断片と欠片の掌片
氷喰数舞
黒い神
カノンという街がある。
日に音と書いて日音。どういう意味かはわからない。
ある人は「隔絶された都市」という表現をするが、そうは思わない。普通に出入りは自由だし、外からも内からも、人の出入りは激しい。ただ、ちょっとばかり暗く、黒いだけだ。暗黒なだけ。実際、近づいてはいけないアパートとかいう、一種の観光スポットのような呼び方をされている場所もあるくらい。それ以外は至って普通な町。だけどやはり危険な町。危険だからこそ、一辺五キロメートルの正方形であるこの町は、やたらと高いビル群に丸々囲まれているのである。とはいえ五キロ平方という広さなので、全く日が当たらないわけでもない。だが出入り口はやはり影になるし、温度は低く、湿度は高い。そのため霧は濃く、外から見れば異世界への入り口そのものである。
街の中心には宗教施設がある。
何の宗教かはわからない。
それ以外にも、モスクも寺院も神社も、そしてキリスト教の教会もある。カソリックのものも、プロテスタントのものも。
しかし、その町の中心にある宗教施設だけは全く全貌がわからない。新たな新興宗教とは聞いている。危険かどうかもわからない。なにしろこの町は作られて、というか囲われて十数年になるそうだが、未だ宗教がらみの事件を聞いたことがないからだ。単に揉み消されているだけで、表沙汰にはなっていないだけかもしれないが。揉み消すほどの権力を持っている組織は、この町には山ほどある。暴力団もそうだし、マフィアだっている。ギルドが存在していて、マフィア間の抗争を取り持ったりしている。
そしてこの町では弁護士がよく動く。といっても、お互いの利害関係を和解へと導くだけの存在ではあるが。
話を戻そう。町の中心にある宗教施設についてだ。宇宙からの飛来物が、その中にあるという。どうやら新興宗教自体が、その飛来物を信仰対象としているらしく、怪しげな宗教道具や、神社で言うところの御守りのようなものを売り出したりしている。「飛来物を切り取ったもの」などと謳っては、街を往く人間に売りさばいている。前持って言っておくと、街の人間のほとんどはこれを無視している。中には、真剣に話を聞く振りだけして、買わずにそのまま去っていくという、なんとも悪趣味な事をやっている人間も。
今しがた、施設の様子を見に行ってきたのだが、真っ先に売り子(と言うよりは教徒と言った方が正しいだろうか)がやってきて、小さな紙包みを差し出し、金額を告げてきた。その紙包みの中に、例の飛来物の破片が入っていると教徒は説明した。金額は、別段払えないものではなかったが、断った。私にとってそれが、何一つとして、利益をもたらすような代物には見えなかったからだ。何らかの利益をもたらすことが囁かれてはいた。確かに。だが確証がなかった。どれもこれも、信憑性に欠ける。
何も放送する番組がなくなった深夜のテレビ局にて延々と流される通販番組のようなものを考えてみてほしい。
それが、真っ昼間の、街中で行われているのだと。
そうして先ほど、一週間ほど借りたホテルの一室に戻ってきたのである。ここには観光目的で来たわけではない。かといって、記者という私の本職及び天職の能力を存分に発揮しに来たわけでもない。日音はなぜか報道管制に関しては一段と厳しい。記者の出入りは禁止されてはいないものの、日音自体に関する記事を発表することや、ニュースなどでの報道も禁じられている(しかし、日音に住む人間への取材は禁止されていないので、ある意味では矛盾が生じている)。これには報道の自由とか何やらも例外事項となっていて、多くの報道機関が、この日音の様子を報道できないことによるジレンマを抱く様も見受けられる。
私のようなフリーライターとて例外ではない。日音に関する出版物も、一度日音の管理機関を通してからでなければ出版できず、これはある意味検閲であるとも言える。報道の禁止と、出版物の規制の間にあるものが何かはわからない。何故出版が(規制付きではあるものの)良くて、放送報道がダメなのかについては未だ不明である。
また、個人によるソーシャルネットワークへの投稿は、基本的にOKであるらしい。黙認しているだけではないのか、という見解もある。いや、あった。だが、日音の管理機関が、直々に許可を出したあたり、単に日音側としては、マスメディアそのものに嫌悪感を示している可能性も捨てきれない。
街が高層ビルで隔離されているとはいえ、生活にあまり変化はない。この街に住んでいても、街の外部へ仕事、学校などで出入りする人間はいる。
そして、テレビもラジオも普通通り。お昼時はワイドショーをやっていて、夜はゴールデンタイム。
まるで、もともと存在していた街に、偶然にも街を取り囲む形で、偶然にも同じ高さの高層ビルが次々と建ってしまった、といった感じだ。気がつけば街は隔離されていた。気がつけば宗教が誕生していた。気がつけば、裏社会をこれでもかというくらいに凝縮した街に変貌していた、など。これらの順序についてはよく知らない。因果関係もまた同じく。何が起きて、何が起きたのか。それも知らない。知らないことだらけだ。しかし知ろうとは思わない。これは仕事ではなく、趣味なのだ。
「ルームサービスです」と、ドアノックの後に声が聞こえた。ティーサービスだ。噂に聞く限り、というかこの街に来てから確信したことだが、日音はスラム街で、好き好んで来るような旅行者はいないらしい。観光スポットとして有名ではあっても、命を失う危険が圧倒的に高いとあれば躊躇もするだろう。しかし時折やって来る、私のような物好きのために、安全な格式の高いホテルがこの街には一つだけ存在している。日音外部であれば、せいぜいビジネスホテルの狭い部屋を一室借りることが精一杯というくらいの料金で、高級ホテル並みのクオリティを誇るサービスを受けられるのである。日音の異端な部分。物価がかなり安いのである。同じ国内だというのに、まるで別の国にいるかのような錯覚に陥る。
メニューはアップルティーとケーキだった。紅茶は普段飲まないので、なんだか特別な気分である。ケーキも普段は食べない。特別なときに食べるくらいだ。
ケーキを一口食べながら、私は明日の予定を組んだ。
+ + +
ダメ元、というやつだ。ダメで元々。これまで仕事において何度もこの状況には立たされた。しかし、今回はそう気負うこともない。個人的な趣味の一環だ。
昨日と同じ教徒がいる。しかし、昨日の私にしたように、宗教関係のものを売り込む様子は見られない。おそらく、彼女らの前を通りすぎているのが、街の住人だからだろう。黙ったまま動かず、しかし顔は笑顔のまま。そういう仮面でも着けているんじゃないかと思うくらい、表情に変化がまるでない。
そうして、昨日よりは少しゆっくりとした足取りで、教徒に近づく。そして、昨日とは違い、私から話しかけた。
「あの……」
声を聞いてこちらを向いた教徒は、私の顔を見てすぐに笑顔になる。彼女はずっと笑顔なので、この表現はおかしいかもしれない。だが私にはどうしても、あれが「笑顔」と呼ぶには至らないとしか。先ほどの表現は少し訂正する必要がある。笑顔ではない。笑顔の仮面を被った無表情。これが正しい。
「また来てくださったのですね」
「ええ、実は少しお願いしたいことがあって」
改めて彼女を観察する。なんとも若々しい。ファンタジー系の映画や小説に登場する隠者が着るような、白い無地のローブを羽織っていて、首の後にはフードもある。今は被っていないが、儀式などで被るのだろうか。若々しいとは言ったものの、本当に若いのではないか? 少なくとも三十代には見えない。それよりももっと下、二十代前半、もしかするとまだ成人すらしていないのでは? なんというか、年齢の判断が難しい容姿をしている。私が仕事に使うヒールを履いていれば、彼女の顔を少し見下ろす形になっているだろう。身長は私とそれほど変わらない。
「なんでしょう? 私たちは死者への鎮魂も、聖者への祈祷も、どれも全て、万人に、平等に、施しております。他の宗教を信仰していても、この信条には変わりありません」
ありがたいお言葉だ。いかにも決まり文句、キャッチフレーズじみている。万人に平等。果たして肉親を殺されても、変わらず信条を貫き通すことが出来るだろうか。
いつまでも話を聞き続けているわけにはいかない。私は本題を切り出す。
「あなた達が信仰している物の本体を、私は見てみたいのです。その、あなたが今手に持っているその包み紙の中身、それはいわゆる御神体というものですよね? ああ、いえ、こちらの宗教における特別な呼び名があるのであれば、そちらで呼ぶことにしますが」
要するに、信仰対象となっている宇宙からの飛来物とやらを、見せてもらおうと交渉しているわけだ。こんな馬鹿げた話はないだろう。そんなことを言った私自身もそう思う。
教徒は言う。「ここに住まわれるご予定でしょうか?」
「いえ……」私は少し面食らう。飛来物を見せてもらうのに、なぜここに移住するかを訊かれるのか?「そういうわけではなくて、単なる好奇心です、観光で来ているのです」
私の応答を聞いたその教徒は、黙ってしまった。少しだけ、顔を俯かせる。そして右手を口に当て、左手の御神体(まだ正式名称を聞いていないので、今のところはそのように表現する)を胸に当てる。何の動作かはわからない。彼女自身の癖なのか、それとも宗教上における何らかの所作なのか。
しかし、こう言ってはなんだが、その仕草からは、どこか人を惑わすような魅力を感じた。神への冒涜とか、そんな風に捉えられたりはしないのだろうか(尤も、その人間が何の宗教を信仰しているかにもよるのだが)。
そんな誘惑的な動作の後、「わかりました」と返答が来た。分を数えるまでもない、秒の話だった。それも数秒のことである。そうも簡単に承諾を下すのであれば、先ほどの数秒間の動きは何だったのだろうか。今はもうその所作をしておらず、普通の立ち振る舞いで私の方を向いている。ますます気になってしまう。
「では、ご案内しますね」と、私に背を向けて歩いて行く。「ついてきて下さい」と。
最初からしっかりと心構えが周到だったならば、何も考えずについて行ったりはしなかっただろうか。私は拍子抜けしていた。いざという時に、頭の中に用意していたものが全てガラクタになった。備えていた心構え(のようなもの)が失くなった。腑抜けたみたいになってしまった。考えることができなくなってしまった。
もう、ついていくことしかできない。
思考の片隅で色々と思う。大部分は「この教徒についていく」ことで占められていたので、私自身の体の動作もままならない。催眠にかかったみたいだ。体が勝手に動く。意思に反して。いや、意思の大部分がこの体を動かしているのだから、意思に反しているのは、こんなことを考えている片隅の瑣末な思考回路なのだろう。
そんな矮小な思考回路を以って、私はこれから足を踏み入れていることになる宗教施設の方に目を向ける。体は言うことを聞かないが、眼球は聞いてくれた。
視線を上に。
ホテルの一室にある窓からもこの建物は見えていたが、いかにも現代建築然といった造形をしている。そして随所にファンタジックな趣向が凝らされている。曲線の多用、複雑に入り組んだ鉄骨。新興宗教の建物はユニークな造形をしていたり、ただただ巨大に作られていたりと様々だ。この建物もご多分に漏れず。全体的に建物は巨大な立方体。それだけなら素朴なものだが、側面の一つからはもう一つの巨大な、しかし一回り小さな立方体が横に突き出ていて、さらにそこから同じようなものが、今度は上に突き出している。それが何度も続く。しかしとぐろのようにはならず、かなり変則的な形で、立方体はあちこちからあちこちへ突き出している。そして最後に巨大な塔が中心にある。ワシントン記念塔のような形をしている。礼拝堂の役割を担っていたりするのだろうか、あの場所は。
これはこれでかなりユニークかつ巨大だ。
広く空けられた駐車場には、数台ほどしか車はない。熱心な教徒もいるのだろう。この巨大かつ奇妙な建物とだだっ広い駐車場。それらを囲むように、日音中心部にはビルが林立しているのである。スラム街とはいえ、中心部は賑やかで、先述した通り、人通りも車の通りも激しい。
しかしこの空間だけが静かなのだ。確かに、街の音は聞こえてくる。歩行者信号のメロディも、車の走行音も、時々クラクションも、それなりの音量を持って、耳に入ってくる。だが喧騒感というものが存在しない。奇妙な空間である。
建物への入り口も、壮観なものだ。天井も入口のドアも大きい。巨人のために作られたかのような、そんなサイズ。
建物内に入った。とても広い。やはり天井が高い。吹き抜けになっていて、シャンデリアがぶら下がっている。豪華絢爛。これが宗教施設とは思えない。高級ホテルのような雰囲気を感じる。
ロビーがあって、そこで教徒は何かを話す。表情が見えたのだが、やはり顔にピッタリ貼り付けたような笑顔であった。
「ではいよいよご案内します。準備はよろしいですか?」
「あの、写真とかは……」
「申し訳ないのですが、」
「ああ、いえ、いいのです。ダメでもともとです。ここがそういう街だということを忘れていました」そう、すっかり頭になかった。報道規制、情報統制の厳しい街だということが。
「では、記録媒体の類は、こちらでお預かりさせてもらいますね」
言われるがままに、携帯端末、そして小型カメラの内蔵されたボイスレコーダー付きのボールペンも差し出した。残された僅かな思考では、この動作を阻止することは叶わなかった。
「ご協力感謝します」と、教徒が言う。
途端に、思考のすべてが戻った感覚がした。わけのわからないことを言っているかもしれないが、施設内に入って、記録媒体を渡すその時まで、片隅の思考回路でしか自由に考えることができなかったのに、今は違う。自由に考えることができる。例えば先程までここを高級ホテルのロビーか何かだと表現した。
だが、今は違う。全く違う光景に見える。見えていたものは何一つ変わっていない。吹き抜けもシャンデリアも、演出された広い空間も、そのままである。厳格を見ていたというわけではないのだ。
それでも、見え方が違った。
「豪華絢爛」という単語を使って表現したが、どうやら間違いだったようだ。
周りを見回すと、他にも教徒の集団が複数ある。目の前にいる教徒は普段着だが、その集団は皆、灰色のローブのようなものに身を包んでいた。ローブというよりは、マントといったほうがいいのかもしれない。こちらに背を向けている教徒の一人を見ると、マントの背中には紋章のようなものが描かれていた。
「教徒の数はいかほどなのでしょう?」
「およそですが、四千ほどですね」
「ちなみに、日音全体の住人の数はご存知で?」
「はい。これもまたおよそですが、三、四万ほどになります」
「日音外部の人間も、この施設には出入りするのですか?」
「ええ、日音内にはとどまらず、外の世界からも、我が六心教を進行する人間はいますよ」
今更、この新興宗教を「六心教」と呼ぶのだということを知った。
「では、こちらへ」教徒が促し、私はまたついていく。今度はすべての体を、私の意識が動かしている。隅に追いやられていた意識の回路を全て広げた状態で、私は彼女についていく。
ロビーを抜けて、廊下を通る。明るい。ロビーほどではないが天井はやはり高い。そしてそこから小さなシャンデリアが吊り下がっている。等間隔に、同じものが複数並んでいる。壁はワインレッド一色。装飾も無し。殺風景なのか豪勢なのかわからない。感覚がおかしくなりそうだ。
通路が直角に曲がり、それに従って歩く。途中、複数の信者ともすれ違った。皆一様に俯いていて、先ほど見た灰色のマントを羽織っていた。皆、私の方を見ることはなかったし、私に全く気づかない信者もいた。非信者に対しては不干渉なのか、とは思ったが、よく見ると私を案内する教徒にすら反応を示さなかったので、誰に対しても極力関わらないようにしているのだろう。
それとも、あの質問。「移住するか否か」が重要だったりするのだろうか?
「あの、先ほどから多くの信者とすれ違っていますが……皆俯いているように見えるのですが、これもこの宗教下における何かのルールのようなものなのでしょうか……? その、暗黙の了解というか」
「ええ、そんなところです。知らない人間に対しては、できるだけ関り合いを持たないように、となっています」
「移住する人間に対してもこのような扱いを?」
「「扱い」と表現されると多少の語弊が生じますが……間違ってはいません」
「一体何故?」
「何故そうなったのかについては、私もよくわかりません。ですが、信仰の際に付随する、諸々のルールについて、その理由を考えたこともありません」
「何故でしょう?」
「考える必要が無いからです。少なくとも私はそう考え、判断しました。こういうことは、宗教学者にでも委託して、ゆっくりと研究してもらったほうが良いと思ったのです。私みたいな人間が脳をすべて使って考えても、知識量において、学者様方とは圧倒的な差があるため、考察範囲には限界が生じる。もちろん、彼らにもその限界は存在するでしょうが、その差もまた、歴然としています」
ふと、この会話の仕方に違和感を覚えた。いや、違和感自体は薄々覚え始めていたのだが、ようやくその正体がわかった気がする。
ロボットだ。アンドロイドとも、人工知能とも、はたまたただの機械とも言える存在。私は以前、仕事の関係でこうした存在と対話を図ったことがある。科学技術の進歩は目覚ましい。これは常識として認識していたことなのだが、この対話をする際、一層そのことを強く認識し、実感した。私の想像以上に、技術は先を行っていたのである。
しかし。
「彼ら」は多様な言語をプログラムとしてインストールされており、それをもとに会話をする。昨今の携帯端末にも、機械音声による会話システムのようなものが組み込まれているが、あれの上位互換といったところである。
だが、私はそんな最先端の科学技術による機械との会話には、その仕事の中では最後まで馴染めなかった。今も馴染めずにいる。
携帯端末による会話システムの上位互換だと私が言ったのは、「携帯端末の方は、滑舌が悪い人間が発した言葉をその通りに認識できないケースが時折見受けられるのに対し、「彼ら」は言葉の微妙なイントネーションまで認識し、一字一句間違うことなく、同音異義語の判別認識も可能なので、お互いの会話に矛盾が生じる確率が圧倒的に低い」からだ。人間との必要最低限の会話が完璧な形で成立すれば、それだけで進歩である。それは承知している。それでも足りないものがあるのだ。
人間らしさ。
よくよく考えれば馬鹿馬鹿しい話でもあるのだ。「彼ら」は機械であって、人間ではないのだから。何らかのトラブルでも起きない限り、ミスは起こさない。完全無欠。無謬の存在。奇才天才秀才異才のような人間との対話は、次元の違いが激しすぎて成立しない。私の経験則である。同じように仕事の関係で経験した。そういう人間と、「彼ら」は似ているのである。完全を極めると何かの次元が変わるのだ。そうして人間そのものから離れていくのだ。
目の前を歩くこの教徒も、そんな感じなのだろうか。彼女と話をしても、何も伝わってこない。しかし事実として、私は彼女のもとをついて行っているわけだが、そこまでの経緯にしたって不思議な感覚でしかなかった。私自身の思考が否定しているのに、体を司る思考回路が肯定の意を見せて動じなかったのだ。洗脳の類を疑った方がいいのかもしれない。彼女の体から発する何らかの電波。
「着きました」
大体の建物には防火用のシャッターがあって、そして避難用のドアも併設されているのだが、目の前のドアはまさにそんな感じだった。鉄製の、素朴なドア。装飾も為されていない。いわゆる「御神体」への入り口(あるいは何重もあるドアの外側なのかもしれない)であるはずなのに、そうした注意書きのようなものも、案内板も、何もない。
「ここを通れば、「御神体」に?」
「ええ、すぐにお目にかかれます」
彼女はもしかすると、人間ではないのかもしれない。
彼女の返答を聞いて、そんなおかしなことを考えていると、金属音がした。彼女がドアを開けたのだ。 重そうなドアである。
ドアの中は暗く、冷たい。天井が高く、小さな青い光が無数に点滅している。まるで何かのアトラクションだ。この施設自体、巨大なテーマパークで、この女性もコンパニオンなのかもしれない。音楽こそかかってないので、そう判断するのも変な感じではあるが(寧ろ音楽がかかっていたら、その疑念は強くなっただろうか)。
そう、音楽がなにもない上、そこには私と女性以外誰もいなかったために、辺りは静寂そのものだった。足音だけが響く。ドアの先に広がっていた金属製の網状の足場。そこを歩くときの、金属音が二人分。それだけが部屋に響く。響くほどの広さなのである。青い光が主に部屋を照らすので、視界は青く、暗い。部屋の向こう側の壁が見えない。どこまで広がっているのかもわからないし、後方にある、私達が入ってきたドア以外に、この部屋に出入り口があるのかどうかも。
さて、「御神体」である。もうさんざん視界に入っている。周りの青暗い視界から一転、「御神体」とされているそれにだけは、白いライトが照らされていた。主役のソロ演技の際に照らされるスポットライトのように。この部屋の、果てはこの六心教自体の「主役」に、その光は当てられていた。ライトが当たっている光の部分だけが別世界のようで、そこだけ時間の流れが違うと錯覚してしまいかねない。それほどまでの圧倒的感覚。不思議なオーラを放っているその「主役」は、黒く、薄い、直方体の柱そのものだった。『二〇〇一年宇宙の旅』に登場する「モノリス」を知っていれば、真っ先にそのイメージが当てはまるであろう。
というか、モノリスそのものではないのだろうか?
「これが、そうです」
「これが……。名前は何というのですか?」
「我が六心教の最高神です。名前はありません。一神教ということもあり、我々は単純に『神』と呼んでいます」
名前はなく、ただ「最高神」の肩書を持つのみ。肩書こそが名前。なるほど。確かに、わざわざ神の名を決めるまでもないのは理解できる。
「ですが、他宗教信者の方へ説明する際は、どうしているのでしょう?」
「と、いいますと」
「あなた方が称する『神』と、他宗教信者が信仰対象とする『神』は違うでしょう? その区別を、どのように図っているのかと、疑問に思いまして」
「区別する必要がありますか?」
「それはどういうことでしょう?」
「我々にとっての『神』とは最高神以外の何物でもありません。他の宗教信者の方々が信仰しているものは、私たちにとってのそれに値するものではありません。あくまで釈迦という一個人、キリストという一個人。それだけにすぎないのです。それだけの話」
「……よくわかりませんが、一応の納得はしました」
こちらの質問が悪かった。
「触ってみてもいいですか」私は訊く。『神』に触れようとしている時点で、私もどうかしているらしい。
「もちろん。もとよりあなたには触れていただくつもりでもありましたので」
予想外の回答だ。
いや、ある意味では予想通りとも言える。
『神』の周囲には、何も囲いがない。博物館の展示物みたいに、手を触れることが禁止されているわけではないらしい。手を触れるために、私はもっと『神』に近づいた。足元が不安定になる。見ると、何も舗装されていない岩肌のようなものが露出している。『神』そのものが、地面に突き刺さった形だ。
ふと、何か考えが脳裏をよぎった。まさか、と自分で疑いたくなるような、恐ろしさを秘めた考え。
日音そのものの歴史に関わる何か。この街の発生、建設に関する話を、私はまだ知らない。しかし、これからその歴史を知ることになるのであっても、それは私が、聞くに堪えられるものであるかどうかは、とてつもなく怪しい。
もし。
もしこの日音が、目の前にいる『神』のためだけに作られたものだとしたら。
施設に出向く前に携帯端末で施設について少し調べたのだ。この宗教施設は、驚くほど正確に、一辺五キロメートルで構成された日音の真中心に位置していた。おそらく、この『神』は、真中心に位置する施設の、さらに真中心に位置していることだろう。
仮にそうだとすると、この六心教が信仰する『神』の発生と、日音という町の発生の、二つの順序が逆転する可能性が生じるのである。日音ができて六心教が発生したのではなく、最初に『神』が発生し、六心教が生まれ、日音ができた、という具合に。正方形を描いて中心を設定するか、中心を設定した後に正方形を描くか、という話である。
もちろん、どちらもあり得る話だ。
しかし、この『神』が、「宇宙からの飛来物」であることを忘れてはいけない。
先に描いた正方形に、不確定要素を含んだ黒い点が、正方形の真中心に落ちる確率はいかほどのものだろう? おそらくゼロに近い。正方形の真ん中を狙って落とした水滴が、正確に中心に落ちるかどうか、ということだ。高確率で、そうはならないだろう。
だから、やっぱり、この『神』が「先」なのだと、私は考えた。日音は「後」。
私は静かに『神』に触れる。
こんな表現をすると『神』や教徒には失礼なのかもしれないが、冷たい鉄板のような感覚だった。
それでいて永遠の冷たさ。
私は目を瞑る。
息を吸う。
瞼が開かない。
静かに思う。厳かに考える。
息を吐く。手が震える。感覚が押し寄せる。五感全てが混ざる。寒気がする。全身が冷たさを感じる。息を詰まらせる。幻覚が見える。フラッシュバック。モノトーンの世界。暗い宇宙。闇の空間。黒の空間。白い星の点。赤い星。青い星。緑の陸。知らない形。知らない陸。知らない緑。知らない空気。歪む視界。歪む幻覚。得体の知れない生物。恐怖のフォルム。戦慄の旋律。聞き慣れない言語。また歪む。虹色。ジグザグ。鈍色。ジグザグ。褐色。ジグザグ。雲。空。落下。近づく大地。震える世界。痺れる視界。茶色の岩肌。赤土の欠片。地平線は緑。乾いた風。渇いた地。
そこに数人。
六心の教徒。
六人の使徒。
『神』に触れる。それを見ている。
悟る。
私は依代。
もう一つの世界。
もう一つの私。
白。
暗転。
気付いた。意識が戻ってきた感覚がする。ライトに照らされて黒い光沢を発する『神』に、私は両手で触れていた。
最初は片手だけで触れていたのに。
「私は……」『神』から両手を離し、咄嗟に片手が頭を押さえる。
「トリップしたでしょう?」
「あの、これは、」
「気にすることはありません。私も見ましたから」
「訳のわからない景色がずっと見えていました」
「はい。わかっています。私も同じようなものを見ました」
「つまり、あなたも『神』に触って……」
「そうです。『神』は、自身のルーツをご教示下さるのですよ」
「触る人全てが、同じ景色を?」
「それは少し違います。私やあなたのように、そのビジョンの中で『神』の御姿や偉大なる六人の御姿を見た人間は稀なのです」
「待ってください。どうして、私が見たものを知っているのですか?」
「事前に教えられていたからですよ、『神』によって。これからここにやってきて『神』に触れる者は全て、事前に『神』は知っているのです。だからこうして教えてくれる」
「私が見たビジョンの内容も?」
「はい。何もかも、全て」
さすが。何もかもお見通しというわけか。それにしても、ここまで神という存在を認知し、実感し、そして体感したのは初めてだ。……いや、初めてなのは当たり前か。頻繁にそんな体験している方がおかしい。
「このビジョンは……、未来を示すものなのですか?」
「未来というよりは、別世界におけるあなたの運命……そのように表現したほうが適切かと」
「別世界?」
「あなたは見知らぬ土地をビジョンの中に見ましたね?」
「ええ……、まさか、あの地が別世界だと?」
「残念ながら、『神』はそこまで言及しておりません。ですが、その可能性だけは示唆しておられます」
「そうですか……。それにしても奇妙でした。私自身も、変な、別の生き物になった感覚で」
「私が見た時もそうでしたよ。「人間ではない何か」。今は私も、そう表現するしかないようです」
「……ところで、この日音という街ですが、この『神』が降り立ってからできたのですか?」
「はい。我々六心教の、最初の使徒である六人を、あのビジョン内であなたも見たと思います。六心教という名も、そこから来ているのですよ。そして、この『神』を保護するべく、建物を作り、街まで作りました。今は悪事が跋扈する邪悪な街の様相を呈していますが、いいカモフラージュです」
+ + +
「最後にこれだけ聞かせてください」預かってもらっていた電子機器、記録媒体を受け取りながら、私は彼女に訊く。「あなたが六心教を信仰するきっかけとなった出来事は一体何なのでしょう?」
「きっかけ……ですか」そして彼女はまた、あの誘惑的な仕草をする。「……あの、重ねて質問するのも失礼ですが、その仕草には、何か意味があるのでしょうか……?」
「ああ、これですか? これは、純粋に私の癖ですよ。信者の方からも、よく言われます。『魅力過ぎる』って」
どうやら敬虔な信者ばかりではないらしい。
彼女は続ける。「それと、私が信仰するきっかけとなったのも、やっぱり単純なものですよ。今の夫に誘われたのです」
夫?
「ソウルメイト……のようなものですか?」
「いえいえ、単純に旦那ですよ。大学の時に知り合って、付き合いだして、その時に六心教のことも知りました。その当時はまだ、この街がここまで発展するなんて思いもしませんでしたよ」
「あの……何度もすみません、あなたは、六心教を信仰して何年に?」
「かれこれ三十年近くになります。その当時は、街なんてまだ全く出来てなかったんですよ。城壁みたいなビルが建っただけで」
「あなたは何歳なのですか……?」恐ろしくも、訊いてしまった。
「今年で五十一ですね」臆面もなく、答える。
その若さの秘訣を、教えてほしいものである。
「でしたら、ぜひともこちらをお買いください。私もこれを持ってから、老いを感じなくなったんですよ」
絶対、嘘だ。
絶対、何かのハッタリに違いない。彼女は何か、呪文をかけられているのだ。だって、信仰対象が信仰対象だけに、あんな恐ろしい物を信仰しているのだ。臆面もなくそんなことを言われたって、そんな、通販番組のサクラまがいのモニターみたいなことを言われたって。
私は、買わない。信じない。
……とはいえ、こうなったのも何かの縁である。
私は財布を出す。両替した円には、まだ少し余裕があった。
「それにしても、海外からわざわざやって来るとは驚きです。日本語、お上手ですね」
「こちらには頻繁に来ているものですから。しかし、こちらこそ驚かされました。まさかロシア語を習得しているとは。いつの間にか自然に話せていたものですから、すっかりそのことについて触れるのを忘れていたんです」
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