第21話
今の状況がさっぱりわからない。
小ざっぱりとした壁と窓しかない事務室に、見張り二人付きで閉じ込められた幾多は何が起こったのか把握できずにいた。
今はスーツ越しに手足を拘束されて、このままでは思うように動けない。
助けは、人気がない場所ばかりを歩いていたため誰も幾多がいなくなったことに気にも留めもしないだろうから期待はできない。
肝心の幾多を捕らえたリデルも既にこの事務室から出てしまい。いない。
出ていく前にやっと一言声をかけたら、リデルはこう応えた。
「私は間違ったことをしました。本当は、正しいことをしようとしたのですが、全て手遅れです。私の業は場所を変えても名前を変えても、変わりそうにないみたいです」
そう、怪しげに寂しげに唇を震わせていた。
その言葉の真意は測りかねる。それでもこれはリデルの裏切り、レイダーの一味だったという事実だ。今までスパイとしてタブチの傍にいたのだろうか。
考えてみれば、最初弐部に遭遇した時も変なタイミングで発見された。あれはリデルが弐部に携帯で知らせていたからなのだろう。
それにしても、弐部はともかくリデルの目的はなんなのだろうか。
ぐるぐると考えてみても、換気扇の空洞音が鳴り続け、時たま響く銃器の部品が擦れ合う金属音が色のついた静寂となり。見張りと幾多の間で緊張の糸をぴんと張らしたまま、その傍を沈黙が流れるばかりだ。
ふとした時、銃撃の音が上の階から二度三度と聞こえてきた。どうやら始まったらしい。銃撃戦はそのまま止む様子もない。
「さてと」
幾多はアイオスくらいにしか聞こえないように小声で呟く。
そして、銃弾の飛び交う音に気を取られた見張り二人の動きを見逃さない。
幾多は拘束されていると言っても、縛られているのは手足だけだ。アポックに備わった新しい四肢には何の拘束もない。
まず手始めに背中の二本のアームを起動させ、壁を蹴飛ばし一挙に見張りとの距離を詰める。
拘束された腕のまま、2人の見張りを左へ右へと張り倒し、続いて副腕が小型のナイフを取り出して丈夫なビニールひもの拘束から腕を解放した。
その間に、見張りの一人が回復して銃を構えたのを見て、背中のアームが動き見張りの身体を完全に捕まえてしまった。
しっかりと見張り二人を昏倒させた後、足の縛りも同じように脱した。
「これも、だいぶ使い慣れてきたな」
幾多は取り上げられた銃と新品のナイフとアックスも取り戻し、細心の注意を払って扉から出ることにした。
出た先はまだ静かなものだった。
「アイオス、このままでは所長が危ない。いい計画はないか」
『プランAは階段から、エレベーターから直接会議室に乗り込む方法です。途中にレイダー達に遭遇するため先に到達できる可能性は稀有です』
「ああ、なら次は? プランBか」
『プランBですか。ありますとも』
アイオスが示したプランBは何とも無謀な作戦だった。
最初に空き巣もびっくり綺麗にガラスを切り取り、アポックを着たままでも余裕で入れる穴をあけた。その後は、ただ登るのだ。
冗談でも何でもない。アイオスが提案したのはビルのフリークライミングだった。
「冗談きついぜ」
『問題ありません。アポックにはヤモリのガラスに張り付く特殊な吸盤を再現した機構が手の平に再現されています。登るのに必要なのは人間の既成概念を吹き飛ばすくらいなものです』
幾多は戸惑っていたものの、救いに行くつもりがあるなら選択はない。というアイオスの売り言葉に乗せられて、窓の外へと第一歩、この場合は第一挙手だろうか。
ともかく、登り始めた。
初めの方は手の平が身体が浮くほどガラスに吸い付く違和感に慣れず、おたおたとしていた。それでもアイオスにはっぱを掛けられて黙々と登る。
会議室に必要な五階分、登ること自体はそう難しくはなかった。
幾多は肩で息をしながら、アイオスの次の指示を待った。
『十分です。次はビルに侵入してください』
「どうやって? ガラスを叩き割れってか」
『凩幾多、正解です。その通りです』
この機械、無茶ぶりが過ぎると内心呆れながら、幾多は指示に従った。
ここぞとばかりに可変式のアックスがスライドして、ピッケルのような形に変わる。
それから、自分を支えてくれていたガラスを躊躇なくピッケルでその鏡面に突き刺した。
「くおら!」
ガラスは強化ガラスらしく、やや粘り気のある割れ方外れ方をして、おかげで幾多を支えているガラスまで一挙に割れてしまうなどということはなく。何度か突くとアポックが通れるだけの穴をあけることができた。
幾多は素早く穴に飛び込むと、身体を回転させながら拳銃をしっかりと握った。
幸い、幾多に向けて引き金を引かれる様子はない。
「なんで誰もいない?」
そこはちょうど会議室の外、一番厳重に警備が固められているはずなのに人影はない。
下の階では相変わらず散発的な銃声が響いているため、別の階の援護に行ってしまったのだろうか。
幾多はゆっくり立ち上がると、会議室の扉に近づいた。
「E.H社所属特先凩幾多、入るぞ」
会議室の中から撃たれても面白くないので、幾多はそう大声で名を名乗ってから入った。
中は散乱としていた。慌てて逃げ出した会議の連中が散らかした椅子だけではなく。何者かが崩した会議机も倒れていて、ひと悶着会ったのが伺えた。
幾多は拳銃を構えなおす。
「幾多、こっちに来るな」
突如、会議室に響いたのは聞きなれた声だった。
「所長、どこだ。何があったんだよ」
山城の姿を探し、幾多は周囲を詳しく探る。すると、そこには山城ではなく。小柄な体躯が目に映った。
それは黒いポンチョに緑色の病衣を纏った姿だった。
「おい、お前。いつからここに」
幾多がそう訊こうとした時、ミタカは身体に収めきれない黒い水をたゆたわせたまま、半身を幾多に見せた。
その顔は黒く塗られ、嘲笑に彩られていた。
「ミタカ、どういうことだ、応えてくれ」
ミタカは幾多を見ているにもかかわらず、こちらの言葉に応答しない。何より、ミタカからは背筋に寒気を覚えるような何かを感じる。
それは殺気だ。感染者やコミューンと敵対していた者たちと命の取り合いをしてきた幾多には十分にそれがわかってしまった。
「今、リデルがレイダーと共にこのビルに侵入してきている。裏切られたんだ。俺たちは」
幾多はミタカに声をかけ続ける。しかし相変わらず言葉に回答はない。
ただし、ミタカがぶつぶつと念仏を唱えるように何かを言っているのは聞こえた。
「これはわたしの―――じゃない。嫌だ。嫌だ。抑え―――」
「聞こえねえぞ。もっとしっかり口にしろ」
ミタカが幾多の言葉を意に介す様子はない。その代わり、ミタカのはるか向こう側にいた山城が、会議室の机を盾に幾多に話しかけてきた。
「ミタカが突然会議室に入り込んで暴れだしたのよ。この場にけが人は出なかったけど、もうめちゃくちゃ。ミタカのパッチは正常なの?」
幾多はここに来る前に施設での出来事を思い出す。ミタカはあの時、確かに抑制剤を打ち、パッチはグリーンを指し示していた。
今も目視で確認できる範囲では、ミタカのパッチは変わらず緑色の淡い光を放っている。
だがしかし、今のミタカの様子は明らかに抑制剤が切れたムントと同じ状態であった。
「私は、私を抑えられない」
今まで口をもごもごと動かしていたのとは違い、はっきりとミタカはそう言った。
「私に殺されるか、私を殺してくれ」
ミタカはエンブリオを、黒い水を鞭のようにうならせる。それはあたかも命を与えられた触手のように幾多の方を目掛けていく。
「オーダーリスト、スチームブースト」
危機を察した幾多はアイオスに命令を飛ばす。すぐさま息をする装甲は蒸気を噴き出し、爆発的なエネルギーをアクチュエーターに送った。
幾多は二度、三度と後ろに跳ぶ。エンブリオの黒い水を避けるにはこうして距離を取るのが最適だ。
それもミタカはご存じで、遠慮なしに逃げる幾多へ距離を詰める。
ついには会議室の壁際まで追い詰められてしまった。
「波!」
ミタカに容赦はない。レイダー達を巻き込んだ必殺の技を繰り出そうと、黒い水を圧縮する。
「恨むぞ、ミタカ」
幾多は逃げ場のない狭い会議室に舌打ちしつつ、最後の時を迎えようとしていた。
そんな刹那、会議室の壁をぶち壊しミタカと幾多の間に割って入る姿があった。
それは肉塊、ミタカの黒い水の波を受けるとたちまち黒い結晶に変わったものの、本体は無事に肉塊と己を切り離した。
「むーが、たすけにきたぞ」
現れたのはムントだった。
「おい、下で拘留されてたはずだろ。勝手に抜け出してきたのか」
「みたかのようす、よくせいざいのきれたむーみたいになってた。だからきた」
「それだけで… …」
「それだけじゃない。みたか、いがいのばいかいしゃも、おなじしょうじょうがでてる」
幾多はムントに知らされた情報に驚いた。他にも媒介者が来ているという情報はあったものの、それがミタカのようにまるで<毒の意思>にあてられているなど、信じたくもなかった。
「しょうじきにいえば、わたしもいつそうなるかわからない。ここはわたしにまかせろ」
ムントはそう、親指を立てた。
「ともかく、今は逃げるのよ。何だか騒がしくなってるし」
いつの間にか幾多の傍まで這ってきた山城は逃走を促す。幾多も共に戦うと言えればよいが、ムントも<毒の意思>に飲まれれば挟み撃ちは間違いない。
ここは逃げに徹するしかない。
「屋上へ、今ならまだヘリがあるはず」
言葉と共に、幾多と山城は会議室の外へと走り出す。それにすれ違うように、レイダーが現れる。
だが彼らは幾多と山城に目もくれず、会議室に入ると銃撃を始めた。
おそらくミタカかもしくはムントと交戦に入ったのだろう。
「レイダーの狙いは最初から、媒介者?」
幾多はやはり状況が呑み込めず、ただひたすら上の階へと向かう山城の後を追いかけた。
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