セツに思う、君のことを。

S【雑賀 禅】

第1話


 君はいない。


 僕のとなりに、君はいない。


 星も無い真っ暗闇な空から、純白の雪だけが、しんしんと降り積もっては、肩を重くしていく。


 どうして、僕はここにいるんだ。


 傘も差さずにコートを雪で湿らせたまま、彼は胸裏で呟く。遠くに見える光の点滅。赤。青。黄。規則性を持って繰り返される点滅は、例えば彼が今、この場所から身を投げたとしても、それは止まることなく、永遠的に繰り返されるのだろう。一秒たりとも狂わずに、永遠に。永遠に。光は無い。何も見えなくなってしまう、未来まで。


 ◇


「今日は雪が降るみたい」


 昼下がり。彼女はカフェの壁際の席に腰掛け、ガラス張りの窓から空模様を眺める。頬杖をつき、上目遣いで空を見上げている彼女の横顔は、均等の取れた綺麗な曲線を描いている。

 彼女の目線が、ふと、彼へ向けられた。


「なに?」


 彼は声を出すこともなく、微かに目蓋を伏せて否定する。それが、彼の合図だった。


『なんでもないよ』


 彼には声が無い。声を出すことが出来ない。その術を幼少期の頃、失った。彼女の声は聞こえている。それなのに『はい』も『いいえ』も、彼は言うことが出来ない。


 多くの人間は意思疎通の困難な彼を遠ざけた。あるいは嫌っていた。だが、聞こえていた。彼のことを面倒だと言う、心無い言葉も態度も何もかも全て、本当は伝わっていた。その度に苦しかった。否定出来ないことにではなく、何もしなかったことに、だ。


 ただ、声が無いだけなのに。

 好き好んで、こうなってしまった訳ではないのに。


 卑屈な思考が、常に彼の心を身体を蝕み、支配した。こうして、彼女と過ごす穏やかな時でさえ、その澱んだ存在をちらつかせる。


「そろそろ、帰ろっか」


 彼女が呟き、視線を合わせて微笑む。その度に、彼の心には幾つもの波紋が拡がる。黒い溜まりに落とされた一滴の白は交わらずに、斑に模様を描いては歪に滲み、やがて黒に飲み込まれた。


 カフェを出て、ゆったりとした歩幅で街中を進む。冷えた風が二人の間を掠めて、通り過ぎた。

 彼の左手に温かな感触が伝わる。どちらともなく互いの指先を絡めて繋ぎ合わせた。


 あと、何度。君とこうして手を繋ぎ、歩けるのだろう。


 一分、一秒と時が過ぎていく度につらくなる。


 永遠は無い。時には限りが有って、常に時間を消費して生きている。誰もが皆、平等で平等じゃない世界で、僕はあと何度、君の笑顔が見られるのだろう。


 今夜はきっと君の言う通り、雪が降るのだろう。

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