第2話 曇り

 最近、先生がピアノを弾かなくなった。それどころか、生徒さんが来ることも、「CDプレイヤー」というものから曲が流れることもなくなった。この家から、ぼくの思う音楽が、消えた。

 時計の針がチクタク鳴る音、冷蔵庫のブーーーーーという駆動音、ぼくの身体が絨毯に擦れる音……

 すべての音が、いつもよりとてもうるさく感じる。


 僕の耳がおかしくなってしまったのだろうか。聞こえてくる様々な音たちが、以前とは違って聞こえる。今まで、この世のすべての音、音楽は、僕に親和的だった。あらゆる音が魅力的で、好奇心をくすぐられ、不快な音でさえ、なぜ自分にとってその音は不快なのかと考えることで楽しめた。そう言うと、友人は僕を「変態」と言ったっけ。もしかして僕は耳をおかしくしたのではなく、むしろ普通になったのだろうか。いや、そうではないはずだ。普通の人には心地よいはずのショパンのノクターンでさえ、とても攻撃的に聴こえるのだから。

 生徒さんへのレッスンは、しばらくお休みにさせてもらうことにした。一日中ピアノの音を聴き続ける仕事は、今はとても出来そうにない。大丈夫、彼と僕の2人だけなら、貯金でしばらくは暮らしてゆける。

 雨は降っていないが、外は曇っている。曇りはいいね、とても静かだ。晴れていると、生き物がうるさいんだ。逆に、例えば雪が降り積もっていると、雪が音を吸収して、痛いほどの無音が耳に刺さる。やっぱり、今の僕には曇りがいちばんだ。


 先生は、いつまでたっても、やっぱりピアノを弾いてくれない。これまでは事も無げに弾いていたけれど、そんなに大変なことだったのだろうか。

 そういえば、ぼくはピアノを弾いたことがない。なぜだろう、先生はあんなにいつもピアノを弾いていて、それが普通なのに、ぼくは今まで一度も触ってみようと思ったことがなかった。ああ、そうか、先生がいつも素晴らしい演奏をしてくれるから、ぼくは弾く必要が無かったんだな。案外、やってみたらぼくにもできるかもしれないぞ。

 よし。

 ぼくはピアノがある部屋までしなやかに歩いて行って、椅子をつたってピアノに飛び乗った。先生はいつも、ピアノの鍵盤にカバーだけかけて、蓋を閉めない。思い立った時に、パッと弾けるようにするためだろうか。お陰で、ぼくもすぐに弾けそうだ。ピアノの淵に立ってカバーを払いのけ、鍵盤にそっと脚を乗せる。ゆっくり、ゆっくり、脚を下に動かして、鍵盤を押してみた。

 あれ!? 音が出ない!

 先生が弾くとあんなに大きな音が出るのに、どうしてだろう。ああ、そうか、先生はもっと速く指を動かしているな。次は、もっと速く押してみよう。えいっ!

 ———ポーン———


 ピアノの音がした。誰もいないはずなのに、と不思議に思って、僕はピアノの部屋まで走って行った。

 するとそこには彼がいて、ピアノの鍵盤の上に乗っていた。今まで彼がピアノに触れたことは無かったから、僕は驚いたけれど、彼もまた音が鳴ったことにびっくりしたらしく、固まっていた。

 ふふっ、と僕は笑って、彼に近づき、優しく撫でた。

 彼は一瞬ビクッとしてこちらを見た後、僕の手に身体を委ねた。

「君は今、音楽を奏でたのかな」

 音楽って、何なのだろう。この頃すごく、考える。僕はずっと、音楽とは、音にまつわるもの全てだと思っていた。楽曲も、雑音も、無音も、全て。

 僕に音楽を教えてくれた先生方に、僕と同じような音楽感を持つ人はいなかった。ある先生はこう言った。

「音楽っていうのはね、人工物なんだよ。いろんな作曲家が、海だとか森だとか、自然をイメージしたような曲を書いているでしょう。でも、それもみんな、結局は彼らが作った人工的なものなんだよね。私は、音楽は、人とモノとの触れ合いだと思っているんだ」

 あの先生に言わせてみれば、音楽にとって人の存在が不可欠であるらしい。だから、今彼が鳴らしたこの音は、音楽ではないのだろう。

 でも僕は? 僕にとっては?

 何をもってそれを音楽であるとするか。それはきっと、聴く人によって違うんだと思う。

 僕は機械にあまり強くないから知らなかったのだけど、最近生徒さんから聞いた話では、人工知能というものが、曲を作れるようになったらしい。その曲は、人が作ったものではない。しかし、聴いてみると、人が作ったものと何ら変わりないそうだ。それは、大抵の人にとって、音楽となり得るのだろうか。

 窓の外は相変わらず、静かな曇り空。僕は何に邪魔をされることもなく、考えを巡らせ続ける。

 人は、音楽を、感じることができる。いろいろなことを、考えることができる。でも、今はピアノから降りた彼だって、人工知能だって、考えることはできるみたいだ。だったら、その違いは、何なのだろう。

 人って、何なのだろう。

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