穏やかな文月

@nekonohige_37

穏やかな文月

 久しぶりにその場所へ足を運んだ理由、それが何かと問われると自分では上手く言葉に出来ない。

 おそらくこれはただの気まぐれやひょんな風の吹き回し、そう例えるのが正解なのだろう、少なくとも自分は今現在、特別な理由もなく懐かしい場所に立っている。

 埃とカビの匂いが染みついた一角、そこは自分が根城にしているアパートの裏、非常階段の真下に位置する小さなスペースだ。

 理由がなければ足を踏み入れず、そもそも考え付く限りではわざわざ足を運ぶ理由すら浮かばないその空間は、俗に言う風変わりな自分にとっては少しだけ馴染みの場所だった。

 この場所に初めて足を踏み入れたのは今から5~6年前の夏、丁度梅雨が明け、太陽が本格的に仕事を始めた今日とよく似た天気の日だった。

 余剰な舗装によって地面はアスファルトに覆われ、その輻射熱で道路は灼熱地獄へと化け、ちょっと遠くを見ればやかましい蝉の鳴き声をバックに自転車を漕ぐ学生の姿が蜃気楼で揺れる。

 『猛暑日です』と、飽き飽きする程同じ言葉を吐くテレビの電源を落とし、自分は煙草を飲む為この場所へ足を運んだ。

 煙草なんて自分の部屋で窘め、そう今では思うのだが、当時の自分にはそんな考えはなく『如何にして部屋に煙草の匂いを付けずにニコチンを補給できるか』という安っぽい目標の下、雨風を凌げ、誰からも恨まれる事の無いこの場所を喫煙所として使ったのだ。

 当時の自分の読みとしてこの判断は正解だったらしく、思いの他この場所は風通し良く、尚且つ頭上を走る非常階段のお陰で日の光は遮られ、隣家の垣根の副作用で煙草を吸う自分の姿は周りから隠れる等々、予想以上に高い性能を発揮したその喫煙所だが、実はもう一つ不思議な付加価値を教えてくれた。

 それが、その喫煙所に居座っている『何か』の存在だ。

 なぜ呼び名が『何か』なのか? それは簡単である、自分自身その場所に居たそれが何なのかわからず、むしろ本当に居たのかすらわからないのだ。

 だが少なくとも、その場所で煙草を吸っていると見えない何かが目の前を横切ったかの如く紫煙が突然バッサリと途切れる事があったのだ。

 最初、それは非常階段下という特殊な形状故に発生したつむじ風の仕業だと思ったのだが、煙が途切れる瞬間は決まって風が吹かない暑苦しい日で、煙が途切れた場所に立っていても一切の風が吹く事は無かった。

 それでも毎日煙草を吸う度、一本の煙草を吸うたかだか数分の間にその現象は数回発生した。

 ある時は勢い良く、ある時はゆっくりと明らかに質量のある何かが煙の動線を横切り、長く伸びていた紫煙の尾を途切れさせる。

 今日の様に暑苦しく、煙草のフィルターがポケットの湿気でよれる夏の日も。

 騒がしかった木々が茶色く染まり、一斉に森が衣替えを始める秋も

 凍てつく寒さの中、乾いた煙草が唇に張り付く寒い冬も。

 やたらと目新しいランドセルを背負った子供が桜の木の下を走る春先も。

 どんな時だって、その存在は自分の吐いた煙を途切れさせては己の存在を主張していた。

 何をするでもなく、傍に居る自分に悪さをするでも、あるいは自分の前から必死に姿を隠すでもなく、ただ見えない何かは煙の前を横切り、そして見えない体をどこかへと運ぶ。

 足音も、匂いも気配すら感じさせないそれは、いつだってあの場所に居て、たった一本の煙草をするごくわずかな間、自分はそいつと空間と時間を共有していた。

 だが、ある日を境に自分はその場所へと足を運ばなくなった。

 それは姿の見えない何かに対して恐怖心を抱いたでも、飽きたでもなく、ただ『煙草を吸わなくなった』という簡単なものではあるのだが。

 吸い始めた時と同じ位突然の思い付きで自分は禁煙を始め、今の今までこの場所へと足を踏み入れずにいたのだ。

 「居るのか?」

 数年ぶりに足を踏み入れたその一角で、そんな言葉を吐いた自分が恥ずかしく思える。

 声を投げかけたところでそいつは反応をしないのだ、そうはわかっていても、喫煙の習慣をやめてしまった自分にそいつの存在を知る術はどこにも無い。

 勿論、その何かがそこに居ないと証明する術も無い訳だが――

 いずれにせよ、自分が足繁く通っていた其の空間は、今もぽっかりと口を開けたまま誰かが紫煙を燻らせるその瞬間を待っている様だった。

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