霞色の錯覚

歌野裕

序章

二〇〇三年五月

 五月と言えば、まだ暦の上では春だというはずなのに、僕たちを覆う外気は夏と勘違いしても差し支えないくらい暑かった。更に言えば、午前中に降った雨のせいか、ねっとりとした湿気を帯びていて、気温以上の不快さを感じる。じっとりと背中が汗ばんでいるのもわかっていた。

 公園のブランコに腰を掛けていた僕は、背中につたう汗を振り払うように前後へ力任せに漕ぐ。鉄錆が擦れあい、ぎしぎしと嫌な音をたてるが、僕はそれを気にせず、無我夢中にブランコを揺らした。自分の身体が水平に近くなったところで、膝を曲げ、足下に力を入れる。そして、前方に大きく振れた瞬間に曲げた足をぴんと伸ばし、身体をブランコから切り離した。ブランコから投げ出されるような形で飛び出した僕は、向かってくる地面をまっすぐに見つめながら、着地の体勢を整える。がっと足に衝撃が走るが、しっかりと体でそれを吸収して、着地に成功した。後方を振り返り、ブランコとの距離を目算で確認する。結局は距離なんて測れるわけもないので、それなりに飛べたほうかな、といつも自画自賛で終わる。

「小学生みたいなことをしてんじゃないよ、神野光太郎」

 ガッツポーズをしている僕の横で文字通りの横槍を入れたのは、幼稚園の頃からの腐れ縁である健坊だった。小柄な体格のくせに、誰とでも物怖じせず発言する性格は警察官である父親譲りともとれるが、そのせいでたくさんの衝突を繰り返している問題児でもある。そのことについて当の本人は至って気にしていないのだが、それも含めて健坊らしいな、と僕は思っている。

 そんな健坊とは、何故か一緒に行動をすることが多く、今もこうして下校時間を共に過ごす仲であるが、その分喧嘩をすることも少なくない。

「うるさいなあ、公園に来たら、これをしなきゃ始まらないだろう」

「始まるって何を始めるつもりなんだ。それに公園にはそれをするために来ているわけではないだろう。元より俺は登下校に寄り道をするな、と本来なら注意しなければいけない身なんだぞ」

「まあまあ二人とも」

 眉間にしわを寄せて、厳しい口調で叱責する健坊を宥める役割を担っているのが、みっちゃんだった。にこやかな表情を崩さずに、穏やかな口調で僕らの間に割って入る。

 みっちゃんは中学二年の時に東京から転校生として僕と健坊のいる同じクラスにやってきた。父親の仕事の関係で、東京からこんな岐阜の辺鄙な場所へ来たという彼女に田舎者の僕らが興味を持たないわけもなく、クラスに溶け込むのになんの苦労もかからなかった。しかし、それを面白く思わない者がいるのも当然の話だ。特に中学生という多感な時期の女子というのは男の僕や健坊には想像もつかない、いろいろな感情が雨の日の河川のように濁流となってないまぜになるのだろう。このクラスで上位のグループに属していた女子から標的にされたみっちゃんは、いとも簡単にクラスから孤立していったが、僕と健坊が立ち上がり、それを阻止した。その関係もあって、今もこうして三人で行動を共にするようになった。

「そうだな。悪い」

 健坊は素直にそれに応じた。何故か健坊はみっちゃんの言うことなら大抵のことは従う。何故かというほど、謎めいているわけでもないが、本人が頑として認めないので、僕も何も言えないのだ。

「……で、みっちゃんの相談って何があったのか?」

 気を取り直して、僕はみっちゃんに質問を投げかけた。

「うん……実は……」

「またイジメか……」

 何も言わないみっちゃんのその沈黙が答えをありありと示している。

「私、ここに転校しなければよかったのにね」

 みっちゃんは、いつもそうやって自虐的に笑う。穏やかな表情とは裏腹に彼女は僕らが想像している以上に傷ついているのだろう。心がまだ強くないみっちゃんは自分一人で戦うことはできない。

「大丈夫だ。俺たちがついているから」

 健坊は胸を叩いて、みっちゃんを励ました。僕も隣でうんうん、と頷いてみせる。

「ありがとう。いつもごめんね」

「謝るなよ。僕たちは自分がやりたいことをやってるだけだから」

 みっちゃんは黙って頷いた。自分では何もできない歯痒さからか、唇を噛む姿はとても痛々しい。

「私……二人に出会えただけでも、ここに来て良かったと思ってる」

「お、おう」

 突然のみっちゃんの感謝に対し、僕たちは狼狽えながら、返答をする。

「これからもずっと三人でいられたらいいのになあ」

 僕も健坊も決して友達がいないわけではない。放課後に遊ぶ友達だっているし、いつも一緒にいるわけでもなかった。だけど、この三人でいるのが一番心地よいのが本心だった。だからみっちゃんがそう言ってくれたことには嬉しく思った。しかし、常に現実的な健坊は違った。「そんなわけにはいかないだろう」とみっちゃんの言葉を一蹴する。それはおそらく正しくて、僕らの考えが甘いことを思い知らされるのだけど、みっちゃんが求めている言葉はおそらくその言葉ではない。しかし、健坊は良くも悪くもそういう性格なのだ。

「俺たちはもう中学生だ。そして来年には高校生だ。ここからは己が進みたい未来に向かって道は進んでいる。それが交わることこそあるかもしれんが、その道は決して一緒じゃない。俺たちは友達だ。今もこれからも。だけど、それとずっと三人でいることはおそらく同義ではないよ」

「──相変わらず堅いなあ、健坊は。みっちゃんが言っているのはそういうことではないだろう? そういうところに鈍感だと、この先思いやられるなあ」

「お、俺はただ現実をしっかりと見定めてだなあ」

「はいはい。健坊は未来の警視総監様だからな。そうやってつまらない現実をずっとまっすぐ見ていけばいいんだよ」

「現実もちゃんと見れないで、夢や希望なんて語れるかよ。現実も見ずに見る夢はただの夢想だぞ。想像に道は繋がっていない」

「現実しか見れていないのも、どうかって話だろう」

「まあまあ、二人とも落ち着いて。健介君の言っていることは最もだし、光太郎くんの言っていることもわかるから。私は二人の意見に賛成だよ」

 みっちゃんは困った顔を浮かべながら、僕らの仲を取り持つ。しかし、みっちゃん。それはどっちつかずってやつだよ、と心の中で呟く。それがみっちゃんの良いところでもあり、悪いところでもある。

 僕らはこうして三人でああだこうだと言い合いながら、日々の中学校生活を過ごしていた。僕は健坊のように現実的ではないし、みっちゃんのように夢見がちな性格ではないけれども、このような関係がこれからもずっと続けばいいのにな、と切に願うほどには、二人を大切に思っている。だけど、それは二人には決して口にしたことはない。それは恥ずかしさのせいでもあるし、それを口にしてしまうと、途端に現実から切り離されてしまうようで怖かったからだ。僕の将来の夢は小説家で、言葉を紡ぐことを生業にしたいと思っていた。だからこそ、言葉の重みというか力を信じている。厨二のような妄想だと言われればそこまでで、大事なことをなかなか口にできないところは、僕の悪いところだろう。

 そんな、まだまだ未熟な三人はこれからの未来をまっすぐに見つめながら、この中学生活を過ごしていたのだ。

 見つめた先の未来が思い描いた通りになる保証なんて何一つありはしないというのに──……。

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