さようならの理由

シュート

第1話

 元カレの松本卓也から、およそ二年ぶりに電話があったのは金曜日の夜のことだった。

 半身浴でたっぷりと汗を流し、浴室からリビングに戻ったちょうどその時に、ローテーブルの上に置いてあった携帯が鳴った。きっと、今付き合っている吾郎からの電話だろうと画面を覗くと、卓也の名前が光っていた。すでに別れていたのに、登録したままだったのだ。

 一瞬ためらったが、息を整えて出ると、二年前とまったく変わらない澄んだ卓也の声が聞こえた。

「久しぶり」

 少し照れたような、抑え気味の声だった。突然電話してきて、他に何か言うことがあるだろうにと思ったが、卓也も他の言葉が思い浮かばなかったのだろう。

「うん、久しぶり。二年ぶり? くらいかな」

「そうだね。元気?」

「元気? 私は元気よ。卓也は元気じゃないの ?」

「どうかな。元気と言えば、元気だし」

「何よ、それ。訳が分からないじゃない。ところで、何?」

「何って?」

「何か用事があるから電話してきたんじゃないの」

「用事がなくちゃ電話したらダメなの」

「決まってるじゃない。私たち、もう赤の他人なのよ」

 麻衣は、心にもない、こんな冷たい言い方しかできない自分に嫌気がさしていた。

「そんなこと言われたら、何も言えないけど。実は、今日仕事で偶然君の勤務先のビルの前を通ったんだ。そうしたら、どうしても君の声が聞きたくなって電話してしまったんだ。迷惑だったら謝るよ。ごめん」

 強がりを言ったが、本当のところは嬉しかったのだ。

「迷惑って言うことじないけど。やっぱりけじめはけじめだからさあ。でも、きつい言い方になってしまって、私こそごめんなさい。突然の電話に驚いちゃったのよ。まさか、卓也から電話があるなんて思わないじゃない」

「そうだよね。でも、やっぱり懐かしいな。君の声を聞いてると、君と別れたことが嘘のように思えてしまう」

「止めてよね。もうすでに二年も経つのよ。女はいつも現実の世界に生きていることを忘れないでね」

 男はいつでも、すぐに過去や想像の世界に入れるが、一般的に女は今の今の現実しか見ていないものだ。

「ねえ、明日会えないかなあ」

 それはあまりにも突然の申し出だった。

「えっ」


 翌日の土曜日、麻衣は予定より少し早く起きて、デートに行く服選びをしていた。心が浮き立っていることに、自分でも驚く。この日、本当は吾郎と会う約束が入っていたが、適当な理由を言って来週に延ばした。

 卓也の誘いをなぜ受けたのかと言えば、最近、吾郎になんとなく違和感を感じていたことがひとつの理由になっている。吾郎は卓也とは正反対で、男らしく、豪快なところがあり、そこに惹かれて付き合うことにした。だが、それ故なのか、時にわがままで、あらゆることに自分勝手であることに気づいてしまった。すると、自分は本当にこの男のことが好きなのだろうかという疑問が沸き上がってきたのだ。そんな時に偶然卓也から電話をもらい。麻衣の気持ちが揺らいだ。

 もうひとつは、麻衣が卓也と別れた理由にあった。だから、麻衣が卓也の申し出を受け入れたのは必然だったともいえる。

土曜日の銀座は人でいっぱいだった。待ち合わせ場所の三越の入口付近まで、人をかいくぐって歩いて行くと、ライオン像の横に立つ待ち人たちの塊の中に卓也の姿を発見した。二年ぶりに見る卓也は、サングラスをかけていたが、すぐにわかった。細面の顔に男のくせに色白できめ細かい肌。高いけれど、決して嫌みではない凛とした鼻。口は小さ目だが、思いのほか主張している。やっぱり、卓也はカッコいい。麻衣は、反対側の道路に立って、しばらく卓也の姿を眺めていた。このまま眺めるだけにして帰ったほうがいいような気もしたが、信号が青になると、周りの人に押し出されるように卓也に向かって進んでいた。卓也の顔がこちらこそらへ向き、麻衣を捉えた。軽く手をあげる卓也。そんな姿も二年前と変わらない。

「お待たせ」

「いや、僕もちょっと前に来たところだから」

卓也がいつも言っていた台詞だ。きっと、30分前には来ていた。卓也と付き合っていた間、卓也は麻衣を待たせたことは一度もない。

「今日はどうするの?」

「何か希望がある?」

 逆に訊かれてしまった。

「ううん。卓也に任せる」

 卓也なら任せても大丈夫という安心感があった。卓也なら、以前と同じように、何も言わなくとも麻衣の気持ちを読み取ったデートにしてくれるに違いない。ところが、吾郎の場合、自分のほうから気持ちを伝えないと、吾郎の思いだけのデートになってしまう。

「そう。わかった。じゃあ、まずはパワーストーンの専門店のディランに行こうか」

 パワーストーンの専門店として有名な店名をあげた。パワーストーンは麻衣が最近はまっているものだ。少なくとも、卓也と付き合っていた頃には関心がなかったのだから、卓也が麻衣の最近の嗜好を知るはずもない。

「えっ、嬉しい。実は前々から行きたかった店なんだ」

「そんな予感がして」

「ウソ~」

 思わずそう答えていたが、瞬間、共通の友人である朋美の顔が浮かんだ。卓也のことだから、昨夜朋美に電話して情報を得たのだろう。卓也はそういうことを普通にする男だ。以前付き合っていた頃にはよくあったことだが、久しぶりだったので新鮮な喜びだった。

 銀座の裏通りにあるその店に着くと、卓也はパワーストーンに見入る麻衣の少し後ろで見守るように付き添ってくれる。麻衣が卓也の感想を聞きたいと振り向く時だけ近づいてきて、そっと声をかけてくれる。そんな単純なことに、なんだか胸が熱くなる。

 店を出ると、すでに夕方になっていた。薄暮の仲、日比谷公園に移動し、並んで散策する。もはや言葉はいらなかった。木々の隙間から茜色の空が見える。色づき始めた葉が、はらはらと落ちてくる。二人の間の微妙な距離が、麻衣にはもどかしく思えた。卓也と付き合っていた、自分が一番幸せだった頃のことが走馬灯のように頭の中を巡っている。

 結局、公園の中では一言も交わさず、車で三軒茶屋へ向かった。タクシーの運転手に卓也が三軒茶屋と告げた時から、これから自分たちが向かおうとしている場所がわかった。その店は、麻衣の誕生日など特別なイベントの時に行く店だった。店主とも顔なじみだったが、つかず離れずのスタンスで二人の空間を大事にしてくれるいい店だった。久しぶりに二人が店に入ると、店主が軽く会釈する。この店も昨夜卓也が予約したに違いない。軽いつまみとワインを頼む。

「なんか懐かしいね。ここに来ると、昔に戻ったみたいに感じる」

 麻衣の口から素直な言葉が漏れた。

「時間は巻き戻せないけど、心は戻せるんだよ」

「それはどういう意味?」

 卓也が何か答えようとした時に、店主がつまみとワインを持って近づいてきた。

「再会に乾杯」

 卓也の言葉で始まった再会の宴は、お酒がまわるにつれ二人を饒舌にしていった。

「ねえ、麻衣。最近、恋愛関係はどうなの?」

「まあまあ、かな」

「まあまあ?」

「そう。まあまあ」

 うまくいっているというのも、何か嫌だったし、かといってうまくいっていないというのも、何か嫌だった。でも、卓也は麻衣の言葉を聞いて、急に黙り込んでしまった。

「何よ、自分のほうから訊いておいて黙っちゃうって。じゃあ、卓也のほうはどうなのよ」

「僕は、麻衣と別れてから誰とも付き合っていないよ」

 『やっぱりね』と言いたかったが、その言葉は飲み込んだ。本当のところ、卓也ほどのいい男を女が放っておくはずがないのだ。だから、卓也は自分の意思で自分に近づく女たちを排除しているのだ。

「その言い方、なんだか私のせいみたいで嫌だな」

「事実、僕は君に振られた」

 卓也が今でもそう思っているとは思わなかった。酔ったせいもあるけど、今日言わなければ一生言う機会がないような気がして、すべてを話すことにした。

「私がなんで卓也と別れたと思っているの?」

「だから、それは麻衣に僕以外の好きな人ができたからだよね。あの時、君はそう言ったじゃないか」

「確かにそう言ったけど、そんなこと信じたの?私が卓也以外の人を好きになるなんてありっこないでしょう」

「えっ、どういうこと?」

「今日は本当のこと言うから聞いて」

「うん」

「当時から、卓也のほうはともかく、女たちが卓也を放っておかなかった。だから、卓也の周りにはいつも女たちがいた。私は愛されているのは自分だけという自信はあったけど、それでも時に卓也を疑うことがあった。それで、ある日卓也がお風呂に入っている時に、携帯や開いたままのパソコンの中を探ってしまったの。そうしたら、パソコンのお気に入りの中に、ある女性の写真を発見してしまったの。その女性は、それまで私が知っていた卓也の周囲にいた女性ではなかった。しかも、とてつもなく綺麗な女性だった。写真の多くは自撮りの写真で、卓也と一緒に映った写真はなかったけど、私は自分でもどうしようもないほど嫉妬したわ」

 この時、卓也は麻衣の言葉からすべてを察したようだった。

「どこかで見たことがあるような顔でもあったけど、その時はただショックだったのよね」

「そうか…」

「それからというもの、チャンスを見つけては卓也のパソコンの中を覗いた。その女性の写真は少しずつ増えていた。しかも、日頃卓也が言っていた女性の好きな仕草を、その女性はしていた。でも、何度も何度も見ているうちに気づいてしまったの。その女性が卓也自身だということに」

 ついに言ってしまった。

「知っていたのか…」

 卓也は唇を噛んでいる。

「その時私は、卓也が理想の女性を自分の中に見つけてしまったことを知ったの。私なんか、どうあがいても敵わないと思ったわ。その人は、ものすごく綺麗で、知的で、それでいて極めて女らしく、優雅で、きっと優しい。それに比べて、私は、わがままで、勝ち気で、少し意地悪で、素直じゃなくて、それほど美人でもないし、太刀打ちできるわけないじゃない」

 麻衣は自分の言葉に感情が高まり、目からは涙が零れていた。

「何でそんなこと言うの。僕は君のすべてを含めて好きだった。もちろん、今でもその気持ちに変わりはない」

「そんなこと言われたつて…。あの時は嘘を言ってでも卓也と別れるしかなかったの」

「そうだったのか。ごめん。まさか、麻衣がアレを見てしまうなんて思わなかった。弁解になってしまうけど、あくまでアレは趣味だった。社員旅行の宴会の余興で無理矢理やらされた時、悪くはないなと思ったのがきっかけだった。今、麻衣が言ったように、自分の理想の女性を自分の中に作っていこうとしたのも事実だ。でも、僕にとってはやっぱり現実のほうが大事なんだ。僕が心から愛しているのは、自分が作り上げた理想の女性ではなく、麻衣しかいない。だから、僕ともう一度やり直してくれないか」

 麻衣が吾郎と付き合うことにしたのは、卓也のことを忘れるためだった。だから、敢えて卓也と正反対のタイプの男を選んだ。だが、結局、卓也を忘れることなどできなかった。

「こんな私でもいいの」

「いいに決まっているじゃないか」

「ありがとう」

 今回卓也と会うことになった時から、こうなることを予感していたような気もする。ただ単に、そう願っていただけなのかもしれないけど。

「これからは麻衣を心配させないように、女装は止めるよ」

「ううん、いいの。って言うか、今度一度彼女に逢わせて。卓也抜きで二人でデートするなんて、楽しくない」

 実際のところ、女装した卓也に会ってみたいと思った。会っていろんな話をしてみたい。

「僕抜きでかあ。相変わらず麻衣はおもしろいこと言うな」

 お互いのすべてをさらけ出すことで、二人の愛のレベルは一段上がったような気がするのであった。

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