第3話 晴れ

「空が青い」

 ふいに、先生が言った。

「空はこんなにも青かったんだね」

 そう言われて外を見ると、確かに、空はとても青かった。ついさっきまで厚い雲に隠れていたけれど、その上の世界には、こんなに鮮やかで明るい光が広がっていたのか。

 所々浮かぶ白い綿雲が、より青さを引き立てている。

「僕は最近、音楽を楽しめなくなっているんだ。……というより、今まで音楽だと思ってきたいろいろな音を、音楽だと思えなくなってしまったんだよ」

 なるほど、それで最近先生は、ピアノを弾いてくれなくなったのか。

「音を聞くことは、とってもわくわくすることだったよ。音は、みんな、僕の友達だった。でも、今は……」

 先生のピアノは、一粒一粒の音をとっても大切にしていて、それが美しかったんだ。きっとそれは、先生がほんとうに、全ての音が愛おしくてたまらなかったからなのだろうな、と、ぼくは思った。

 先生のピアノが聴けないのは残念だけど、でも、でも。先生ならまたきっと、音が大好きになれる気がするから。

「先生、ゆっくり、休んでいいんだよ」

 そんな気持ちを込めて、ぼくは先生に頭を擦り付けた。先生に伝わったかはわからない。けれど、ほんの小さな声で、先生が、ありがとう、と、つぶやいた気がした。


 僕は一度音楽と距離を置くことにした。今日は、彼を連れて森へ来てみたのだ。どこまでも続く、木、木、木。

「森の緑は、こんなに鮮やかだったんだね」

 と、僕は言った。最近気がついたことが、たくさんある。僕は今まで、目が見えなかったわけではないけれど、世界で、音しか聞いていなかったのではないだろうかと思われる。そのくらい、音に執着しなくなった今、目に見える発見がたくさんあるんだ。

 湖のほとりまでやって来た。水面が眩しいほどに煌めき揺れて、美しい。抱いている彼の方を見てみると、湖の光が反射して、瞳がキラキラと輝いている。

 空や森の鮮やかさも、湖の煌めきも、僕は知らなかった。ああ、世界は、明るいんだ。


 家に帰ると、先生は夕飯の支度を始めた。今までは野菜1つ切るにしても、トントントン、というリズムを刻んで、先生は楽しんでいるようだった。でも、今日は、違う。

 先生はトマトを半分に切ろうと包丁を入れ、音をほとんど鳴らさずにゆっくり切った後、ぼくに断面を見せて、

「ほら、トマトは、中までこんなに赤かったんだね! お日様をたっぷり浴びたんだろうか、とても美味しそうだ」

 と言った。

 ぼくはトマトを食べたことがないから、赤いと美味しいのかは知らないけれど、でも、なんとなく、美味しそうだと笑顔で喜んでいる先生を見ていると、きっと美味しいんだろうな、と思えてくるんだ。いつか、食べてみたいなあ。

 食事を摂りおえると(ぼくは結局トマトは食べず、いつものエサを食べた)、先生はお風呂に入った。今日は森に散歩に行ったから、ぼくもお風呂に入れられた。ぼくはシャワーは不得意だけど、湯船に浸かるのは嫌じゃない。

 今までだったら、ぼくが湯船にいる間、先生は指だけ浴槽に入れて、バシャバシャとリズムをとって遊んでいるのだけど、今日はただじっと、ぼくを見ていて、「気持ちいいかい?」なんて聞いてきた。

 なんだか少しだけ、寂しいような気がした。

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