すりぬける

@enna_tori

すりぬける


「おいおいおいおい聞いてくれよッ! すげえことが起こったんだよ!」

 若葉という名前に似合わず限りなく馬鹿っぽそうで不良のような風体の青年は、部屋に入ってくるなり自分の部屋でもないのにまるで自分が部屋の主であるかのように寛いで菓子を食べながら漫画雑誌を読んでいる友人の水柿の漫画雑誌を取り上げ興奮した様子で水柿の目の前に迫った。水柿はどうせろくでもないことだろうと思って面倒くさそうに話の続きを促した。

「あのさ、あのさ、ソリューシって、知ってるか?」

「ソリューシ? っていうと、なんかこう、小っちゃくて……なんかこう小っちゃいやつ」

「ばっかだなお前、ソリューシってのは、細胞のことだよ!」

 馬鹿な若葉の言い分に何か納得のいかないものを感じながら、水柿は話の続きを促した。

「ソリューシはモノを作る細胞なんだよ。俺もお前もソリューシでできてるし、このテーブルもポテチもマンガもソリューシでできてる。ここまではいいか?」

 馬鹿な若葉に馬鹿扱いされたことにとてつもなく腹を立てながら、水柿は話の続きを促した。この話がくだらないものであったなら一発殴ってやろうと決意しながら。

「んでだ、ソリューシってので俺たちは作られてるが、みちっと全部埋まってるわけじゃぁない。微妙な隙間が空いてるんだ。ほんとにほんとに細かーく、細かーくだけどな」

 話の行き先がぶっ飛んできた。若葉にはよくあることだが、ここまでくるとさすがに話の展開が見えない。

「その、ソリューシの話がお前の言う『すげえこと』とどう関係するんだよ」

「いいから聞けって! だから、ソリューシの作る隙間がどんなもんにでもあるってことだよ。俺にもあるし、お前にもある」

「お前、そんな話誰から聞いたんだよ。また瑠璃さんか? あの人の話面白いけど彼氏いるじゃねえか」

「違ぇよ、俺は今言ったことを理屈じゃなく体で理解したんだよっ! こう……誰でもないような人がこう、教えてくれたような……」

「天啓?」

「そうそれっ! 俺は今の話を体感したんだよ!」

 水柿はそろそろ若葉の頭の調子を心配せねばならないくらいの話のレベルになってきた。ヤバイクスリでもやっているのか?

「話は最後まで聞けッ! だから、隙間があるってことはうまくすれば通り抜けられるってことだろ? 俺のソリューシがこのテーブルの隙間にぴったりはまれば通り抜けられるってことだ。わかるか?」

 水柿はいらっとしたので、ついに一発叩いてやることにした。が、確実に若葉の頬に当たったと思った拳は何の手ごたえもなかった。若葉は避けるそぶりもしなかった。

 若葉の「どうだ」というような顔にかなり腹が立ったが、なんだか得体の知れないものに少し恐怖した。

「この隙間を通り抜けられる確立はかなり低いらしいんだ。なにせ体中のソリューシと物のソリューシの位置がぴったりしないといけないもんだからよ。一億分の一とか、十億分の一とか」

「……そんなもんじゃねぇだろ。もっと低い」

「そのもんのすげぇ低い確率を! 俺は手に入れたんだよ!」

 ……つまり。若葉が言いたいことは唯一つ。

「なんでもすり抜けられるようになった、と」

「そう! すごくね!?」

 すごいことではあるが、結論はたった一言言えば済むことだった上に散々馬鹿にされたのに腹を据えかねた水柿が叩いてやろうと手のひらを若葉の顔に振ると、その手のひらは若葉の顔に吸い込まれてぎゃっと悲鳴を挙げたのは水柿の方だった。

「……なんでもすり抜けられるってんなら、なんでお前服が着てられるんだよ」

「はぁ? 服は着るもんだろ。俺に裸になれってのか? お前、まさかそっち!?」

「あーうるせぇ! 違う!」

 水柿はしばし考えた後、若葉に右手を差し出した。

「握手」

「あぁ? いいけど」

 若葉はなんの疑いも持たず水柿の手を握り返した。触れている。どうやらこの『すり抜け』は、若葉が触れようと思ったものには触れるものらしい。無意識的なものが大きいようだ。若葉は単純バカだからなぁ。

「……こんだけのすごい力、何かに使わねぇと、無駄だよなぁ」

「そうだろ? 水柿もそう思うだろ!?」

 水柿と若葉は、握手をしたままにやりと笑いあった。ただの実験だった握手がその瞬間別の意味を持った。



 最高だ。水柿と若葉はパンパンに膨れ上がった鞄を抱えて、暗い逃走経路を走りながらゲラゲラ笑いあった。

 鞄の中身は大量の札束。それに宝石やら指輪やらの貴金属。全て盗んできたものだ。

 水柿が計画を立て、若葉が実行する。犯行時には水柿もサポートするが、それすら必要ないほど二人は絶好調だった。

 狙うのは汚職の叫ばれる政治家や、黒い噂の絶えない会社の社長宅や別荘。人を犠牲にして私服を肥やしているやつらから金を奪っても何も悪いことはないし、元々が黒い金だから奴らは盗まれたことも秘匿する、それらが水柿の提示した理由だった。実行中のリスク(警備員まがいのゴロツキや、無駄に凝らされたセキュリティ)は高いが、終わった後のリスクは低くて済む。実行犯であるが、すり抜けられる若葉は無敵に近かった。が、若葉は馬鹿だし、情報に疎い。そういう面で水柿は持っている知恵を総動員し、二人はいいコンビになった。

 若葉のすり抜けは、最強だ。基本、若葉が知覚しないものはすり抜ける。赤外線センサーさえもすり抜けるのだ。そして金庫に辿り着けば、無造作に手をそのまま突っ込み、金を引きずり出す。札束が山ほどあるときは両腕を突っ込んで抱えるように。指紋も、金庫を開けた形跡も残さない。部屋を絶対荒らさないようにすれば、事件の発覚をかなり遅らせることができる。最強だ。

 金が多いと顔もほころぶ。怪しまれないよう、使う金の限度は決められていつもとほとんど変わらない生活をしていようと、持っている金の額が違えば心に余裕ができる。何より、働かなくていい。前からふらふらしているフリーターのようなものだったが、今はもう完全な自由人だ。気の置けない友人と、寝るところ。さらに金もあれば完璧。こうやって若葉と馬鹿をやっている今が、水柿はどうしようもなく得難がったものだった。

 だが、若葉はそうではなかったようだった。


「……なぁ。俺らってさぁ、よくやってるよなぁ?」

 若葉の言葉に剣呑なものが混じっていることに水柿はすぐに気付いた。

「ああ、よくやってるよ。特にお前はな。まったく、ソリューシがどうのこうの言い始めたときは『こいつ頭湧いてんじゃねぇーか?』って思ったけどな」

「うるせえよ。俺がいなくちゃなんもできねぇ癖に」

 反射的に襟首をつかもうとして、自制したために腕がぴくりと動いた。若葉はなんでもすり抜ける、それは身につけている物も同じだ。

 腕の動きを若葉は目ざとく見つけた。それだけ鬱憤が溜まっていたらしい。

「なんだよ、俺に掴みかかろうっての? どうぞぉ、俺に触れるもんならさぁ」

「……んで。お前は何が言いたいんだよ」

「だから。俺たちの『コレ』は、俺がいないとありえなかった訳だ。だから、俺の方が取り分多くて当然じゃねぇの? ってことだよ」

 コレ、と若葉はかかとで鞄を蹴った。初めて大金を手にした時の恭しい態度はどこにもない。水柿は詰めていた息を吐き出した。

「一番初めに決めただろうがよ。五・五だ。お前もそれでいいって言ったじゃねえか」

「あの頃は俺も頭悪かったなぁ。このチームのリーダーは俺だぜ?」

 果たしてそうだろうか。水柿の見る限り若葉は相変わらず馬鹿だし、水柿を率いていけそうなリーダーシップはない。

 だが、若葉の力がなければこのチームが成り立たないのも本当だ。そういう点で水柿は下手(この言い方は嫌いだ)に出なければならない。

 若葉の不満が何なのか水柿にはわからない。

「金は溜まってきてるし、別に取り分を変えてもいい。だが、別に使える額が増えるわけじゃねえぞ?」

「何でだよ! 俺がリーダーなら俺が決めてもいいだろうが!」

 そっちか。膨大な金を手に入れた若葉は、大抵の者が陥る「浪費欲」が痺れを切らしたというわけだ。冷静に考えれば浪費なんて必要ないし逆に首を絞めるものだとわかりそうなものだが。やはり若葉は馬鹿だ。

「……っ、お前、今俺のことバカにしただろ!」

「はあ?」

「今の目つきだよ! バカにするんじゃねぇ!」

 馬鹿だな。水柿は若葉のことを馬鹿だと思っているが、バカにしたことは一度もない。

「馬鹿だな、若葉は」

「んだと、この野郎!」

「わかったよリーダー、取り分を変えよう。六・四? 七・三?」

「……七・三」

「はいはい、リーダー」

 九・一でも別に構わないのに、そうしないあたりまだ友人だと思っているのか、そう思っていいのか水柿は判別がつかなかった。


 次の盗みの時、互いに心中にくさくさしたものを抱えての盗みになった。いつものように水柿が綿密な計画を立てて若葉が実行する。だが、以前はもっと楽しくやっていたはずの盗みは今回はつまらない作業になっていた。

 若葉がするりと入り込み、鍵を開けてその後に水柿が続く。人の気配がする、今回は早めに切り上げた方が良さそうだ。

 若葉がいつものように金庫に手を突っ込み、水柿は脇で鞄を広げて持つ。若葉の動きは妙に緩慢だ。

「若葉、早くしねえとまずいぞ」

「うるせえ、わかってるよ。指図すん、な」

 金庫に突っ込んでいた若葉の右手が、突然、びたりと止まった。若葉は呆然としているような、青くなっているような、そんな顔をしている。

「どうした?」

「……え、何で」

「おい、早くしねえと」

「え、ちょ、待っ、待てよ」

「モノマネしてる場合かよ、似てねえし」

「違うって!」

 正真正銘、血の気の引いた顔をしている。

「ぬ、抜けない」

「……え」

 若葉が引こうが押そうが、腕は肘までほど入ったまま完全に金庫に埋まったまま一体化している。水柿の背筋に一気に冷や汗が噴いた。

「何で、ちょっ、何で何で! こんなん、今まで一度もなかったのに!」

 この前の強気な態度はどこにもない。可哀相なくらいうろたえて、混乱している。徐々に声が大きくなってきている、まずい、気付かれるのも時間の問題。

「気合で一気に引き抜けねえのか」

「中指の先っちょが向こう壁に埋まってて、力が入んねえんだ! 引っ張っても押してもビクともしない! 水柿、助け」

「落ち着け」

 今まで出したことのないような重く低い水柿の声に、若葉は萎縮して声を飲み込んだ。水柿は若葉の肩を強く強くつかんだ。

「目を瞑れ。深呼吸しろ……ゆっくりだ。吸う……吐く。そうだ。考えるな。すり抜けられるすり抜けられないとか、どうでもいいことだ。何も考えるな」

 若葉のすり抜けは無意識的なところが大きい。知覚しないものはすり抜けるし、手に持ったものは当然のように若葉の手の中に納まる。どうして急にすり抜けられなくなったのか、それは若葉が考えてしまったからではないか。あれだ、先日の喧嘩。思い悩むところがあれば体の調子も悪くなるだろう。若葉はそういう単純バカだ。単純バカだからこそいいのだ。思い悩むほうが馬鹿だ。

「……おい、右手の人差し指、虫止まってるぞ」

「うひぃっ!?」

 虫嫌いの若葉は咄嗟に両手を上に振り上げた。

「………あ」

「ずらかろう。そろそろ気付かれる」


 初めての収入ゼロの盗みの帰り道、若葉はわかりやすいほどしょんぼりしていた。金が手に入らなかったことを悔しがっているのかと思いきや、そうではないようだった。

「……水柿。ごめん」

「あん? 何が」

「俺の失敗のせいで、お前も危ないところだった」

 ……どうやら先日の強気な若葉は幻だったようだ。水柿は呆れたため息を吐いた。

「盗みに入ったことはばれちゃねえし、お前も俺も五体満足だ。別に謝る必要ねえだろ」

「でもよぉ。俺、あんなに偉そうにしてたのにさ、いざとなったらあんなにパニクっちまってさ……」

「調子の悪いときは誰にでもあるだろ」

「悪かったよ、この前は。やっぱり、リーダーはお前だ」

 どうしてそう、リーダーがどっちかなんて拘るのだろう。水柿は呆れながらも、悪い気はしていなかった。

「次からはちゃんとしなくちゃな。俺が失敗しただけで大変なことになるもんな」

「お前は永遠に『右手が金庫』で生きるようになってたかもしれないしな」

「うへぁ!」

 二人は暗い道でゲラゲラと笑いあった。何だかんだで、水柿にとってこうやって笑い合えてることが一番だ。

「でもさぁ、ちゃんとするってどうすればいいんだろうな。さっき俺を助けてくれたけど、なんかコツとかわかってんの?」

「ああ、ちゃんとするとか考えなくていいんだよ、お前は馬鹿なんだから」

「馬鹿って言うなよぉー」

 路地を水柿が先に歩く。後ろから若葉がついてくる。

「悪かったよ。だから、お前はお前が思うようにしてればいいの。息を吸ったら吐くだろ? 右足を出した後は左足が出るだろ。すり抜けられるのが当然、って思ってればいいんだよ」

「当然か。当然、当然、当然………」

 そうやって繰り返しても当然にはならねえだろ。やっぱり、若葉は馬鹿だな。

「当然、当然、当然、当然、とうぜ」












  と  ぷ ん。











「……若葉?」

 突然途切れた「当然」を不審に思い振り返ると、そこには誰もいなかった。

「……おい、若葉? どこいったんだよ」

 狭い路地に隠れられるような場所はどこにもない。いや、若葉はすり抜けられるんだから、壁をすり抜けていくぐらいはできる。でも、そうだとしても、何故。

「若葉? おーい、馬鹿―」

 怒って出てくる様子もない。さっきまで若葉がいただろう場所に立ってみると、何かを踏んだ。

 若葉の被っていた帽子だ。金が入るようになってから買った上等な帽子で、若葉はかなり気に入っていた。

 ……稲妻のような直感。水柿は帽子を拾い上げようと屈んだ膝をそのまま地面につき、両手をついて地面をさすった。

「……おい。まさか」

 地面に耳をつけてみても、唸るような音しか聞こえない。

「返事しろ、若葉! ふざけてんじゃねーぞ!」

 まさか、まさか、まさか。いや、まさか。

 無意識的な部分の大きいすり抜け。呼吸は当然。歩けるのは当然。そうだろ? いくらお前が馬鹿でも、まさか。

『すり抜けられるのは当然』だけ、考えたとしたら。

 そうだとしたら? なら、あいつは今どこにいるんだ? どこまで行くんだ? 終点なんてあるのか? そもそも、息は? できないんじゃないのか?

 『中心』まで、行くのか? そんなところまで行くのか? そんなところまで行って生きてられるのか?

「若葉ァ!!」





 若葉の行方は、今もわからない。







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