105号室



 目の前の友人を眺めていると、いつも疑問に思うことがあるのだが、上手く言い表すことが出来ない。

 彼女の体は、一体全体どういう素材で構成されているのか?

 僕が知る限り、数えるほどしかいない友人の中で、彼女はただ一人の小説家である。

 去年のことだ。突然僕のところにやってきて、雑誌の誌面を見せてきた。彼女が小説を書いていて、そして小説家としてデビューするのが夢だということは嫌というほど聞いていたし、実際に書いている様子を見てきた。しかし誌面をいきなり見せられても何のことかわからなかった。僕は彼女の小説を読んだことはなかったし、ペンネームも知らない。教えてくれなかったし、読ませてくれなかったのだ。だから彼女が小説家としてデビューしたことを、その誌面を見ただけではわからなかった。彼女の補足があって、ようやく把握した時、嬉しかった。彼女のことをずっと見てきたというわけではないが、それでも彼女は夢を叶えた。それが嬉しかったのだ。

 そして彼女は変わった。目の前にいる彼女は、パソコンの前で頭を抱えている。デビューしてから外に出ることが少なくなった。買い物は全て通販。本当に便利な世の中になったと思う。本はそこそこ売れている。相変わらず小説は読ませてくれないのだが、ちゃんと献本をくれるので、結局は彼女の小説を読んでいることになるわけだ。惜しくも本屋大賞は逃したが、芥川賞を受賞するかもしれないというネットでの評価を鵜呑みにしているせいか、彼女は上機嫌。

 しかし、彼女はパソコンの前で頭を抱えている。かれこれ三十分が経つ。僕が部屋に遊びに来てからずっとこうだ。今日は何に悩んでいるのだろう。この前はプロットが出来ないことを悩んでいたが、あれは結局解決したのだろうか?

 彼女の部屋にはテレビがないので、仕方なくずっとスマホでネットサーフィンをしている。テレビで毎日見かけていた大人気タレントが引退したらしい。そういえば、似たような顔の人をさっき見かけた気がするが、そっくりさんか何かなのだろう。まさかこんな貧民街の中のボロアパートに来るとは思えない。

 ボロアパートなので、冷房もろくな動きをしない。窓は開いているが、カーテンは閉まっている。僕が閉めたわけじゃない。最初からこうなってた。風は吹かない。暑い。湿度だけが溢れている。外よりも空気は悪いかもしれない。

 ふと唸り声が聞こえた。彼女のものだ。おそらく、もうすぐ解決するのだろう。唸り声はそういう合図だったりする。前回もそうだ。あの唸り声の直後に、彼女は分厚いプロットを一瞬で書き上げた。それがちゃんと編集で通ったかどうかまでは知らないが。

 ああ、やはりだ。すぐに動き出した。キーボードを叩く音が連続する。なんだそれ。本当にタイピングか?

 画面がチラリと見える。文字までは見えないが、画面がスクロールし続けている。何者なんだよ。本当に。

 十五分経った。勢いはまだ衰えていない。我ながら恐れ入るよ。僕なんか一文書くだけでも苦労するのに。

 さらに十五分。まだ書いている。画面がスクロールするスピードは心なしか速くなってる。人間じゃない。

 彼女がキーボードを叩き始めてから一時間が経った頃、ようやく音が止んだ。僕はもう驚くこともなくスマホをいじっていたのだが、彼女の「終わった」という一言で、スマホから目を離す。

「完成した?」「うん」

「やったじゃん」「うん」

「それでどうすんの?」「メールで送らないと」

「編集さんに送るのか」「うん」

「健闘を祈ってる」「ありがとう」

 僕と彼女の会話はいつもこんなかんじだ。必要最低限。話すこと以外は何も言わない。お互いにそれで何一つ不自由していないので、中学からずっとこんな感じだ。

「ところで何しに来たの」「様子を見に」

「それだけ?」「そうだよ」

「何か隠してる?」「逆に何を隠すの?」

「なんとなく訊いただけ」「話すべきことはあるかも」

「何?」「仕事ができた」

「おめでとう」「ありがとう」

「何の仕事?」「それこそ今日は仕事で来たんだよ」

「ここに?」「ここに」

 一見すれば無表情だが、長年彼女を見てきた僕にはわかる。彼女は今動揺している。僕が仕事でここに来たことに対して、動揺している。

「ねえ」「何?」

「もしかしてさ」「うん」

「ずっと待ってた?」「うん」

「私が書き上げるのを?」「うん」

 彼女の前髪は長く、毛先はあちこちを向いている。髪に隠れて目がかろうじて見える。目は丸くなっていた。

 狼狽しだした彼女を横目に、僕は腕時計を見る。まだ時間はある。大丈夫だ。僕は新調した革製の鞄から、USBメモリを取り出し、彼女に投げる。反応が鈍い彼女は取れない。フローリングの床に軽い音が響く。「それに入れて」と僕。「わかった」と彼女。

 それにしても暑い。外には出たくない。だがこの部屋も湿度が高すぎて居心地が悪い。このボロアパートの外には溜池があるのだが、できることならそこで泳ぎたいくらいだ。

「それはさすがにやめといたほうがいいよ」「そうなの?」

「いわくつきだから」「なるほどね」

 どうりで濁り方が半端無いわけだ。前言撤回。

 それにしても、こんな安アパートに住む理由は何だろうか。わざわざいわくつきの溜池のそばに住む理由は?

「引っ越さないの?」「面倒くさい」

「居心地はどう?」「最高に悪い」

「お金あるし引っ越せばいいのに」「やだ」

「なんでさ」「面倒くさい」

 そうか。変に納得してしまった。居心地悪いのに移り住みたくないって、本当にどうかしてる。

 彼女がUSBを引っこ抜く。投げることはせず、ちゃんとしっかりと手渡しする。手を伸ばすのは僕の方だ。彼女は動かない。

「ねえ」「何?」

「それ、自信作だから」「わかってるよ、今まで書いてきたもの全部そうだったでしょ」

「今回のは特に」「それも毎回言ってる」

「売れるかな」「急に不安になってどうすんの」

「なんとなくだよ」「わかってるよ」

 こりゃあ、何が何でも通すしかないわけだ。苦労するな、これ。小さなUSBを見て、何となくそう思う。記念すべき十冊目なのだ。

「テーマは?」「何が」

「今回の作品のテーマだよ」「ああ、そうね……」

 特に必要ってわけでもないが、この仕事に就く前から、彼女が作品を書き上げる度に訊いていることだ。個人的にそれがとても面白い。「経験値の犠牲」だとか「時計の分身」とか、なんとなく抽象的なことを言うのだが、小説を読んでも、いまいちそれらのテーマは伝わってこない。だが、文章は綺麗だ。このガサツな外見からは想像もつかないような綺麗な文章を紡ぐ。ストーリー自体も面白くて、読み応えは抜群。

「小説家たちの体」「それがテーマ?」

「うん」「今回も面白いことになりそうだね」

 腕時計を見る。そろそろ時間だ。出ないといけない。USBを鞄に入れる。

 彼女はパソコンを閉じて、ベッドに向かい、そして寝転んだ。

「寝るの?」「眠たいの」

 半ば昼夜逆転している。

 小説家たちの体、ね。僕も気になるよ。君は一体どういう体をしているんだ。どういう脳をしているんだ。できるなら頭の中を見てみたいし、キーボードを叩き続けることができるようなその体の構造を知りたい。

 本当に、不思議でしょうがない。

「じゃあね」「行くのね」

「そうだよ」「頑張って」

「祈ってて」「祈っとく」

「おやすみ」「おやすみ」

 玄関のドアを閉めた。暑さが増す。しかし風は吹いている。部屋の中よりも居心地が良く感じた。

 スラム街に住んでおきながら、よくもまあ窓を開けたまま寝られるもんだ。

「用心しろよ」と、僕は一人でつぶやいた。

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