第5話 永森家
永森家の周辺、小さな結界の外は、やはり大量の大蛇がそれを取り囲むように群れを成していた。
だが、それらの視線は結界に守られた永森家の屋敷に向けられており、さらに外から接近する人間には気づかなかった。
霊毛布を纏ったまま、彼らの頭上を跳躍する悠城想人と愛居真人の姿を、神使たちが見つけた時には、すでに二人は結界の壁に接触している。
内外に張られた二つの結界は、あくまで人外の存在の侵入を防ぐための壁だ。
人間であれば、無条件に通過できる。
純粋な人間であれば――
だから、想人と真人は結界を通過するまでに、空中で霊毛布を脱ぎ去り、背中に納め、その両手で結界に触れている。
その手に込められた闘気が、人外に反発する結界を一時的に中和し、二人は結界内に入り込む。
その後を追って大口を開けて迫る大蛇が、結界に阻まれて見えない壁に激突した。
「何者です!?」
毅然とした声が、庭に降り立った二人を叩く。
空中からの落下速度を膝と足のバネを活かして完全に殺し、静かに地面に降り立った想人の足元で、着地と同時に衝撃を逃がすために前に転がったまま、真人がその前で獣のように低姿勢で警戒体勢を取った。
屋敷の縁側、和装の老婆が、薙刀を構えて立っていた。
その後ろには一組の母娘、まだ若い母親と、幼い娘が老婆に隠れるようにしている。
事前に資料で見た永森家の女性たちだった。
年齢を感じさせない隙のない構えで老婆は背後に庇った娘たちを背に、刃を構えて想人たちと対峙する。
「……三人だけか?」
正面の家族には構わず想人は、屋敷周辺の気配を探る。
地面に耳を当てて音を探っていた真人が、その姿勢のまま想人へ振り向いて頷いた。この家には、いまこの三人の女たちしかいない。
「——何者です?」
鋭く、素早く、再度の問いが飛ぶ。
最後通告。これ以上の問答を拒否するなら、即座に刃が飛んでくる。
キンッ、と音を立てて、想人は黒刀を地面に突き立てた。
敵意がないことを証明するため、あえて武器を手放すパフォーマンス。
真人が姿勢を正し、想人の後ろに下がってうやうやしく一礼した。
主である想人の姿を立てるためだ。そしてその仕草の裏で、真人自身は武器を手離すことなく後ろ手に隠している。
「お初にお目にかかります。我々は護法輪より此度の事件の解決のために派遣されたものです」
想人は、さわやかな笑顔を浮かべて一礼する。挨拶こそ相手の信頼を得るための第一歩として師から散々仕込まれたものだ。
だが、老婆の警戒が解けることはなかった。
あまりにも二人が若すぎるのだ。どんなに姿を繕っても、どちらもまだ少年でしかない。
「私は悠城想人。護法輪総代、罪火より遣わされたものです。こちらは従者の愛居真人」
前時代的な物言い。現代においても、古来よりの伝統を引き継ぐ退魔組織である護法輪では主従関係や家格が物を言う。
「
吐き捨てるように毒づく老婆に、鋭い目つきで真人が前に踏み出し、想人は手で制した。
自分が、他人からどう見られているかなど、物心ついた時から慣れている。
「お目汚しをして申し訳ありません。
——ですが、我が師父、罪火は一刻も早い事態の収束を考えております。
……どうか、ご協力を」
慇懃な態度で深々と頭を下げた想人に、老婆の後ろから永森紗枝が叫んだ。まだ若い母親は、自分の娘を肩を抱きながら、震える声を上げる。
「だったら、早くあの怪物たちをやっつけてください!」
その叫びを、想人は無視した。
永森紗枝は霊力を持たない、ただの人間だ。母である永森沙奈からも父からもその才能を受け継がなかった人間。
護法輪でもそんな人間は珍しくない。術者の家系であっても、どんな血筋であっても、子が親の能力を受け継ぐとは限らない。
愛居真人がそうであるように、永森紗枝もそうであるということに過ぎない。
違うのは、それでも護法輪の役目を果たそうとしているかどうかだ。
永森家の人間であっても、護法輪に属しないものに話をする必要はなかった。
説明するだけの時間が無駄だ。
「あなたならお分かりのはずです。あれは神使だ」
想人の言葉は、祖母である永森沙奈に向けられている。
高い霊力を持ち、永森家を長年にわたって支えてきた巫女の家系だ。戦装束に身を包んだ彼女の手足、そして顔にまで、すでに祟りの邪紋が及んでいた。
娘と孫を護るため、結界で神使たちを阻み続けていた代償である。
「この数年に渡り、祭儀の不履行がありました。あれらは、その罰に遣わされたもの」
想人の言葉に、老婆は顔を歪めた。思い当たることがあるのだ。
「そんなことあるわけがありません!」
再び娘の永森紗枝が叫び、再び想人は無視する。
「永森、いや湯葉大地がこの数年、祭儀を執り行っていたはずですが……彼は今どこに?」
答えられないとわかっていて、想人は言葉を重ねる。
その言葉に、老婆の顔がますます暗くなった。
「なにか、予兆のようなものがあったのではありませんか?」
さらに想人が追撃する。笑顔のまま、口調だけが冷ややかなものになっている。
「そんなものは……」
ない、と言い切ろうとした永森紗枝の後ろに隠れていた孫娘の紗那がおずおずと顔を出した。
「ヘビさん、怒ってるの?」
「……そうです。とっても」
想人はすぐに表情と口調を柔らかいものに切り替える。
硬く口を割らない祖母と夫を妄信する娘とは話にならないと判断したのだ。
「知っていることがあったら、教えてくれないかな?」
優しく問いかける想人の後ろで、愛居真人がその両手でウサギを象って少女に耳を動かして見せた。
お互いの距離は保ったまま、子供の警戒心だけを解く仕草。
「あのね。このあいだ、しろいヘビさんがおにわにいたの」
まだ幼い少女は見知らぬ青年にたどたどしく告げる。
資料にあった通り、彼女に霊感があることはすでに調査済みだ。
「そのことを、だれかにお話ししましたか?」
190センチ近い長身の想人は、大きく膝を屈めて、縁側の少女と視線を合わせる。
「パパがね。だれにもおはなししてはいけないよって」
最初に父には話したということだ。こともあろうに元凶である男に。
だから、祭儀を執り行っていたはずの男だけが、神使が出現する中で逃げ出せたのだろう。
「――握りつぶしたか」
「あの男!なんという……」
想人が冷徹に切り捨て、永森沙奈が絶句する。
その後ろで、夫の裏切りにようやく気付いた永森紗枝が震えた。
「——
悠城想人は目線を合わせたまま、少女に問いかける
「一緒に、ヘビさんに謝りにいってくれませんか?」
再び想人の顔が笑顔を形作る。
「ヘビさんにごめんなさいするの?」
「——そうです。お父さんが帰ってくるまで、待ってくださいとお願いしに行くのです」
その言葉に、老婆は顔色を変えた。
想人の言葉の意味を、永森家の中では彼女だけが理解していた。
「いけません!そんなこと!」
愛居真人が、想人の前に出て今にも薙刀を振るいそうな老婆の動きを遮る。
「おとうさん、かえってくるの?」
「……ええ。今、わたしの仲間が呼びにいっていますよ」
口調は穏やかなまま、実態を隠して想人は言葉を続ける。
「なら、いく」
かしこい子だ。自分の置かれている状況を彼女なりに理解している。
「いけません、いけません!」
老婆が叫び、そして膝から崩れ落ちた。
全身を蝕む邪紋に気力で耐えていたのだ。その限界が彼女に迫っていた。
「あの……何が?」
母と娘の話を理解できず、倒れた母を前に、永森紗枝が戸惑いの声を上げた。
「時間がありません。すぐに行かなければなりません」
険しい表情で、想人は言い放った。
その横で、愛居真人が永森紗那を促す。
「このままでは、あなたのお母様も危ない」
想人は縁側で倒れ込んだままの老婆を抱きかかえ、家の中に上がり込む。
戸惑いながら、永森紗枝は母のために布団を敷き、そこに想人が永森沙奈を横たえた。
その全身に巻き付いた邪紋は、霊感を持たない娘の目にもすでにはっきりと移っている。
「今回の件は、神の怒りです。これを鎮めねばなりません」
「わ、わたしには何も……」
震え声を上げた永森紗枝、母親をよそに、永森紗那は玄関で靴を履いていた。
「祭儀場に行きます。そこからこの地の地霊神である白蛇王に会えるはず」
想人の言葉に翻弄されながらも、永森紗枝は娘の後を追うように靴を履く。
「——彼女には、彼らを見る力がある。彼女を通して、白蛇王に話をします。」
いけません、と障子を隔てた背後でうめき声がした。
倒れてなお、老婆は孫娘の身を案じている。
「……どうして、あの子が?」
「——親の因果が子に報う。私もまたそうやって育てられました。今はご夫君の誤りを、あの子に正してもらわなければなりません」
すでに愛居真人に連れられて、少女は玄関の前に立っている。
「わ、私は……」
「ご息女が心配なのは当然です。望むのなら、ご同行を――祭儀場まで私たちがお守りします」
長身の想人が、永森紗枝の肩を抱くようにして促す。
半ば強制的に母親が玄関から連れ出される。
ひっ、と玄関から外へ出た永森紗枝が息をのんだ。
玄関から広がる結界の外は無数の大蛇たちが待ち伏せていた。
結界内にこそ侵入できないものの、出てきたところを一斉に襲い掛かるつもりなのだ。
先に玄関先に出ていた永森紗那を後ろ手に庇い、結界の壁の手前で立ち尽くしていた真人を追い抜き、悠城想人は黒刀を片手に前に出た。
「——真人。二人を頼みます」
目指す祭儀場は、永森家の玄関先から見える霊山の頂にある。
そこまではもはや力づくで押しとおるしかなかった。
結界から外に出ていく四人を追って、床をはいずるようにして永森沙奈が玄関まで転び出る。
だが、もはや彼女に娘たちを止めるだけの力は残っていなかった。
かすれた声が、言葉にならず、老婆の口から放たれて消えた。
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