第3話



「私の眠りを邪魔しようものなら、侵して浸して包み込んであげようか」


  聖女も悪女も思いつかないような無邪気な脅しは、何故か世迷言のように思えず、悪寒を背筋に這わてきた。


 少女、と呼ぶべき歳の彼女は前髪を隠すほどの伸ばしきった黒く長い髪をすだれにして。緑色の外科手術用の患者服の上に、黒いポンチョを羽織っているが他に何もつけていないように見えた。


「なんてな」


「てめえが、ミタカか?」


「そういうアンタこそ、幾多って名前じゃないか」


 ミタカという媒介者はそう、当たり前のように、ずばり幾多の名前を言い当てた。


「―――なんでてめえが俺の名を?」


「タブチから聞いてない? 私は稲荷と組んで特先をやってたから。いや、私はあくまで管理されていただけだけど。名前はその時に、後はとにかくこんな場所では珍しくうるさい奴だって聞いてたし。見当がついただけだな」


 ミタカは眠たそうに視線を揺らすと、タブチと担がれているリデルの姿に気づいた。


「… …リデルは無事か。タブチ」


「ああ、重傷ってほどじゃない」


「そう、なら私も少しは働かないとだな。リデルに怒られる」


 そう言うとミタカは突如、風貌を変えた。


 いや、正確に言えばミタカの身体から黒い水のようなものが噴き出してきたのだ。それは粘液性があるようでアスファルトの上で滞留し、ミタカの身体を支えた。


 黒い水はわずかに透明性もあり、向こう側が透けて見える。そのおかげでミタカの肌は黒い水よりも漆黒で闇のように深い影になっているのが見てとれた。


「むーのあしをいきなりうつなんて、むーはそれくらいじゃ、くじけないぞ」


 一方、ムントは驚異的な回復力で復活したらしく、撃たれたはずの膝から銃弾をぽろりぽろりと落とし、立ち上がった。


「つぶれちゃえ!」


 ムントの号令と共にイヌガタの2匹がムントに衝突したかと思うと、すぐさまムントの身体に吸収されて、その肉塊は両腕の先へと送られるように変化した。


 ムントは幾多たちの元へ駆け出すと、瞬時に両腕を振り下ろした。


 3人は思い思いの方向へ回避し、そのうち1人だけ地面に叩きつけられた異形の腕の傍にいたままだった。


「その腕もらうぞ」


 ミタカだ。ミタカは両腕にたたえていた黒い水をムントの異形の腕に流し込むと、そこから異形の腕は黒い結晶のように硬化し始めた。


「なに、なになに、それこわい」


 黒い結晶は極寒の地で流れる水を駆け上がって凍るように、ムントの異形の腕を覆った。


 だがムントの本来の身体を覆う前に、異形の腕との接着を切り離し、かろうじてムントまでが黒い結晶で氷漬けにされるのを防いだ。


 未然に防げたとはいえ、ミタカのエンブリオとしての能力に警戒したのか。目に見えてわかるようにムントが遮っていた橋への封鎖網は綻びができた。


「よし、今だ! 突破する。ミタカは先導してくれ」


 ここぞとばかりの隙に付け入り、タブチの指示と共に3人は一組となって橋の右側から突入した。


 ムントはまだミタカに対してひるんでいるらしく、やすやすと入り込み。南側へと突破した。


「幾多、導火線と点火装置は」


「準備完了、いつでも」


 最後の仕上げは、ムントを今度は橋の北側から押し出すことだ。それも、生かしたまま。


 本来ならこの役目はジャンクにお任せしたいが、あいにくジャンクはスクラップになってしまったので、ここにいる人数で動かさなければならない。


 図らずとも今は会社付きの媒介者がいるので、戦力としては申し分ない。


 それに、このままミタカに怖気ずいてムントが引き下がってくれれば言うこともないのだが。


「むーをおこらせると、むーのおともだちが、だまっていないぞ」


「ああ、それなら。アンタが私を踏みつぶせばいいじゃないか。怖けりゃママのとこまで行って乳でも吸わせてもらいな」


「しってるぞ、えんぶりお。おまえがこの<さいと>で、いちばんあぶないやつだって。しってるぞ。おまえこそ、ままにだっこされていないと、へーきじゃないくせに」


「―――私の名前はミタカで。エンブリオじゃない。その口全部ふさいでやろうか」


 売り言葉に買い言葉、ムントはミタカに襲い掛からないものの。退きもしない。


 タブチもリデルを降ろして、ムントに銃弾を浴びせかかる。それでも、先ほどムントの膝小僧を撃ち抜いたせいか、警戒され感染者によって射線を遮られ十分に効果を発揮していない。


 ムントの感染者はその間にも数を増し、援軍は増えつつあるように見えた。


 だからこそ、ムントに隙が生じた。


「これまでの諸々のツケ、そろそろ払ってもらおうか」


 何もできなかったイラつきからか。憤りでたまっていた鬱憤からか。幾多はがむしゃらに、ムントとの距離を一気に詰めた。


 幸いムントはミタカを警戒し、タブチの射撃を警戒し、幾多には一切警戒していないため。これが奇襲となった。


 さすがに肉薄、とまではいかないまでも幾多は可能な限り近づくと手にした愛用のスコップをやり投げの要領でムント目掛け投擲した。


「むぎゅっ」


 見事、幾多の投げたスコップは感染者の脇を過ぎてムントの顔面を捉えた。


 銃弾に耐える身体に痛みは如何程か分らないけれども、質量の大きさと心構えなしの衝撃に驚いたのか、ムントはもんどりをうって倒れた。


 幾多はそれを確認すると、すぐさま踵を返して逃げ出した。


「やああってやったぜ! 皆の分を、一発噛ましてやったぜ」


 ムントは大きなリアクションを取ったため橋から離れた。


 それを確認したタブチは、幾多が置いていった点火装置に取り付き、すぐに安全装置を手順通り外し、点火した。


 そして、幾多の後ろで発破音と共に橋が一度だけ隆起して、瓦礫の崩れる音を伴いながら一部だけ波間の渦の中に消えていった。


 距離にしてみれば約10メートル、ムントの能力をフルに生かしても届くかどうかの長さだ。


 川に阻まれてしまい、どうやらムントに失敗の公算を考える程度の理性は残っているらしく。心残りな視線を残しつつも、あっさりと向きを変えて白い土煙の中へ、幾多たちの視界から消えた。


「おい、幾多」


 無事か。やったな。ともとれるタブチの声は、次の言葉を出さず。満面の笑みで助け起こす手とサムズアップの手を見せた。


 幾多は疲れがドッと出るのを感じつつも、これまでに散ったコミューンの人間や同僚たちのことを思うと、彼らの無念や悲願を晴らしてやれたことに胸をすく、感慨深さを覚えた。


 それに失ったものばかりではなく、コミューン達の居住地とついでに会社の活動圏も守れた。命と等価とは言い難いが、これ以上無為なことで命が奪われる可能性は少なくとも減っていったはずだ。


 幾多はタブチの手を握り、喜びを分かち合った。


 だが、それも束の間だった。


 最初に気づけたのは幾多だった。


「タブチ、避けろ!」


 タブチの後ろからいつの間にか、ミタカも気づく前にヒトガタの感染者に後ろを取られていた。


 爆破の影響で耳鳴りがし、視線も北に取られていたため、南側から来たであろう感染者に幾多以外誰にも気づけずにいたのだ。


 幾多は自分の身など気にも留めず、タブチを横に突き飛ばした。


 次の瞬間、幾多はわき腹に大きな衝撃を受け、自分の身体が紙のように吹き飛ばされるところまで見て、意識が遠のくのを感じた。

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