神の音、双つ
自分がもともと持っていた名前を知らない、または覚えていないというのは、生きる上でとても厄介だし、そこに記憶喪失が重なればもっと悪い。
人類のほとんどが経験から学ぶ愚者であるけど、私がこんなことを知っているのも、全て現在進行形で経験していることだからかもしれない。おかげで
私が住んでいる街は、名前の音が私と同じ「カノン」で、「日音」と書く。うっかり下手に書けば「暗」という一文字になってしまうけど、あながち間違ってもいない、そんな街。
文字通りの闇市。
スラム街。
明るい所は明るくて、暗い所は暗く、霧が常時視界をかすめる。
賭博場。
売春宿。
マフィアのアジト。
いわゆるアンダーグラウンドな建物は、全て霧の向こうにある。
私自身、そんな地帯とは無縁な場所に住んではいるが、市場に物を買いに行く時はいつも用心する。銃火器はとても扱えないので、いつもナイフを三本は忍ばせていたりする。日音に住む以上、武器は必須だ。
市場で食料を買い終え、帰路に着く。
そうして脅威に遭遇する。
しかし、ここで武器を出せば、相手は何もしてこない。武器自体を用意していない不用心な人間がやっぱり一定数いて、決まってそんな人間から被害に遭う。それでも非武装を掲げる人間はいなくならないので、私にはそれがわからない。
市場を構える通りは街の中で十番目に広い。最も広い通りにはちゃんと道路が整備されていて、車も走っていて、建物も立派だ。日音の外に広がる街並みとそう変わらない。唯一違う点を挙げるなら、通りを出歩く人間がみんな裏社会と何らかの関係を持っていること。私もそうだ。でなければこんなところには住まない。
今日もまた、あちこちで噂を聞く。【魔術師】【奇術師】そして【手品師】。モノトーンの仮面を被り、なぜかモノトーンのドレスを着て、夜中に日音の街に突如として現れては、手品を披露する。奇術、魔術とも称されるそれは、見る人をことごとく魅了し、多くの人間から金をもらう。夜に出歩く人間は、大抵が裏の道を極めた人間なので、金額も弾む。この二週間、そんな噂をずっと聞くが、正体も未だに明らかになっていない。
私には関係のない話だ。ドレスと聞くに、正体は女性か。だが女装という説もある。
手品は好きだ。見るのも披露するのも。趣味の範囲ではあるけど私もやっている。
それに、夜は出歩かない。その時間帯は眠っているというのが最大の理由だが、裏の道を極めた人間にはあまり会いたくない。
【仇元工号】。木の板に、豪快に、毛筆で書かれた看板を掲げている店が、私の居候先だ。工具ならなんでも揃うし、武器の製作もオーダーメイドで引き受けている。
私が持っているナイフも、ここで作られたものだ。
「無事か」
「なんとか。一週間は食料に困らないと思うよ」
「俺が予定通りに食えばな」
「そうだね」店の主であり私の親代わりである仇元姓の主。私にとっては大事な父親。名前は「喜々」と書いて「よしき」。名前通り、いつも笑っていて、いつも何かを作っている。工具から刃物から銃火器まで。作れないものが果たしてあるのだろうか。
帰ってきた今もやっぱり何かを作っていて、鉄を打っている。刃物だろうか。随分と歪な形をしているが。「今度は何の依頼?」
「ジャマダハルって答えて、思い浮かぶか?」
ジャマダハル。「近接武器」「主にインドで使われていた」ぐらいだろうか。刃物とはいえ、ナイフや剣に比べるとあまりメジャーなイメージはない。
「物好きがいるのね」
「俺もこんな依頼は初めてだ」そうは言いながらも、慣れた手つきで鉄を打ち続ける。おそらく見本のようなものは見ているだろうが、そうだとしても見本のとおりに作るのは至難の業だろう。日音髄一を誇るだけはある。
父の後ろ姿を横目に、抱えたままだった食料を置く。
その時、頭に火花が走った。ように感じた。時々起こる。その度に、またか、と思うのけど、原因がわからない。
私が失っている幼少の頃の記憶の中に、この痛みはあったのだろうか。あったとしたら、生まれつきのものかもしれない。そうでないとしたら、やはり最近どこかがおかしいのだ。
「ちょっとだけ眠ってくる」相変わらず鉄を打つ父に、少し大きめの声で伝える。最近じゃ、私が昼間にもかかわらず「眠らせて」と言えば理解してくれる。「痛むんだな」
うん。そう答え、階段を登り、私の部屋へ行く。ベッド、クローゼット、机。全て木製。全てこしらえてくれたものだ。ベッドに寝転がる。倒れこむと言ったほうが近いか。
やっぱり、どこかおかしい。
どこか、というか、全体がおかしい。私の体全てが最近、私でない感覚に襲われている。今も続いているこの頭痛は、その一部。実際、まだまだおかしいところは幾つかあって、父に伝えているのが頭痛だけなのだ。
疲れやすい。
睡眠は十分だと自分では思っている。時間にして八時間。不足なはずはない。なのに、この疲れやすさ。先ほど行ってきた食料調達にしても、毎週欠かさずやっている習慣なので、こんな程度で疲れるはずがない。今日は特にひどい。
クローゼットが開いている。起きた時にちゃんと見ていなかったが、昨日寝る前は確かに閉まっていたはずだ。
中には私の趣味が全て入っている。手品の道具が全て。
手品は日音に来てから好きになった。この街に来て、最初に印象に残ったのが市場だ。その一角にあった店に、手品の道具が並んでいて、惹かれるものがたくさんあった。それらのほとんどを買ってくれたのが今の父だ。ステージで披露できるほどの大掛かりなものではないが、父に披露すると、今でも喜んでくれるし、新しく考案したものを披露すると、もっと喜んでくれる。外でも披露したことはあって、その度に近所の人間から拍手喝采を受けた。家のことがいよいよ忙しくなって、最近ではそんなに披露することもなくなったが、近所じゃ誰かとすれ違う度にそのことを話題に出され、また披露してねと頼まれたりする。
つまり、最近はあまり手品道具を使っていない。
だけど、その道具に使われている形跡があるのだ。クローゼットには衣服を入れていない。クローゼット本来の意味は機能していないのだ。あくまでも手品道具の置き場。最近は手品を披露する暇も体力もなかったので、クローゼットはここ最近常に閉まっている状態のはずだ。
それにそもそも昨日はクローゼットを開けていない。
父は私の部屋にはめったに入らない。一応ながら訊いてみる。否定した。私もそれを信じることにする。
そして、日音で今話題になっている【魔術師】の噂を思い出す。白黒の仮面。白黒のドレス。どう考えたってアンバランスだろうに。大金をもらっていると聞くが、その金はどういったものに入っているのだろう。街中に現れる際の仮面はどうやって収納を?
手品道具が置かれているクローゼットは、まだわずかに開いたままだ。
中を覗いてみる。
片隅に、白い布の袋がある。
こんなものは初めて目にする。
息が荒くなっているのが自分でもわかる。意識せず胸に手を当てていたらしく、心臓の鼓動を感じて驚く。
手にとって、持ちあげる。重さを感じた。大きさは人間の頭ぐらい。持つたびに聞こえてくる軽い金属音。小銭の音だ。嫌に重い。およそ一、二キロはあるか。市場ではおよそ一、ニキロ程度の調味料の袋を時折買うので、大体の見当はつく。
汗が頬を伝い落ちる。冷たく、不快な汗。
恐る恐る中を見る。小銭だけではなかった。
恐怖に耐え切れず、袋の中身をベッドに全て出す。
けたたましい小銭の音に混じって、札束が一つ。束とは言っても、それぞれ別々にもらってきたであろう札を重ねて輪ゴムで止めているだけのものだ。
だが相当な枚数ある。全て一万円札。数えるだけの余裕はない。出所のわからない金は、裏稼業はびこるこの街において、即刻命を狙われる原因にもなりうる。
そう考えると、ベッドに金をばら撒いてしまったことを後悔した。カーテンは閉めていない。どこからかこの様子を伺っているかもしれないと思うと、酷く苦しくなってきた。
お金を全て袋に入れて、元の場所に戻す。
そしてもう一つ。何かが足元に落ちた。
皿のような形だったが、私は敢えてそう見ようとしているのだろうか。皿の底が上を向き、こちらを向く。
穴の空いた皿。歪な穴。三日月状の穴が三つ。一つは下弦。もう二つは上弦。
もうごまかせない。
笑い顔の仮面が、私を嘲笑う。噂に聞いた通りの白と黒の仮面。
クローゼットを更に探すと、やはり見つかった。白と黒。モノトーンのドレス。
【奇術師】は、私だ。
無意識にそう認識した。
いや、これは無意識下の判断ではない気がする。
誰かがそう語りかけているような感覚がある。
頭の中で火花が強く散る。思わずうずくまる。眼の奥に強い痛みを感じた。誰かが頭の中で暴れまわっている。強い力を外に放出する感じで、内なる何かが外へ出たがっている感覚。外へ出ようと、必至に私の脳の中のドアを押す。開けようとする。そんな痛みがありながら、うずくまることしかできず、全く動けない。
聞け。
誰かが言う。音ではない何かが、私の頭の中に反響する。「なんなの」と、対する私は声を出す。
私はあなた自身。
わけのわからない言葉が聞こえる。確かにそうかも知れない。私が、私自身が、私自身に対してそう呼びかけているのだから、それは当たり前なのかもしれない。
超能力で声を発さずに語りかけてくる人間の存在は周知している。この街にもいる。そんな人間が、私なんかに何の用があると?
ああ、そうだ。
私は【魔術師】であり【奇術師】であり【手品師】なのだ。三つの呼称がつき、しかし一向に一つに安定しない、中途半端な存在だ。だが、私が披露するのは魔術でも奇術でもない。手品だ。敢えて指定するなら【手品師】だろう。
聞け。
もう一度私自身の声が反響する。だが、自分自身の声にすら答えられないほど苦しい。痛い。動けない。
声の主は何かを叫び続けた。
私の耳元で、囁き続けた。
頭の中で、声は響いた。
ずっと、響き続けた。
それから気絶する。
瞼が閉じていく。
耐え切れない。
声は響かず。
音を失う。
苦しい。
暗い。
無。
突然目が覚めて起き上がると、私はちゃんとベッドの上にいた。父は私の様子を見てびっくりしただろうか。
……しないはずはないか。
ノック。返事をすると、わずかにドアが開き、隙間から父が覗いてくる。いつも通りだ。部屋には入らず、いつも通りこうして私の様子を窺う。
「いつ起きたんだ」
「いまさっき。ねえ、私どんな感じだった?」
「どういう意味だ?」
「どういうって、私の様子が心配だから見に来たんでしょ?」
「それはそうだ。だって痛いんだろ、頭が。俺はさっき依頼された武器を完成させたから、こうして見に来たんだ。まだ痛むか」
痛みは消えていた。それをまず伝える。だが、気になる点がまた発生した。「じゃあ、今日初めてこの部屋に来る?」
「当たり前だ。お前がいない時に、部屋に行く理由がないだろ」
父は何も知らないのか。
「今日はもう休んでな。飯は作るから。一週間分の食料消費予定が狂うのは勘弁してくれよ」ドアは静かに閉まった。
私はどうしてベッドで普通に寝ている? クローゼットの下でもがいていたはずだ。いつの間にか意識を失くし、気がつけばベッドにいる。どういうことだ。誰が、誰が私をベッドに寝かしたのか? 無意識にベッドに辿り着いたのか? 床を這いつくばって、ベッドに這い上がり、布団をかぶって、眠りについたのか?
私自身が無意識に行動していたのなら、それはそれで少し怖い。しかしその理屈ならば、私が無意識の間に夜の街で【魔術師】を演じていたことも納得がいく。
だとすれば、私が意識をなくしている間に、私ではない別の私が動いているのか? そいつが仮面を着け、ツートンカラーのドレスを身にまとい、奇術を披露していたのか?
問いかけても、誰も答えてはくれない。
私はこのまま、何の記憶もなく、夢遊病患者みたいに意識のないまま外で魔術を披露し、意識のある時に袋の金額が増えていくのを見ることでしか、【魔術師】を自覚することができないのだろうか。
頭の痛みはなくなっていたが、代わりに胸の中で恐怖が渦巻いていた。その恐怖から逃れようと、何か他愛のないことを考えたくなった。
私が失くした記憶の中に、私自身が今現在持っている記憶と何かリンクする部分があるだろうか。昔の私と今の私。それぞれの記憶の中で、何か一致する部分があるのだとしたら、それは何を表すのか。昔の私の記憶が完全には消えていないということなのか。それとも、偶然にも一致したものが検出されただけで、私の本能に、その分野を習得する傾向が強い、ということなのか。
記憶を取り戻すことを諦めてから、自分は自分だと、考えることに努めてきた。だが、やっぱりまだ考えてしまうのだ。失くした方の記憶について、未練が残っているのだ。取り戻そうと、意識しないところで躍起になっているのだ。
そして実を言うとまだ気になる点はいくつかある。
リセットされたのは記憶だけだったのか、と。
人格も消え去ってしまったのではないか、と。
性格も一緒に変わっているのではないか、と。
挙げればきりがない。
一時期、今の私が、本当の私ではなく、作られた私なのではないかと思うことが頻繁にあった。日音という街にやってきた時、私は一人で独りだった。その頃の記憶すら曖昧になっていたりするのだが、これは私がわざと曖昧にしていたりするのだろうか。自分自身では覚えていたい記憶なのだ。覚えていないと、私の出事は永遠にわからないままだ。日音に来た記憶すら失われてしまっては、私がもともと何らかの記憶を持っていたであろうことすら忘れてしまう。そんな気がする。
だが私の意図とは反対に、この記憶が薄れてきているのだ。それこそ別人格でも存在しているのだろうか。別人格が、この記憶を抹消しようと躍起になっているのか。
ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。手品道具の一つを選ぶ。ステッキを手に取る。プラスチック製で、中は空洞になっている。ステッキから何かを出すためだ。
いつもの手つきでステッキを振り、一瞬でステッキを花に変える。一輪の造花。ステッキの空洞に差し込んでいたものだ。
造花をステッキに変える。
ステッキを二つに増やす。
また一つに戻す。
手品としては簡単なタネなので、初心者でもマスターしやすい類の手品ではある。だが、ここからはどうだろう。初心者にはこういうことが出来るだろうか?
ステッキを振る。その度に、造花が一輪ずつ落ちていく。降っては落とし降っては落とし降っては落とし。ステッキはそれに比例して短くなる。当初の六分の一の長さになったところで、床に落ちた造花を拾い集める。造花はどれも同じ長さだ。
造花を束ね、短くなったステッキを合わせて一緒に持つ。そして一振り。
ステッキは元の長さを取り戻し、造花も消えた。
さすがに初心者には扱えないタネだ。ステッキマジックの奥深さを知らしめるには最適な手品である。
だが、これを夜の街中で披露してみたところで、果たしてあんな大金をもらえるのだろうか? 到底そんなことは考えられなかった。夢遊病者と化した私は、もっと高度なマジックを披露しているのではないだろうか。大金をもらうに値するような、高度な技を。
魔術や手品で物が消せても、人格や記憶は消せない。
消すことができるのは自分自身と、相応のショックだ。
自分自身が確固たる存在であることを疑うのはとてもつらい。しかし疑わなくては生きていけない。そんな状態に、私はなってしまっているのだろう。
幼い頃の記憶や人格がまだわずかに残っていて、その名残が手品だったりはしないだろうか? 失ったと思い込んでいた人格が、わずかに生存していたりはしないのだろうか?
その残っている人格が、幽かに生存している私自身が、あの時もがき苦しんでいる最中に声を投げかけてきた本人だったりするのだろうか。
いや、あの苦痛こそが、もうひとりの私が出現しようとした際に起こった現象の一つだと考えられはしないだろうか? 本来であれば私というこの人格が眠っている最中にしか、その人格は現れることができなくて、偶然にも眠っていない時に、それが表に出てこようとしたからあの苦痛がやってきたのではないか? 存在を推測されるその人格こそが、私という人格が眠っている時間に、表に出てきて、【魔術師】となっているのだろうか。
だから最近の私は疲れやすいのか?
少しの労働のみで、ここまで疲弊するなんて、どう考えてもおかしい。脳の働きもだいぶ鈍っているように感じている。今日は特にそうだ。あの苦痛から目覚めてからというもの、様々な疑問が一気に押し寄せてくる。それらはすべて、どれもこれも一度ならず二度三度も考えたことがあるものばかりで、恐らく永久に答えは出ないであろうと、一応の諦めをつけている。
だが、それでも答えを出したい。答えは出ないだろうとわかってはいても、そろそろ解放されたい。解放されていい時だと思った。散々考えてきて答えにたどり着けないのだ。いい加減、解答を教えてくれたっていいはずなのに。
誰が答えを教えてくれるか。
実はもう検討は付いている。
やはり私なのだ。
日音の街中に霧が発生しやすいのにはちゃんと理由があって、それは薄暗さにある。日が差さないのだ。湿度も異様に高い。日が差さない理由は、一辺約五キロメートルの正方形で区切られたこの街が、連なる高層ビルによって四方を万遍なく囲まれているという部分にある。それはさながら城壁のごとし。城壁には城門があるが、隙間なく連続して建てられた高層ビルの「壁」にも門がちゃんとあって、出入りは自由だ。門番はいない。代わりに管理人がいる。
逆を言えば、高層ビルの影が届かない場所に限って、霧はそうそうかからないということだ。かかる時もある。だがその機会は極端に少ない。そして霧がかかるのは壁の周りであるため、外から「城門」を抜けて日音に来たとき、そこは必ず霧に包まれている。それを恐れてか、外部から日音に近づく人間はあまりいないのだ。
霧の元凶である、日音を取り囲む高層ビル群は、高さこそ統一されてはいないものの、ほとんどが三百メートルくらいの高さだ。夜になると上空のあちこちに赤いライトが点滅する。
私が今立っている場所も含め、日音の街中にある建物は、それらの高層ビルの高さを超えた建築はできない。そういう法令が定められている。
すべて父から聞いたものだ。
そういうわけで、六階建ての建物の屋上に立ってみても、日音を一望できるわけではない。周りには六階建てどころではない建物が林立している。繁栄している場所ほど高い建物が多く建つというのはここでも変わらない。ただ、霧が立ち込める暗黒のスラム街でが、その一部を担っているだけなのだ。
建物から飛び降りたいという衝動には何度か駆られたことがある。その度に何かの自制が働いて、飛び降りるには至らなかったわけだが、今回は違う。自制も何もない。寧ろ飛び降りを自制したいという衝動を、違う何かが自制していた。自制を自制する。わけがわからないが、実際にそうなのだ。
私は、私を試している。
私自身が、本当に私そのものなのかを試している。
私という人格を構成しているものが、本当に百パーセントの私からできているのかを試している。
私は、自分の在り処を問いかけようとしているのだ。
屋上の縁に立つ。下を見ても、霧が充満していて、地面は見えない。
下手をすれば命はない。
そう思った方がいいと思った。
覚悟を決める。
そして、落ちる。
霧が迫ってくる。
霧に突入する間際に、身体が減速した。
私自身の体が、ゆっくりと霧の中に入り込んで、見えてきた地面に近づいていく。
落下は降下に変わっていた。
そうして、無事に足を着く。柔らかい感触。足元に敷き詰められた布の山は、霧の水分をいくらか吸い込んで冷たく湿っていた。
不安定な布の山に足を取られ、体勢を崩しながらも、なんとかそこから抜け出す。
「血迷ったか」口がそう動いた。声がそう発された。私の意思ではない。これはおそらく「もう一人」の意思だ。
「試したのよ」
「私が出てくることをかしら」
「賭けたのよ」
周りに人はいないが、声を聞いている人はいるかもしれない。
「私が出てこなかったら死んでた」意志に反して口が動き声帯も震えるのでどうしようもなくなってしまう。だが、答えるしかない。
「予防線なら張ってたわ。霧で地面が見えなかったでしょう? だから地面に予め大量の古布を敷いておいたの。万が一、賭けに失敗したとしても、死なない程度に、保険はかけておいたの」
下手をすれば命はないと考えたのは、目標として設置しておいた古布の山から外れた場所に落ちてしまった場合を考えたからだ。古布の山を作ったところで、大体の場所の検討はついても、正確な場所はわからない。
だから下手をして命を落とす危険性も生まれる。
私はそこに賭けた。
「危険な目に遭えば、咄嗟に別人格が現れると、そう考えたの」
「そう。私という人格が眠っている時に、私の体を使って【魔術師】になっていたのは、あなた?」
「そうよ。付け加えると、クローゼット前でもがき苦しんでいた時に、声を聞いたような感覚がしたわよね? あれも私」
「あの頭痛は?」
「あれは正直申し訳ないと思ってるわ。私はあなたが起きている間、何度もあなたの前に出てこようとしたの。だけど、それは頭痛を引き起こすだけだったわ。痛覚を引き受ける部分を、あなたがすべて持っていたから、私は何一つ痛くなかった。そこで察しようとしなかった私は、なんていうか、愚か者だったわ。ごめんなさい。でも、声は聞こえたでしょう? だからこうして、別人格の存在を疑うことができた」
「そうして私は無茶なやり方ながらもあなたを呼ぶに至った。こういうことかしら」
「そういうことね。あと一つ訂正させてもらうと、あなたが眠っていようといまいと、私は常に覚醒していた。そしてあなたをずっと観察してた。時々外に出てきてはあなたに私の存在を知らしめようと思っただけだったの」
「そう……」そこから先、私は何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
濃い霧の中を手探り状態で歩く。ふと大きめの通りに出た。霧は追ってこない。
〈疑問に持たないの?〉今度は頭の中で、「彼女」は語りかけてくる。
じゃあ、どうして?
〈あなたという人格が、記憶を失くしているからよ〉「彼女」は答えた。私はその「声」を聞きつつ、家へ向かう。
〈あなたは六歳までの頃の記憶を失くしている。そう思ってるわね〉
続けざまに話しかけてくる。「そう思ってる」って、実際にそうなんじゃないの?
〈違う。その頃の記憶は消えてはいない。現に、あなたが手品を趣味としていることからも明らか。わずかながら、あなたという人格にも、その記憶は残っているみたいね。だけどほぼすべての記憶は、私が持ってるわ。あなたが失くしたと思い込んでいる記憶は、私が、すべて持っている〉
私は立ち止まった。自分の意思で。ゆっくり話を聞こうと思った。
近くにあったベンチに座る。木製のベンチは霧の水分をわずかながら吸収していて、湿っていた。それでも構わない。
詳しく聞こうじゃないの。
それじゃ、私が覚えていないと思ってた出来事は、全部あなたが覚えているの?
〈そうよ、私たちは最初から、記憶を失ってなどいなかったの〉
それじゃああなたは誰なの? ますますわからないわ。だって、あなたのことに関しては、記憶も人格も何もかも、存在すら認知していなかった。なのに、私が眠っている時にあなたは出てきて、私の体を使って手品を披露した。
〈そして稼いだ。いい儲けじゃない。あなたはお金の出どころがわからなくて気持ち悪がっていたみたいだけど、これでわかったでしょう? お金は他でもなく、私たちが稼いだものよ。先に弁解しておくと、私が手品を披露したから稼ぎが付いてきたの。稼ぎたくて手品をしたわけじゃない。私はただ、私の手品を見てほしかった。それだけよ。この暗黒街の人間は、対価を支払わないことの方に違和を感じるみたいで、最初は能力も使わない、些細な手品だったけど、それだけで大金がやってきた。私もエスカレートしていって、超能力を使うようになったけど、あくまでそれはパフォーマンスの一環でしかなくて、やってることはやっぱり手品だったけど〉
だから使った痕跡があったのね。あの大金が入った袋も、あなたが稼いだものなのね。
そりゃあ昼夜問わず体は起きてたんだもの、疲れやすくなるのも納得だわ。
でも、あの仮面とドレスは一体どこから?
〈悪いけど、それは言えないわ。重要な事なの。着ることは全然構わないけどね。ただ、貰い物ということしか言えないの〉
納得しなきゃだめ?
〈そうしてもらうしかないわ〉
そう。わかった。
それで、さっきの質問だけど、あなたは一体誰なの?
〈私は私よ。あなたは、この人格の存在を認知し始めた時にどう思ったのかしらね。いくら私が常時覚醒状態にいて、あなたという人格を観察していたとて、他人の心情まで覗き見る気はないもの。気になるわ。私が一体誰かという問いは、悪いけど私の質問に先に答えてもらわないと、答えられそうにはない〉
あなたを認知した時。
何も思わなかったわ。
何も変わらなかった。
あなたを認知する前から、私は第二の人生を歩むつもりでいたし、かといって失くした記憶に未練がなかったわけでもない。どこかでは、失くした記憶を持っているあなたの存在を疑っていて、望んでいたのかもしれないわね。
それがあなたの問いに対する答えよ。
〈そう。それじゃ私も言うわ。まずあなたという人格は、決してゼロから生まれたわけではなくて、なんらかのショックが出来事で作られた存在ではない事は確かよ。あなたはこのことに恐れを抱いていたみたいだから、一応先に言っておく。だけどごめんなさい。ショックを与える出来事があったのは本当よ。そのせいで私達は分裂したのだから。
私達はもともと一つだった。あなたもそう考えていたのでしょうけど、その推測は当たってるわ。そうね、私の正体……それはあなた自身よ。まさに「私は私」だし「あなたはあなた」だし「私はあなた」も「あなたは私」のどれも当てはまる。もともとの私達自身の人格が、あなたとわたしの二つに分かれた。後に【仇元神音】という名前で過ごすことになるあなたは、痛覚をはじめ多くの感覚を引き受けることになり、私はあなたが失ったと思っていた記憶と、超能力の行使権を手にした〉
つまり私もあなたも、それぞれの一部を担う存在だったのね。そうなったきっかけは?
〈おそらく、こうして人格の存在をお互い認知できたのだから、記憶も能力も共有できると思う。だから、あなたにその記憶をすべて渡すわ。話すより早いと思う〉
直後、今まで抜け落ちていたものが保管される感覚がやってきた。
私が常識を超越した瞬間。
周りに見えるものすべてが私の指揮下に陥った瞬間。
私が人間でなくなった瞬間。
浮かぶ物体。
かかる負荷。
震える身体。
そうして私は耐え切れず遂に発狂した。
私の記憶の中に両親がいなかったのは、私が彼らをはずみで死なせてしまったからだった。発狂した私は周囲のありとあらゆるものを高速で飛ばした。怖くなったのだ。過去、私が空想として抱いていたものが、よりにもよって私に降りかかってきたのだから。それはポルターガイストのように。部屋中の物が滅茶苦茶な軌道で滅茶苦茶に飛び交う。
両親は私を止めようとした。しかし、高速で飛び交う物たちの中に、硬くて尖った何かが混ざっていたらしい。私をなだめようと、私を抱きかかえようとする。抱きかかえられないまま、まず母が倒れ、次に父が倒れた。それにびっくりしたのか、気づくと叫ぶのをやめていた。
目の前で二人とも、頭から血を流していた。
その時点で、彼らは死んだと思った。
その後の記憶に特筆すべき点はなかった。誰が通報したやら、警察が来ていて、私にいろいろと訊いてきた。もう話せる状態ではなかったので、警察官の質問には一問も答えていない。
両親ともども血縁関係足りうる人間が全くいなかった。それまで近所の人間からは手厚い世話を受けていて、やがてそれも終わるだろうと感じていた。この時から、もう人格が分裂しかかっていたのかもしれない。
ある日を境に、超能力が使えなくなった。
ある日を境に、記憶の一部がなくなった。
何を思ったか、私は家を出て、宛もなくさまよい、気がつけば日音に来ていて、偶然にも今の父に拾われ、今に至っている。
人格が分裂した正確な時期がわからない。察するに、私が家を出て日音に辿り着くまで、私ではない人格が身体を操っていたのではないか? 意識はちゃんとあって、確かに街頭をあちこち歩き回っていた記憶が存在している。別人格を認知する前からだ。
それじゃ、家を飛び出して日音に辿り着くまで、あなたが私の体を操っていたの?
〈そう。どの家に世話になっていたとしても、私たちは幸せになれないと思った。だから飛び出した。失うものなんてなかった。両親を失ったあの時点でもう何もかも失ってた。記憶も能力も、全て私が担うことになったわけだけど、あれこそ無意識下における動きだった。分裂したばかりの私にも、それはどうにもできなかったのよ。精神的ショックを請け負うのは、分裂した人格の本来の役目でもあるのだから〉
苦労をかけたわね。
〈もともとの役目だから当然よ……。目の前にくずかごがあるわね。空き缶が入ってるわ。動かしてみて〉
網状のくずかごの中に、青い缶が見えた。
〈缶が動くさまを想像してみて。宙に浮く感じ〉
言われた通り、空き缶に意識を集中させ、それがそのまま宙に浮く様子を頭に思い浮かべる。
そういえば、私の本当の名は何だったの?
〈それを聞いてどうするの。私達にはもう既に名前があるのに〉空き缶が少し震えた気がした。
今更名を変えるつもりはないけど、やっぱり気になる。
缶の音がした。軽い音だ。一度は浮いて、落ちたのだろう。
〈……そうね。じゃあ教えるわ〉
缶に意識を集中。青い缶が宙に浮かぶ……そう思い浮かべる。
〈
難しい字なの? そうだとして、そんなことまで覚えてるなんて。
〈分裂前の私たちは、好奇心そのものだったわ。難しい漢字をやたら覚えたがってた。親に教えられながら、その当時の自分の名字を書くのは楽しかったわ〉
ませてたのね。
「あっ」思わず声を上げた。
〈ほらね〉
青い清涼飲料水の空き缶は、私の前で宙を舞っていた。
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