第17話
ここにかつてにんげんだったむーのために、さんぽをようきゅうする。
ムントがそんな主張をしてきたのは、幾多がムントと話したすぐ次の日のことだった。
彼女はベットのシーツをハチマキと旗に見立てて、ストライキを形から入るようなことをしていた。今度は労働組合でも作ろうとでもいうのだろうか。
「そいで、要求を蹴ったらどうなるって」
「持てる力を持って脱獄を図るらしいわよ。困ったわね」
「なんでだよ。<毒の意思>を抑制すれば媒介者は管理された災害になるんじゃなかったのかよ」
「一般向けにはそう言われてるのだけどね。実際は媒介者本人の個人の癖が強すぎて、凶暴性の鎮静にしかならなかったり。そもそも抑制剤を投与できない例もあるのよ」
「よく問題にならないな」
「そこは媒介者の特性よ。媒介者は基本的にある一定の範囲で感染を広げると、それ以上拡大はしなくなる。風土病みたいなものよ。汚染地区として壁を築けば何とかなるって寸法なの」
そんな例には遭遇したくないな。と、幾多は背筋が寒くなるのを感じた。
実際、おそらく個人の意思としてムントは拘束を破ろうと示しているのだ。他人事ではもうないのだ。
「対策はどうするんだ」
「管理を厳重にするのが基本だけどね。おかしいな、ムントは抑制剤で鎮静するタイプだったはずなのに。こうなったら肉体の量で変化するのを防ぐために、肉を削ぎ落して四肢を切断して皮と骨をはぎ取るしかないかしら」
「冗談だよな」
「私だってやりたくないわよ。そもそも処置が始まる前に私が殺されるのがオチでしょうし」
どこまで本気か分からない山城の提案に、幾多はドン引きした。
だが、それだけ媒介者の隔離は難しいのだ。
ミタカの例でいえば、何物も透過してしまう黒い水をいかにするかが必要である。
特別収監治療室では壁の中に保水性の高い素材を加えられている。とはいえ一番の対策は単に物理的に隔離した場所からより離れた場所にいることなので、施設の中でも特別収監治療室は不自然なほど居住スペースから距離のある場所にある。
その前に、どうやって隔離するのかの大前提に目をつむれば、ミタカは比較的に隔離はしやすい部類なのだそうだ。
ムントの場合も他の感染者がいない孤立した状況で、山城の言う通り肉が少ない状況であればいつもの強大な力を発揮することはない。
今でも不意を突かれなければ部屋を破壊して脱獄するには中々骨が折れるし時間がかかるそうだ。
しかし、である。
「ムントの要求を断るってことは、これから彼女の協力は期待できないってことだからね。そうすると引継ぎするまでのこれからの対応は難しくなるし、急な変心に管理責任を問われると面倒だし。デメリットの方が大きいの」
「じゃあ、あいつの要求を呑むってのか? 間違いなく逃げ出すぞ」
「それはどうかしら、もし逃げ出すなら最もらしい理由をつけなければ狙いがすぐにバレることはムントにもわからないことはないだろうし。無謀なのよね。だから本当に散歩をしたいだけかもしれない」
なので所長は提案した。彼女の主張を受け入れることに、だ。
けれどもそこは当然条件を付ける。まず外を見て回れる時間は3時間、簡単な手枷足枷をムントにさせ、これを壊さないことで逃げる意思がないことを証明してもらうのだ。
他にも付き添いにミタカと幾多を附けることで、逃げるそぶりを見せたり手枷足枷を壊した場合、再拘束もしくは殺害する旨をムントに伝えておく。
これは枕木燃料精製所の先方とも相談しておいたことだし、OMFRの国際規定上でも已む得ない場合の媒介者の捕殺にグレーではあるが含まれるため可能ではあるそうだ。
もちろん殺傷は最終手段ではある。
「殺すときはもちろん私に任せるんだな。その時は、侵して浸して包み込んでやる」
「そのセリフ、好きだなお前も」
声を発したのは幾多の向かい、皮張りのソファーに寝転がったミタカだった。
ミタカはおなかに手を組み、媒介者という危険な生き物に見えない、ひどくリラックスした状態にいた。
「そういや、ミタカも捕まった時はあるんだよな。覚えているのか」
「それはそれは私は大立ち回りを演じて、ちぎっては投げちぎっては投げをして。と言いたいところだけどな」
実は違うそうだ。
ミタカはエンブリオというアーヴィタ因子に、つまり黒い水そのものに育てられるという想像しがたい境遇ですくすくと育ち。はいはいから二足歩行ができるようになったころ、ついに媒介者として暴れようとしたところを発見された。
それも、訓練を受けた特先でも熟練の戦闘員でもなく、たった一人の研究者によって制圧され、あっさり抑制剤を受けたのだ。
「捕らえたのはあなたもご存じ、阿原陽一よ。彼は世界最高峰の因子学フィールドワーカーで捕獲もやってるからね」
なんでそんなところに奴の名前が、と幾多は舌打ちをした。
「待てよ。ミタカを捕獲したのがあいつなら、山城はあいつと知り合いじゃねえのかよ」
「ああ、それね。残念。ミタカがここに来たのは色んな企業や人の手に渡りながら紆余曲折あってここに来たの。直接に会ったことはないの」
幾多は疑り深く山城の顔を伺うが、心理学を持っているわけでもないので、顔色から判断はつかなかった。
「私が唯一敵わないとしたら、その阿原って奴だな。今も昔もあれほど恐ろしい人間には会ったことがない。それに比べればムントなんて、お子様みたいなものだな」
ミタカはそう鼻で笑い、長い髪をたゆたわせてソファーから立ち上がると、さっさと扉の外に出て行ってしまった。
ミタカが先に出かける準備をしに行き。所長室には幾多と山城が残っていた。
窓の外には雲間から木漏れ日のように光がこぼれ、天気は上々、散歩日和という感じだ。
さて俺もアポックの調子を、と出ていこうとした時、目をつぶって椅子に身をゆだねていた山城が急に喋りだした。
「幾多は、アーヴィタ因子はどういうものだと思う?」
唐突な、脈絡もない言葉に幾多は意味を理解するのに時間がかかった。
「… …それは危険なのか、有益なのかってことか。ちとせが似たようなことを話してたけどよ」
「それも含まれるけど、アーヴィタ因子が世界にとって人類にとってどういう意味を持つのか。ってことよ」
「意味、ねえ」
山城は指揮者みたいに両手を上げて、黒板を指すかのように身振り手振りをした。
「ある学者は、アーヴィタ因子を地球の白血球という。それは人類という戦争や自然破壊を繰り返す病原菌を殲滅させる免疫作用。地球が地球にとっての健康を保つためにウィルスをがん細胞を取り除いているんだって。典型的なマルサス的人口調節機能論を改編した説ね」
「つまり人間が地球にとって害悪だから、その対抗として出現したのが媒介者たちだってのか」
「あくまで一説ね。それに私は少し違うと思ってるし」
所長に言わせれば、上記の説は媒介者を好意的に捉えた言い方だというのだ。
「アーヴィタ因子、つまり媒介者は人間だけの敵じゃない。それは媒介者が人以外も汚染するし、環境汚染環境変化も行うことから明らかね。つまり、世界にとっての外敵。もっと言うならこの世ならざる者なの」
「まるで幽霊みたいな言い方だ」
「本質的には似ているわね。あの世とこの世が対照的であるように、世界とアーヴィタ因子も表と裏なの。物質と反物質と言ってもいい。初めから相いれない。反抗すべく作られている。それがこちらの世界に染み出して、生き物を作り変えて、アーヴィタ因子側に持ってくる。つまり、侵略されているのよ」
山城はそう言いながら、書き物机の上に並べた錠剤を数え上げ、それを躊躇いもなく掬って口に放り込んだ。水もなく、喉がごくりと固形物を飲み込むと、山城の眼が眠たそうにまどろむ。
「半分寝ながら酔いながら喋られても、説得力ないぜ」
「いいのよ。私が言いたいのは結局、世迷言な話。そしてついでに言うなら、私は幾多がこの負け続けの均衡を変えられると信じているの」
「なんだって?」
幾多が訊き返したところで、山城が返事をすることはなかった。山城は目をつぶり軽く胸を上下させ、寝入っているのがわかった。
最後の言葉も、やはり寝言みたいなものなのだろうか。
それを気にしても、何も答えなど出るはずもない。
「そこまで期待はされたくねえが、こんくらいの仕事さっさと終わらせてきてやるよ」
幾多は山城の言葉を行き過ぎた心配と思うことで、去来した胸騒ぎを押しつぶすことにした。
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