銀鶏

志菩龍彦

闘技場


 臭い。

 ムッとするような汗の臭い、不快になる反吐へどの臭い、胸の悪くなる甘ったるい屑飯くずめしの臭い、底都の臭い。

 声。

 肉がぶつかり、皮膚が裂け、噴き出す血に興奮した声。賭けの勝利に喜びを爆発させた声。砕け飛ぶ頭蓋の欠片と脳漿のうしょうの凄惨さに思わず呻く声、そして悲鳴。

 腐敗の臭いと狂気の声が暴風の如く渦巻く、闘技場の最前列の席で、私は身を固くして座っていた。

 周りにいる者達が恐ろしくて堪らない。彼等は不格好で、悪臭を放つ、人とも呼べぬ畸形の者達ばかりだ。彼等の形の原因が、御伽話と呼べる程の古い時代に起こった、放射能や産業廃棄物による遺伝子汚染であることは、學校の授業で教わったので知っている。

 一方、私やその家族、友人達はというと、文字通り雲の上に住んでいる。汚染の及ばぬ高層域に浮かぶ街で生きている。今周囲にいる彼等とは、二重の意味で住む場所が違うのだ。

 本来なら、こんな所に私は居るべきではない。両親が知ったら卒倒してしまうだろう。

 それでも私は、此処に居る。此処でしか彼女を生で観ることが出来ないのだから、仕方がないではないか。

「大丈夫ですか、お嬢さん」

 右隣の席に座っている高倉が、視線だけを動かして訊ねた。この杖を抱えた義足の男は、私が雇った底都ていとの案内人である。

「ええ、少し気分が悪いけど……我慢出来ます」

 きっと顔色が悪いのだろう。実際、鼻孔をつく異臭と熱気や湿気のせいで、口の中には胃液の酸味が拡がっていた。瓦斯面頬ガスマスクをすべきなのだろうが、それでは視界が制限され、折角の彼女の姿が見え辛くなってしまう。

「高倉さん、あの娘の順番まで、あとどれくらい?」

 高倉はザラ紙の進行表を懐から取り出し、目を走らせ、

「この取り組みの次ですな。決着は近い。もうすぐですよ。ほら」

 高倉が顎で指した闘技場の中央では、筋骨隆隆の男が二人、足下に血溜まりを作りながら斬り合いをしていた。二人とも肩で大きく息をしている。金属製の鎧らしきものはボロボロで、剥がれ墜ちた装甲の一部が、血を吸った砂の地面に散乱している。

 一方の男が幅広の肉斬庖丁を振り上げると、それを思い切り振り下ろした。

 もう片方は、横にした刀でそれを受けようとしたが、無理だった。

 肉庖丁は刀をへし折り、深深と男の肩を切り裂き胸まで食い込んでいた。

 彼の口から飛び出したであろう断末魔は、幸いなことに、周りの喧噪のせいで、私の下までは届かなかった。ただ、血飛沫を上げて脱力して倒れるその姿は、しっかり目に映ってしまった。きっと、また悪夢にうなされるだろう。人が殺される光景は、何度見ても慣れることが出来ない。

 胃の中に納めてきた昼食がいよいよ逆流しそうになって、慌てて口を押さえた。

誰かの手が背中を擦ってくれている。恐らく、高倉だろう。何も言わないのは、私を気遣ってのことだろうか。

 殺された死体は係の人間によって、闘技場に設けられた二つの出入り口の一つに引き摺られていった。まるで塵袋のように。

 上の生活では、まずこんな死体にお目にかかる機会はない。死の原因は、病か事故、或いは老衰ぐらいのものだ。殺人などは論外で、「殺す、殺される」という言葉自体、滅多に聞くことは無く、口にすれば顰蹙を買うだろうし、確実に説教を受ける羽目になる。

 勝者である男は、敗者の血でぬらぬらと濡れる肉斬庖丁を誇らしげに掲げながら、もう一方の出入り口に消えて行った。

 観衆達は惜しみない拍手と賞賛を、そして敗者に賭けていた者達はありったけの罵詈雑言を浴びせかけていた。

 何枚もの賭け札が桜吹雪のように宙を舞っている。俗と欲に塗れた賭け札でも、これだけ盛大に舞えば、その壮大さには瞠目せざるを得ない。

「今日の相手は、なかなかに面白い奴ですよ」

 高倉は進行表を渡して寄越した。俗語混じりの読み辛い文章に目を通してみると、彼女の相手である闘士は、驚くべきことに四腕よつわんだと書かれていた。遺伝子汚染の影響による畸形には違いないが、それが四肢として機能することは稀である。大抵はただ余分についているだけの邪魔な付属物に過ぎないと聞いていた。

「これって、物凄く不利なんじゃないですか?」

 この街を覆う黒雲のような不安が胸に湧き起こった私は、彼の顔を伺った。

「単純な足し引きで言えば、不利でしょうね。向こうは二本多いが、こちらは二本少ない」

 高倉は冷笑とも思える微苦笑を浮かべて言った。声の感じからすれば、まだ四十を超えてないはずだが、彼の顔に刻まれた深い傷や皺、時折見せる老人のような諦観の表情のせいで、本当の年齢は解らなかった。

 しかし、それは重要ではない。私が彼に望むのは、報酬分の仕事だ。案内役としての、用心棒としての。そして、彼女の情報提供者としての。

『御観客の皆様方! いよいよ本日の大トリで御座います。最後の大一番は最早説明不要のこの二人!』

 甲高い司会の声が響き渡り、鼻息荒い観衆達の間にも一瞬の静寂が訪れる。

『まずは西門より来たりますは、蛮族王の血を継ぎし四腕の魔人、蝦夷宿儺彦えぞすくなひこ!』

 出入り口の西門がガラガラと音をたてて引き上げられ、中から異形の男が現れた。

 身長は二メートルを越えているだろう。顔には古代の蕃神ばんしんの赤い仮面――博物館で見た覚えがある――を被っている。背中の両肩甲骨の近くに、もう一つの両肩があり、そこから二本の腕が生えている。司会者の大法螺(おおぼら)ではなく、鬼面の巨人は、本当に四本の腕を持っていた。

 大地を踏みしめながら、宿儺彦は闘技場の中央に進み、止まると天井に向かって獣の如く咆吼した。

 観客達が一斉に歓声を上げ、回りにあるものを叩きまくり、囃(はや)し立てた。

 私は何時の間にか高倉の体にしがみついていた。

 恐ろしいのだ。覚悟はしていたが、やはり恐ろしいものはどうしようもない。観客達が盛り上がれば盛り上がるほど、自分の場違いさを痛感させられる。

 音も声も臭いも、何もかも自分の知っているものとは違う。ここは異界だ。彼がいなければ、自分などすぐに攫われて、慰み者にされた挙げ句、売られるか殺されてしまうだろう。

 それでも、私は見たいのだ。

 彼女を。

『御静粛に、御静粛に。それでは、東門の者を呼ばせて頂きます。こちらも、皆様御存知で御座いましょう。その闘う様はさながら舞の如し、されど走る刃は疾風の如し!

 いざ来たれませ、銀鶏ぎんけい!』

 東門が開くと同時に、場内の歓声が急に消えてしまった。まるで音楽装置の無音釦ミュートボタンを押したかのように。皆、只只、羨望と期待を込めた眼差しで東門を凝視しているのに違いない。私がそうであるように。

 東門の暗がりの中から、彼女は出てきた。

 鍛え上げられ、引き締まった足で優雅に中央へと歩んで行く。彼女の履く革製のブーツの踵から湾曲した鋭い両刃の剣が生えていた。

 何処からか吹き込んだ隙間風が、彼女の名の由来とも言える、長い白銀の髪を揺らした。戦場にそぐわぬ優美さを持つその髪に、女達は羨望と嫉妬を覚えずにはいられない。後ろで一束に括られたその髪は、尾のようでもあった。どう見ても弱点としか思えないが、高倉曰く、あれも彼女の戦術の一つらしい。相手を翻弄し、罠にかけるための、一種の疑似餌の如き効果があるとか。

 白髪の下にあるのは、底都の人間とは思えぬ、だがさりとて雲上人でもない、鍛え研ぎ澄まされた刀のような美貌である。私の同級生にも彼女ほどの整った顔立ちを持つ少女はいない。やや高い鼻梁の上を横一文字に走る古い傷痕も、むしろ戦化粧として、彼女の存在を引き立たせている。

 そして、何よりも目立つのは、彼女の両腕である。否、それは正しく、同時に間違いである。

 彼女の両腕は欠落していた。

 身に纏った水干にも似た眞白の衣装の袖の中は、虚空である。体の震動や風によって揺れ、はためくそれは、鳥の羽根を思わせた。腕のない代わりに、彼女は羽根を持っている。飛ぶことも出来ぬ翼ではあるけれど。

 白銀の髪に白装束の腕無しの闘士。

 銀鶏と呼ばれる少女が、ついに闘いの場に放たれた。

 言葉通り大人と子供程の差のある二人が、ほんの僅かな距離を置いて相対し、視線をぶつからせている。

 その傍で審判が形だけの規則の確認をしている。この闘技場における規則は要約すれば、何でもありである。唯一禁止されているのは機械式飛び道具の使用だけだ。

 私は固唾を呑んで、彼女の一挙手一投足を注視した。胸の動悸は速まるばかりで、今にも爆発してしまいそうだ。

 押し殺した呟き声だけが細波のように広がっている不気味な静けさの中で、ついに審判が試合開始の鐘をならした。

 鬼面の巨人が四つの腕を振り上げながら、銀鶏に躍りかかった。

記録映像で見たことのある絶滅した肉食動物のような瞬発力で、彼女に接近した巨人は得物を握った腕を振るいまくった。

 だが、その連撃は一撃たりとも、彼女の肌はおろか、白装束にすら触れることはなかった。

 銀鶏は身軽に、時には舞踊の如く、襲い来る巨人の刃を紙一重で躱している。

 傍目には余裕綽綽のように見えるが、何度も彼女を見てきた私には、彼女が余裕や油断等という生温いものを持ち合わせていないことを知っている。

 彼女の猛禽を思わせる鋭い赤銅色の瞳は、油断無く相手の隙を窺っている。只の一瞬、それで勝負は決まるのだ。彼女はその一瞬を狙っている。

 それを知っていても、私は彼女の姿に魅せられた。闘いながら舞い、舞いながら闘う、その姿に。

 白銀の尾羽を振るい、羽根をはためかす銀鶏に。

 そして、逃げの一手だった彼女が、一転攻勢に出た。それはこの闘いの終局を意味していた。

 鬼面の巨人は我が目を疑ったことだろう。彼には、突然目の前から銀鶏の姿が消えてしまったかのように見えたはずだ。

 でも、私を含めた観客達には、はっきりと見えていた。

 足の筋力を収縮、爆発させて高高と銀鶏が跳躍したのだ。巨人の視界から跳びだしてしまう程の高さまで。

 それは彼女のお決まりの技で、だから当然相手も知っている。

 巨人はすかさず四つ腕を頭上で交差して防ごうとした。しかし、そんなものは間に合わない。

 銀鶏の踵の刃が、照明に煌めくのを私達が意識した刹那、その刃は巨人の頭に突き刺さっていた。

 頭皮を切り裂き、頭蓋を砕き、脳を穿って、顎の下から刃が飛び出していた。

 審判が判定を下すまでもなく、それは巨人の死であり、銀鶏の勝利であった。

 彼女はスルリと刃を抜くと、巨人の胸を蹴って、軽やかに地面に降り立った。

 巨人は倒れなかった。死の瞬間を見逃したが故に、まだ自分が死んだことに気づいていないかの如く。だが、彼は知らずとも皆は知っている。もはやあれが、蛮族王の血を引く闘士ではなく、一個の肉塊であることを。

 今まで貯めていた鬱憤を爆発させたような、万雷の拍手が巻き起こった。老いも若きも男も女も、闘技場の中央に立つ、気高き勝者の姿に酔いしれていた。

 私もその一人だった。只、酔ってはいなかった。もうその場所は通り過ぎた。もう一歩彼女に近いところに、私はいる。

 銀鶏は踵を返して、悠悠と東門へと戻っていく。

 司会者の口上も観客の騒ぎ声ももう私には聞こえない。

 白銀の尾羽を振りながら消えて行く彼女をひたすらに凝視することに努めていた。

 その姿が網膜に焼き付いて、永遠に消えることがないように、願いながら

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