習作
くろかわ
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くすり、と彼女の穏やかな頬の綻び。吐息に瞼がくすぐられる。いつの間に寝ていたのか、夜へ傾く日差しは彼女の白磁の肌を朱色に染めている。
何時だろうか。
起き上がろうとするが、のしかかられていて身動きが取れない。否、体を起こす気にならない。お互い小柄で、身長差はあまりなくとも、少なからず男女の体躯には違いがある。
それでも、押しのけようとは思わなかった。重みがあるという事実が重い。
――起きた?
問われて、言葉よりも腕で答える。薄い背中。細い肩。綺麗な丸みの後頭部。触り心地の良い髪。
ふわり、と少しだけ薫る。二人の思い出。線香花火。
――うん。
抱きすくめて、今一度浸る。
結局、汗を流して夕飯の買い物にでかけたのはそれから二時間後。雲一つなくとも都会で星を眺めるのは難しい。浮かんでいるのは大きな三角形。
今年は会えそうだね、と脈絡もなく口にする彼女。片方の手は眉の上にかざし、街灯の灯りから水晶体を守っている。もう片手にはビニール袋を半分だけ。
そうだね、と確認もせず応える。同じ空、同じ無間に視線を飛ばす。二人一緒に同じ袋を持つ。光年の隔たりと虚無の闇の中では共有できない、ポリエチレンの安っぽい音と感触は、伝承の彼方の存在からすら優越感を感じる。
ぺたりぺたりとサンダルの音で街時に灯る電灯の光りを踏む、影二つ。
――料理の腕は上がった?
――作ってない。
もう、と眉尻を下げ、唇を尖らせる。素振りだけの困り顔。表向きの態度とは裏腹に、買い物の最中もこちらの食べたいものだけ聞いてきた。そういう人だ。昔から。ずっと。
少し待ってて、という言葉を受けて、暫くの間彼女が一人で夕食の用意を進める。罪悪感に負けて何度か手伝おうかと申し出るも、その度にこう言われる。私に作らせて、と。最後まで手伝いとは名ばかりで、食器を並べて茶を淹れ、あとは座っているだけで夕食が出来上がってしまった。
――結婚太りの理由ってこれなんじゃないか
――え?
――なんでもない
彼女が楽しいならなんでもよかった。
こちこちと鳴る針。窓からそよぐ夏風。小高い住宅街から見下ろす人の灯り。ぽつりぽつりと仄かに光る。
――いつまで?
――しばらくは
少しの間、沈黙が降りる。電車が通り、かたりかたりと彼方で響く。遠い街並みを車が騒々しく走り去っていく。どこか別世界を見下ろすような気分で、夜闇の営みをぼんやりと眺める。
――ねぇねぇ
つんつんと腕に指先の感触。昼間の続きの誘いではなく、子供の頃からの慣れたやり取り。他愛のない話の切り出し方。友愛の接触。
――今年の、足遅かったんだけど
――去年は酔ったって言ってたから。
すこし、爪楊枝を短くしすぎたかもしれない。蚊遣器のような精霊馬を二人で眺める。
今年は、あとどれくらい一緒にいられるだろうか。
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