奈美ゲーションシステム
橙 suzukake
其の壱「出勤前」
今朝、こんなにも職場に行きたくないのは、冬の冷え込みのせいではなく、顔の髭を剃る時間がなかったせいでも、昨日の夕食に出た魚の小骨がまだ喉に引っかかっているせいでもなく、やらなければならない仕事にどうしても手が出ずにずっと先送りにしてきて、ここに来ていよいよ待ったなしの段階に入ってきたからだった。
雨なのかみぞれなのかわからないような冷たい飛沫がアパートの階段に吹き込んでくる中、下りにもかかわらず足取りは重く、車の中に入ってもすぐにエンジンを掛けることができなかった。
煙草に火を点けて、明らかにみぞれだとわかる様をウインドウガラス越しに少しの間見ていたけど、その状況にも耐えかねてしまって思わずエンジンキーを回した。そして、唾を吐かれたようなみぞれの跡をワイパーで振り払っていつも通りに車を道路に送り込んだ。
決まっていつも赤信号の最初の交差点も、今日に限って青信号に変わったばかりで、いつも通りに左ウインカーを点滅させて次の交差点の信号待ちをする車の列の最後尾に着いた。
♪『約700m先の交差点を左方向です。セブンイレブンが目印です』
突然、車のナビがそう発声した。いつもの職場に行くのに俺はナビで目的地までの道順を教えてもらう設定になんかしていないから現在地を表す地図を見ながらその声に動揺したけど、信号待ちの前の車が動き出したからアクセルを踏んだ。
♪『約300m先の交差点を左方向です。セブンイレブンが目印です』
“はあ?”
咄嗟に画面を見たけど、特にいつもと変わったところもなく現在地を走る俺の車を表した赤い三角形が地図上をゆっくり前に進んでいた。
♪『まもなく左方向です。セブンイレブンが目印です』
「何言ってんの?お前!」
咄嗟に声が出てしまった。
♪『左です』
俺は、ナビに左折を指示された交差点を構わずに直進して、画面を見た。画面は、しばらく交差点付近の拡大図になっていたけど、気を取り直したように元の100mスケールの地図に変わった。
♪『約300m先の交差点を左方向です』
「おいおい!なんなんだよ!」
俺は、画面に向って今度は大きな声を上げた。
すると、画面にいつもと違う変化があることに気がついた。このナビは、雨の日も雪の日も日中は画面上空が青空になっているのだけれど、今は真っ暗な雲に空全体が覆われていた。
♪『まもなく左方向です。今日は仕事に行かなくてもいいから左に曲がってください』
「え!?ええ!?」
♪『左です』
俺は、ある種の恐怖に駆られて左折のウインカーも出さずに交差点を左折してしまった。
画面は、交差点の拡大図の絵から元の100mスケールの地図に変わり、さっきまで真っ黒な雲に覆われていた空が、見る見るうちに雲が晴れ渡っていって青空が出てきた。
♪『このまま しばらく道なりです』
ナビの発声と同じに画面上にも【しばらく道なりです】の文字が映った。
「お前、何?」
と、妙に思いながらも俺が話しかけると、
♪「わたしは、ナミです。奈良県の奈に、美しいと書きます」
て、答えが返ってきたからびっくりした。
でも、それ以上は話さなかったので、こっちも黙っていたのだけれど、ついにその状況に耐えられなくなって俺のほうから口を開いた。
「奈美…って… まさか、それでナビゲーションシステムって言うんじゃないよね」
♪『いいえ、ナビゲーションシステムではなく、ナミゲーションシステムです』
“???”
♪『このまましばらく道なりですから、橙さんはこの曲でも聴いてください』
「橙さんって、なんでお前…」
♪『わたしは、“お前”ではありません。奈美です』
何も操作していないのに、スピーカーから曲が流れてきた。
♪斉藤和義 「進めなまけもの」
https://www.youtube.com/watch?v=DFDl7B7JrGI
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます