有害社会

@nekonohige_37

有害社会

 煙草の害について調べると、『肺がん』や『咽頭がん』などと言った病気を始め、『悪臭』や『多額の出費』、そして『部屋がヤニで汚れる』などと、今でも多種多様な害が我先にと主張を始める。

 勿論そんな事今では誰もが知ってる情報であり、誰もが煙草と呼ばれる習慣を敵対視し、誰もが煙草を毒として認識しており、彼自身もそんな皆と同じ考えを持っている。

 煙草と言う物には害が多く、仮に人気の多い処で煙草を飲む人間が居よう物なら、あっという間に警察沙汰に発展し、後々は裁判沙汰になるだろう。

 しかし、今とは違い大昔は小さな子供でも煙草を嗜んでいた。

 まだお酒と言う文化が一般的だった頃、長年親しんできた飲酒を辞めた叔父の口からそんな話を聞いた時、長谷川 彩雲(はせがわ さいうん)は幼いながらに驚いた。

 聞くだけではにわかに信じられない事実、だがよくよく考えたらそれは当然な事なのだ。

 今よりもずっと昔は、煙草やお酒がどれだけ体に害を与えるかなど検討が付いておらず、煙草を、ましてや未成年がそんな物を嗜むと、一体どれだけの悪影響がその体にあるかなど判っていなかったのだ。

 だから、皆が煙草の匂いを不快に感じる事はあっても、口煩く説教を垂れる様な事は無く、誰でも好き勝手に買う事が出来、道端で紫煙を吐く事は当たり前だったのだ。

 今となってはそんな煙草を嗜む人間は居なく、最近では煙草を直接見た人間の数は年々減っているとニュースで放送する様になった昨今、そんな話もまた信じられなくなっている。

 勿論、煙草の存在が敵対視される事は前々からあった話なのだが、煙草と言う習慣を誰もが辞める様になったのは割と最近の事である。

 元々、煙草の害に上げられる様にこの手の嗜好品は中毒性があり、辞めようと思っても直ぐに辞められる物では無く、直ぐに人が命を落とす程の害では無かった為に、国は煙草の害を、過剰な増税と引き換えに目を瞑っていたのだ。

 そんな曖昧な煙草と人の関係は、ある物の発明によってきっぱりと切られた。

 その偉大な発明こそ、今彩雲の手の中で転がっている一錠のタブレットだ。

 名前は『オキシ』、空気中の二割を占める酸素(oxygen)の名を借りただけあって、酸素の次位に人間にとって重要でありそこにある事が当たり前になった、『合法麻薬』がその正体である。

 「要る?」

 「んあ? ああ、じゃあ貰うかな」

 彩雲は手の中にあった一錠を口に含むと、左手で握っていた別の錠剤が詰まった箱を友人である佐久間 薫(さくま かおる)に手渡し、座り慣れた椅子へと腰掛ける。

 大抵の薬は、どんな物でも何かしら体の不調を緩和もしくは治療する為に使われるのだが、この錠剤に関しては医療目的では使われず、ただの嗜好品として使われるのがその薬の一番の特徴だろう。

 人体に対して深刻な害があると判ってもなお、ロープで縛り上げられない限り手が伸びてしまう違法な麻薬とは違い、このオキシに関しては、一切の害、そして中毒性が無いと証明されている。

 その特徴を生かし、国はこのオキシに限って大々的に流通を支援した。

 目的は簡単な事だ、違法かつ体に害のある麻薬を辞めてくれないのなら、麻薬の方の害を無くしてしまえば良い。

 その目論見通り、赤ん坊から老人まで誰もが安心して使える麻薬は瞬く間に人々の日常に取り込まれ、ごく普通の嗜好品として誰もが嗜む物になり、それまで暗黙の了解で存在が認められていた煙草は、あっという間に違法指定を食らい全国的に販売が中止された。

 「にしても見てみろよこれ」

 場所は薫の自宅だ。

 元々凝り性なのか、家の中の家具は全て木製の物で揃えられ、窓から火の光が差し込むこの部屋の空気は、肺いっぱいに吸い込むとほんのりとコーヒーの匂いがする。

 そんな部屋の壁にかけられたモニターを指さし、薫は呆れた様に今話題になっている事件を話題に振る。

 「今時良く手に入れたな……」

 彩雲は画面に表示されたテロップを目で追い呆れた様に呟いた後、口の中で転がしていた錠剤を噛み砕く。

 「まぁ俺たちも似たようなものかもしれんけどよ、まぁ何が好きでアルコールなんてもの口にするのかねぇ。

 それならオキシを食った方が気持ちよくなれるし、美味い物飲みたきゃ適当にジュースでも買った方がマシだろ」

 薫は一旦自分の事を棚に上げると、番組内でタレントが口にしたのと殆ど同じ意味合いの言葉を呟き、硬く癖のある前髪を小さく掻く。

 「どうなんだろうね、俺が小さい頃っていうか、規制が始まる前は叔父が良く飲んでたけどね……まぁ何で飲んでたかを聞くにしても、叔父はもう死んでるし。

 親父は一度も酒を飲んだ事が無いから聞き様も無いし……」

 煙草の害が大々的に謳われ、誰もが煙草では無くオキシを嗜む様になって間もなく、国は煙草の存在を正式に毒物として認定し、一般での販売を禁止した。

 その頃には殆どの人間は煙草を辞め、わざわざ高い金を払って草を燃やすのではなく、子供の小遣いでも沢山買える麻薬を安心して嗜む様になっていた、だからこそ社会にとって、その一連の出来事は大した問題にもならなかった。

 そして、そんな煙草の存在が世間から忘れられると、今度はお酒の存在が敵対視される様になり、あっと言う間にアルコールは未成年で無くとも誰もが口にしてはいけない毒物として扱わる。

 今となっては所持事態が違法な物となってるとは言え、わざわざそんなものを口にする必要を感じない彼らにとって、そんなものが未だに存在する事の方が驚きだった様だ。

 「まぁあんな薬品口にして美味しいって思う連中が居たのは判るけどよ。

 それでもやっぱり湧かんねぇよな、なんでわざわざ気分が悪くなるもの飲むんだよ」

 そんな薫の一言を補足する様に、ぴったりなタイミングで画面にアルコールの害の一覧表が表示される。

 「『頭痛』『吐き気』『物忘れ』『高血圧』『依存症』……その他諸々。

 まぁこれだけあるって判ってて、わざわざ口にする人の感覚は良く判らないね」

 彩雲は小さく同意をすると、持っていたオキシを更に一錠口へと放り込み、奥歯で噛み砕いてから飲み込む。

 確かにアルコールにも気分高揚やストレス解消などと言った効果があり、今しがた口にしたオキシと同様の使い道が出来無くは無い。

 そして、オキシが無かった頃、この様な物が出回っていたのにも納得は出来る。

 だが、嗜好品としてオキシが一般的になった昨今においては、わざわざこんな毒性に目を瞑ってまで口にするメリットなど何処にも無いのだ。

 それなのに、未だに何処か遠い国では密造酒が生まれ、どういう経路を通ってるのかは不明だが、こうして毎年の様にアルコールの摘発がニュースに上げられる。

 「良く判らないよな、目に見えて害があると判ってるのに、こんなものに未だにすがるなんて」

 「まぁね……」

 薫はテレビに向いていた視線を落とすと、机に置かれていたビスケットに手を伸ばして口へ運び、その少し後に彩雲に対してもそれを食べる様に催促する。

 曖昧に彼の言葉に返事をした彩雲は、呆れたよ様子で溜息を一つ吐くと、目の前に置かれたそれを眺めてから鼻を鳴らす。

 透明な蓋付きの容器に詰められたそれは、あと少しの量しか無いインスタントコーヒーだった。

 一応除湿をしっかりと行ってはいたのだが、あまりに長い時間保存されてい為か、幾つかの大きな塊を形成している。

 それを器ごと振って細かく砕いて再度量を確認した彩雲は、テレビに表示された文字を目で追い一際大きく溜息を吐いた。

 「本当に違法になる日が来るとは思ってもいなかった」

 「……ああ確かに」

 マグカップが表示された画面には、大きな文字で『カフェイン違法化まであと一日』と表示されている。

 「前々からカフェインには毒性があるなんて言われてはいたけどよ、やっぱいざ言われてみると納得できないよな」

 小さく溜息を吐きつつ自分の背に立っていた食器棚を開き、薫はそんな事を口ずさむ。

 カフェインの持つ毒性が話題になったのは、アルコールが違法化されてから間もない頃だった。

 『睡眠障害』『免疫力の低下』『色素の沈着』などを引き起こし、成人男性の致死量は約十二グラムと言われるその毒物は、様々な食品に含まれていた。

 しかし、今時そんな物よりも、安価で手に入るジュースとオキシを口にした方がよっぽど楽しめる為大多数の人が見向きもしなくなり、人によってはコーヒーの匂いを嗅ぐだけで不快な表情を作る事も多くなった。

 「まぁ、そんな事愚痴っても、今時共感してくれる人なんていねぇし、明日までこれを持ってたら俺達逮捕されちまうかもしれないし――」

 薫はぶつぶつと用意されていた言葉を垂れ流すと、手に持っていたマグカップ二つを机に置く。

 「――だから、とりあえず飲んじまおうぜ、最後の一杯」

 その一言に彩雲は笑って答えると、持っていた容器の蓋を開け、丁度ティースプーン二杯分だったそれを互いのカップに流し込む。

 封を開けた途端室内に香ばしいコーヒー豆の匂いが広がり、彩雲の鼻孔をくすぐる。

 勿論これはちゃんとした豆では無く、インスタントと言う紛い物である事は良く知ってる。

 だが、今時普通に豆を手に入れることなど不可能であり、こうしてとっくに賞味期限が切れたインスタントですら、手に入れるのに結構な時間と金を消費したのだ。

 それだけ、コーヒーは貴重な存在となった。

 いいや、正確にはコーヒーは必要とされない存在になったのだ、だからこそ一部のマニアの間でしか出回らなくなり、大勢の人間からは『一部に人間が進んで接種したがる毒』といった散々な認識しかされなくなったのだ。

 しかし、彩雲と薫はそんなコーヒーが好きだった。

 「お湯は……湧いてるか」

 薫は鼻歌交じりにケトルの中で沸騰していたお湯をカップに注ぐと、かき混ぜる為にティースプーンを器に落とす。

 その時、カップの縁から中身が少しだけ溢れ、木目の浮いた机に小さな地図を描く。

 「雑だな……」

 小さく愚痴りつつも、手近にあったティッシュでそれを拭きとると、茶色い染みが出来たティッシュを眺める彩雲の脳裏に、少しだけ変わった考えがよぎった。

 元々木目を生かして作られた机の色は、コーヒーの色と近い。

 だから、多少それがこぼれたところで、ぱっと見は判らない。

 「あんまし変わらないな……」

 拭きとった個所を見るが、あまり見た目が変わった気がしない、だが、真っ白なティッシュは茶色く染まり、この上なくその机が汚れていたのだと証明する。

 しかし、それは本当に汚れていたと言えるのだろうか?

 わざわざ判り易くしなければ気がつかないほどの汚れ、それを落とす理由が何処にあるのだろうか?

 「何て言うか――」

 それは、今現在の社会の仕組みと似ている気がした。

 いじめっ子が僅かな違いに目くじらを立て、一人の子供を執拗にいじめる事で自分は正常だと思いこもうとする様に。

 煙草も酒も禁止され、目につく毒物が見当たらなくなった人たちは、とりあえず叩ける物を探しているのだ。

 わざわざ気がつかなくても良い害を根掘り葉掘り探し、少しでも問題点があれば大声で叫びそれを排除する。

 大勢の人は、体にとって悪い物を一方的に叩き、自分は正常だと、自分の体は健康であると安心する為こんな行動を取っている、そんな気がしていた。

 無論そんな事をすれば普通は自分の首を絞めるのだが、オキシがそのリスクを全て肩代わりしてくれた。

 一度規制が入れば楽しめない嗜好品を辞めたところで安全であると証明されている優れた嗜好品があるのなら、酒だろうが煙草だろうが、ましてやコーヒーだろうが辞めても構わない。

 そう言う事なのだろうが、いざその結果として目の前にある飲み物が飲めなくなるのは多少気に病む。

 「んじゃ飲みますか!」

 「ん……」

 小さく頷き、彩雲はカップに手を付ける。

 確かにこれは無くても不便をする事の無い嗜好品だ、これが無いからと言え誰かが死ぬ訳でも無い。

 その反面、カフェインには毒性がある。

 だったら無くなってしまった方が幾分ましだ、それが存在しなくなる事で、少しでも誰かの気が満たされるのなら。

 結局はそう言う事なのだろう。

 彩雲は鼻から湯気を吸い込むと、目を閉じでカップの中身を口へと含む。

 ちゃんとした豆から作ったコーヒーは大層美味しかったと聞く、だが今時手に入るのはこの程度の安っぽく簡略化された類似品だけであり、彩雲自身これ以上の味の物も知らない。

 出来ればちゃんとしたものを飲みたいとも思っていたのだが、それももう叶わない夢だろう。

 これだって後十数時間の後には違法な存在になるのだ。

 舌の上を転がるそれは、やっぱり苦かった。

 自分が毒物であると証明してる様にそれは苦くて黒い、だけど何処か癖になるその味を忘れたくないと、彩雲はゆっくり飲みこみ代わりに鼻から息を吐く。

 「やっぱり変な味だよな」

 「うん」

 薫の言った感想は率直な物だったが、やはり的確だった。

 一言で説明するには難しい匂いと味、だけど、妙に落ち着くそれはもうすぐ世界から消えて無くなる。

 そう思うと、胸の奥がずきりと痛んだ。

 「あ! そういやこれももうすぐか」

 不意に薫は声を上げ、画面を指さす。

 その先には今度はコーヒーと同じ様に黒く、タイル張りの床の様に筋の入った板が映し出されていた。

 「ああ……そういやチョコレートももうすぐ規制がかかるんだっけ」

 「ちょっと今のうちに買っといてみるかな」

 薫はそう言うと、携帯端末を取り出し、もうすぐ規制がかかって販売中止になるそれを買い求める為、ネットサーフィンを始める。

 「また試食会やるの?」

 「勿論!」

 「さいで……」

 呆れつつも、答えた彩雲はチョコレートの害について考える。

 「『肥満』や『虫歯』、『高血糖』の原因だもんね確か……」

 「それだけじゃ無いだろ? 二十年間保存されたチョコには毒性があって腹下すらしいぞ」

 「それは大変だ」

 そう聞くと確かにチョコレートにも毒があるのだろう、勿論僅かな毒だ。

 しかし、体にとって有害なの物はとことん排除する事で成り立っているこの社会では、チョコの存在もまた危険な物なのだろう。

 だが、そんな手当たり次第に色々な物を害とみなす今の社会は、本当に健全な物なのだろうか?

 「そういや……」

 彩雲は上着から再びオキシを取り出すと、箱の側面に書かれている謳い文句を目で追い、小さく鼻を鳴らす。

 『子供から老人まで安心して使える』、その売り言葉の通り、誰もがおやつ代わりに、そして気分転換にと楽しむこの合法麻薬に今のところ害は見当たっていない。

 だが、様々な有害を排除しているこの世界が、思い当る全ての有害を取り除いた先で、このオキシを有害であるとみなさない可能性は何処にもないのだ。

 突然何かの切っ掛けでオキシが有害物質だとみなされた時、社会はどうなるのだろうか?

 有害な存在に依存しきった社会は、それこそ有害そのものであり、自分が知らぬ間に汚れきってたと知った社会は次にどんな対策を行うのだろうか?

 「まるで有害社会だな……」

 「急に笑ってなんだよ気持ち悪いな」

 小さくそう呟いた彩雲に軽く嫌みを吐くと、再び薫はオークションで板チョコを落札する作業に勤しみ。

 彩雲はカップの中のコーヒーを啜り、もうすぐ違法になるその味覚に舌鼓を打つのだった。

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