礼賛

 その男と出会ったのは、四十年も前になるか。三十も半ばになってからだった。

 戦争成金の俺は世間の凡ゆる物を文字通り食い尽くしていた。親から継いだ資金を元手に、機運に乗って大いに稼いだ。金だけは唸るほど出来た。

 だが、困ったのはそれからだ。

 言い寄って来る女にも、無闇矢鱈に豪勢な車にもさしたる興味を持てなかった。酒も飲んだが酩酊すると舌が馬鹿になる。それが嫌で舐める程度に収まった。煙草? 勿論吸った。人生で一本だけ。その後何を食っても暫く味が解らなくなり、見るのも嫌になった。

 だから、食うことにした。凡ゆる物を。

 食って、喰って、食い続けて、食うものが全て物珍しくなくなった。そう思っていた時に、その男と出会った。そう思い上がっていた頃に出逢うことが出来た。


 からりからりと配膳車が近付く音がする。

 目はもう碌に見えない。

 耳も昔に比べれば悪い。

 舌だけは変わらなかった。

 人生、唯一にして無二の快楽。

「旦那様、お食事で御座います」

 若い女の声。給仕の女はこの料理を作った男の娘だ。

「御苦労。今日は何だ」

「今宵は明かさずに出せ、と料理長から申しつかっております」

「そうか」

 血縁上は俺の娘だが、料理長が、あの男が欲しいと言ったからくれてやった娘。

 否、順序が逆だ。

 あの男が言ったのだ。子供が一つ欲しい、と。だから愛人を作り、産ませた。その女がその後どうなったかは知らない。全て弁護士に任せた。結構な額を払った、とか言っていた気もする。つまり、小金持ちになって満足したのだろう。親子の愛情なぞ、体内の分泌物のバランス崩壊でしかない。

 そういうこともあって、以来この娘はあの男の娘だ。屋敷に籠もり切りで碌に外の世界も知らない娘。娘? まぁ、娘で良かろう。

「どうか残さずに食して欲しい、とも言っておりました」

 鼻で笑う。俺にそれを言うか。

「お前。俺があの男の作った物を平らげなかった事があるか?」

「いえ、記憶に御座いません。それと」

「まだ何かあるのか」

 料理が冷める前に食いたいのだ。

「料理の名前は、お食事の後に、と」

「ふん」

 盲人と侮って、ということだけは絶対に無い。理由がある。必ずだ。あの男はそういう男だ。料理を作る、この一点に関して妥協できない。名に理由があるのだろう。

「では、まず最初は」

 香り。蓋の開く音。スープか。


 男は流しの料理人だった。当時はそういう職人がいた。昨今は武者修行なんてものは時代遅れだろうか。しかしあの頃は違った。

 小腹が空いて、目についた小綺麗な料理屋にうっかり入ったのが運の尽きだった。

 無我夢中とはこのことだ。食い終える前に料理人を呼び出していた。店主の困り顔は覚えているが、その時叩きつけた札束の枚数は覚えていない。

 だが男は、あの男は言ったのだ。

「明日の仕込みが終わってからにしてくれ」

 仏頂面を隠しもせずそれだけ言い放って、暖簾の向こう側に消えたのだ。

 普通の料理人なら、大抵の人間なら、目を剥いて飛びつくか、それとも何かの冗談かと笑い飛ばすか、そういう額を見せつけた。にもかかわらず、だ。あの男は明日の料理の下準備よりも価値が無い、と言い切ったのだ。

 結局俺は店ごと買い、数年後に適当な理由を付けて元店主を追いやった。

 男には最高の環境と食材を提供し続けた。だからだろう、文句一つ言わず黙々と料理を作り続けた。


「美味い。旨いが、判らんな。なんだこいつの出汁は」

 世界中の食い物という食い物を喰い尽くして尚、知らない味が月に一度は出てくる。あの男と、男の娘は理想的な料理人だ。

「苦味が独特だな……」

 スープに舌鼓を打つ。香草が幾つも混ざり合い、混沌一歩手前で完璧な調和を奏でる。

 かちゃりかちゃりと控えめに、皿と机が譜面の無い音楽を爪弾く。

「おい、料理長はどうした」

「只今、旦那様にお目にかかれません」

「そうか。まぁいい。最後には教えてくれるんだろう、こいつの名前を」

 直前まで手の掛かる肉か何かと格闘しているのか。魚か。まさかデザートか。胸が高鳴る。


 店主を追い出しても男は文句一つ言わず、店を開けなくても良いと言っても表情一つ変えず、日々を研鑽と探求に費やし続けた。

 時折変わった食材を欲しがった時は、金に糸目を付けずに取り寄せた。作った物を俺に食わせるという条件を、男は快諾した。

 その無意味な刃を研ぎ続けるが如き精神が揺らいだように見えたのは、ただ一度だけだ。


 サラダは凡庸なものだった。つまり、ただ最高に美味いだけだ。珍しさは無い。しかし、直前までの不可思議な味わいを口の中から消し去るのにこの上なく作用した。

「おい、これはどっちだ」

「今までお出ししたものは全て私が手掛けております」

「そうか」

 この娘も料理人だ。しかも、最高の。

 そう、それは正しく文字通りの意味で。


 ある夜、男が包丁を研いでいるところに出くわした。否、男の様子が気になって、夜分遅くまで何をしているのか、明日の料理は何なのか、少し話でもしないかと、気紛れを起こしたのだ。既に出会って二十年以上経っていたのに、今更何を話すのか。それまでの会話と言えば飯の話だけだ。世間話も無い。だが。あの夜再び男の運命を変えたのだ。

 男は、砥石の前で薄く細くなった包丁をじっと見つめていた。俺は声を掛けず、同じく包丁を眺めた。

 素人には、何も解らない。ただ、あれから素晴らしい料理の数々が生み出されるのだ、ということをぼんやりと把握していただけだ。

「丁度いい。話があるんだ」

 珍しく男から声を掛けられ、思わず仰け反る。

「何だ。何が欲しい」

「包丁だ」

「そいつじゃあだめか。なんの、どんなやつだ」

 男の節くれだった指先と、皺の刻まれた眉間動いた。

「子供をくれ」

「女か」

「なんでもいい。自由にできる子供を一つくれ」


 娘は小振りなステーキを切り出している。

「これもお前か」

「はい」

 あの男が唯一、自分よりも高い技術を持つと太鼓判を押した人間。二十年近くもの間、ただ厨房に立ってただ料理を作り続け、そして未だ薄く細く為らざる刃紋。それがこの娘だ。

 肉塊を口に入れる。シンプルなソース。精妙な焼き加減。俺のような常人には終ぞ解らぬ差を以って親を超えた娘の料理。


「右の皿と左の皿、どちらが美味い」

 厨房に呼び出された俺に男は前置きなしの質問を浴びせた。傍らには娘がいる。普通なら学校に通い始める頃だろうか。読み書き算盤は一通りできるようになっていた。料理の基本は計ることと仕入れだからだそうだ。

 差し出された皿の上に乗る肉を食う。

「解らん。左の方が硬いな。こちらの方が好みだ」

 そういうと男は頷き、

「右は旨味が溶け出してしまった。柔らかくはあるが、そいつは抜け殻だ。いいか……」

 俺に話しかけているのか娘に語っているのか、あるいはその両方か。

 そんなことが、十年近く続いた。

 そして、ある日を境に、男は娘の作った料理を、俺に食わせるためのものとして出し始めた。

 男の基準に満たないものは食卓に上らず、俺は空腹を抱えて眠る日もあった。そして、そういう日は厨房から火が落ちることはほとんどなかった。


 メインの肉の後、再びスープが来た。

「これもか」

「はい。私です」

 あの男が全ての料理を任せるのは初めてだ。

「あいつはどうした」

 スープの最後の一滴を飲み干す。この肉は何だったのだろう。美味かった。

「今宵のコースは『とある料理人の人生』で御座いました」

「そうか」

 二度と同じものが食えない。それが、それだけが少しだけ悲しかった。

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