第2話 真理の野望、そして…

                十四

 祖父から電話があったのは、先週の金曜日のことだった。

 同僚の三橋可南子とランチを食べ、会社へ戻ろうと大通りを、どうでも良い会話をしながら歩いていた。明日から二日間休日ということもあって、通りのざわめきの中をゆるやかに頬を撫でながら流れて行く春の風が、いつにも増して心地よく感じられる。

 やがて、勤務先の会社が入るビルが見え、心のスイッチをオフからオンに切り替えようとした時、奈々の携帯が鳴った。

「久しぶりに寿司でも食べないか。しばらく会っていなかったから、色々話も聞きたいし」

 いきなり用件を切り出した祖父の声は、なぜか粘り気を帯びていた。

「ああ、おじいちゃん。それはいいけど、いつ?」

 誘いは嬉しいけれど、こちらにも都合というものがある。

「明日はどうかな」

「ええー、明日?急だなあ」

 思わず口に出た。しかし、急いで頭を巡らせてみても、明日は特に予定がなかった。でも、祖父の家へ行けば泊まることになる。せっかくの休日を二日間とも潰してしまうことに躊躇していると、

「ちょっと急ぎの話があるから、何とか明日やりくりしてくれないか」

 祖父にしては妙に落ち着きのない、強引で、事務的で、かつ命令口調な物言いに、一瞬怯む。狼狽と不安で胸が黒く染まって行く。どうやら断ることは許されないと悟る。

「わかりました。じゃあ、詳しくはまた後で私のほうから電話します」

 最近はついぞ使ったことのない、丁寧な言葉で答えた。

 祖父は奈々が寿司が大好物だと知っていて、何か話がある時は決まって寿司をエサにする。だから、寿司を持ち出されただけで奈々のほうは警戒してしまうのだが、本人はそれに気づいていない。大好きな祖父なので、会って食事をするのは楽しいのだけれど、重い話は聞きたくない。

 しかし、祖父の紹介で今の会社に転職できたのに、仕事が忙しいのをいいことに、ここ一年くらい祖父母の家に顔を出していないのだから、こちらにも非がある。仕事が終わってから奈々から電話し、現状報告がてら行くことになった。とりあえず、祖父母の家に顔を出し、その後、祖父と二人で寿司屋に行くという、いつも通りのパターンで落ち着いた。

 土曜日の午後、みなとみらい線の元町中華街駅に降り立った奈々は、横浜の山手という高級住宅地に建つ祖父母の家に向かう。代々病院を経営している祖父の一族は、この地に根を下ろしている。確かに緑豊かなこの街は閑静で美しい街だけど、今や車のない奈々は

細くて狭い坂道を十分超も歩かなくてはならず、結構しんどい。祖父からタクシーを使えと言われているけれど、タクシーに乗るほどの距離でもないので、今日も歩くことにした。

 透明な糸に操られるように祖父母の家を目指して坂道を登る奈々の背中を、春にしてはやや強い太陽からの陽射しが、どこまでも追いかけてくる。時を止めてしまったこの街を訪れると、いつも出口のない迷路に入ってしまったような錯覚に陥る。

 建ち並ぶ豪邸はみな建築雑誌に掲載されているような洗練された立派なものばかりだけれど、どこか非人間的でよそよそしい。まるで怪獣のように居丈高に肩を聳やかし、世間を睥睨していて、奈々には疎ましくさえ思える。そんな豪邸のひとつに、ようやく到着した。住み込みのお手伝いさんの智子さんの、大仰な出迎えを受ける。長年大谷家に仕えている人で、当然母や奈々のこともよく知っている。

「まあ、まあ、お嬢様。お久しぶりですこと。お元気でいらっしゃいましたか」

「はい、おかげさまで」

 奈々もにこやかに答える。それが礼儀だから。

「そうですか。それはよろしゅうございます。さあさあ、大奥さまがお待ちですから、リビングへ」

 そう言いながら、奈々の荷物をさりげなく持ってくれる。家事能力の高さと、この明るさ、如才なさが大谷家の潤滑油となっている。五十帖のリビングへ入ると、祖母が歩み寄ってきた。両手で奈々の肩をつかみ、軽く揺らしながら、

「奈々ちゃん、元気だったの。全然連絡くれないから心配していたのよ」

 そうは言っても、奈々の勤める会社の専務から様子は入っているはずだ。もし何も連絡もなく、様子もわからない状況であれば、祖母のほうから連絡をとってくる。

「ごめんなさい。このところお仕事が忙しくて」

「あら、そうだったの。忙しいことはいいことだけどねえ。でも、たまには電話くらい寄越しなさい」

 最後に小言を忘れない。たとえ孫であろうと、駄目なことは駄目とはっきり言うのが祖母である。そこが祖父とは違う。そんな祖母が、奈々は好きである。

 この家は、二階建て地下一階つきの八LDKだ。パティオに繋がるこの広いリビングの他、二WAYの書斎やプライベートバスルームがある主寝室。庭を眺められる十五帖の和室などがある。バスルーム、パウダールーム、トイレは合計三か所ある。さらに、絵を描く祖母のための二十帖を超えるアトリエまである。こんな広い家に、今住んでいるのは、祖父母と長男家族とお手伝いの智子さんだけだ。

「ほんとにごめんなさい」

「さあ、そんなところにいつまでも立ってないで、とにかくソファーに座って」

 厳しいことを言ったことなど忘れてしまったかのような笑顔を見せて、奈々をソファーに誘う。

 奈々が女子大を卒業し、東京の金融機関で働きたいと言った時、唯一賛成してくれたのが、この祖母だった。祖父は、最初働くことすら反対していた。智子さんについて家事の勉強をすればいいじゃないかと。しかし、奈々の意志が固いのを知ると、ならば自分の経営する病院で働けと言った。とにかく自分の近くに置いておきたかったようである。娘を亡くした悲しみを奈々で埋め合わせしたかったのだろうか。

 祖父の愛情は感じるけれど、奈々は自身の将来も考え、早く独立したかったのだ。自分は大谷家の血筋を継いではいるけれど、大谷家はいずれ長男と次男が受け継いで行く。その時に奈々の入る余地などない。そう冷静に判断した上での結論だった。祖母がそこまでの奈々の気持ちを知ってサポートしてくれたのかどうかはわからない。でも、祖母は「何事も気づいた時にはもう遅いの。だから、その時正しいと思ったことは貫き通しなさい」と言ってくれた。そのおかげで、猛反対していた祖父も、結局は奈々が働くことを認めてくれた。

 祖母はいつも控え目で、決して前には出ず、祖父を陰から支えている。祖父が雄弁なのに対し、祖母は無駄口をほとんど叩かない。寡黙な父とおしゃべりな母という奈々の家の組み合わせとは、まったく逆だ。祖母は上品で、いつもニコニコしている優しいおばあちゃんと思われがちだが、実はサバサバした性格で物事をはっきり言う頭のいい女性なのだ。それもそのはず、祖母は超大手メーカーの役員秘書を務めていた人である。実家は、大手製薬会社の経営者一族で、れっきとしたお嬢様である。そうしたこともあり、様々なところから結婚話があったようだが、なぜか祖母は祖父と見合い結婚をした。二人の結婚に何か裏があるのではないかと思うのは奈々だけだろうか。

 いずれにしてもそんな経歴を持つ祖母の実務能力は極めて高い。奈々の家族が住んでいた家を売る時も、奈々が一人住まいを始めるようになった時も、まだ世事に疎い奈々のためにすべての手続きを祖母がやってくれた。

 リビングに座った祖母は、忘れ物を思い出したように、智子さんを見て言った。

「智子さん、冷たいジュースでもいただける」

「はい、かしこまりました」

 祖母の指示に、智子さんがキッチンの中へと消える。その後、智子さんが作ってくれたオレンジジュースを飲みながら、しばらくは奈々が近況を話し、それについて祖母が質問したり、感想を言うということが繰り返された。途中、長男の嫁の結衣さんが顔を出した。ドアを開け、半身を出した体勢のまま、

「あら、奈々ちゃん来てたんだ。なんか綺麗になったんじゃない」と型通りのお世辞を言った後、

「これから病院へ行くんだけど、奈々ちゃんも一緒に行く?」と聞いてくる。

「ううん、今日は行きません。伯父様たちに

よろしくお伝えください」

「わかったわ。じゃあ、お母様、行ってきます」

 祖母に飛びっきりの笑顔を見せて部屋を出て行った。それを見計らったように祖母は、「あの子、ああ見えて案外小賢しいのよ」

 皮肉まじりの顔で言う。それでも、結衣さんを本気で嫌っているのではないことは、その表情と口の端々でわかる。案外仲がいいのだ。それにしても、祖母にかかると、四十過ぎてても、あの子と言われてしまう。

「この間、本人にも直接言ったんだけど、あらそうですかって軽く返されたわよ」

 本人に直接言ってしまうところも祖母らしいと思うけど、それに対して軽く返せる結衣さんもなかなかのものだと思う。

「まあ、それはともかく、ああやって毎日病院に行っているけど、自分の夫のところに行っているんじゃなくて、おじいちゃんのところに行っているの。おじいちゃんにはちゃんと秘書もいるのに、なんだかんだ世話をやいているらしいよ。そんなことせっせとしなくたって、後を継ぐのは雅彦って決まっているのにね。次男の嫁のことが気になるみたいだよ」

「そうなんだ」

 それにしても、こんな狭い世界の中でも競い合いや駆け引きや腹の探り合いがあるものなのかとうすら寒くなる。

「ところで、おじいちゃん今日何時ごろ帰るか聞いている?」

「六時ごろだって聞いているよ」

 まだ午後二時。時間はたっぷりある。

「おじいちゃん、私に何か話があるみたいなんだけど、おばあちゃん聞いていない?」

「聞いていないよ。なんとなく想像はつくけどね」

「えっ、想像つくの。どんなこと」

「想像の話なんか聞いてもしょうがないでしょう」

 とぼけられてしまった。恐らく知っているに違いないが、こう言われては、これ以上聞きようがない。

「そんなことより、まだ時間あるんだから、楓が使っていた部屋で休んでたら。もう大丈夫でしょう」

 母の具合が悪くなり、奈々とともに移り住んだ時の母の部屋が、当時使っていたままになっていることは知っていた。だけど、母が亡くなってから、これまで一度も入ったことはない。止めどなく暗い渦に引き込まれ、増殖する悲しみの淵で、ただ立ち尽くすことしかできないとわかっていたから、怖くて近寄ることすらできないでいたのだ。でも、あれからもう六年。もう大丈夫かもしれない。

  

                十五

 いつものように祖母のアトリエで祖母の絵を見たり、和室で庭を見ながら過ごすこともできたのだけれど、奈々は勇気を振り絞って、母の使っていた部屋に行くことにした。

 目の前の、見慣れたはずの母の部屋の前は、空気が特別な流れ方をしているように感じられた。早鐘のような鼓動が奈々の胸を打ちつける。息苦しさを追い払うように、誰もいないはずの扉を軽くノックする。返事のない虚しさをかき消すように、おずおずと扉を開ける。

 部屋に入った瞬間、しまい込んでいた記憶の断片が滴り落ちてきて、母の匂いに囲まれる。母の命の一粒一粒が、カーテンのすき間から漏れてくる陽光の中で、頼りなげに揺れている。母の息遣いを手に取って眺める。そこにはまだ母がいた。

 ドレッサーの三面鏡は、あの時と変わらず開かれたまま。几帳面な母らしく、化粧道具は行儀よく並べられている。ガラステーブルの上には、母の愛用のシャネルのバッグが無造作に置かれ、持ち主の帰りを待っている。

 クローゼットを開けると、一瞬だけ女が香った。ハンガーにかけられたたくさんの母の洋服が、母の形をしてこちらを見ている。「奈々も大人になったのだから、着られる服あるんじゃない」という母の声が聞こえてくる。見えない母に頷き返し、そっと扉を閉める。

 小さな書棚には、小説、歴史書、哲学の本。そんなバラバラなジャンルの本の中に、ちゃんと映画の本が混じっていた。下の棚は、母の好きだったJUJUやYUIのCDやDVDでいっぱいになっている。サイドボードの上の写真立ての中では、どこで撮ったのだろう、母と父とまだ子供だった頃の奈々が弾けるような笑顔を見せていた。抱きしめるように写真を手に取り眺める。

 この時奈々は、森の奥に取り残された沼のようになった母の絶望的な願いが、自らの死を賭けてでも家族を取り戻すことだったことを理解した。どこまでも幸せに貪欲だった母。愛しさの頂点で飛び降りてしまった母の無念さが指先にひんやりと伝わってくる。胸の一番奥深いところに、喜びに似た悲しみがさざ波のように押し寄せる。

 母はパンケーキが好きだった。アボカドが好きだった。猫が好きだった。料理が好きだった。鼻歌が好きだった。料理をしながら鼻歌を歌うのが好きだった。

 奈々は、母の横顔が好きだった。母の横顔を見るために、ずっと隣にいたかった。

 辺りから音が消え、光の密度が濃くなる。奈々は軽く目を伏せ、自分の中の母を探す。瞳の底で、桜吹雪と添い寝する母と出会い、清々しいほどの悲しみに心を支配される。視界が薄いベールに覆われ、あらゆるものの色彩が底の知れない青色に変わった刹那、堪え切れなくなった奈々の目から涙が零れ落ちた。その時、祖母が静かに入ってきて、奈々を後ろから抱きしめた。

「泣いていいのよ。この部屋はね、いつでも楓と会話できるようにするためにあるの。でもね、私とおじいちゃんが思いっ切り泣くための部屋でもあるのよ」

 祖母の目からも熱いものが流れ落ちていることがわかる。自分より先に、娘を見送らなければならなかった祖父母の悔恨の深さは計り知れない。祖母は流れ落ちる涙を拭って言った。

「楓は、真面目でまっしぐらで一生懸命だったから、きっちり詰め込み過ぎちゃったのね。恋も愛も、人生も、目分量でいいのにね」

 もろく危うげな母の背中が瞼の裏に浮かんだ。

 祖母が出て行った後、奈々は母の使っていたベッドに横になった。特に眠たかったわけではないけれど、ひどく疲れた心を空っぽにしたかったのだ。母に優しく包まれながら目を閉じると、自然に夢の中へ入っていた。

 透明な温かい陽光が幾条もの光の束となって差し込む部屋で、奈々は父と母と三人で、なぜか紅茶を飲みながら微笑んでいる。しかし、次の瞬間、奈々の身体は水を吸った綿のように重くなり、一人だけ景色のない闇へと落ちて行く。母と父に必死に助けを求めるが、言葉たちは途方に暮れた迷子のように、じっとうずくまったままだ。すると、今度はいつも幸せそうだった高校時代の友達の優子や綾子やはるかの顔が浮かびあがる。他人には見えて、自分には見えなかった幸せは、眩いほど輝いている。淡い淋しさのひとひらが、はらりと落ちる。

 卵を割った時のような小さな悲鳴とともに首の音がして、短い夢から覚めた。

「奈々ちゃん、おじいちゃんが帰ってきたわよ」

 扉の向こうの祖母の声に起こされて、一階のリビングへと戻る。そこには、私服に着替えた祖父の嬉しそうな顔があった。白衣を着ている祖父は威厳と凛々しさが伺えるが、こうして私服になると、とたんに普通の優しいおじいちゃんになる。

「おじいちやん」

 走り寄って、あたるように強く抱きついた。他の人には恥ずかしくてできないけれど、昔から祖父にはなぜか平気でできてしまう。気難しくてとてもそんなことができなかった父への反動かもしれない。

 先ほど母の部屋で涙を流し切り、気持ちが軽くなっていたせいもあるかもしれない。

「やたらと元気そうじゃないか」

「何それ。元気じゃ悪いみたいじゃない」

「いやいやいや、そんな意味で言ったんじゃないぞ、おじいちゃんは。空元気という言葉があって、元気過ぎるのは悩みがある証拠だって思っちゃうんだ。おじいちゃんは医者だからね」

 さすがに鋭い。当たっているだけに驚きだ。だからと言って、俊のことを祖父や祖母に相談するわけにはいかない。それは、祖父母が力を持っているからだ。その気になれば、俊の夢を潰すことなど簡単だろう。ひょっとしたら、父に対してもその力が使われた可能性がある。ただ、父は、そうした力にも屈しないだけの意志の強さを持っているが、俊はそれほど強くはない。

 奈々は祖父母に敢えて友達言葉を使っている。母が生きているうちは、奈々も敬語を使っていたのだが、母がいなくなってしまった時に、とたんに祖父母との距離が測れなくなってしまったのだ。恐らく祖父母のほうも戸惑っていたに違いないのだ。だからある時、突然に友達言葉で話してみたのだ。二人とも一瞬あっけにとられたような顔をしたが、次の瞬間心底嬉しそうな顔に変わった。奈々が大谷家における自分の心の置き場を確認できた時だった。


                十六

 今日はお酒を飲むということで、いつも大谷家が使っているハイヤーで寿司屋に向かう。

 昼の名残りの丸みを帯びた雲が、濃紺の空に所在なさげに浮かんでいる。煌めき始めた夜の街は、人々の複雑な心模様を、明確な意志を持って飲み込もうとしていた。車窓から、そんな夜の深い海を黙って見つめる祖父の横顔はやはり母に似て美しい。

 今日行く店は横浜駅の近くにある。祖父がこの店を選んだのは、寿司屋には珍しく個室があるからだ。今までも重要な話がある時にはこの店が使われる。もちろん、寿司が美味しいことは言うまでもない。何か重い話をされるのではという不安に気持が塞ぎ、自然と無口になる。

「どうした?さっきまであれほど元気だったのに、急に無口になっちゃったじゃないか。何かあるんじゃないのか」

 振り返ると、祖父が半分からかいの表情を見せている。心の内を見透かされてしまった奈々は、自分の弱さにうんざりする。

「別に何でもないけど…。私だって、考え事することくらいあるんですう」

 若い女の子らしく、語尾を上げて見る。

「そりゃあ失礼した。ごめん、ごめん」

 そんな会話を交わしているうちに寿司屋に着いた。まだ若い大将に迎えられ、予約してある奥の個室へ入る。祖父が扉を閉めると、それまで自由だった空気たちが急速に縮んで行き、息苦しくなる。閉所恐怖症とまではいかないものの、奈々は狭いところが苦手だ。今日は話の重さが予感され、いつもより不安が大きかったせいで、余計に辛く感じたのだろう。そんな奈々の様子を見て、

「大丈夫か」と祖父が聞く。

「うん、少し経てば落ち着くと思う。大丈夫だから心配しないで」

「そうか、わかった」

 そう言って祖父が奈々が落ち着くのを待ってくれた。大将がおしぼりとメニューを持って入ってきたところで、とりあえずビールとつまみを頼んだ。

 正面に座った祖父を改めて見る。県の医師会の理事という名誉職にも就いている祖父は、超然とした透明な静けさの裏に、自信に裏打ちされた力強い男らしさが伺える。かといって、傲慢さも、その逆の必要以上の遜りもない。そのナチュラルさが奈々は好きだった。たまに怖いと思うことはあるけれど。

 祖父は、確か今年で七十五歳になるはずだ。この一年で多少年取ったところは見受けられるものの、でも相変わらず若々しい。オールバックにまとめた銀髪の中にある顔は母に似て整っていて、今の言葉で言うイケメンだ。

 きりっとしてはいるけれど、優しい目元。高いけど上品で凛々しい鼻筋、口は大きすぎず小さすぎず、案外可愛らしい。そこも母に似ている。引力の法則のせいで、全体に顔の筋肉が下に下がってはいるものの、そこが今では柔和な雰囲気づくりに寄与している。若い時はさぞモテたであろうと想像できる。

「おじいちゃん、モテたでしょう」

「なんだ突然。モテたに決まっているじゃないか。それもとんでもなくね」

 ニヤニヤと笑いながら臆面もなく言い切る祖父は、ちょっと憎らしい。でも、祖母も含め二人のこの豪快な明るさが、これまでも奈々を救ってくれている。

「でも、浮気したことないんだよね」

「もちろん、そんな下らないことはしないさ。本当にモテると、それだけで満足というか、十分なんだよ。モテ過ぎて鬱陶しいことすらあったね。浮気なんて、モテない男か中途半端にちやほやされた勘違い男がするものさ」

「う~ん、そうなのかなあ」

 どこまで本気で言っているのかわからないし、内容に決して納得しているわけではないけれど、祖父に言われると妙に説得力を感じてしまうから不思議だ。

 ビールから日本酒に変えても、祖父はまだつまみを食べている。一方の奈々のほうは大好きな握りに移っていた。祖父から重要な話を聞かされる前に、奈々は今自分がしている仕事の報告をする。しかし、祖父は浮かんでいる風船を眺めているような、あまり関心のない顔をしている。奈々の報告が一段落するのを待って、祖父が話を切り出した。

「奈々は今年二十六になったんだよね」

「うん」

「そろそろ結婚を考えてもいい歳になったわけだ。そこで、おじいちゃんには心配がある。奈々はお母さんと同じように男を見る目がないように見えるんだ」

 胸の中の、自分でも得体の知れぬものに触れられてしまったような痛みを覚える。

「私がこれまで付き合ってきた人を知らないくせに、なんでそんなことを言えるのよ。それに、そんなこと言ったらお父さんがかわいそう」

 奈々がお父さんがかわいそうと言った時だけ、祖父の顔に苛立ちが走った。やはり、まだ祖父は父のことを根にもっているのだろうか。

 でも、祖父の含みを持たせたような話は、奈々にかすかな不安を呼び起こした。俊と付き合っていることは、社内の一部の者には知られてしまっている。それがなぜか専務の耳に入り、巡り巡って祖父に知られるところとなってしまったのではないか。可能性はゼロではないだけに、奈々の心に冷たい風が吹く。

「確かに、奈々がこれまでどんな男と付き合ってきたのか、おじいちゃんは知らない。でもそれは、奈々がおじいちゃんに紹介してくれなかったから、だからね」

 祖父に付き合っている男を紹介することなど考えたこともない。時に示すあの鋭い眼光に射すくめられたら、大概の男は尻尾を巻いて逃げ出しそうで会わせられない。

「ごめんなさい。おじいちゃんには、結婚することが決まったら紹介しようと思っているの」

「その時じゃ遅いんだよ。お母さんも奈々も、男のいやらしさとか醜さとか、歪んだ夢とか、男の抱えているどうしようもない弱さに優し過ぎるんだよ。弱さを弱さと見抜けないと言ったほうがいいかな。それが男を見る目がないということなんだ。それは付き合っている男を見なくたって、奈々を見ているだけでわかる」

「じゃあ、おじいちやんにもどうしようもない弱さがあるっていうこと」

 話をはぐらかす意図で、敢えて核心をずらした質問に替えて見る。

「そうだよ。どうしようもない男だよ、おじちゃんは。でも、おばあちゃんはそのことをよく知った上でおじいちゃんを選んでくれたんだ」

 そんなこと言われたら、反論のしようがない。祖父の言っていることはわかるようでわからない。でも、奈々に男を見る目がないというところだけは当たっているかもしれない。奈々が黙っていると、

「現に自分で相手を選んだお母さんは不幸になってしまったじゃないか」

 おじいちゃん、それは違うと、今なら言える。でも、祖父にこの話を聞かされたのは、四日前の土曜日の夜のことだった。その時までは、奈々自身も、母は不幸だったと思っていた。

 お母さんの選択は間違っていなかったし、お母さんは幸せだったと、あの時なぜ気がつかなかったのだろう。おじいちゃんの言葉を聞いて、一瞬で風景が悲しみに彩られてしまったことを思い出す。

「女の幸せの半分くらいは男にかかっている。残りの半分は自分の手で手繰り寄せる必要があるけどね。だから、相手選びは極めて大事なんだ。そこでだ、おじいちゃんが奈々のために、いい男を見つけた。だから一度会ってみないか」

「ああ、結局その話だったのね」

 長い振りは、このためにあった。祖父の話が結局見合い話だったことに、奈々はある意味安心した。祖父にも多少の躊躇いがあったのだろうか、ただの見合い話をするために長い長い回り道をした。祖父らしくもないと思い、思わず出てしまった奈々の素直な感想だった。

「なんだ、結局その話だったのね、とは」

「だって、お見合いをしろという話でしょう」

「まあそうだが。奈々には幸せになって欲しいんだよ。その道筋をお母さんに代わって作ってあげるのがおじいちゃんの役目だと思っている」

 祖父が見合いさせたかったのがどんな男なのか、奈々にはだいたい想像がつく。恐らくは医者だ。しかも、かなり優秀な医者に違いない。祖父は自分たち家族が享受している幸せこそが素晴らしく価値あるものだと信じている節がある。だから、奈々にも同じ種類の幸せを味わせたいと思うのだ。気持はわかるし、ありがたいと思う部分もあるけれど、奈々の根底にある幸福感を理解してはくれていない。

 しかも、祖父の頭の中には、別の思いも含まれていることを知っている。それが透けて見えるから、単純に喜びを感じることはできないのである。

 祖父は三つの病院の院長であり、医療法人の理事長でもある。つまり、医療の管理責任者でもあり、かつ経営者でもある。さらに、別会社として、健康食品の販売会社も経営している。二つの病院については、長男と次男が引き継ぐことが決まっているが、もうひとつの一番新しく設立された病院については、まだ後継者が決まっていない。健康食品の会社は長男の嫁か次男の嫁が継ぐことになるらしい。

 祖父が奈々と見合いをさせたいのは、三つ目の病院の後継者となるはずの医者に違いないのだ。奈々がその男と結婚すれば、三つの病院すべてを大谷一族が支配できることになる。経営者としての祖父は、そうした計算もする。それが酷いことだと非難するつもりもないけれど、何か悲しい。だから、この見合い話は受けたくない。それに、大谷家の権力争いに巻き込まれるのはごめんだ。そうしたことに、奈々は興味もなければ関心もない。

「気持ちは嬉しいけど。その男の人のこと、おばあちゃんも知っているの?」

 今度は奈々が攻勢に出る番だ。

「いや、おばあちゃんはまだ知らない。奈々、もしかして、おじいちゃんの目よりもおばあちゃんの目のほうが信用できると思っているのか」

 祖父にとっては予想外の反応だったようで、苦笑いを浮かべている。

「はい」と、わざと強めの口調で言う。

「う~ん、それは当たらずとも遠からずだ。困ったもんだけどな」

 祖父も祖母には頭が上がらない。思わず笑ってしまう奈々。

「何を笑っている。わかった、奈々。この件は一度おばあちゃんとよく相談してみることにするよ」

「はい、お願いします。で、今日の話って、このことだったの」

 おじいちゃんのために見合いぐらいはしてもいいのだけれど、どうせ断ることになるので、面倒くさいのだ。

「いや、もうひとつ話がある。実はこちらのほうがメインで、より大事な話だ」

 せっかく話が終わったと思ったのに、また気分が重くなる。


                十七

 ひとつの話が終わったところで、二人は食事をとった。祖父も握りを注文し、奈々はアワビ、ウニ、いくらなど普段の生活ではそうそう食べられない、大好きな寿司をこれでもかと注文した。明日の食事を減らして辻褄を合わせればいいと。

「二か月ほど前、知人の名前を出して、ある若くて美しい女性がおじいちゃんを訪ねてきた」

 祖父が酒に酔った顔をもう一度引き締めて、おもむろに、もうひとつの話をし出した。

「確かにその女性が名前をあげた人物は、おじいちゃんの古くからの知人だった。しかし、その女性があまりにも美人だったので、関わるのは危険な感じがした。これは、おじいちやんのビジネスマンとしての勘だ。センサーみたいなもんだな」

 わかるような気がした。映画の中でも、相手を錯乱したり、騙すために送り込まれるのは、決まって美人スパイだ。

「でも、そうじゃなかったの?」

「そうなんだ。その場でその知人に連絡をとったら、間違いない人物だから話を聞いてやってくれということだった」

 祖父のような立場の人間は付き合う人の数も多く、その範囲も広いだろうから見極めるのも大変なのだろう。

「しかも、その女性は奈々もよく知っている

三倉真理という名の女性だった。おじいちゃんは邦画はほとんど見ないので知らなかったけど、彼女は有名な女優さんなんだね」

「えっ、真理さん?確かに真理さんは有名な女優さんだけど。真理さんがなぜ…」

 あまりの驚きに、後の言葉が出てこない。なぜ、三倉真理が祖父を訪ねたのか、その理由が皆目見当がつかなかった。真理は私たち家族と親しかったから、もちろん祖父のことも知っている。でも、真理が祖父に会う必然性などまったくないはずだった。それに、もしどうしても会う必要があるのであれば、自分に話をすればいいではないか…。

 そう思うと同時に、真理の持つ独特の世界観が醸し出す形容しがたいオーラに、辛酸をなめつくした百戦錬磨の祖父でさえ、気圧されてしまったことに驚く。まるで湖の底のような瞳に吸い込まれそうになりながら、祖父は不可思議な小説に出会ってしまった時のような感覚を持ったことだろう。その美しき虚構に騙されまいと、自らを必死に奮い立たせ、時を現実に引き戻したに違いない。

「驚いただろう。無理もない。おじいちゃんもひどく驚いたのだから」

 祖父が驚いたのは、その美貌に対してであろう。

「真理さんがなぜ…」

 奈々は、言葉の形を確かめるようにしながら、同じ言葉を繰り返した。

「彼女は奈々のことが大好きだと言った。同時に、奈々のことが心配だとも言った。何が心配なのかは話さなかったし、おじいちゃんも聞かなかったので、わからなかったが。その上でだ。彼女はおじいちやんに、あるビジネスに投資してくれないかと持ち掛けてきた。それは、新作映画の企画だった。企画書の内容を見ると、病院を舞台にしたものだったので、最初はその点でおじいちゃんのところへ持ち込んだのだろうと思った」

 思わぬ話の展開に、奈々の頭はついていけない。急に喉が狭まってきて、口がきけなくなる。そんな奈々の様子を見ながら、祖父は続ける。

「しかし、彼女は思わぬ言葉を口にした。企画書をおじいちゃんに示しながら、奈々の父親を監督にした映画を作りたいと言ったんだよ」

 なぜか、企画書をめくる真紅の勝負ネイルで決めた、真理の美しくも華奢な指先が目に浮かんだ。

「お父さん…」

 複雑な感情が靄のように揺らめき、内臓を締めつける。

「正直、おじいちゃんもその時どう反応したか覚えていない。奈々の家族と付き合いがあるのなら、奈々の父親とおじいちやんとの関係も知っているだろうからな。でも、企画書には確かに監督・松本義隆と書かれていた。ただし、予定とはなっていたが」

「真理さんは、よくうちに遊びに来ていたし、私、真理さんにいろいろ相談したこともあるからすべてを知っていると思う」

「でも、彼女は私たち家族の込み入った関係については一切触れなかった。そんなことはまるで関係ないとでもいうように。彼女は素晴らしい女性だった。むしろ、凄いという言葉のほうがふさわしい女性だった。企画書そのものも素晴らしかったけれど、プレゼン能力も完璧だった。彼女は、おじいちゃんに投資させるために、おじいちゃんのことも調べ尽くしていた。おじいちゃんが感情で意思決定する人間ではないことを知っていて、あらゆる客観情報が用意されていた。今の映画界の現状と将来性、ヒットする映画の特徴、投資額とリターンの関係、ビジネスとしての映画の捉え方などなど。判断しやすいように、定性情報だけでなく、定量情報もきちんと集められていた。現段階ですでに複数社の協賛意向も取りつけていて、その社名と担当者の名刺のコピーも添付されていた、しかも、いつでも当事者に確認できるようになっているとのことだった。その上で、おじいちゃんにメインのスポンサーになって欲しいと頼まれた。しかも、彼女が提示した額は、おじいちゃんが出せる範囲の金額だった。恐らく彼女はおじいちゃんの総資産額まで調べている。それを念頭にした上で綿密に計算した企画を立てているに違いない。恐ろしいくらい仕事ができる女性だ。女優を辞めてうちの病院に来てほしいところだ。もちろん、来てはくれないだろうけど」

 さすがは真理だ。映画の企画のような、とかく抽象的なものになりかねないものを、手触りのあるものに変換し、相手の心に刻み込む。

「それと、当然といえば当然なんだが、松本義隆に関するすべての情報も添付されていたよ。監督としてのこれまでの実績はもちろん、すべての監督作品のDVD。今まであの男が書いてきた映画に関する書籍、映画に関する講演資料まであった。そして、松本義隆が監督としてどこがどう素晴らしいのかを、おじいちゃんにもわかるようにいろんな例えを入れながら熱く語ってくれた」

さっきまで、『奈々の父親』と言っていたのに、いつの間にか『あの男』に変わっていることに引っかかる。そんな祖父を端然と微笑みながら見つめる真理の姿が目に浮かぶ。

 二人のいる部屋の扉の外から聞こえてくる客たちの会話のさらに向こうに、春の嵐の襲来を予感させる雷鳴がかすかに聞こえ、茫漠とした胸騒ぎが波のように去来する。

「その時点では、まだ松本義隆には話をしていないとのことだった。しかし、必ずやうんと言わせますと言っていた。とりあえずの説得は映画プロデューサーの二宮順平という男がするという」

 二宮順平という名は父から何度も聞いたことがあるが、でもそれは映画プロデューサーとしてではなく、釣り仲間としての存在だった。しかし、真理が父への説得を託すくらいだから、単に父と親しいというだけでなく、映画界の中でも相当力を持っている人なのだろう。

「松本義隆に説明する企画書には、三倉真理の名は伏せてあるということだった。そうでないと、あの男は、いろんな気を回して、この話を受けないと読んだのだろう。ただし、どうやっても受ける姿勢を見せなければ、その時は彼女が表に立って説得にかかると言ってもいた。万、万が一、松本義隆が引き受けなかったら、この話はなかったものと思っていただきたいとのことだった。松本義隆あっての企画であり、松本義隆でしか成立しない映画だとも言った。それほど、松本義隆という男を評価していた」

 真理の父に対する強く深い思いは、奈々も十分知っている。祖父に対しても、熱く語ったのだろう。

「なぜそこまでするのか、聞いてみた。そうしたら彼女はこう答えた。これは、監督への恩返しであり、奈々ちゃんへのプレゼントでもあるんですと」

 祖父の声が少し遠のく。真理の揺るぎない愛情が伝わり、心が震えるほど嬉しかった。だけど、真理をここまで突き動かしてしているものは、それだけではないと思う。きっと、さらに先を見据えている。それが何なのかは奈々にはわからないけれど。意識さえ届かぬ魂の一点を見つめ続ける真理の、あの瞳の光の奥に、その答えはあるのだろうか。

「そこまで言われて、おじいちゃんもすげなく断ることはできない。とりあえず返事は保留して、この二か月間勉強したよ。あらゆるネットワークを駆使して、おじいちゃんなりに情報も集めたし、多くの人の意見も聞いた。もちろん、松本義隆が監督した映画もすべて見た。そしてわかった。三倉真理主演、松本義隆監督の映画ならば、必ずや成功すると、確信を持った。おじちゃんの直観もあるけれど、ビジネスマンとしての冷静な結論でもあった。昨日、投資を決めた旨を彼女に伝えた。病院が舞台の映画だから、協力できるところは協力するけれど、ただし、おじいちゃんの名前や病院名はどこにも出さないことを付帯条件にした。おじいちゃんの名前やうちの病院名が入っていたら、あの男は首を縦に振らないことはわかっていたからな。だから、おじいちゃんも案外、男を見る目があると思わないか、奈々」

 祖父は真理に心を開き、結論を出すまでの過程で、父の心の奥底に眠っている情念のかたまりに気づいた。初めて父を認めてくれた、そのことが奈々は素直に嬉しかった。『あの男』という表現を除いては。

 祖父は投資を決めた翌日に奈々に電話をくれたのだ。だから、昨日は妙に切羽詰まった口調になっていたのだとわかった。

「ほんとだね…。確かにおじいちゃんは、男を見る目あるよ」

 自分の中に住みついていた悲しみの訳とさよならした。

「彼女も心から喜んでいた。付帯条件については、きっとそうおっしゃっていただけると思っていました。ありがとうございますと言われたよ。つまり、彼女の頭の中では、おじいちゃんがそう返事することも、最初から織り込み済みだったんだな。それも含めて計算に入っていた。本当に頭のいい人だ」

 父の性格とあの頑固さを考えると、祖父の力が働いたことを知れば、この話は絶対に受けない。だから、真理とすれば、その旨を祖父に伝えたいところだが、支援を受ける側である真理からは言うわけにはいかない。言うのは失礼に当たる。そのことをわかっているから、祖父の口から言わせる仕掛作りをしたに違いない。それがどんなものだったかはわからないけれど。真理の作った美しくも手の込んだ罠にはまった、いや、はまってみせた(?)。祖父が唇に力を込めて続ける。

「絶対に、監督を引き受けさせますと、改めて言っていた。そして最後にこう言ったんだよ。でも、奈々ちゃんには絶対に言わないでくださいと。なぜかと聞いたら、これは私の心の中の問題なんですと。私からのプレゼントなんだけど、でもそれを奈々ちゃんに知られてしまったら、プレゼントとしての価値が消えてしまうんですと。奈々ちゃんがあの映画を見て、何かを感じてくれれば、それでいいんですと言うんだ。恐らく、あの映画には奈々へのメッセージも込められている。だから、おじいちゃんも奈々に話すのを止めようと思っていた。それでも、今日奈々に話したのには理由がある。映画のクレジットにおじいちゃんの名前も病院名も入らないようにしたけど、その代わりに、奈々の勤務先の会社名を載せることにした。専務と社長にはすでに了解をもらっている。そこにはビジネスの取引上の理由があるが、それは奈々には関係ないことだから気にするな。知る必要もない」

 祖父もただ者ではない。自分のビジネスでに絡めた計算をするのは当然だ。

「しかも、この話が正式に決まればプレス発表がある。そこで奈々は初めてこの映画に自分の勤める会社が関わっていること、さらにいずれはおじいちゃんが関わっていることも知ることになるだろう。それでは、奈々を置き去りにすることになってしまう。おじいちゃんはそれを避けたかった。もうひとつの理由は、やはり彼女の奈々に対する強い思いをどうしても伝えたかったからだ。奈々にすれば、聞かなかったほうが良かったかもしれないけれど、どうかわかってほしい」

 真理の思いと祖父の優しさが交錯し、確かに複雑な思いで心が揺れるが、でも言ってくれて良かったと思う。

「ううん、話してくれてありがとう。真理さんの気持ちも、おじいちゃんの気持ちも嬉しい」

「そうか。良かった。でも、彼女には聞いていないふりをし続けてくれるね。それが彼女の心根に応えることだから」

「わかりました」

 すべてを話してホッとしたのか、息を整えた祖父の涼やかな表情からは安らかな温もりが伝わってくる。祖父の瞳の中に、父とよく似た奈々の今にも泣き出しそうな顔が映り、室内は尊い静けさに包まれた。

 今日、父の自宅を訪れた段階では、映画企画の話はまだ父には伝わっていないことがわかった。きっと、真理と映画プロデューサーの二宮とで、父を説得するための戦略を練っているところなのだろう。

 気まぐれに混ぜ合わされた絵具の色が、意志を持ち始め、ひとつの絵になろうとしている。


                十八

 雨の度に季節は色を変え、風に運ばれる。私たちは、そんな季節の後ろ姿を見つめながら生きている。

 この後、友人の家に寄るという真理を駐車場まで見送ることにする。時折、桜を見上げながら、二人はゆっくり歩く。穏やかな陽光が木々の間から降りてきて、金色の微粒子をプリズムのように広げている。どこからか、虹の匂いがする。もう会話はいらなかった。ただ横に真理を感じながら歩くだけで、自分に纏わりついている不安やわだかまりが、砂時計の砂のようにサラサラと流れ落ちて行く。

 はるか先まで続く桜並木が作る幻想的な景色の中を歩いていると、この桜並木こそ、幸せを追い越して生きた母の、悲しみの通り道なのかもしれないと思う。

 駐車場に着き、自分の車に歩みを進めていた真理が立ち止まり奈々のほうを振り向いた。真理の視線と奈々の視線が絡み合い、透明な炎に彩られた二人の思いが重なる。甘く切ない喜びが奈々の全身を巡り、気づいたら真理の胸に飛び込んでいた。そんな奈々を真理は強く抱きしめながら、「幸せになろうね」と囁いた。優しい時間が降り積もって行く。 

 いつまでも離れようとしない奈々を、真理はまるで駄々っ子を諭すように両手で顔を挟んで剥がし、微笑みながら、まだその場に立ち尽くす奈々を残して、車に乗り込んだ。発車した車が奈々の前で止まる。窓を開け、顔を出して奈々に向かって言った。

「奈々ちゃん、約束楽しみに待っていてね」

「はい、連絡待っています」

「じゃあね」

 窓が閉まり、真理の運転する真っ赤なポルシェが、颯爽と駐車場を出て行く。それはまさしく三倉真理というオーラ全開の女優の姿そのものだった。

 先ほど花見をしていた時、二人は今度少し長い休みが取れたら、一緒に旅行に行こうと約束をしたのだった。忙しい真理が、いつ休みをとれるのかわからない。そして、その時、自分が何をしているのかもわからない。だけど、自分は万難を排して、真理との旅行に出かけるだろう。

 真理の車が見えなくなり、一人残された奈々は何だか力が抜けてしまっていた。そんな自分を奮い立たせるように、足に力を入れ、昭和記念公園を出る。出口から西立川駅へは直結した道があり、すぐに駅へ到着した。少し迷ったが、電車に乗る前に父に電話することにする。

「もしもし」

「はい」

 仕事をしている最中でもあったのか、相変わらず感情の抜けた、そっけない声であった。

「私ですけど…」

 自然とこちらも不愛想になってしまう。

「ああー、で、なんだ」

 思わず電話を切ってしまいたくなるが、先ほどの真理との会話を思い出し続けてみる。

「今、真理さんと別れたところ。昭和記念公園の桜、とってもきれいで真理さんも喜んでた」

「そうか、それは良かった」

 単純に嬉しそうな声である。どこまで真理のことが好きなんだと、ちょっと嫉妬心が沸き上がる。

「それでね、今更なんだけど、私真理さんが大好き」

「うん、彼女は素晴らしい女性だ」

 抑揚のない、淡々とした返事だった。何をわかり切ったことを言うのかという思いなのか。

「でもね、それ以上に、私、お父さんのことが大好きみたい。じゃあ、また行くから、それまで元気でいてね。それから、また映画撮ってください」

 そこまで早口で一気に言って、自分のほうからさっさと電話を切った。電話の向こうで父が息をのむ音が聞こえたような気もするが、気のせいかもしれない。

 感情の糸をもつれさせていた父と自分の暗く重い過去に、ひとまずアリバイ工作をした。しかし、長い間、心の内に淀んでいた澱を洗い流すことは、決して簡単なことではない。でも、ようやく今日、運命が目配せしてくれたのだから、これからは諦めることなく、父の固く冷え切った心と戦い続けようと決意する。それが、母の愛情を食べ尽くしてしまった奈々が、母のために今できる唯一のことだから。

 胸の内を透き通った水のような感情がひたひたと、静かに溢れてくる。

 今回は私のほうが仕掛けたんだから、次はお父さんの番よ。でも、本当はもっと大事なことを言いたかった。それは今日は言えなかった。父が何も言わなかったのだから、私のほうからは言えない。

 今になって考えると、父は今日奈々が何か大事な話があってくると予感して、敢えて真理を呼んだのではないかとさえ思う。そして、その場で、真理と奈々が実の姉妹であることを告げようと思ったのではないか。しかし、奈々が俊のことを話さなかったように、父も何も言わなかった。業火の中にある熾火のような情念と苦悩に戸惑いながらも、父は父なりに見えない未来を模索しているのかもしれない。

 改札口を抜け、ホームに上がる。平日の夕方のせいか、人は少ない。誰もいないベンチを見つけて座る。かすかに街の音が聞こえる。

 目の前には、先ほどまで真理といた昭和記念公園が見える。奈々の目は確かに公園をとらえてはいるが、何も見ていない。今日はいろいろなことがありすぎた。考えなければならないこともいっぱいある。父に聞いて問い質さなければならないこともできた。いろいろありすぎて何も考えられない。ただ、ボーッとしている。奈々は、こうした時間が好きだ。

 辛いこと、悲しいこと、苦しいことなどがあって、圧し潰されそうになった時、それらをほんのひと時、心の奥底に沈め込み、無になる術を身につけたのだ。これも、奈々が生きていく上で欠かせない知恵のひとつになっている。長い時間は無理だけれど、たとえ一時でも心を自由にすることで、閉塞感から抜け出せる。とても贅沢な時間であるようにさえ思える。誰のものでもない「時間」というものが、この時ばかりは自分のためだけに明確な意志を持って、やさしく包んでくれているような、そう、まるで母親の胎内にいるかのような感覚だ。

 ああ、もう一度、母に会いたい。母の顔を見たいから、そっと目をつむる。瞼の裏で母はいつまでも微笑んでいた。

 濡れた思いが静かに脈を打つ。父と真理ほど強くない自分は、限りある時間を指で掬い取って見ても、きっと確かな答えなど掴めない。蛍のように一瞬光った母に倣い、せめて永遠のとなりに泳ぎ着きたい。

 知らぬ間に公園は、夜の底に沈む準備を始めている。太陽は思いつめたような表情で空を赤く染め、今日という日に終わりを告げようとしていた。はからずも巻き戻してしまった「時」は、心なしか歪んでいた奈々の片付かない過去に風穴を開けようとしているのかもしれない。

 駅のアナウンスで、電車が近づいていることを知らされる。立ち上がって、レールの先を見ると、眩しいほど美しい大気に包み込まれた電車が徐々に大きくなって、風を起こしながら、こちらに向かってくる。どこかで同じ光景に出会った。心の膜が内側からの力で破れる。

 なぜなのか、鼻の奥がかすかに熱くなる。洗い流したはずの思い出が鮮やかに色づき出し、空虚感を飼い馴らして生きてきた奈々の、心の一番柔らかな部分に控え目に火をつける。まつ毛にわたる風が心地よい。

 ホームに滑り込んだ電車のドアが開く。中にいる見知らぬ人たちの視線を浴び、一瞬戸惑う。奈々を乗せた中央線直通の東京行き電車は、都会の孤独の中を思わせぶりにゆっくり走り出す。おぼろげな未来を手繰り寄せるために、日常の裂け目に一歩踏み出した奈々は、吊り革につかまりながら、幸せの温度を確かめる。

 

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永遠のとなりに シュート @shuzou

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