断片集

綿貫むじな

ひとのこころ


夜が来る。

誰も居ない、誰にも知られない、そんな時が。

私の中は空虚で何もない。

誰にもわからない、誰にも知られない、誰もわかろうとしない。

所詮はそういう物なんだ。


一人ひとりの心の中を、頭の中を覗こうとしたこともある。

だけどそれらはうつろう水の流れのように曖昧で、めまぐるしく変わっていくもので。

心は鏡のように映し出されると誰かが言っていたような気がするけど、私にはそういう風には見えなかった。

人の心はわからない。

私の心は空っぽで、だからこそ何物も映し出すとおばあちゃんは言っていた。

そんな事ないって私は否定したかった。

でもおばあちゃんはすべてを見透かしていたんだ。

もうこの世にはいないおばあちゃん。あなたは果たして人の心が見えていたのですか?


夜の最中に私は歩く。

道を歩く。道なき道を。山の中を。そうして草を木をかき分けて、やがて私は頂上に進む。

月明りが照らしている。私を、木々を、そして山頂を。

どうしてもわからない事があったらとりあえず山に登っていくことにしていた。

そうすれば雑念を頭の中から追い出せて、私の心は透き通った水面のようにクリアになっていく。沈殿した澱を濾して、私の頭を無にできる気がした。

それはただ疲れているから思考にまで回す余裕がないだけというのはわかっている。

仮初でも私の思考を、心をなくしたかった。

考える事がわずらわしくて、人の事を想うのがわずらわしくて、ただただ私は人間である事が嫌になっていた。


ひとのこころがわからない。

ひとの考えている事がわからない。

わたしはどうしてあなたたちのような人間になれなかったのでしょう。

ひとのこころを、ひとがひとであるための、ただひとつの在り様というものをわたしはどうしても理解できない。

わたしはそれでも生きていかなければいけないのですか? 誰か教えてくれませんか。

そんなものを問いかけたとて、誰もおそらく考えたことはないのです。

わたしは、わたしは、人で在る事に疲れました。

ひとの世界の最中にあって、わたしはただ、流されるままに生きていて。

周囲のひとが交わっていくのを、呆然と見つめているだけなのです。

ようやく流れの中で中洲を見つけて、わたしはそこでどうにか息をついているだけで、全然流れに乗れていません。

ああ、ひととは一体何なんだろう?

手を伸ばしても、声を上げてもきっとわたしにはわからない。


山の頂上についた私は、雲一つない月明りの空を見上げていた。

月の灯りは静かにすべてを照らしていた。

冷たい空気が肺の中を通り、私の思考は徐々に明確になっていく。

終わりはない。たぶん、私の疑問や生きづらさというものはずっと消えることがなく、一生付き合っていかなければならないものなのだと思う。

それはまるで重い荷物を背負って延々と上り坂を登っていくようなもので、息を切らして倒れようとも零れ落ちる事すらないのだと。

一息ついて、傍らに座ってしまえば二度と立ち上がる事も出来ない。

それでも月明かりだけが私のただひとつの頼り。


いつだって平等に静かに、冷たく照らしてくれるのだから。

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