第1話 あの日の約束
「リーベ、止めようよ」
「大丈夫だって」
笑顔で応え、リンゴ園の中で一等大きくて立派な木をするすると登るリーベを、カルマは心配顔で見守った。
上へ上へと行く度、頬にかかるリーベの髪が、秋風に吹かれてふわりふわりと遊ぶ。その度に、葉の間から零れた陽の光で金色の髪がキラキラと輝いた。
肩まで伸ばしていた前の髪型も女の子らしくてよかったけど、短く切り揃えた今の髪型もいいな。ふと、そんな考えが頭を過ぎったものの、それを口にした途端リーベにどやされるのをカルマはわかっていた。だから、その言葉をごくんと飲み込む。
「危ないよ」
「平気、平気」
木には赤く熟れたリンゴがたわわに実っていた。
カルマが心配しているのなんてこれっぽっちも感じていないのか、リーベは頃合いの高さまで登ると、大きな枝を足掛かりにして細い枝の先に成ったリンゴへと手を伸ばした。
「うんしょ、もうちょっと――」
ほっそりとしたリーベの指が、真っ赤に実ったリンゴに届いたそのとき、
「こらーッ!」
怒鳴り声がした方に二人が一斉に顔を向ける。すると、カンカンに怒った農夫が、先の尖った三叉の農具を振り上げてこっちに迫ってくるのが見えた。
「あ、リーベ、危ない!」
慌てて声を掛けたが遅かった。バランスを崩したリーベが、下で見ていたカルマ目がけて落っこちて来たのだ。
「うわッ!」
それを受け止めようと試みるが、生まれた年も日も同じ、背格好も同じくらいのカルマが受け止められるはずもなく、二人は一緒くたになって地面を転げまわった。
「イタタ」
気づくと、カルマの目の前にリーベの端正な顔があった。
「大丈夫か? カルマ」
リーベの澄んだ青い瞳が、心配そうにカルマの顔を覗き込む。
「う、うん。僕は何とも……」
「よかった」
鼻と鼻がくっつきそうなぐらい近くでにっこりとしたリーベの笑顔に、カルマはどぎまぎとした。すると、また農夫の怒鳴り声がした。
「こらーッ! 悪ガキどもめ!」
次の瞬間、農夫の姿が消えた。いや、消えたのではない、落とし穴に落っこちたのだ。
「ヤッタ!」
仕掛けた罠にまんまとはまったのを見て、リーベが歓声を上げる。
「この木でリンゴを取るのが見つかったら、絶対あそこを通ると思ったんだよな。やっぱ、落とし穴を掘るなら、位置関係をちゃんと計算しなきゃ」
「リーベ、そんなのん気なこと言ってる場合じゃないみたいだよ」
見ると農夫は落とし穴から這い上がり、頭から湯気を上げていた。
「こんの悪ガキどもめ! 二度と悪さ出来ねぇようにこらしめてやる!」
「ヤベッ。立てるか? カルマ」
「う、うん」
先に立ち上がったリーベが、倒れたままのカルマを引き起こす。
そして、
「走るぞ!」
「え? あ、うわッ!」
戸惑うカルマの手を引いてリーベは駆け出した。手をつないだまま、二人はリンゴの木の合間をぬって懸命に走った。
「こらー!」
追いかけてくる農夫の怒鳴り声がする。
それを後ろに聞きながら、走る、走る、走る。やがてリンゴ園を抜け、二人は黄金色に実をつけた麦畑へと行き着いた。
「カルマ、隠れるよ!」
「うん」
収穫を待つばかりの麦畑に分け入り、麦の穂よりも背を低くして息をひそめる。
「あのガキども、どこに行きやがった!」
暫くしてようやく辿り着いた農夫は、悪態を吐きながら二人を探した。目の前に立ち止まったときには胆が冷えたが、結局隠れている二人が見つかることはなかった。「今度見つけたら、ただじゃおかないからな!」と捨て台詞を残し農夫は行ってしまった。
農夫が充分に遠ざかるのを見届けてから、二人は麦の穂を掻き分けひょいと顔を出した。
「行っちゃったな」
「うん」
「あー、危なかった」
安堵の声を漏らすと、リーベは手足を伸ばし実った麦の上に背中を預けて寝っ転がった。
「ちょ、リーベ! この麦、まだ収穫前だよ!」
「カルマもやってみなよ。気持ちいいよ」
こういう無頓着なところは男の子の自分より男の子らしいんじゃないだろうか。カルマが感心半分、呆れ半分の溜息を吐いたときだった。
「キャッ!」
倒れた麦穂にのんびりと寝っ転がっていたリーベが、短い悲鳴を上げて抱き付いてきた。しがみついた手に鳥肌が立っている。リーベの細い肩が微かに震えていた。
「ど、どうしたのさ?」
「へ、蛇ッ!」
指された方に目を向ける。すると、倒れた麦と麦の間に蛇のようなものがあった。よくよく目を凝らすと、それは半分朽ちかけたロープだった。麦畑の中に打ち捨てられたロープが、とぐろを巻いた蛇に見えたのだ。
「蛇じゃないよ、リーベ。ロープだよ」
「ロープ?」
「そうだよ。ほら」
摘み上げて見せたのをリーベがこわごわと窺う。不意に、乾いた麦わらの匂いに混じって、甘い香りがした。
リーベの香り。女の子の匂い。
「ホントだ。ロープだ」
「で、でしょ?」
一瞬、気を取られていたのを感づかれないよう、慌てて返事をする。
すると、
「なんだよ、驚かせやがって!」
摘み上げたロープをひったくり、リーベはぷちぷちに千切ってぽいと捨ててしまった。
「これでよしと」
畑の中にゴミを捨てておいて、これでよしもないものだ。カルマがまたひとつ溜息を吐く間にリーベは「あースッキリした」と言って、もう一度、実った麦の上に寝っ転がった。大きく手足を伸ばすリーベがあんまり気持ちよさそうなので、カルマはちょっとだけ、本当の本当にちょっとだけ羨ましくなった。
「寝転がって、大丈夫かな?」
「平気、平気。こんなにあるんだもん」
それが論理的な回答でないことはわかっていた。わかってはいたが、カルマが倫理観とか道徳心とかを脇に押しやって、実った麦の上に寝転がるには充分だった。
カルマもリーベにならい、隣に両手足を伸ばして寝転がる。いつの間にか空の色は、澄んだ青から茜色に変わっていた。麦畑を渡る風が、さらさらと実った穂を揺らす。茜色の空を見上げると、同じく茜色をしたトンボがそこここに飛び回っていた。
シャリッ。
隣で、リーベがリンゴをかじる音がした。
「一個しか取れなかったから、かわりばんこな」
そう言ってリーベは、目の前に、ひと口かじったリンゴを差し出した。それを受け取り、歯形がついたところをまじまじと見つめる。
「食べなよ。美味しいよ」
「う、うん」
かじられたところを見つめ、それから控えめにそのちょっと隣をかじる。
シャリッ。
リンゴの甘酸っぱい味が、口の中いっぱいに広がった。
「美味しい!」
「だろ?」
それがまるで自分の手柄のような言い草に苦笑していると、リーベはカルマの手からリンゴをかすめとり、もう一度ガブリとかぶりついた。
シャリッ。
「あ」
「なんだよ、カルマ。かわりばんこって言ったろ?」
「う、うん……」
見ると、リーベがかじったところは、丁度カルマがかじったのと同じところだった。
「僕、お腹空いてないから、リーベそれ全部食べなよ」
「いいの?」
「うん。ひと口味見したからいい」
「じゃあ遠慮なく」
言うが早いか、リーベは三度リンゴにかぶりついた。
シャリッ、シャリッ。
夢中で食べるリーベを眺め、カルマの顔に笑みがこぼれる。
シャリッ、シャリッ。
半分ほど食べ終わったところでそれに気づいたのか、リーベの食べる手が止まった。
「なに? やっぱり要る?」
「いや」
カルマは、その問いに首を横に振った。
「リーベって、美味しそうに食べるなって」
「なんだよ、人を食いしん坊みたいに」
「違うの?」
「違わないけどさ」
それからリーベは拗ねたように口を尖らせて、
「いいよ、食いしん坊で!」
ひとつ文句を言ってから、残りを一気にたいらげた。それがあまりに微笑ましくて、カルマはずっと笑顔で眺めていた。
リンゴをたいらげて人心地着いたのか、リーベは両手を枕に寝っ転がったまま空を仰いだ。カルマも隣で同じようにして暮れゆく秋空を仰ぐ。
「なあ、カルマ」
「なに?」
茜色の空を、右に左にトンボたちが行き交う。
「俺、絶対に騎士になる」
「うん」
二人は、来年、揃って十一歳になる。十一歳になったら、リーベは王都にある騎士学校へ入学すると決めていた。それは、前から繰り返し聞かされていたことだった。
「騎士学校でうんと勉強して、剣技会に出るんだ」
「うん」
年に一度開かれる剣技会は、その年騎士学校を卒業する生徒のうち、成績が上位の者だけが出場して剣技を競う大会だ。騎士学校のみならず王都を挙げての一大イベントだった。
そこで優勝すれば、その年の卒業生で一番の騎士として国中に認められる。そればかりか、卒業してから三年の間、王直属の近衛隊に入り王宮に仕えることが出来るのだ。
近衛隊の騎士は常に王の護衛として側に仕えるだけではない。式典用のピカピカの鎧兜を身に纏い、王と共に様々な祝典や行事へも参加する。華やかで、煌びやかで、誰もが憧れる騎士の中の騎士なのだ。三年間の期限付きではあったが、騎士にとってこれ程名誉なことはなかった。
「決勝戦は、王陛下の御前でやるんだぜ」
「だってね」
「そこで勝って、優勝して――そしたら、父さまも俺のこと認めてくれると思うんだ」
「そうだね」
仰ぎ見るリーベの青い瞳が、群れて飛ぶトンボの姿を映していた。
「三年間、王様に仕えて帰ってきたら、俺に家督を継がせてくれると思う」
「うん」
リーベにはふたつ違いの弟がいた。弟が家督を継ぎ、父の領地を譲り受けることになっていた。しかし、二年前に不慮の事故で亡くなってしまったのだ。
「お父上もリーベのこと認めてくれるよ。きっと」
「ああ」
リーベが、トンボたちの飛び交う空を見上げたまま答えた。
「で、カルマはどうするんだよ。俺と一緒に騎士学校に行くか?」
「いや、僕は騎士学校へは行かない」
「え!?」
この答えは、リーベにとって意外だったらしい。
同じ年の同じ日に生まれた二人は、いつも一緒だった。遊ぶのも、勉強するのも、いたずらして怒られるのも、いつも。だからリーベは、カルマもてっきり騎士学校に進学するものとばかり思い込んでいたようだ。
「僕は、魔術学院に行く」
「魔術学院?」
「うん」
おうむ返しに聞くリーベに、カルマはこくりと頷いた。
騎士学校と同じく王都にある魔術学院は、魔術師の登竜門だった。
「魔術師になるのか?」
「うん」
言わずもがなの問いかけに、また頷く。
「魔術の勉強をして、魔術師になって、そして、誰も死なない世の中を創るんだ。大切な人が誰も死なない」
「カルマ……」
初めてカルマが語った決意に、リーベの言葉が詰まった。
二年前、リーベが弟を亡くしたとき。亡骸にすがりついて離れようとしないリーベを、カルマは辛抱強く慰めたのだった。リーベの気が済むまで辛抱強く。
大切な人が誰も死なない世の中を創る。
カルマが魔術師になることを決意したのは、少なからずそのときのことが影響をしていた。それを察したのか、茜色の空を仰いだままリーベが言った。
「カルマらしいな」
麦畑の上を、無数のトンボが群れて飛ぶ。
「カルマ、手を出して」
「え?」
「いいから、手ッ!」
「あ、うん」
言われるがままに左手を差し出すと、リーベはそれを右手でギュッと握った。
「え? あ、リーベ……」
「カルマ」
急に手を握られ戸惑うカルマの方を顧みることなく、リーベは空を見上げたまま言った。
「絶対に魔術師になれ。俺も絶対に騎士になる」
「……うん」
「約束だぞ」
「うん」
それから二人は手をつないだまま、夕陽に照らされて飛ぶトンボたちを眺めた。
「見てみろよ、カルマ。あの二匹」
言われてリーベが指し示す方を見てみると、二匹のトンボがしっぽとしっぽをくっつけて飛んでいるのが見えた。
「俺たちみたいだな」
「え?」
返事に困ってカルマが聞き返す。すると、
「あの二匹、俺たちみたいだな」
「う、うん」
もう一度繰り返したリーベに、ようやくカルマは頷いた。それからひと呼吸おいて、リーベが付け加えた。
「きっと仲のいい友だち同士なんだろうな」
本当は二匹のトンボが友だちではなく、恋人同士であることをカルマは知っていた。しっぽとしっぽをくっつけるのは、トンボたちの愛の行為なのだ。でも、そのことは言わないことにした。
「そうだね。僕たちみたい……だね」
リーベに合わせてそう言うと、
「カルマ」
「なに?」
「なんで赤くなってるのさ」
さっきまで飛び交うトンボたちを一緒に見上げていたはずのリーベが、カルマの顔をまじまじと見つめていた。
「あ、赤くなってなんかいないよ!」
「そうか?」
「そうだよ! きっと夕焼けのせいで赤く見えるんだよ!」
「そうだな」
そう言ってクスリと笑ってから、リーベがまた夕焼け空を仰いだ。それにならいカルマもまた空を仰ぎ見る。
暮れなずむ秋の麦畑。飛び交うトンボの群れと、手をつないだまま寝っ転がって空を仰ぐ二人を、赤い夕陽が茜色に染めていた。
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