふりだったか。
この人はもう。
ガキみたいな人だから。ガキがそのまま大きくなったような人だから。
「あの、鞍替えしたってのは」
この人は昔、精神科医だった。
「艮蔵(カタクラ)君の助言。そうしてよかったと思ってるよ。確かにそうだった。違和感はあったんだ。言われてすかっと靄が晴れたよ。そっちはね、艮蔵君がいるから。でも、君の領域には君以外にいない。いなくなったらどうすればいい?」
「紹介しましょうか」
「代わりはいないよ。考え直せない?」
「決めたことですから」
「ゆうと思った」
諦めたんだか未練があるのか。
院長は引き出しから、黄緑の封筒を出す。
開封済みだった。
差出人は見えなかった。院長に宛てたってことだけわかった。
「誰からだと思う?」
「俺に寄越すべきじゃないすかね」
「僕宛だ。違うよ。彼じゃない」
裏返してくれれば一目瞭然なのだが。
便箋一枚。
わざわざ広げてくれた。
「君がここにいること知ってたんだ」
「そうみたいすね」
大学の後輩からだった。
1
駅から真っ直ぐに延びる国道を脇に逸れると、火箸を思わせる鉄柵の向こう。呪いみたいに蔦が絡まったレンガ造りの教会には、花のない薔薇園。
車を停めて思わず見入ってしまった。
やりかけのゲームがよぎる。ここがモデルじゃないだろうな。
目的地ではない。中継地点。目印だ。
教会が見えたら次の信号を、それとは反対側に折れる。
そうだった。
便箋をもう一度見直して、助手席に放る。
道なりに山を上って、怪しげな看板をいくつかやり過ごし、無意味な信号で停車する。一台も通りゃしない。それでも道交法を律儀に遵守しようと努力しているあたり、疲労の限界で何かのネジが緩んでいるとしか。
遠かったんだ。
電車で来るべきだったのだ。でも車で来たかった。
手紙にもそうあった。
あなたは車で来たがるでしょうから、と。
電車での案内を書かずに、車でのアクセス方法だけを同封しておくあたりは、本当にさすが。無駄なことはしない。必要なことへの労力は惜しまない。
あいつはそうゆう奴だった。
巨大な建物が眼に入る。そこまでストレイト。対向車は一切なし。
だから、車で来たかったんだ。
信号が青に変わると同時かフライング気味でアクセルを踏み込んだ。眠気とだるさが吹っ飛ぶ。
これだよこれ。
こうじゃなきゃ。車ってのはスピードを出すためにあるんだ。
駐車場はただっ広い割に、車は一台しかなかった。駐車場じゃないのかもしれない。余ったスペースに車を駐めてあるだけで。
確かに白線も車留めもない。莫迦みたいに中央に駐めてやろうかと思ったが、ぶつけられても文句が言えないので隅に寄せた。
後輩の車だろうか。なによりスピードが出なさそうだった。
晴天。雲を見つけるほうが至難の業だ。
標高のせいか涼しくて清々しい。暑がりなのでちょうどいい。夏はまだだが半袖で来て正解だった。
病院というより研究所みたいだった。入り口らしい入り口は、半円のトンネル。そこに白衣の男が立っている。
挨拶のつもりで片手を挙げた。後輩は頭を下げる。
「変わらないな」
「先輩こそ。お元気そうで」
心なしか笑顔がやつれ気味。眼も充血して腫れている。
すごく見覚えがあった。
何日もまともな睡眠が採れないとこうゆう顔になる。
「ヤバいのか」
「車で来てもらってよかったです」予定より早く着いた、ということだ。
当然。
セキュリティ上、入り口がトンネルになっているとかで。フットランプが先回りして点いてくれるので、見張られてるみたいで気味が悪かった。
「見張られていますよ」後輩が指差した先に。
「なんのためのカメラだ」
「見ていただけましたか」
便箋は一枚だった。
もう一枚は。
「お前じゃなきゃ断ってる」
「感謝します」
五〇メートルくらいだったと思う。トンネルの出口は建物の屋上につながっていた。斜面に建っているのだろうと推測。
結局トンネルが具体的にどうセキュリティに貢献していたのかわからなかった。ロック解除のための動作がなかったのだ。
「先輩の存在そのものを記憶させるんです」後輩が言う。「姿かたち、外見上の特徴、声紋、歩行の癖、その他諸々。外からわかる、且つ測定してわかる先輩のデータが建物自体に記憶されました。ですから、面倒なキィ操作や指紋認証なんかを一遍に省略できます」
「そりゃ楽だが」
「トンネルさえ通過してしまえば、誰だって入れてしまう。ええ、その通りです。ですから、僕の存在が不可欠なのです。トンネルは、僕と並んで歩かなければただのトンネルです。お節介なフットランプも点きません」
「病院じゃねえだろ」
「ベッドは二〇以上ありますけどね」
「そういうことを言ってんじゃない。何をする施設だ」
「ご案内します」
壁の前に後輩が立つと、音もなく切れ目が出来た。
自動ドアとそう変わらない。ストレスなく開く。
つい勤め先と比べてしまう。ここのシステムを真似させてもらえばどうだろう。いや、もう遅いか。俺が辞めた後に改善されたところで、俺に何の利益もない。
エスカレータの手前に受付のカウンタがあったが、無人だった。後輩が招待しない限り来客はないのだろう。
招かれざる客はここまで辿り着けない。人件費の削減にもなる。ただ、わざわざ迎えに行かなきゃならないのが面倒だ。
「ここ、お前以外に」
「常勤は僕ともう一人。非常勤が一人の計三人ですね」
「患者は」
降りたフロアはガラス張りで、外が見える。
人工的な池と滝。噴水もあった。
後輩が足を止めて手を振る。ガラス張りの向こうに。
飛び石に腰掛けて本を読んでいる少女。両サイドの髪が顔にかかって表情はよく見えない。後輩に気づいてちらっと視線を動かしたが、またすぐ手元に落ちた。
「ああゆう子なんです」後輩が言う。
「患者か」
「あの子じゃありません」
だろうと思う。後輩が何日も徹夜しなきゃいけない状況になってるんだから。そんな奴が暢気に外で読書なんかしてて堪るか。
聞きたかったのは、彼女がここの患者なのか、ということで。俺が診るべき患者なのかどうかじゃない。そんなのは見ればわかる。
後輩はわざと返答を回避した。
「さっさと会わせろ」
壁の切れ目から外に出る。階段で水辺に下りられるようになっている。後輩はそちらには行かず、上っている階段のほうを。
「ご案内します」
案内というのは施設の紹介のことじゃなかったのか。
「おそらく先輩が考えている方法では彼は治りません」
「は?」
階段を上がりきると、またも半円のトンネルが。さっきよりも小さい。高さはそう変わらないが、二人並ぶことは出来ない。避け違いも出来ない。
「俺が考える方法なんか」
「でも先輩にしか治せません」
オペで治せない?
じゃあどうしろと。それこそ俺の専門じゃない。俺の専門は、切って貼って繋ぐ。塞いで終わり。同封されてたカルテのコピィを見る限り、その方法がもっとも確実で。
それ以外にどうしろと。
「なんで俺にした?俺に頼めば無下に断らねえだろうとかそういう」
「違います。先輩にしか治せないんです」
後輩が声を荒げるのなんか初めて見た。こいつはもっと温和でどっちつかずで。優秀だけど決して鼻にかけず謙虚で、前に出ていくこともなくどちらかというと後方からのサポートを得意とする。医者になりたかったのだって、誰か特定の人間を助けたいというよりは、広く遍く沢山の人間を救いたいとかいう博愛の精神からの。
それがどうだ。これじゃあまるで、その患者をなにがなんでも救いたいとでも言いたげな。
こんな奴だったか。
「僕があれこれ言うより、実際に会ってもらったほうがいいでしょう。だからあえて何も言わなかったんです。この先が彼の部屋です。これも先ほどと同じ構造で同じ目的を背景に造られていますが、より精密に、より深部のデータを求められます。音声で質問がされますので、それに正直に答えてください。嘘を吐いたり本心でなくてもいいですが、できるだけ偽りなく正直に答えたほうが、後々のためにも」
「お前は」
「いないほうが円滑ですので」
「そうじゃなくて、さっきと同じならお前がいなきゃ」
「先ほどのデータを下地に、こちらのデータ採取が行なわれます。ですから、あのトンネルを通過していれば大丈夫です。僕がいないからといって、トンネルに入った瞬間に両側の出入り口が封鎖されて毒ガスが撒かれるなんて恐ろしいこと、起こりませんから」
「そういうこと言うか?」
入りづらくなったじゃないか。
「大丈夫です。起こりません」
「そんなに大事か」
「僕は主治医です。そう思うことに何か不都合でも」
トンネルを二重にしてでも、さとしが守りたい患者。助けたい患者。
カルテに顔写真を付けなかった理由はすぐにわかる。
写真があったら俺は、ここには来なかった。
2
俺が医者になったのは、ならされたから。なってほしいと言われたから。
精神科医の親父にでも、小児科医のお袋にでもない。
親父の浮気相手は、親父の担当患者だった。
そっちが先じゃない。運悪く俺がデキたことがわかって、親父は仕方なくお袋と結婚した。愛はなかった。責任を取る気もなかった。お袋が結婚を望んだから、親父は結婚した。形だけ。
子育てにはまったく関わらなかった。ぜんぶお袋任せで、親父は仕事に打ち込んだ。お袋も医者になりたかったのだが、俺を育てるために大学を辞めた。そこにかこつけて、親父はさらに医者の道を突き進んだ。
親父がしたことは、俺の原材料を製造ったことと、お袋の代わりに医者になったことと、親父の親父に頭下げてカネを借りたこと。
そして、自分の患者を孕ませたこと。
『あなたの父親は誰ですか』
人工的な声が言った。人間の声だって人工的なんだろうが。
「
正解のファンファーレもハズレのブザーもない。これじゃわからないじゃないか。
俺の個人情報なら然るべき場所に行って、然るべき手段を経れば簡単に手に入るだろうが。採取したいデータとやらは、質問の答え自体じゃないのだろうか。
『あなたの母親は誰ですか』
「艮蔵あづさ」
『あなたの名前はなんですか』
ちょっとイラっとした。これプログラムしたのがさとしだったらあとで殴ってやる。
『答えられないのですか』
「うるせえ。としきだ。艮蔵としき」
なるほど。
わざと馬鹿馬鹿しい質問を投げかけて、それに対する反応を見ている。
性格。短気で怒りっぽい。
『本当ですか』
「どういう意味だよ」
『あなたの名前は艮蔵としきで間違いないですが、あなたの父親と母親は』
「だから、どういう意味だっつって」
『あなたがそう信じているのであればそれで構いません』
なんだそりゃ。
俺の父親と母親は別にいるってのか。何を今更。
「知ってんなら教えてもらいたいんだがな」
『知りたいのですか』
まあ、確かに。知らなくていいことのほうが多い。
「親父もお袋も本当の親父とお袋じゃねえのか」
『質問の意味が不明です』
「どっちも違うのか、どっちかが違うのか」
いちいち癇に障る喋り方を。コンピュータ相手に怒ったってどうしようもないが。
『あなたは艮蔵としあきに似ていない』
「へえ、よく知ってるな」
『艮蔵あづさにも似ていない』
「それで、俺の原材料があいつらじゃねえと?」
『あなたは
フットランプが消える。先回りの意味がなくなった。一時的に。
足が止まっていた。
さっきより長そうだった。まだ出口の光が拝めない。
「知ってんのか」
『会ったことはありません』
参ったな。この先に進みたくなくなってきた。
『行かないのですか』
「なあ、俺のことどんくらい知ってるんだ」
『あなた以上にあなたのことを知っている人間は一人しかいません』
こいつをプログラムした人間に、一人だけ心当たりがある。
俺はそいつに会いに来たわけじゃない。こんなところで会えるだなんてことも思っていない。でももしこの先に待ってるのがあいつなら、俺は。
帰りたい。進みたい。板に挟まれる。
『あなたは艮蔵としあきを怨んでいますか』
「怨むだけの根拠はあるんだがな」
怨めないだけの根拠も同じくらいあるのがなんとも。
親父は本当にその患者を愛していた。患者もそれ以上に親父を愛していた。
それでいいじゃないか。順序を間違ったのだ。お袋よりも先に、その患者に出会っていれば何も間違いが起こらなかった。俺は生まれるべきでなかった。
『あなたは艮蔵あづさを怨んでいますか』
「どうだかな」
女手一つで育ててくれたのは感謝する。感謝してもし足りない。だが、お袋も俺を捨てて出て行った。別に男を作って、そいつとの子どもを連れて何事もなかったかのように戻ってきた。怨むというよりは、もうどうでもよかった。
俺の存在がそもそもの根源なのだから。
なんで産んだんだよ。
「滅入るような質問ばっかしやがって。言わねえぞ」
『あなたは東海林あづまが生きていると思いますか』
「そりゃ希望か?いい加減にしねえと」
フットランプが一斉に点く。出口の光はやけに蒼白かった。
ふざけた声はもうしない。
後輩の真似をして壁の前に立ってみた。切れ目は出現しない。代わりに、モニタが起動した。目線よりやや低い。腰を屈めなければ光が反射して見えない。
砂嵐。
「いんなら開けてくれ」
「艮蔵先生でスね?」
さっきの声と同じだったらモニタぶっ壊してやろうと思った。
スピーカはモニタに内蔵されている。画面から声が聞こえた。
砂嵐。
「開けろって」
「本当に艮蔵先生なのか試しまス」
なんか引っ掛かる。
ス、の音が。上手く発音できてない。歯と歯の隙間から空気が漏れて、ワンテンポ遅れて聞こえる。さしすせそ全般に同じことが言えそうだった。
「試すもなにも俺は」
さっきのトンネルでの質問が奴に聞かれてないことを祈りつつ。
「ユリウス博士の息子の名前は」
「いねえよ」
「そうでスか」
砂嵐が消えて、壁に切れ目ができた。
いまので合格か?
黒い部屋だった。真っ暗なのかと思ったが、部屋自体が黒い。広いのか狭いのか、床があるのか壁はあるのか天井はあるのか、黒いだけでこんなに不安になる。一歩踏み出したらそこは底なしかもしれない。
「ようこそ」
部屋の中央に(中央かどうか確証はないが)白い塊が。それが白衣だとわかるまでに、部屋中の空気を吸い尽くしてしまったかのような嫌味な錯覚。
思い出さないように。思い出さないようにしているが、無理だった。
無理だろう。
この黒じゃ。
「先生がいま考えていることを当てまス。博士のことでスね」
「だったらなんだ?」
当てられたことに特に不満はない。今日初めて会ったはずのわけのわからないガキに意図も簡単に見抜かれたことでもない。
「似てまスか」
人工的な声が聞こえる。あなたは似ていない。
あなたは似ていない。
あなたは似ている。似ててなにが悪い。
「投影でス。気づいていまスか」
「んなこたどうでもいんだよ。お前は」
「博士とどんな関係なのか、先生は気づいていまス。ただ認めたくないだけでス」
いちいちいちいち。
あいつとおんなじ面で、あいつとおんなじ声で。
あいつみたいな喋り方じゃないだけまだいいが。
「似てまスか」
「似てねえな。紛いもんだ」一歩踏み出す。二歩三歩。
白い塊を見下ろす。
そいつは椅子に座っていた。黒い椅子。同じ色の眼が俺を捉える。
「どこが病気だって?」
「僕は博士に成り代わりたいのでス」
「そりゃ無茶な相談だな。専門外だ」
「先生にしかできません」
「じゃあな」
来るんじゃなかった。
「帰るのでスか」
医者としての最後の一ヶ月をこんな奴のために割きたくない。あの世に旅立とうとしてる人間を、胸倉摑んで無理矢理こっちに呼び戻してたほうがまだマシだ。
さとしの奴に一発お見舞いしてやらなきゃ気が済まない。カルテ捏造までして、騙してまんまと足を運ばせて。来てみりゃなんだって?成り代わりたい?
死ねよ。
「博士は死んだのでスよ?」
「だろうな」
「博士の代わりが必要だと」
「そう言われたのか。主治医に」
「望まれて生まれてきました」
「そうか」
俺とは反対だな。
トンネルを逆走して、さっきのガラス張りのフロアに戻る。トンネルの出口が塞がってるかも、と内心構えてたのだが。
いねえ。水辺を見下ろす。少女はまだそこにいた。
「おい。ちょっと聞きたいんだが」
「いまいいところなんだけどなあ」彼女は億劫そうに髪を掻き上げる。目線はページに貼り付いたまま。
「どこ行ったか知ってるか」
「そこにさ、エレベータがあるでしょ。テーブルがあるじゃん?変な壷が飾ってあって。え、あ、違ったな。そこじゃない。どこだっけ。ええっと」
後ろを振り返ると、確かにエレベータもテーブルも変な壷とやらもあったが。
「そこがなんだって?」
「内線があるんだよ。でもそこじゃなかったな。どこだっけ。あれ」
彼女はひどく混乱してるみたいだった。両脚を水面に振り下ろすのでばしゃばしゃとしぶきが飛び散る。本はすでに大量に水を吸っている。全身がずぶ濡れになる前に静止したかったが。
「内線だな。わかった。助かった」
エレベータの周りも、テーブルの下も見たが電話機らしきものは見当たらなかった。残るは変な壷だが、陶器。大きくもなく小さくもなく、しかしこれといった用途が思い当たらない。瑠璃色で文様が入ってる。未解読の古代文字みたいだった。彼女の言う「変な」理由が特に列挙できない。口からコードが延びている以外は。
ここか。手を入れると硬いものに当たる。
電話機。
なんだってこんなものを。
裏に内線番号の一覧が付いている。親切すぎる。さとしの名前は発見できなかったが、所長室、というのが目に付いた。
三桁。すぐに繋がった。
「いまどこだ」訊いてから気づいた。所長室に掛けたんだから、所長室にいるに決まっている。「さとしか」
「艮蔵君だね?」聞いたことない声だった。電話口の声色というのは至極不明瞭なのだが、直感でそう思った。
艮蔵君?俺をそう呼ぶのは。
「もしや所長さんで?」
院長と。
「どこに掛けたの? 僕が出なくて誰が出るわけ」
でも院長じゃない。院長はもっとガキっぽい。
「すいませんでした。さとしを探してて」
「しばらく顔を見てないね。何か用?」
「どこにいるかわかります?」
「急ぎの用」
「はい」
カタカタ。キィを叩く音に似てる。
「回診中だね。マイナのとこだ」
「なんでわかったんですか」方法が気になった。
「早く行きなよ。行き方は」
ガラス張りの反対側の壁。不透明。
「そっか。君だけじゃ開かない」
「急いでいるんです」
「君だけじゃね」
「お願いします」
カタカタ。キィを叩いている。
「艮蔵君だからやってあげるんだからね」
「ありがとうございます」艮蔵君だから?
受話器を置いて、壁の前に立つ。
遅い。
切れ目を抉じ開けて中に。
床も天井も黄緑だった。さとしが院長に送った封筒に似ている。やや明るいかもしれない。煌々と輝く青白い明かりのせいかもしれない。
切れ目の入った壁を見つける。その前に立つまでもなく、さとしが出てきた。傍らに少女が。彼女がマイナとやらだろうか。
黒く長い髪。全世界に興味関心があるが、とっくの昔に理解してしまった。そんな眼だった。さっきの少女とほぼ同じ年代だろうか。黒髪の少女のほうが幼い印象を受ける。
「所長ですか」さとしは、俺が単独でここに入れた原因を尋ねている。
「悪かった。でも」
さとしは怒っているわけではなさそうだった。単に自分が想定する順序を狂わされたことに焦りを感じている。1の次は2、2の次は3、といった規則正しい手順を好む。
「ごめんね。先に行っててくれるかな」さとしは少女に言った。
「艮蔵先生?はじめまして」
手を差し出されたので応じたが、さとしはいい顔をしなかった。
ひんやりと乾いた手。
「あとで紹介するから」
「ゆーずー利かないなあ」少女は口を尖らせる。
少女が壁の切れ目に吸い込まれるのを待って、元来た壁を抜ける。
「一緒だとまずいのか」
「どうでした?」
そうだった。それを揺さぶるために。
「殴りますか」
「なんとか怒りは治まった。でも騙し討ちはひどいんじゃないか」
「そうでもしないと先輩を呼べませんでしたので」
歯向かうようになるとは。
何年ぶりだったか。さとしとは。大学出た後一回も会ってないから。
「昔話をしたくて呼んだわけじゃありません。やっていただけますか」
「やるったって。そもそも無理だろ。なりたいとかって。なりたくてなれるもんじゃ」
「そういう研究をしています。ここで扱っている研究の中の一分野ですが」
「不毛すぎだ」
「実らせるために先輩がいます」さとしは、白衣のポケットから通信機器を。受け取ろうとしたら後ろに隠された。
「なんだよ」
「お持ちのものと交換です。ここでは使わないで下さい」
「まだやるなんつってねえだろうが」
「彼を見てどう思われましたか?それが答えです」
「一日くれねえかな」
「ここに来た時点で承諾の意志を認めました。あとは先輩がご自身の感情とどう折り合いをつけるか。それだけです」
やりたくない。
なんで、俺が。俺にしか出来ないのはわかってるが。
俺がやらなくたっていい。
俺じゃなくたって。なにも俺にやらせることは。
「嫌なんだ」
「受け取ってください」
「全部忘れるから帰らせてくれっつったら」
「滞在されると、そう伺いました」
何もしなくてもここにいなきゃなんないのか。
だったら、なんかしてやろう。他の方法があるはずだ。なにか他の。
「誰とも連絡取るなってことか」
「外部に漏らさないでほしいということです。どうしてもその必要がある場合は、外線をお貸しします。これで僕を呼びつけてください」
がっちり監視下に置かれるってことらしい。
唯一の外との連絡手段と引き換えに得た機器は存外重かった。仕事で使うあれとおんなじもんだってのに。
3
建物は3階建て。
エントランスとなる3階には、特に何もない。トンネルに直通してる以外には。無人の受付と、2階に繋がるエスカレータ。エレベータもあるが、俺には関係ない。
止まったらどうすんだ。
そうだろ?
2階には、ガキどもの部屋がある。あえて病室といわないのは、あいつらが病人とは思えないからだ。
水辺で本を読んでいる少女は、日がな一日そこにいる。ふと見ると必ずそこにいる。暗くなって手元の字が見えにくくなるとそそくさと自分の部屋に帰る。のぞいたことはないが、やっぱり本を読んでいるのだろう。睡眠を採るのかどうか不明。俺が起きるとすでに水辺にいる。
名前をイコと言う。さとしから聞いた。
「彼女は最年長です。若く見えますけれど。話しかけにくい印象を与えますが、周囲を拒絶しているわけではありません。話しかければきちんと答えてくれます。ただ、彼女の容量を超えた領域に及ぶと、途端混乱します。充分配慮してあげてください。彼女が知っているのは現在のことだけです。過去のことと未来のことは彼女には馴染みません」
「内線がどこにあんのか訊いたら取り乱してたが」
「内線は彼女の手元にありません。彼女は記憶を辿ったのです。過去の記憶を。内線がどこにあったのか思い出そうとしたのです。それは過去です。過去に戻った彼女は混乱してしまったのです」
「何を訊いていいわけだ?結局」
「極力彼女に話しかけないであげてください。自分のことから眼を背けたくて、一日中本を読んでいるのです。夢の中でも本を読んでいるでしょう」
「何読んでるんだ?」
「それは訊いて構いません。現在のことですから」
というわけで訊くことにした。水辺に下りていって、声を掛けていいか尋ねる。億劫そうにするが、拒絶の印象は受けない。
こうゆうことか。
「ヒトが死ぬ話だね」
「ミステリィてやつか」
表紙を見せてもらった。作者は外国人だった。ちらっと中身も見えたが、日本語じゃない。アルファベットの行進。
「どんな話だ?」
「ヒトが死んじゃうわけね。ヒトが絶滅して」
「ありがと。わかった」余計なことを言ってイコを混乱させる前に退散したほうがよさそうだ。
「元気?」
「ああ、まあ」
「元気なさそう」
イコがそんなに問題を抱えてるようには見えない。俺への気遣いも出来るじゃないか。過去と未来が馴染まないってのはどういうことなんだろう。
現在の中だけで生きるってのは。
最年少は、マイナという。長い黒髪の彼女だ。
趣味は料理を作ること。2階にレストラン(マイナが言っていた)があって、大抵そこにいる。いない場合は、レストランの入り口に本日閉店と吊るしてある。わかりやすい。でも、そこにいない場合どこにいるかというと、それがまったくわからない。部屋にいるのか、どこか他のところにいるのか。選択肢が多すぎて見当がつかないんじゃない。皆目見当つかないのだ。
下手をすると一日会えないこともある。3フロアしかないのに。総面積だってそう広くはない。俺のいた病院のほうが圧倒的に大きいし広い。新人は必ず迷子になるほど。
どこにいるのかわからないので、彼女と話したことは数えるほどだ。レストランで会っても、メニュの遣り取りくらいしか会話がもたない。とっつきにくいわけじゃない。人懐こい笑顔を見せるし、俺に興味を持ってくれてはいるようだ。しかし、会話はない。すでに人となりを見限られているのかもしれない。だから会話がもたないのだ。
1階はとかく天井の高い巨大なホールがある。ホールの天井が、3階の床面に表裏し、抱きついても右手と左手が出会えない太い柱で支えられている。そこは、カケルのアトリエだということだ。
カケルは、陶芸家(カケルが言っていた)でそれなりに顧客もついているらしい。個展を開いたこともあるようだ。が、ここに来る前の話かもしれない。現在進行形なのかはわからない。三人の中では一番話しやすい。何を言っているのかわかるから。
そして、三人の中で唯一、自己紹介をしてくれた。
「広すぎないか」
頭に手ぬぐいを巻いて、甚平と半纏を足して2で割ったような服。胸元が大きく開いており、腰で左右を合わせる。ズボンは柔らかそうな生地で膝丈。隅っこに作業用の台を置きそこで粘土をこねる。
「落ち着くじゃんね。誰もおらんで」
「誰もいないことが見渡せるから落ち着くってことか」
「いかん。カナさんの時間だで」
彼らはさとしのことをカナさん、と呼ぶ。名字の最初二文字をとって。
「すまんね。相手できんくて」
彼らは一日の内三〇分を、さとしと話す時間として定められている。その時間には部屋に戻らなければいけない。彼らのルールらしいルールはそれだけ。あとは自由に好きなことをして過ごす。読書だったり料理だったり陶芸だったり。
他にもいるのかもしれないが、さとしから紹介されたのはその三人。
ともう一人。
俺も、一日の内大部分をこいつにとられる。取り返したところでなにをするわけでもない。することもない。無為に時間が過ぎていくだけ。だったら、さっさと終わらせて帰りたい。他の方法もまだ見つけていない。
「あいつと話してるとムカつくんだよ。そういう喋り方をしなきゃ駄目だ。馴れ馴れしいっていうか、人ん中ずかずか入ってきて勝手に引っ掻き回す。嫌がらせしてケラケラ笑ってるような奴だ」
どうだ。
できないだろお前なんかに。俄かで身につくもんじゃ。
「そんなに俺のこと好き?」
床の黒に呑み込まれそうだった。辛うじて声色が高いので踏み止まれたが。
叩き切られた神経を繋ぎなおす。
なんのことはない。蘇生完了。
「似ていましたか」
「ちょっと黙れ」
会ったこと、はないはずなので。
「見たこと」
「学会のときの講演を記録したものをいくつか」
記録?
いや、その前にあいつ学会なんか出てたのか。シンパの集会だとかいって眼もくれなかったのに。
「許可を得ずに記録したものらしいでス。カナさんも手に入れるのに苦労したと」
そんなものが裏で出回っているのか。
いい商売してやがる。
「観まスか」
見たいのは山々だが。
「いいや。遠慮する」
「観たいのではないでスか」
見てどうする。会いたいと涙に咽ぶのか。今夜のオカズにするのか。
どちらにしろ、どっちもやってしまいかねない。
「ずっとここにいたのか」
「カナさんと一緒でス」
「なあ、今日は外出ねえか。マイナに弁当作ってもらってさ。美味いんだぜ。食べたことあるか」
必死で話題を逸らそうとしている。なんでもいい。俺が望まないこと以外なら。
りょうじを、ようじにしたくない。
そのまんまでいいじゃないか。なにがいけない。
死んだったって、二度と会えなくなっただけだろ。操りやすい形で手元に置いておきたいたったそれだけのために、一人の人間を殺そうとしている。一人の天才を生き返らせようとしている。神に背くとかそんなことはどうでもいい。俺に神はいない。
いるのは、あいつの記憶だけだ。
お前らはな、会えないかもしんないが俺は。毎日会えるんだよ。
いるんだっての。ここに。お前らには見えないだろうが。
見せてやらない。見せて堪るもんか。
ようじは、
「ホントに死んだのか」
「泣かないで下さい」
泣いてない。涙なんか涸れた。
笑わない。あいつは笑うのに。
「一番会いたいのは先生だとわかってまス。スきなんでスよね」
「お前に言うことじゃねえな」
いまどこにいるのか。知っているから捜しにいけない。
時空と歴史を飛び越えて、世界平和を創造している。まるで神だ。神なんだろう。
俺が信じていないだけで。
冷たい手だった。小さい。あいつの手も小さかった。
ずっと小さいまま。大きくならないのは、大きくなる必要がないからだ。充分に完成している。脳も魂も。
「いいのか、お前は」
「そう望まれて生まれました」
「存在意義がなくなるってか。りょうじのまんまじゃ」
どこのどいつが首謀者だ。さとしじゃないことは確か。人の上に立てない。断れないからこの場所に甘んじている。厄介ごとを一身に背負っている。
「所長に会ったことあるか」
「必要がないでス」
「さとしにそう言われたのか」
ここから出ないのも、さとしに言われたから。トンネルを抜けてあいつらに会って話をすればなんか変わるかもしれないのに。変わることを望んでない。こいつのすべてはさとしだと、そう思わせる必要がある。
そういうことか。
「ちょっと待ってろ」
とっつかまえて一発ぶん殴って。
「カナさんは悪くありません」
「善い悪いの判断もできねえってのに」
「死んだのでス。博士は」
見たのか。
死んだところを。死体を。心停止を確認したのか。
してないだろ?
だったら、死んだかどうかなんて。
「わかんねえだろうが。見てきたみてえなツラしやがって」
「落ち着いてください。投影でス」
うるさいうるさいうるさい。
うるせえんだよ。
黙れよ。
闇に沈む。手の平が膝が、沈んでいく。俺だけが。
仰向けのそいつは闇に浮かんだままだってのに。
このままじゃ、顔が衝突する。睫毛と鼻と。
息がかかる。
「そんなに好き?」
好きだよ。
「どのくらい好き?」
説明できない。
「そんくらい好きなんだ?」
先生は、
慌てて顔を上げる。呑み込まれるところだった。こうもまんまと術中にハマってばっかじゃ、面子がもたない。んなものがあれば、の話だが。
何しに来たんだ、俺あ。
思い出せ。
思い出せない。
「終わりだ終わり。今日はここまでな」
「ありがとうございました」礼儀正しくお辞儀する。さとしを見て育つとそうなる。
いっそ、あいつが養子にしちまえばいいのに。りょうじとして。幸せに暮らせばいいのに。出来ないことをよくもまあべらべらと。出来ないから言える。なんとでも。
投影か。
するなってほうが無理だろ。同じツラしてんだから。
レストランに本日閉店が吊る下がってなかったので入る。池と滝が見下ろせる奥のテーブルに、さとしがいた。
「いいか」
「空いてますので」
マイナがメニュ(日替わりの手書きビラ)とお冷を運んでくる。おしぼりが冷たくて気持ちよかった。
「どれになさいます?」
「どれって、これだけなんだろ。今日は」
「はいはーい。ビーフシチュにございますよ。昨日からぐつぐつ仕込んだ絶品ですよ」
さとしも同じものを食べていた。それしかないんだから当然だろう。レストランというよりは、日替わり定食一品しか扱ってない社員食堂だと思うのだが。作ってもらっている以上文句は言えない。例え、今日がビーフシチュの気分じゃなかったとしても。
「んじゃそれで」
「畏まりましたあ。少々お待ちくださーい」
「あと、ビールも」
「りょーかいでっす」
へいビーフシチュ一丁、とマイナが景気よく叫ぶが、フロアも厨房もマイナ一人しかいない。厨房に引っ込んだあと、へいビーフシチュね、と応じたのが聞こえた。
「前は一人じゃなかったんですよ」さとしが言う。
「フロアか」
「いえ、マイナがフロアでした。料理もこの域に達するまで紆余曲折がありまして」
「味見係とかやらされてたんだろ」
「気づかれましたか? 僕以外、利用していないことを」
ビールを先に持ってきてくれた。
まずいな。絶品だとかいうビーフシチュの味がわかるかどうか。
「そうなのか」
「以前はそうじゃなかったんですよ。イコもカケルも、毎食ここに通っていました。そのための施設だったんです。みんなで楽しく食事を採るための。りょうじも、僕が誘って。ですが、マイナ一人になってからは」
死んだのか。
とは聞けなかった。マイナに聞こえてしまう。料理を盛り付けてくれてる。楽しそうに鼻歌を唄って。
「必死なんです。以前の水準に戻すために、必死で努力をしてるんです。僕はどちらも美味しいと思います。内容が違うんです。作った人が違うから、まったく違うものができたってそれはある意味当然なんです。僕はもう、前の味を思い出せません。ただ純粋に、美味しいものを食べに来てるだけです。そうなってくれるといいんですけどね」
ここで深くを追究することはやめた。レストランは過去を暴く場所じゃない。美味い料理を、美味いと言って食べる場所だ。
ジョッキを空けてしまった。何も考えないようにするために。
マイナがレストランの入り口に本日閉店を吊るしている間、いったいどこにいるのか。会えないわけだ。会えるはずがない。
「おっ待たせ致しましたあ。本日のメイン、ビーフシチュにございまーす。お皿が熱くなっておりますので、お気をつけてお召し上がりくださいませ」
「いいにおいだな。いただきます」
「ごゆっくりー」
味がわからなかったのは、俺のせいじゃない。ビールが。
4
弱いとわかっていてがぶ飲みする。気づくと気づけなくなってる。
頭が重い。眩暈と天地の反転。いつものあれだ。
冷蔵庫からペットボトルを出して一気に飲み干す。飲み終わってもそれが何の液体なのかわからない。たぶん、水だったと。
ベッドに倒れ込む。時刻を確認しようと思ってやめる。大方次の日だ。仕事もない。遅刻もない。仕事だったとしても大抵そこで寝泊りだから、遅刻も何もない。
ようじの夢を見た。
下半身がだるい。なんでこんな歳にまでなって夢で興奮しなきゃなんない?
溜息も消滅する。
なにが悲しいかって、いまだに興奮が治まらないことだ。
溜息が絶滅する。
いっそ開き直ってようじの学会演説の裏ビデオ借りてくるか。出ないって、興味がないって言ってたの誰だよ。デタラメ並べやがって。口からでまかせ。いまに始まったことじゃない。むしろそれがあいつのあいつらしいところで。
気持ちが悪い。自分より八つも下のガキに。
情けない。全部持ってかれてるってのが。
親父は正真正銘俺の親父だろう。おんなじ末路を辿っているじゃないか。想いが通ったと錯覚した次の瞬間、手の届かないところに行ってしまう。
あづまは、死んでなんかない。
なんでそんなことお前に言われなきゃなんない?
ようじが俺の前から消えたのは、あづまを生き返らせるためだ。
生き返ったんだろ。だったらさっさと姿を見せろ。帰って来い。
もう限界なんだ。ただ待ってるのは。
手首に粘液が垂れる。水道で洗い流して、ついでに顔も洗う。汗臭かったのでそのまま浴室に行く。最初からそうすればよかった。
いつも順序を間違う。大切じゃないものを大切だと思い込もうとする。
どうだっていいんだ。
ようじ以外。死のうが狂おうが。
指に粘液が纏わりつく。石鹸を泡立てて洗い流した。
滴る水滴を放置してベッドでぼんやりしていると、ドアがノックされた。気がして立ち上がったが、訪問客に心当たりがない。
さとしは今日一日留守にするとか言っていたし、イコはいつもの場所で読書だろうし、マイナは料理の仕込みだろうし、カケルもアトリエで陶芸だろうし。所長?なんだってこんな朝っぱらに。
ドアスコープもインタフォンもないのが難点だ。他は特に申し分もないのに。簡易キッチンだってあるし、棚にはインスタントラーメンが詰まっている。一ヶ月はゆうにもつ。さとしの気遣いだってのはすぐにわかった。夜食によく作ってやっていたから。レポート指南のお礼に。
まじで誰だ。もう一人よぎったが、いやそれは違う。あの闇から出ないんだろ。出るなと言われてるから。でももし、出てもいい、と。出ることを推奨されたとしたら。
何を恐れている?
何も着てないことか。
何が怖い?
夢と現実の区別が曖昧だってことか。二日酔いにかこつけて。
ようじと見間違えかねない。
とりあえず服を着よう。シャツを羽織って、ズボンを。
ノック。
「はいはい」
これでもう居留守は使えない。所長なら何の問題も起こらないが。
「先生?」
ことはそう上手くは運ばない。やれやれ。
りょうじだ。
「何の用だ」
「時間になってもいらっしゃらないので」
「内線は」
「つながらなかったんでス」
着信があったようだ。まったく気づかなかった。無理もない。
脳の中と闘っていたんだから。
「大丈夫でスか」
「なんもねえよ。着替えたら行くから、戻ってろ」
「よかったでス」
演技だ。本心だ。
どう違う?
いるのだ。そこに。
ようじのカタチをした別の魂が。
「お待ちしてまス」
待て。駄目だ。駄目だろ。駄目に決まって。
細い腕を。
ドアの中へ引きずり込む幻覚。うるさきゃ口になんか詰めればいい。暴れたら二、三発殴って大人しくさせればいい。気絶させたっていい。死んでなきゃ。傷を残さないようにだけ気をつければ。さとしは存外目敏い。どんなに小さい変化も見逃さない。それが変化なら絶対に。見落とさない。誤魔化せない。
駄目だ。だめだだめだだめだ。そんなことしちゃいけない。わかってる。
だが、
今日はさとしがいない。最後の堤防が決壊している。さとしさえしなければ、あと邪魔するものは誰もいない。イコは屋外、マイナは厨房、カケルは穴倉。
聞こえやしない。バレやしない。
所長なんか、いるかいないかわかりゃしない。
黙っていればそっくりなんだ。口さえきかなければ。
そのもの。瓜二つ。双子以上に似ている。
皺にならないように丁寧に脱がす。ボタンを弾けさせるなんてもってのほかだ。焦ることはない。時間はたっぷりある。
なにせ、今日一日は留守なのだ。
陽に当たらないとこういう色になる。蒼白い。肉が削げ落ちた痕みたいな肌。血管も骨格も浮き出る。どうだっただろう。ようじは。
忘れてる?思い出せない?
違う。
見たことがない。見てない。
ヤったことねえんだから。
頭を冷やすために一旦立ち上がる。足の裏で体温を感じる。
冷たい。
まさか死んでねえだろうな。
胸に手を当てる。動いてる。呼吸もある。
気を失っているだけだ。
フリじゃないなら。
「起きていいぞ」
「いいんでスか」
「バレない自信がねえ」
眼を逸らす。出来る限り視界に入れないように。
「構いませんよ」
「お前は構わなくたって」
「カナさんはそれを望んでいまス」
「どれを?ようじを投影してヤっちまうことをか。くだらねえ」
「カナさんの望みは僕の望みでス。お願いできませんか」
「てめ、犯されそうになった奴がどこをどうしたらお願いできんだよ。なに言ってんのかわかって」
見上げる。黒い眼が。
細い指が。
足の裏を。
「好きなんでしょ?」
としき。
「いいよ」
できない。理由を見失った。
やっぱ俺は、親父の息子なんだろう。
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