雨色のパンプス

三枝 早苗

第1話 プロポーズ

 彼女は、悩んでいた。憔悴するほどではないにせよ、今までにないほど真剣に悩んでいた。

 その日は、朝からずっとしとしとと雨が降っていることを除けば、普段と何ら変わらない静かな木曜日であった。

 彼女は、バイト先のカフェの、黒く、ボーイッシュなエプロン﹙それは、マスターの亡き息子に宛てられたものだったが彼女はそれを身に付けることが好きだった﹚の紐を腰のあたりで丁寧に結び、空っぽになったマグカップと、パンかなにかのこまがりののったお皿を運びながら、昨夜、去り際に交わした口づけを思い出していた。

 和食レストランの個室で、彼女は、目の前に座る男を見ていた。

 男は、グレーのスーツをピッと整えて、カバンを自分の方に寄せると、湯呑みに入ったお茶をぐいっと飲みほした。ちらりと見えた手首に光るシンプルなデザインの腕時計は、誰が見ても高級品であることがわかるようなもので、そのことが彼女をふと、虚しい気持ちにさせた。

 男が立ち上がると、彼女もそれに続くように席を立った。

 店を出ると、もう外は暗くなっていて、赤っぽい色の街灯が暗闇をぼかしながらポツポツと浮かんでいた。

 街灯に照らされてテラテラと光る彼女のエナメルの靴が進むと、クシャクシャとかわいた落ち葉の音がなった。

「俺と、結婚してくれませんか?」

男の声に、彼女は首をかしげた。首の後ろを掻く腕の時計が鈍い色を放っていた。男の現実感のある首の筋を見ながら、彼女は、憧れのその男の方に手を伸ばした。彼女の手が男に触れる前に、男はその華奢な手首を掴むと、ずい、と一歩進み出て、彼女の唇を塞ぐように、口付けをした。

 男は、ヘンジハイツデモイイカラと言った。


 「すみませーん」

客の声に、彼女は急速に現実へ引き戻されるのを感じながら、はーい、と返事をした。人の少ない狭い店内にその声はよく響いた。

 コーヒーの匂いを豊富に含んだ湯気を吸い込んだ彼女に、マスターは目を向けた。

「湯気が好きかね」

 彼女は、質問の意味を図りかねるとでも言うように、首をかしげながらマスターを見た。

 マスターは、鼻の下に、ちょこんと灰色の髭を生やした初老の男で、きれいにオールバックに整えた髪を自慢に思っていた。

「コーヒー豆を掴んで嗅いでも誰も気づくまい。とくに、今日のような静かな日は」

マスターは、優しそうな目にやんちゃな光を含みながら目を細めた。

「私、湯気が好きですよ。現実味がなくて創太さんを思い出すから」

「創太が死んでからもう、六年だ。そろそろ幻想を終わらせるべきではないかね?」

「別に、未だに創太さんが好きなわけではないんです。ただ、現実味のあるものが嫌いなんです」

彼女は、言いながら、スーツの男の現実味のある首の筋を思い出していた。

マスターは、コーヒーの粉をフィルタに入れて、マグカップにセットした。

「では、フィルタにお湯を注ぐのも嫌かね」

彼女は、マスターがお湯を注ぐのを見ると、いいえ、と答えながら中が覗きこめるくらいの位置に移動した。粉は、じわじわと浮き上がった。

「では、コーヒーの湯気をつくっている私は、現実かね」

マスターは、興味深い、とでもいうかのように、彼女の目を見つめた。

「私にとって、唯一の、好きだと言える現実だと思います」

マスターは、驚いた顔をしたが、すぐに元のイタズラっぽさの混ざる笑顔を浮かべた。

「では、君は私のことは認めてくれていると」

はぁ、と彼の冗談を受け流しながら

彼女は、フィルターのなかのコーヒーのかさが減るのをじっと見ていた。マスターは、ふと、真剣な表情になった。

「君には、嫌われているかと思ったよ。恋路を邪魔したのも、奪ったのも私だからな」

彼女は、マスターに向き直った。

「私は、マスターのことが好きですよ。湯気の次くらいには」

一瞬の沈黙のあと、ふっと、空気が緩み、マスターはワハハハ、と豪快に笑いだした。

「そうかそうか、それは嬉しい!」

マスターは、目を擦りながら、たまに、君が幼い子に思える、と言った。その言い方に、嫌味な感じはなく、むしろ愉快そうな感じがあった。

 「君にあげよう。触れた瞬間に消えてしまうかもしれないが......」

彼女は、差し出されたマグカップに、ゆっくりと手をのばし、注意深くそれに触った。

「消えませんでした」

彼女は、マグカップを満たす液体を見ていた。それは、カフェの黄色いライトを吸い込んで、きらきらと金色っぽく光っていた。

「コーヒーの味がします」

彼女の目から涙がこぼれた。

「どうして、今まで飲まなかったんでしょうかね?」


 「ほんと、それで私、ホッとしたの。マスターの淹れるコーヒーの味が変わってなくて」

私の目の前に座る女、もとい 水野 華子 は、ココアの入ったコップを包むようにして持ち上げながら言った。

「ちょっと待ってよ。わからない」

私は、全てを語って満足だ、とでも言いそうな顔をした華子にあわてて言った。

「わからないって何が?」

「いや、待ってよ。そのプロポーズしてくれた人ってなに?私初めて知ったんだけど?!」

「それって、言わなくちゃいけないこと?」

華子は軽くそう言った。今日、火曜日だよね? と、確認するくらいの軽さで。

「ううん、べっつに。私が気になっただけよ」

私は、キョトンとした顔の華子に言った。

「そう。なら、話すけどーーその人のこと私、好きだったのよ。スーツがよく似合う人でね、私のことあなたって呼ぶの。彼、言葉はそんなに丁寧じゃないのよ」

華子は、ふんわりと優しく包み込むような調子でその人のことを話した。

「なら、よかったじゃない?」

「それ......がダメなのよ」

「どうして?」

華子は、ふっと、顔を近づけると、すごく真剣な顔をして、人差し指をたて、それを唇に当てた。

「私ね、マスターのコーヒーの中には、まだ、創太さんがいるんだって安心しちゃったのよ」

「創太が?」

「そう。知ってた?あそこのオリジナルブレンドってね、創太さん発案なのよ」

私は、あなたまだ創太が好きなの? という言葉をすんでのところで飲み込み、そう、と軽く受け流すよう努力した。

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