あたま山、あるいはサクランボの乙女
雷田(らいた)
あたま山、あるいはサクランボの乙女
"それ"に気がついたのは会社の昼休みだった。何気なく前髪をかきあげた際に、頭頂部にぷくりと盛り上がる部分があったのだ。私は人差し指の腹で二度三度とその上を撫でてみた。パール大の、しこりというには少し柔らかなでっぱり。
「うそ、頭にニキビが出来たみたい」
目の前でカップラーメンを啜っていた同期のナオミが顔を上げる。
「それ、痛いんじゃない?」
ナオミはいつもの低く抑揚の無い声で尋ねた。
「ちょっと痛い……」
そっとしときなよ、と言うと、ナオミはまた湯気を顔いっぱいに浴びながらカップラーメンを啜り始めた。ナオミの昼食はカップラーメンとスープはるさめとインスタント麻婆豆腐のローテーションだ。暖かい季節になると、麻婆豆腐が菓子パンかおにぎりに変わる。私は冷めたサンドイッチを齧りながら、今日の午後をどうやってやり過ごそうか思案した。左手に握ったスマートフォンで、ミュージカル俳優のアガツマユウヤさんのブログをチェックする。
何年も前から追いかけているけれど、アガツマさんは今やミュージカル界のスターだ。甘い歌声と、長身をめいっぱい使った迫力あるダンスが彼の魅力。落ち着いていて大人っぽいのに、笑うと漫画みたいに下まぶたがきゅっとあがるのが可愛い。読書家で、読んだ本の感想をブログにアップしているところも、ブログを書くときに使う顔文字が妙に垢抜けないところも好き。私はアガツマさんがこの世にふりまく明かりに少しでも触れたくて生きている。
"それ"のことを思い出したのは風呂に入っている時だった。髪を洗いながら、また指先にあの出来物が引っかかるのを感じた。おそるおそる触れてみると、昼間より固くなったようだ。心なしか、大きくなっているような気もする。シャンプーが沁みないことを祈りながら、いつもより少し軽めに髪を洗った。風呂から上がってしっかりとタオルドライをしたあと、ヘアオイルを塗り込む。顔に化粧水と乳液とクリームを塗り、手足にボディミルクを刷り込み、ドライヤーで髪を乾かしストレッチをする。風呂上がりにはやることが多すぎる。
次の日、間違いなくしこりは大きくなっていた。昼休みにスマホで「頭 しこり」を検索しながら、ナオミに画面を見せる。
「ねえこれ、ヤバくない? ガンの可能性とか……この歳でガンなんて、冗談じゃない!」
私は「家庭の医学」を読むと、すべてが自分に当てはまっていると思うタイプの人間だ。
「いいから、病院に行きなってば。ネットで病気の診断をしようとするのはバカのやることだよ。ゴミみたいな情報しか載ってないんだから」
ナオミは若者のくせに、このSNS時代においてインターネット懐疑派だ。彼女の携帯は知り合いとショートメールをやりとりするためだけにある。インスタもフェイスブックもツイッターもやらないなんて正気の沙汰じゃないと思うけれど、今回は彼女の主張が正しい。私はスマートフォンで職場近くの皮膚科を調べると、地図をスクショした。
結局、その日は病院には行けなかった。とてもじゃないが仕事が終わらなかったからだ。チームの全員が徹夜覚悟で残業してるというのに、お先に失礼しますなんて言える雰囲気じゃなかった。頭の先に謎のできものがあるだけで、体調が悪いわけでもないし。寝る前に、ダメ元でニキビの薬を塗ってみた。この大きさはどう考えたってニキビじゃないけれど、気休めだ。
そうして次の日、とうとう頭の上に木が生えた。
朝になって目が覚めると、どうも近くでカサカサいうので変だと思ったのだ。最初はゴキブリが現れたのかと思って狼狽した。チラシを丸めて退治しようと部屋の姿見の前を横切ったとき、頭の上に、何かが広がっていることに気が付いた。私は呆気にとられてしまい、普段化粧をする時間の何倍も、じっと姿見の中を覗き込んでいた。
その木は私の頭の上に根を張り、出来たばかりの枝を懸命に伸ばしていた。生まれたばかりの生命の美しさを湛えたそれに、私は状況の異常さも忘れて感心してしまった。
実を言うと、思い当る原因は1つあった。4日前、サクランボの種を飲み込んだのだ。昼食を食べていたらお客さんからの電話で呼び出されて、慌てて種と一緒にサクランボを飲み込んでしまった。どうもその後からお腹がムズムズすると思っていたのだが、そうかこれだったのか。ということは、これは桜の木なのだ。こんなに寒い季節に出て来たので、かわいそうに木には花も葉もなかった。生まれたばかりの裸の木は、あまりにも寄る辺なさそうに見えた。
私は手帳を引っ張り出すと、今日の予定を確認した。幸いにも会議や打ち合わせは入っていない。今日休んでも書類仕事が遅れるだけで、後々カバーできるだろう。私はうずくまり、膝でお腹を押しつぶしてできるかぎり体調の悪そうな声を作った。電話の呼び出し音を聞きながら、上司は何コール目で出るだろうかとぼんやり考えた。1回、2回、3回。ちょうど3コール目で、上司の不機嫌な声が聞こえた。
「熱が出たので今日は休みます」
電話の向こうの上司はたいして興味も無さそうにああそう、と言うと電話を切った。お大事に、の一言くらいあってもいいのに、と思う。
スマホを片手に、同じ症例の人がいないかどうか、どの病院に行くのがいいか、と検索していると、あっという間に昼になった。残念なことに、同じ症例の人は見つからなかったので、何科にいけばいいのかは皆目見当がつかなかった。おそらく皮膚科ではないのだろう。
ポン、という小気味良い音が新着メッセージを知らせる。ナオミからだ。
「イズミ、今日休みなの?」
私はスマホ中毒生活で鍛えたフリップ入力で、秒単位の返信を送る。
「そうだよ」
カメラを自撮りモードにすると、自分の頭の上を撮って写真を送る。
「これ見てよ」「どうしよう」「病院行くべき?」
私は矢継ぎ早にコメントを送ったが、ナオミの返事はない。ナオミはいつだって文字入力が遅いので(もしくは私が速すぎるのか。)私はやきもきした。結局、ナオミから返信があったのは10分ほど後だった。それほど驚いていたのか、誰かに呼ばれたのか、それとも単に彼女が文字の入力が遅いのかは分からない。
「なにそれ?」
これほど待ったにも関わらず、ナオミの反応があまりに短いので、正直なところがっかりした。私は15秒で返信を打つ。
「桜の木だと思う。どうしよう、これじゃ今週末の舞台に行けない。後ろの人の迷惑になるから」
「呆れた。まず舞台の心配?」
「だって、せっかくチケット当選したのに! けっこう競争率高かったんだよ」
「仕方ないよ、諦めな」
「二ヶ月ぶりにアガツマさんを見られると思ったのに……」
泣いている絵文字を6個並べる。こうすることによって逆に悲壮感が軽減されるから不思議だ。ナオミは「ちゃんと病院行きなよ」という言葉とともに、アヒルが「お大事に」と言っているスタンプを送ってきた。
病院、病院ね。どこに行くべきか分からない。お腹の中でサクランボが芽吹いたのだとしたら、お腹に異常があるということになる。ならば、とりあえず内科に行ってみようと思い立った。問題はどうやって外に出るかだ。いくら平日の昼間とはいえ、ここは少子高齢化待ったなしの片田舎。一歩外に出れば、ご老人がお昼の散歩に出ているだろう。人目につくことは必至だ。
何か頭の上の木を隠すものがないかとクローゼットを漁り、ニット帽をかぶってみた。だいぶ頭の長い人のように見えるが、何も無いよりはマシだ。今がニット帽の季節で本当に良かった。
病院の待合室は、常連のご老人と、風邪ひきの子どもを抱えた母親でごった返していた。テレビの中ではベージュのスーツの男性司会者とピンク色のチュニックを着た女子アナが、不倫をした女性芸能人が謝罪会見をしたという話題を取り上げている。やっと呼ばれたときには、私はその芸能人の家庭事情にだいぶ詳しくなっていた。
かかりつけ医の先生は、恰幅がよくいつもにこにこしている。子どもの扱いがうまいので、子持ちの家庭に人気がある。椅子に座ると、「それで、今日はどうされました」と人の良い笑顔を向けられた。
「あの……」
私はおずおずとニット帽を外した。ニット帽にひっかかった木の枝がしなって、ぴょんと立つ。医者の目がまん丸になり、口元がぴくりと引きつった。しばしの沈黙。
「痛みはありますか」
やっと医者が発した声が震えていたので、笑いをこらえているのだと分かった。
「痛みはまったくありません。ただ、これが……、生えているだけなんです」
私はそれ以上何を言ったらいいのかわからなくて、肩をすくめた。医者はいよいよ笑いをこらえきれなくなったようで、口元を押さえながら席を立った。
「少し調べますので、お待ちください」
医者はいったん奥へ引っ込むと、何か難しそうな医学書をぺらぺらとめくっていたが、しばらくするとわざとらしいほど深刻な顔を貼り付けて診察室へと戻ってきた。
「こういった症状は、うちでは扱いかねますね」
「といいますと」
「木の植え替えは専門外ですから。植木屋をご紹介したいところですが、あいにく知りません。ホームセンターへ行ってはいかがですか」
医者が私を馬鹿にしているのか、それとも冗談を言っているのか、はたまた大真面目に提案しているのか、私には分からなかった。
「植え替えとかじゃなくて、とにかく頭の上からこれを取ってもらうことはできないんですか」
医者は私の頭の上を何度か触ってお腹に聴診器をあてた。医者の前で服をまくるのに、少しだけ躊躇してしまう自分に嫌気がさす。
「取ることができるかどうかは分かりませんが、一応MRIを撮ってみましょう」
永遠とも思えるMRIの撮影の結果は、なんとも釈然としないものだった。
「そうですねえ、根っこも脳に影響は与えてないみたいですし、痛みがないならちょっと様子を見た方が良いでしょう」
病院からの帰り道、ニット帽を押さえ人通りの少ない道を選びながら、カメラから顔を背けて逃げるように去って行く例の女性芸能人を思い出した。彼女もこんな気持ちなんだろうか。世間から自分を隠すヴェールに包まれていたいと思っているのだろうか。今では少しだけ家庭事情に詳しくなった彼女に同情した。
次の日、私はまた電話を持ったまま悩んでいた。医者からは仕事へ行っても良いと言われた。しかし、どうにも踏ん切りがつかない。体調に悪いところは無い。ほんとうに、いたって健康なのだ。ただ頭の上に木が生えているということ以外は。仕事を休むのは気がひけるが、この姿で職場に行く勇気は無かった。私は職場に電話をかけ、再びお腹を圧迫して体調の悪そうな声を作ろうとした。コール音が鳴る。1回、2回、3回。
「今日も休み?」
上司の声は明らかに苛立っていた。その声を聞いた途端、私の勇気はくじけてしまい、思ったのとは反対の言葉が飛び出てきた。
「いえ、今日は午後から出勤できそうです。ただ、その……。」
なんと言っていいのか分からなかった。
「ちょっと見た目がおかしいかもしれませんけど、気にしないでください」
「ああそう」
上司の返事はやはりそっけなかったが、今はそれがありがたく感じた。実際にこれを見ても、それくらいの淡泊さでやりすごしてくれればいいのに。
通勤ラッシュの時間でないから当たり前だが、会社に向かう電車の中はいつもより空いていた。満員電車の中では、誰も他人のことなんて見ていない。けれど、少し人がまばらなこの時間だと、みんなに見られているのではないかと気になってくる。不自然に膨らんだニット帽の下を、どんな想像をもって見られているのか知りたくもなかった。車両の中の全員の目が、私を見ているような気がしてくる。
職場のロッカールームで、私はおそるおそるニット帽を外してみた。やはり、どう見ても木だ。木が生えている。ここまで来てしまった以上、帰れない。このまま仕事をするしかない。どうせ、ニット帽をかぶったまま仕事をしていたら事情を問いただされるに決まっている。それなら最初から隠さずにいた方が良い。私は息を吸うと、処刑台に向かう気持ちでロッカールームを出た。
社員証をかざしてドアをあける。私が事務室に足を踏み入れると、一瞬フロアがざわめいた。みんなの反応には気がつかないフリで、私は何も言わずにずかずかと自分の机に向かう。
「へえ。こんなことになってるとはね」
真っ先に声をかけてきたのは、隣の席に座る3年先輩のサカシタだった。口元が笑っているのを隠そうともしない。本当に失礼なやつ。前から嫌いだったけれど、もうこいつとは口もききたくない。私が席に座ると、サカシタはいそいそとスマートフォンを取り出した。
「ねえ、イズミさん。それ、写真撮っていい?」
「だめです」
「えー、なんで」
「先輩、ネットに投稿するでしょ。勝手に撮ったら訴えますからね」
「しないしない! 友達に見せるだけだからさ」
呆れた。人の写真をとって友達の話のタネにするのは無害な楽しみ方だとでも言うのか。この人には言っても無駄なのだろう。とにかく絶対にだめですから、と釘をさすと、つまんないな、とサカシタは言った。サカシタの人生をつまらなくできるのは悪くない。
さて、その日は文句なしに地獄だった。第一に、みんながじろじろと不躾な視線を投げかけてくる。人から見られるのは本当に嫌な気分だ。廊下ですれ違う人は何も言わないが、追いかけてくる目線を痛いほど感じる。第二に、私が話しかけた人はみな、大仰に心配するふりをして、好奇心を隠そうともせず何があったか聞きたがる。「いやまあ」とか「ちょっといろいろあって」とお茶を濁していると不満そうな顔をするので、冗談のつもりで「エイリアンにアブダクションされて帰ってきたときにはこうなっていた」と言うと昼休みには職場中にその噂が広まっていた。(ナオミに「アブダクションされたんだって?」と聞かれてどれほど脱力したことか。)第三に、昨日一日休んだだけで、ものすごく仕事が溜まっていたことだ。定時を過ぎるころには、肩が凝り固まって動かなくなってきた。頭がいつもより重いぶん、余計に疲労するのだ。そのうち、全身が木のように動かなくなっても驚かない。ここから更に残業だなんて、気が狂いそう。
終電に揺られ、最寄り駅を降りると、凍てつく寒さに頬を殴られた。木枯らしが吹きすさび、家への道から私を押し戻そうとする。頭の上の木は空気抵抗が激しく、風に吹かれるたびにバサバサと音をたてる。それでも折れたりはしないのだから大したものだ。向かい風と闘っているうちに、急に虚しくなって涙が出てきた。私たちの脳は「寒い」と「さみしい」を簡単に混同する。こんなに辛いのは寒さのせいだ。就活生のときに買ったこのトレンチコートではぜんぜん、ぜんぜん寒さに耐え忍ぶには足りないのだ。
家に帰ると日付が変わる寸前だった。肩も腰もガタガタで、疲労が脊髄から注入されたかのように身体中が痛む。寒さでこわばった指は、しなびた枝のようにねじくれている。ヒールを履いていた足の裏が固くなっている。玄関に寝そべりながら、このままここで眠りたいなと思う。もちろんそんなことをすれば翌朝とんでもないことになるのは分かっている。身体中がバキバキになって、悪くすれば風邪をひくかもしれない。それでもこのままここで眠りにつく誘惑はあまりにも強い。
私は最後の力を振り絞って、スマートフォンから音楽を流す。震える電話が奏でるアガツマさんの歌声を聴きながら、のろのろと服を脱ぐ。アガツマさんはミダス王の親戚に違いない。彼の声帯が震わせた空気はすべて黄金になるのだから。舞台でのアガツマさんの姿が目の前に浮かぶ。軽やかに舞台を移動する長い脚と上下する横隔膜。マイクを握る手の端正な美しさ。まぶしいほどの光を浴びて舞台の上に浮かび上がるその身体を、鮮明に思い出せる。
靴下を脱ぎ、ほとんど裸になったところで、まだ風呂のお湯を沸かしていなかったことに気がついた。慌てて敷きっぱなしの掛け布団をかぶり、風呂場の蛇口をひねる。風呂のお湯が貯まるのを待つ間、冷蔵庫からハムを取り出して齧った。アガツマさんのCDはそろそろ山場にさしかかっていた。やっと湯船に浸かると、ようやく一息ついた。入るまでと入ったあとが面倒くさいけれど、お風呂は好きだ。骨の髄まで染み付いた疲労はいくらこすっても落ちないけれど、それでもいくらかの慰めをくれる。
風呂から出ると、私はすべての気力を奪われてしばらく姿見の前に座ってぼんやりしていた。さっさと寝る準備をしないと明日が辛いのは分かっている。それでも、体は断固として動くことを拒否した。何がヘアオイルだ。何がボディミルクだ。頭から木が生えているっていうのに、スキンケアやヘアケアなんてしてる気分じゃない。
「そうだ、舞台のチケット!」
今週末の舞台のことを忘れていた。私はバネのように立ち上がって、スマートフォンに手をのばす。こういうときには何の支障もなく体が動くのだから不思議だ。私が見られないのはもう仕方がないが、ご贔屓の舞台に空席を作るのは気がひける。アガツマさんの晴れの舞台で、1階席のそこそこ前列に空席があることにアガツマさんが胸を痛めるなんてこと、あってはならないのだ。なんとしても誰かに行ってもらわなければ。
結局、チケットの譲渡先はツイッターで募ってなんとか見つけることが出来た。相互フォロワー様様だ。そこそこ倍率の高い舞台だったので、相手からはいたく感謝された。引き取ってくれた人からは「体調崩されたんですか?」と心配されたが、まさか頭から木が生えているとは説明できない。
「最近、仕事が立て込んでて」
いちおう、仕事が立て込んでいるのは嘘ではない。本当なら私は、どんなに仕事が立て込んでいようと舞台には這ってでも行く人間なのだけれど。
せめて一日の癒やしを得ようとアガツマさんのブログをチェックすると、「重要なお知らせ」というタイトルのエントリがあがっていた。その文字を見た瞬間、心臓が早鐘を打つ。どうしよう。これはもしかしたら、「あれ」かもしれない。すべてのファンガールの悪夢。ああついに、アガツマさんの結婚報告を聞かなければならない時がきてしまったのか。携帯をベッドの上に置き、深呼吸をする。部屋の中を歩き回ってから意を決してページを開くと、そこには新しい舞台の出演情報が載っていた。私は胸をなで下ろして、ツイッターに書き込んだ。「アガツマさんの新しい舞台、決まったんだ!楽しみ~」
もし本当に結婚報告を聞くときが来たら、私はどんな気持ちになるんだろう。素直に祝福できるだろうか。本当に嫌なのはアガツマさんの結婚報告を聞くことじゃない。結婚報告にショックを受ける自分を嫌悪するのが嫌なのだ。相手が誰であろうと、その人を嫌いになりたくなんかないのに。
月曜日は、いつもの何倍も憂鬱だった。本当だったら昨日はアガツマさんの舞台を見に行って、一週間をやり過ごすための元気をもらっているはずだったのだ。そう思うと仕事にも身が入らない。気もそぞろにパソコンとにらめっこをしていると、何かが頭の上にいる気配を感じた。手鏡で写すと、なんとスーツを着た男の人が私の頭の上を歩き回っている。
「ちょっと、ここで何してるんですか」
同僚に聞こえないよう、小声で話しかけると、その人はキョロキョロと辺りを見回してから、私の顔を見つけてお辞儀をした。
「わたくし、市役所の税務課職員です」
男は首から下げた名札を指でつまんで見せた。
「ここに未登記の土地があるという話を聞きまして、現地調査に来た次第なんです。どなたかが所有していらっしゃるのであれば、固定資産税を支払っていただかないといけませんから」
この人が何を言っているのかは全く分からなかったが、税という言葉が出た途端、これはいよいよ史上最低の月曜日だという確信を強めた。男は私の困惑にはお構いなしで話し続ける。
「失礼ながら、ここはあなたの山ということでお間違いないですか」
「山かどうかは知りませんが、私のものであることは間違いないですね。」
男は手に持ったノートになにがしかをメモしていた。
「であれば、やはり登記をしていただかないといけませんね」
頭の上にいるので、男の表情はよく見えなかった。軽自動車税と住民税だけでもアップアップなのに、固定資産税まで払えというのか。そもそも、自分の頭に固定資産税なんて聞いたことがない。私がここから固定されて動けないという意味では、確かに固定資産だけれど。
「固定資産税って、いくらくらいかかるんですか」
「正確には査定をしなければ分かりませんが、まあ、ご心配なさることはありません。山の資産価値はごく低いですから、固定資産税なんてたかが知れてます。維持費や管理の手間が嫌だと言って、相続放棄する方も多いくらいです」
「はあ」
男が至極まじめに話し続けるので、私は半分も理解していなかったけれど、適当に相槌を打った。
「手入れが面倒であれば、売却なさってはいかがですか。あなたみたいな若い女性に、こんな山は不要でしょう」
それまで他人事のように男の話を聞いていた私は、ここにきてようやく焦った。この男は何を言い出すんだろう。
「要ります。どう考えたって要ります」
だって私の頭ですから、という自明の事実を言うべきか分からなかった。
「でも、今だって手入れが行き届いているとは言いがたい状況ですし、持て余していらっしゃるんじゃないですか」
男は私の頭の上をじろじろ眺める。手入れが行き届いてないって、確かに最近、仕事の疲れからヘアオイルやドライヤーをサボっていたけれど…。勝手に人の頭にやってきて、頭の値踏みをするなんて失礼な話だ。
「不動産登記申請書の様式は、法務局のホームページからダウンロードできますから。書き方が分からなければ、司法書士や土地家屋調査士会に依頼する手もありますよ」
男は来たときとようにお辞儀をすると、去っていった。税金のことなんてまったく分からないので、私は途方に暮れてしまった。固定資産税。固定資産税。司法書士への依頼はいったいいくらかかるんだろう。ああ、アガツマさんの来年の公演を見に行く回数を何度か減らさないといけないかもしれない。
結局、頭の上の問題はどうにもならないまま1ヶ月が過ぎた。本当は病院に経過観察に行かなければいけなかったのだが、師走に忙殺されてずるずると引き伸ばしていた。それに正直なところ、だんだんこの木に愛着が沸いてきたのだ。邪魔なことには変わりはないが、日々少しずつ育っていく様子を見ていると、邪険には扱えない。今では木の成長が楽しみですらあった。
年末の処理に追われていると、上司が突然言い出した。
「いいかげんにそれ、どうにかできないの」
"それ"というのは私の頭の上の木のことだ、もちろん。
「医者からは、無理に切らないほうがいいだろうって言われてます」
でもねえ、と上司が食い下がる。渋い顔の上司を見て、サカシタがひらめいた、と叫ぶ。
「ただでさえ邪魔なんだから、せめてクリスマス・ツリーにしたらどうかな。みんなに迷惑かけてるぶん、見た目で楽しませてくれてもいいでしょ」
名案を思いついたというようにこちらを振り返るサカシタの顔面にパンチを食らわせてやりたい気分だった。
「でもこれ、モミじゃないですし、そもそも常緑樹でもありません」
そう。今の木には全く葉が無いのだ。こんな木にクリスマスの装飾をしたって滑稽だろう。私は自分の頭の上の木が、「チャーリー・ブラウンのクリスマス」に出てくるクリスマス・ツリーみたいになるところを想像した。
「枯れ木も山の賑わいとは言うけど、さすがにそれじゃあ殺風景でみっともないよ」
上司はサカシタの案を気に入ったようで、なんとクリスマス・ツリー案に賛同してきた。信じられない。
「葉っぱは人工のをくっつければいいじゃない。その上から飾り付けしたらいいよ。ただ、電飾でぐるぐる巻きのとか、ああいうのは受け付けないな。なんだか下品だよね」
上司は滔々と自分の考えるクリスマス・ツリー論を語り始めた。上司のクリスマス・ツリーの好みなんてどうでもいい。私の意識は宇宙へ飛びかけていた。
「そうそう。品格のあるやつがいいですよね。昔ながらの、リボンや、銀色のボールのオーナメントなんかがついたやつが」
調子に乗ったサカシタが上司に合わせてまくしたてる。サカシタの「昔ながらの」の定義はまったく謎だ。
サカシタの馬鹿げた提案なんて断固拒否してやろうと思ったのに、気がつくと仕事帰りに百均のクリスマスコーナーに足を運んでいた。百均には上司やサカシタの望むような「品格のある飾り付け」なんて無い。最近の百均は確かに進化していて、とても百円とは思えないクオリティの商品がたくさんあるけれど、百均に「品格のある飾り付け」なんてものを求めるほうが御門違いなのだ。だけど、上司とサカシタを喜ばせるために何千円も使うつもりはなかった。
結局、葉っぱとモールと星とサンタと天使とベルで千円以上もした。平日のお昼ごはんが二日分も食べられる値段だ。ベルを買ったのは上司とサカシタへの当てつけだ。せいぜいこれで雑音に苦しむといい。もちろん一番うるさい思いをするのは自分だけれど、ベルが鳴るたびに天使が羽をもらっているのだと思うことでなんとか耐えよう。
クリスマスの朝に目が覚めると、机の上に置いたままの飾り付けが目に入った。買ったからには、今日はこれをつけないといけないのだろう。携帯を手に取ると、スケジュールのアプリがリマインドのメッセージを表示していた。「アガツマさんのコンサート!」そう、今日の午後には、アガツマさんは京都でクリスマス・コンサートをしているんだ。これもチケットを取ったのに、結局行けそうになくて泣く泣く諦めたやつ。スケジュールを解除するのを忘れていた。近頃、どうせ行けないのがむなしくて以前ほどはアガツマさんの公演情報をチェックしなくなった。
今日のコンサートでアガツマさんは何を歌うのだろう。きっとあとでツイッターにファンがセットリストを流すだろうな。前にラジオで好きなクリスマスソングは「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド」だと言っていたから、ゲストの女優さんとデュエットしたりして。
ああ、本当にそろそろ起きて仕事に行かなくちゃ。でも外は寒い。ベイビー、外は寒いよ。
私はのろのろと布団から這い出し、ストーブの前で服を着替える。鏡の前で化粧水をつけ、その上からBBクリームとコンシーラー、パウダーを塗る。眉毛とアイラインを描き口紅をのせる。そして頭の上の裸の木に、葉とモールを巻き付けた。モールの間に、サンタと天使とベルを慎重に差し込んでゆく。てっぺんには星を乗せる。星を乗せるのはなかなかバランスが難しく、すぐに落ちてきてしまう。部屋の中にはクリスマス・ツリーを飾っていないので、クリスマスらしいものは頭の上のこれだけだ。
それにしても、キリスト教徒でもないくせに、律儀にクリスマスを祝おうとするのは何故なんだろう。私たちの多くはイエス・キリストを信じていないし、神の戒めを信じていないし、最後の審判を信じていない。私はイエス・キリストを信じていないし、たぶん地獄へ行く。私の罪は神を崇めずにアガツマさんを崇めたこと。もしくはアガツマさんが美人女優とデートしていた報道に、ショックを受ける資格も無いくせにショックを受けたこと。知りもしないアガツマさんの内面に幻想を託していること。数々の見目の良い俳優たちを、鑑賞し、顔の造作についてあれこれとコメントを述べて消費したこと。「顔でなく実力で評価してほしい」というとある若手俳優の願いを知りながらも、なお彼の見た目を愛してしまっていること。たぶん、死んだらこれらの罪すべてについて告白しなければならないだろう。私の最大の救いは同時に私の罪だ。
結局、てっぺんの星は何度直してもまっすぐにならず、へたってしまった。
会社は案の定クリスマスの話題で持ちきりだった。クリスマスの話題とは、すなわち恋愛の話だ。とても不思議だが、現代日本では両者はほぼイコールのものとして語られる。
「せっかくのクリスマスなのに、今日はデートの予定とかないの」
「俳優の追っかけばっかりしてないで、そろそろ彼氏作らないとねえ」
「結局、結婚は妥協だからさ。夢ばかり見てちゃだめだよ」
「若者の恋愛離れってやつかな」
何千回と聞いた代わり映えのしない言葉たちを、私は愛想笑いでやり過ごした。私は年長者が軽蔑する若者の特質のおよそ全てを兼ね備えている。いわく、自己中心的で成熟せず、他人との関わりを拒み、冷淡で、結婚せず子供を産まず世間に貢献せず、軽薄にも芸能人に金をつぎ込み、離れ恋愛から離れビールから離れ読書から離れている。この世界のありとあらゆるものから離れているので、本当は宇宙空間にいるのではないかと思う。あるいは、私はほんとうに宇宙人に連れ去られたのかもしれない。
クリスマスが終わると、世間の喧噪はあっという間に過ぎ去っていった。年末の静けさの中で、このまま1年が終わるのと同時に世界も終わってしまうのではないかと思った。けれど何事もなかったかのように、1月1日はめぐってきた。
そうして、季節は春になった。
相変わらず、医者は「様子を見ましょう」と言うので、頭の上の木はそのままだった。いい加減、この状況を面白がっているんじゃないかとすら思えてくる。桜の木は春の陽気を浴びていっそうみずみずしく輝いていた。蕾の先が膨らみ、やがて薄紅の花が咲き、そして満開になった。どんなに邪魔な木でも、やっぱりその姿は美しかった。
そろそろ毛虫がやってくるんじゃないかというのが、目下のところの私の懸念事項だ。桜は毛虫がつきやすい木だというから。ところがある日、毛虫どころではないものが頭の上に来ていたのだ。最初、それは巨大な毛虫かと思ったが、よく見ると寝袋にくるまった人だということが分かった。ブルーシートをひき、その上に寝袋を置いて転がっている。
「あの、何かご用ですか」
寝袋の人は携帯でゲームをしていたが、私の声で顔を上げた。まだ若い。眼鏡をかけていて、いかにも気の弱そうな風貌だ。
「職場の花見の場所取りなんです。僕、新人なもんですから」
「じゃあ、明日までずっとここにいるってこと?」
時刻はまだ午後8時だ。ここから明日の朝まで、場所とりをするというのか。うそ。かわいそう。ていうか私がかわいそう。
「この近くの花見のスポットって、どこも激戦で。ここは穴場だって聞いたものですから」
寝袋の人は申し訳なさそうに言った。ふざけるな、と追い出してしまいたかった。私の頭の上で花見なんてごめんだ。でも、追い出して花見の場所を取れなかったら、この新人くんが怒られるのだろう。彼のまだ柔らかそうな頬や口元のニキビ、垢抜けない髪型を見ると、それはなんだか可哀想な気がした。
朝になると悪夢が始まった。何十人という人、人、人が花見の場所を求めてやって来た。昨夜の新人くんは、酒瓶を持って順番に上司のところを巡っていた。可哀想なくらい必死な彼の肩を、酔った上司がバンバンと叩く。女子社員に取り囲まれた場所に座っているのが、きっと一番のお偉いさんなのだろう。女子社員たちは律儀にスカートの上にハンカチをひき、ビールのラベルを上にしてお酌をする。
私の身体、私の頭、私の精神と思考にとってもっとも重要な場所に、酔っ払いどもが無許可で浸入してくる。とにかくこれは悲劇だった。頭の上でドスンドスンと大勢が動きまわるので、まるで史上最低の二日酔いみたいに頭がガンガンする。
「今日は賑やかだね」
上司のイヤミは、いつだって考え得る最低の状況をより悪くする。
「すみません。花見客が……。もう追い出しますから」
私が頭に手を伸ばすと、上司が制止する。
「それは可哀想だよ。せっかく絆を深めようとしてるのに。多少のことは多めに見てあげなさい」
「良いじゃない。桜を愛でるのは日本人の古き良き伝統だよ」
相変わらず上司の太鼓持ちのサカシタが加勢する。サカシタにそう言われると、今すぐにでもこの桜の木を燃やしてしまいたい衝動に駆られる。こっちは「願わくは花の下にて春死なん」ってな気分だ。今私が死ねば、文字通り桜の木に養分を提供する死体になるのだろう。四月は残酷極まる月だ。桜の花を死んだ女から生み出すのだから。
驚いたことに、私が帰る時間になっても花見はまだ続いていた。入れ替わり立ち替わり、誰かしらが花見にやってくるからだ。駅までの道を歩いていると、花見客の会話がよく聞こえる。いままで花見といいつつ桜なんて全然見ていなかったくせに、急に品評会が始まったらしい。
「しかしなあ、いくら穴場だからって、この桜はねえよ。花もなんだか色がハッキリしなくて、しょぼくれてるし。病気みてえじゃねえか。幹も貧相で、貧乏くせえったら」
声の大きい誰かの批評に、周囲の酔っ払いたちが同調し、次々になんだかんだと木に文句をぶつけはじめた。こうなるともう止まらない。悪口は最高の酒の肴だからだ。私の木を貶められて、ふつふつと怒りが沸いてきた。頼りなかったあの木が、こんなに立派に育って花を咲かせたのだ。その苦労も知らない奴らに、そんな風に言われる筋合いは無い。もう限界だと思った。
「うるさーーい!」
私は公道で天に向かって叫ぶと、猛然と走り出した。通行人が驚いてこちらを見ているけれど、構わない。私はヒールのまま、まっすぐな通りを全速力で走った。通勤鞄が重くてうっとおしい。こんなに本気で走ったのは体育の授業以来だ。頭の上の花見客たちは、突然のことにうろたえ、足を踏み外し、あれよあれよと後ろへ飛ばされていった。ヒールが折れ、ストッキングが街路樹に引っかかって破れたが、私は構わず走り続けた。酔っ払いの脱いだ靴が、空になったビール瓶が、女子社員が膝に広げていたハンカチが飛んでゆく。酔っ払いが一人、二人、十人と振り落とされていく。桜の花が散り、私の走った後に桜吹雪が舞う。そうしてとうとう、頭の上から誰もいなくなった時、私は走るのをやめた。息が上がって心臓が破れそうだった。大粒の汗が顔と首を流れていくのを感じながら、私はその場にへたりこんでさめざめと泣いた。
その夜、久しぶりに夢を見た。
アガツマさんの舞台を半年以上見られていないストレスから、あんな夢を見たのだと思う。アガツマさんが舞台の上に立っている。劇場は暗く、アガツマさんの立つ場所だけがスポットライトに照らされている。私は二階席の三列目に座っていて、舞台の上のアガツマさんがよく見える。観客は私ひとり。
アガツマさんの上半身は裸で、下にはぴったりとした膝までの白いスパッツを履いている。なんだかミュージカルというよりモダン・バレエみたいだ。さすが鍛えているだけあってサマになっている。衣装がシンプルなので、彼の黒いくせっ毛が奔放に広がっているのが目立つ。
アガツマさんが髪をかけあげ、上を睨む。一瞬、私のことを見たのかと思ってどきりとする。彼は私がここで見ていることを了承しているのだろうか。
次の瞬間、音楽が流れ始めた。クラシックのようだが、何の曲なのかは分からなかった。オーケストラの姿は見えない。アガツマさんはゆっくり右手を天に差し出し、それから右足と左足を交互に出して、大きく跳びはねた。すっと伸ばした右足を軸に回転し、しなやかな左脚を何度も振り回す。そうかと思うと大股で滑るようにジャンプを繰り返し、舞台の端から端まで移動する。
それは自分の身体を頭のてっぺんから爪の先までコントロールしようとするダンスにも、衝動のままに身体に自分を任せるダンスにも見えた。突き動かされたように跳んだかと思うと、ぶれることのない軸で回転し、計算され尽くしたように優しく着地する。きっとこれは夢なのだと思った。アガツマさんはこんなにダンスが上手くないから。アガツマさんが跳躍するたびに飛び散る汗が、ライトに照らされて舞台の床で冷えてゆく。
どのくらい時間が経ったのだろう。ただ音楽と、光と、躍動するアガツマさんの肉体だけがあった。やがて音楽が止んだ。アガツマさんは舞台の中央に立っている。彼は膝を曲げ、つま先立ちになり、右脚をすっと上げて左脚につけ、左脚を軸にちょうど3回、くるりと回った。それは完璧なピルエットだった。
なんてきれいなんだろう。アガツマさんの肉体はあまりにも遠く、そしてそれゆえにとても美しい。私は歓声を上げたいのだけれど、それが許されるのか分からない。
アガツマさんはあがった息を整えると、丁寧なお辞儀をひとつして舞台袖へ消えていった。アガツマさんは一度も私を見なかったけれど、たぶん、彼は私がここにいることを知っていたのだろう。
目を醒ますと、桜の木は枯れていた。一時はあんなに枝を広げていたというのに、今は枝が萎れ、根は抜けかけの乳歯のようにぐらついている。花は一枚残らず枕元に散っていた。春眠から目覚めるとこれだ。私は鏡の前でしばし思案した。やるなら、今かもしれない。おそるおそる手を伸ばし、そして一思いにそれを抜いた。覚悟はしていたけれど、痛かった。思わず涙が出た。髪の毛を無理矢理抜いたときの痛みを5000倍にした感じだ。もしくは、自分でブラジリアンワックスを使ってVIO脱毛をしたときの痛み。木の根が張っていた部分には、大きな穴が開いてしまっていた。手の中でくしゃくしゃになった木は、初めて頭の上に現れた日と同じように、所在なさげに縮こまっていた。なんだかその姿が悲しかった。
会社へ行くと、サカシタが「えーっ」と叫びながら近づいてきた。予想通りの反応だ。
「イズミさん、あれはどうしたの」
あれあれ、と言いながらサカシタは自分の頭の上を指さす。
「取れました」
私は努めて淡泊に返答する。
「ふうん、つまんないの」
サカシタの人生をつまらなくできるのは、やっぱり悪くない。頭の上も軽くなっていい気分だ。
昼休みに会ったナオミは、よかったじゃん、と笑った。今日のナオミの昼食は菓子パンだ。
「これでようやく、アガツマさんの舞台のチケットを取れるね」
「そう!もう、禁断症状でどうにかなっちゃうところだったよ」
私は左手の中のスマートフォンで、アガツマさんの公演情報を検索する。
ところで、桜の木を引っこ抜いた後の穴に不思議なことが起こった。穴のふちの肉が盛り上がった部分が、だんだんと形を変え、唇のようになったのだ。一週間後には、それは完全にひとつの口になった。つまり、頭の上にもう一つの口ができたのだ。まさに妖怪二口女そのものだ。
今のところ、二つ目の口は特に悪さをしていない。太めのヘアバンドをすれば隠すことはわけないので、桜の木が頭から生えているよりはずうっと楽だ。たまにおやつを与えてやると、バリバリ、ムシャムシャと美味しそうに咀嚼する。
買っただけであまり使っていなかったディオールのリップティントを塗ってやると、頭の口は嬉しそうににっこりとほほ笑んだ。かわいいやつ。このぶんなら、世間のリクエストにお応えして「食わず女房」になれる日も近そうだ。
あたま山、あるいはサクランボの乙女 雷田(らいた) @raitotoko
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