TSモノ語り
孤児郎
前編
ここは都内の某大学の地下空間。ところどころ蛍光灯が古くなって点滅しつつある薄暗い廊下を進むと、スチールの重いドアが並ぶ一角がある。その中に我がサークル……『デウスエクスマキナ研究会』の部室があった。
ドアを開けると幅四メートルほどの狭いスペースに長テーブル一つとパイプ椅子が六脚置かれ、片側の壁に設置されたスチールラックにはパソコンやゲーム機、コーヒーメーカーが並べられ、それ以外のスペースはすべて本で埋まっていた。
この部の主な活動は、小説を読むこと。書評を書くこと。そして自らも小説を書いて発表すること。この三つである。やってることは『文芸部』なのだけど、もともとこの大学には歴史ある由緒正しい文芸部が存在していて、俺たちのサークルはその『本家』とは異なる活動をしていた。
なにが違うのかといえば、本家は部員が文芸を基本から勉強し、常に様々な発表の場で活動し、有名作家の名を冠した賞の受賞者を何人も輩出してきた、いわゆる小説家ガチ勢である。
対してウチのサークルは、普段はくだらない話ばかりに時間を費やし、書くとなれば好きなモノを好きなように書き散らかすだけのヌルい仲良しサークルなのであった。
ところがそんな仲良しサークルにも、ごくごくたまに、まるで初秋のゲリラ豪雨のごとく激しい論争が巻き起こることがある。
この日の午後もそんな一日だった。
俺の名は『スガワラリョウ』。経済学部の二回生で、我がデウス研の副部長である。中学生くらいの頃から推理モノのジュブナイルに熱中して、主に推理小説とかSFばかり読んできた。
高校では漫研に入って漫画らしきものを描いていたけど、漫画というものは一つの物語を作るために必要な労力が膨大で、とても俺の手に負えるシロモノではなかった。一言で言えば、挫折したのである。
そして大学で偶然このサークルに入ってからは、小説を書くことに目覚めてしまった。そして最近ハマっているのが、近年市民権を得つつある特殊な分野の小説だ。
目の前に座る男が読んでいた文庫本にしおりを挟んだ。我がサークルの部長にして大学での俺の友人である『タカハシアリトモ』だ。
小学生の頃から小説を書いてきた彼は、今までに小説の同人誌を何冊も作ってきた筋金入りの文章書きだ。その同人誌を読ませてもらったことがあるが、ほとんどが異世界モノと呼ばれるライトファンタジーだった。
ヤツは文庫本をテーブルに置くと、耳に挿していたイヤホンを外した。
どうでもいいけど、小説を読みながら音楽を聴くのはどうかと思う。たとえばそれがクラシックだとか歌詞のないインストゥルメンタルだとか、洋楽だとかいうならわかる。俺だって物語に没頭するためにそういう音楽を聴くことはある。でも、コイツが聞いているのは女子高が舞台の学園アニメの主題歌なのだ。日本語の歌詞を、しかも早口言葉のようにまくし立てるアニソンを聴きながら小説を読んでいるのだ。俺はそんな器用なアリトモのことを半ば呆れながら半ば尊敬してもいた。
そんな彼が、テーブルの上にノートを広げて文字を書きまくっている俺の手元に視線を落として頬杖をつく。
「次の小説のプロットですか?」
同じ二回生だけど浪人してる俺に対して現役合格のアリトモは一つ年下のせいか丁寧語で話す。俺としてはタメ口でも構わないのだけど、コイツにはコイツのこだわりがあるらしい。
俺たちはサークルの活動方針に従って定期的に小説を書いて発表していた。発表と言っても印刷コストがかかる同人誌ではない。スマホさえあれば気軽に書いて発表できるネット小説がこのサークルの主な活動の場となっていた。
「うん。今度は趣向を変えて
俺はノートに視線を落としたままそう答える。
TSモノとは、キャラクターが性転換する物語のことである。その大半は男だった主人公がある日突然女の子になってしまうという、カフカもビックリの不条理物語だ。
「TSモノすか? 良いですよねえ! 本人の意思に関わらず可愛い女の子になってしまった男の子! そんな彼……いや、彼女と呼ぶべきか……が遭遇する思いもよらない数々のエッチなアクシデント! ロマンですよ」
祈るようなポーズで天井を仰ぐアリトモ。
側から見れば十分気持ち悪いのだけど、その思いは純粋なのだ。
「おっ、わかってるねえ。そうそう、性癖である以上、性的なエピソードは絶対に外せないよねえ。満員電車で集団痴漢に遭ったり、男たちに監禁されて陵辱されたり……とかねえ」
「はあっ?」
頷きながら話を聞いていたアリトモが、突然奇妙な声を出して俺を睨んだ。
「なっ! それじゃ十八禁じゃないっすか? そう言うんじゃなくて、もっとこう……ライトなエッチで良いんですよ! 女子に囲まれて恥ずかしがりながらスクール水着に着替えたり、巨乳でタイトスカートの美人女教師に執拗にボディタッチされたり、修学旅行でクラスメイトの女の子たちと一緒にお風呂に入ったりするんです! 萌えるでしょー!」
恍惚とした表情でそう言い放つアリトモ。
だが俺は、ヤツの言葉に強烈な違和感を感じていた。
「それってただの日常じゃないか? いやその前に、どうして周りが女の子だらけなんだ? 主人公はもともと男なんだから舞台は女子校じゃないだろ? 男だった頃の友達とかどこへ行ったんだよ! それに、女の子になってまでなんでヒロインとイチャイチャしなきゃならないんだ? 女になったら幼なじみの男の子に恋するのが定番だろう?」
「なに言ってるんです? 日常最高じゃないですかー! それに女の子になってから転校すれば女子校もアリでしょう? TSモノの男キャラなんか飾りです! お偉いさんにはそれがわからんのですよ!」
アリトモがどこかで聞き覚えのある決め台詞を口にする。
「それに、TSヒロインと言えばレズハーレムでしょう? 百合ン百合ン展開でしょう? どうして男となんか恋愛するんですか? リョウさんってひょっとしてホモなんですか?」
微妙にイラつく顔でヤツが俺を見る。
「俺はホモじゃねえしっ! それに、男同士だったらホモだけど、女の子になってるんだから違うだろ。……ってか、百合モノを書くのなら、なにも性転換する意味なんかないんじゃないか?」
ホモ……いや、ゲイだって、レズビアンだってどちらも同性愛だ。たとえ独りよがりに書かれる創作物だとしても、片方だけを批判するのは俺の主義に反する。
しかし、俺の反論にアリトモは一歩も引かない。
「リョウさんの言う通り、ゲイもレズも違いなんかありませんよ。だから俺は普通の百合には興味ないです。感情移入できないんですよ。心が男のTS娘だからこそ、読んでてリアルに共感できるんです。男に恋するTSなんてモノにはリアリティを感じないんですよ」
「なるほど、リアリティは感情移入に必要だよね。でもさ、リアルな話をするのなら女性化で脳も女性ホルモンの影響を受けるんじゃないかとは思わない? そうなれば心も女の子に近づいていくハズで、最終地点は男の子との恋愛になるんじゃないの?」
反論すると、アリトモはちょっとだけ考えてから、生暖かい視線を俺によこした。
「ホルモンだとか脳だとか妙にリアルっぽいですけど、もしも心まで女になっちゃったのなら、それはもう普通の女の子と変わらないじゃないですか! そんなのTSでやる意味はないって、さっきリョウさんが自分で言ったんですよ」
う、コイツ。よく覚えてやがる。
「確かにそうだなあ。まあ、意味ないって言い切るのは極論だけどね。だから、女の子になってから男に恋するまでのプロセスがTSの美味しいところ……ってことかなあ」
「いや、でも、男に恋するまでの間なら、女同士もアリでしょう? もしも明日、女の子になるのだとしたら、やっぱり最初は女の子とイチャイチャしたいでしょ? 最初から男に惚れるの前提で物語が進行するなんて、ボーイズラブと同じですよ。やっぱりリョウさん、ホモなんじゃないですか!」
アリトモが芝居掛かったポーズで俺を指差す。だから違うって言ってるのに。
それに、人を指さすのはやめろ!
ちょっとだけ腹が立った俺は、ヤツに非情な反撃を試みることにした。
「女同士よりもTS娘のレズが良いだなんて、女心がまるでわかりませんって言ってるようなものじゃないか? そんなだからアリトモは未だに……」
そこまで言って視線を上げると、ヤツの顔は真っ赤になって、今にも爆発しそうだった。
「あーあー、どうせ俺は未だに童貞ですよ!」
アリトモがそう叫んだ瞬間、部室のドアが勢いよく開いて、トートバッグを肩に引っ掛けた女の子が入ってきた。
我がデウスエクスマキナ研究会の紅一点であり、サークルメンバー最後の一人である後輩の一回生『ワタナベケイ』ちゃんだ。
緩くカールした艶やかな髪を肩まで伸ばし、真っ白いシャツの裾を黒のスキニーデニムに入れて、ちょっとヒールの高いミュールを履いている。
彼女はバッグをテーブルに置くと、向かい合って座っていたアリトモの隣のパイプ椅子にぽすんと腰かけた。
さっきの、アリトモの叫びは彼女に聞かれただろうか?
ふと、アリトモと視線が交わる。性的経験のステイタスを披露してしまったコイツも可愛そうだが、そんな個人情報を聞かされてしまった彼女にとってもはなはだ迷惑な話である。
「どうして……」
しばらくの沈黙の後に、椅子の背にもたれてケイちゃんが口を開いた。
「どうして童貞の人って、童貞アピールするの?」
「はっ?」
彼女の予想外の質問に、俺とアリトモの返事が重なる。
「だって今言ってたでしょ? 童貞だって。童貞の人って自己紹介の時は必ずそう言うよ」
可愛い女の子の口から何度も飛び出すパワーワードに俺の脳髄はクラクラしてくる。
「マジで? でも、自分から言わないヤツだっているんじゃないの?」
「そうなのかなぁ。リョウさんは違うんでしょ?」
「ああ、うん。まぁ、一応はね……」
とは言っても、俺の場合は高校卒業間際にクラスメイトの派手目な女の子に『ちょっとやってみない?』の一言で誘われて、二回ほど経験があるだけなのだが……。
それでなんとなく自信がついて三回目はこっちから誘おうと思ってたら『彼氏ができたから』とだけ言って彼女は去ってしまった。
それからはテクニックを磨こうとネットやらエッチの教科書やらを読んだけれど、それらを試すチャンスはまだきていない。
実質的には童貞と大差ないけど、それでも童貞だというよりは女ウケは良いだろうと思ってる。嘘じゃないし。
「ふーん」
そして俺の個人情報にも興味なさそうな返事をするケイちゃん。
だったら聞くなよ。
彼女がこのサークルに入ったきっかけは、実は謎に包まれている。
自己紹介で小説を読むのが好きだと言っていた彼女。でも、それなら権威ある『本家』文芸部に入るのが普通だ。どうして我がデウス研にきたのか、その理由を聞いてみたけれど彼女は曖昧に微笑むだけだった。
今年の春に四回生だった先輩たちが卒業して、彼女が入部するまでこのサークルは俺とアリトモの二人きりだった。いつ部室を追い出されるかと恐れていた俺たちは、さほど気にすることもなく彼女の入部を歓迎したのだ。
この狭い部室の中に男女三人。初めの頃はなんだかギクシャクしていたけど、それぞれ好きな小説の話題になるとみんな饒舌になって、打ち解けるのにそれほど時間はかからなかった。
彼女は恋愛小説を好んで読み、それ以外は日本や中国の歴史モノを嗜んでいるらしい。
「あ、ところで、どうして童貞の話になってたんですか? 男性向けのラノベとかにそんなジャンルがあるんですか?」
『童貞モノ』なんてジャンルがあるのかどうかまったくわからないけど、あったとしてもそんなもの誰も読まないだろう。
いつも大声でしゃべるアリトモがさっきから俯いたまま一言も発しないので、仕方なく俺が質問に答える。
「ええと……そうそう、俺が次に書く小説のネタをTSにしようと思って、それでアリトモと話してたんだ。途中は割愛するけど、コイツがレズの女の子よりもTS娘のほうが感情移入できるっていうから、俺がそれをからかったんだ」
できるだけヤツのプライドを傷つけないような言葉にしようと注意したものの、もっとも重要でデリケートな部分を自分で叫んでしまったために、俺のフォローは大した効果を発揮しない。
「ふーん。アリトモくんは性転換した人の気持ちがわかるんだぁ?」
そう言って、ケイちゃんはアリトモに冷ややかな視線を投げた。
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