第13話
彼女は嗤いながら言った。
「私がお前の大切な人を殺していたとしても? ……確か、哀川明子だったかな?」
僕は絶句した。
「ど、どうして、君がその名前を。いや、それ以前に彼女は事故で死んだはずだ!」
呆けたあと咄嗟にそんなことを言ってみたが、言っている最中に、物が壊れた瞬間を逆再生で流すかのように、散らばっていたヒントが一つの答を形成していく。
事故を起こした運転手の証言。――もし、本当に真実を言ったのだとしたら?
たまにメイと重なる明子の面影。――はたして僕が彼女を見間違えるだろうか?
一年に一回で取る必要のある食事。――今日はあの日から何日が経っていたっけ?
高校生の時に書いていたという小説。――同じような経験を持つ人を僕は知っている。
そして。
メイト・エヌス・ホップ――――飛び越えるN番目の相棒。
明子は何番目の相棒なのだろうかと、思わなくもなかった。
「……まさか」
「ええ、そう。私が彼女を殺したの。食糧を求めていた私は、あの日、目の前を通った車を力尽くで押して、目の前を通った彼女に押し当てたの。戻ろうとバックするのを押さえつけて。その後で、流れていた血を舐めたの」
こともなげに、そう言った後、彼女は嗤った。その表情の深層を僕は探ることができない。さながら一つの儀式を滞りなく終えたかのように嗤っていたのだから。
「さ、これでもまだ私を殺さないの? お前が望めば私は死ぬというのに」
それは、僕が望めば殺し方を教えてくれるという意味だろうか。
見ず知らずの人々を助けることに魅力をあまり感じない僕でも、思い人の敵をこの手で討てるというのは相当魅力的であった。しかも、たった一言「はい」と望めば叶うのである。乗らない手はなかった。
事実僕はこの時、完全に彼女を殺す気でいた。
僕から生きる意味を奪った彼女の生命を停止させる気だった。
しかし、僕が何かを言う前に――何かを望む前に、朝日が彼女を超え、その先にあった机の、もっと言えば小さな紙切れに光を運んだ。
そこには彼女の名前が書いてある。――『Mate Nth Hop』
それを見たと同時に、先程の彼女の発言に違和感を覚えた。全くもってつながりがない思考をした。だが、その一つの違和感はやがて一つの真実を僕に気づかせた。
出した答が誤答であることを示した。
どういう意図で、彼女がこんなことをしているのか分からなかった。と、同時に頼むから嘘であってくれとも思う。もし僕がこのことに気づかなければ、傷つくこともなかっただろう。いや、まだ間に合うのだ。少なくとも、ここで僕が指摘しなければまだ最低限の傷を負うだけで済む。
しかし。
そんなことはどうしてもできなかった。僕の名前が進である以上、真実に近づいてしまう。否、そうでなくとも、見過ごしていい真実ではなかった。
「……君は誰だ?」
「何度もいったでしょう? 私の名前はメイト・エヌス・ホップ。吸血鬼よ!」
「違う!」
間髪入れずに彼女の名乗りを僕は否定した。
流石にこの反応は想定してなかったのだろうか。彼女の余裕をもった態度が一転し、驚きのあまり目を見開いた。
ここまで来た以上、僕は止まれなかった。もう、坂を下る石のごとく終わるまで転がるだけだ。その先でどれだけ傷つこうがどうでもいい。
真実を暴く覚悟はできた。――深呼吸をし、それを揺るぎないものにする。
「君は――」
僕はそこで一旦、言葉を切って机の上に置いてある紙を手に取る。そして、その下に二語の単語を書き出した。
「君は――明子だ。僕の最愛の人で大切な人。そして、僕に光をくれた人!」
僕は彼女の名前を突き出す。
Mate Nth Hopの名前に下にはThe Phantomの二語。簡単なアナグラムである。
名は体を表すが、嘘を吐くこともある。でも、それは簡単なすぐに暴かれてしまうような嘘だけである。『The Phantom』だなんて、誰でも知っている。それこそその意味を思い出す必要すらない単語である。
幽霊。暴いてみれば、これ以上ないほど正直な名前であった。
幽霊で、彼女の死に様がどのような物かを知っており、その上、先程挙げたヒントがあれば、もう間違いようがない。
彼女はただ口をパクパクするだけで、そこからはどんな言葉も出てこない。しかし、僕から声をかけるということはしない。彼女が自分のことを認めるまで、黙るつもりである。静寂が支配する部屋の中、僕の頭だけにキ――ン! という音が響く。耳障りな甲高い耳鳴り。
しばらくすると彼女は平静を取り戻したのか、溜息を皮切りに話し始めた。
「……そうよ、私は明子よ」
「……どうして、吸血鬼だと偽ったんだ?」
「じゃないと、お前は私のことを殺さないでしょ!?」
「どうして殺す必要がある!」
「お前はいつまでも私の陰を追いかけるでしょ! 何時までも生きている意味を見いだせない!」
「そんなの――ッ!」
何も言い返せなかった。彼女が死んでから、僕が確実に生きていると思った瞬間はあっただろうか? ましてや、生きている意味など見いだしたことはあっただろうか? 無為に過ごしてきたあの時間以上に、無為に生きていなかっただろうか?
無為に生きるどころか、死んだように、惰性のように生きてはいなかっただろうか?
そんなの、君にもらった光で生きていた僕には酷すぎる注文ではないか!
「そう。お前は何も言うことはできない! でも、それは私のせい。お前に光りを見せてしまった私の! 探すこともさせず、ただ私だけがお前に光を与えられるって、無責任にも思わせてしまった責任! 依存関係に持ち込んでしまった私の!」
激しい口調で彼女はまくし上げた。夕暮れの暖かい光に目を奪われ、目をそらしていた闇をまじまじと僕に見せつけた。
「だから私は責任を取らなければならないの! お前の横に居れば問題はなかったけれど、でも、死んでしまった以上は、お前の横に居られない以上は、責任を取らなければいけない! お前を私から解放しなければ!」
責任なんて、思えば一度も考えたことがなかった。結婚の時でさえ、こうなるのが当たり前という感覚で入籍したのだから。責任の重さを実感できていなかった僕では、彼女がどんな気持ちで生活していたかなんて想像できない。
四肢に責任という枷がついた状態で生活していた彼女に対して、ただ楽しむだけでその実、寄り添ってあげられなかった男は誰であろうか。
そんなやつは死んでしまった方がマシではないか?
「死んだ方がマシだなんて考えないで! 私が言えたことじゃないけれど、お前には最期まで生きて欲しいの!」
下を向いていた僕の両頬を彼女はつかみ、強制的に視線を合わせた。いくら立ち上がったとはいえ、一五センチという身長差が埋まるはずもなく、彼女は背伸びをしていた。整った顔形をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。
「私を殺して! 私の未練を断って! 殺してそして、忘れてよ! ああ、明子なんて運命の人でも何でもない人だったって言って! 何なら嫌いになってよ!」
しかし、僕は彼女の願いの全てを断る。だってそれは僕にとっての死なのだから。七年間で細胞が全て入れ替わっても、僕が僕でいられる由縁なのだから。そんなのは、死よりも酷い何かである。
それぐらいなら、彼女の思い出を抱いて死んだ方がマシである。否、本望である。
「無理だ。それだけは絶対に無理だ」
だから僕は否定する。そんなことはできないのだと。感謝はしようと思ってするものではないのと同じく、僕が彼女のことを思うのも、そして何かしらの感情を抱くのを止めることなど誰もできない。
僕自身すら。
「じゃあ、お前はこのまま死ぬと言うの!? 生きる意味も見つけられないまま、死んだように生きるというの!?」
僕はそれに答えられるようなものを持ってはいない。否定はできないし、肯定はしたくなかった。彼女の失望したような表情を見たくないのだ。
――お前は何のためにそれを喰っているの?
頭の中に、二日前の質問が浮かんできた。そんなの、知らない。知っていたら僕は何かしらの答を持ち合わせていたはずなのだから。
いっそのこと思考を停止してしまおうか。何かを考えるということできないよう、生命を停止してしまおうか。幸い、ここはリビングでありすぐ近くにキッチンが設置されている。当然、包丁も近くにあるのだ。もっとも、それは目の前に彼女が立つことによって防がれている。まともな思考回路を持つ者は彼女を追い越して自殺しようだなんて考えないだろう。
しかし。
今の僕の頭は正常からかけ離れたところにあった。まともな判断など到底できそうにもないコンディションである。でも、それも無理のないことである。彼女のために生きてきたと思っていたのに、当の本人からそれを否定されたのだ。必死に積み上げてきたものを、さながら賽の河原の罰のごとく一瞬にして崩されたような気分である。空虚だなんて表現はまだまだ生易しい。その感情を入れる器すらもさらさらと崩れてしまったような完全な無だけがそこにはあった。――否、何もなかった。
例え、彼女が僕の生を望んだところで、その通りにしようという気にはならなかった。
そんな思考が自己中心的であるということにも僕は気づかない。
僕はある種、自暴自棄になっており、正常な思考はできない。では、そんな僕はどんな行為にでるだろうか。簡単である。自暴自棄な行為を簡潔に行うのである。
具体的に言えば、包丁で自分の首をかっ切って死ぬとか。
いきなり走り出した僕を彼女は止めることができなかった。二歩で彼女の横を通り過ぎる。涙で視界を覆われている彼女は僕の行動に咄嗟に反応ができなかった。三歩目で、身体を大きくひねってキッチンに身体を無理矢理ねじ込んだ。後ろで、彼女の悲鳴が聞えた。それに気を引かれることなく、僕はそこに置いてある包丁を握る!
しかし、結論から言えば、僕はまた自殺に失敗してしまった。
柄を握った僕の手は、急いでいたことや柄のぬめりという要因もあって、しっかりとは握れず、そのまま取りこぼしてしまった。誰のせいでもない。前から気になっていたぬめりを放置した僕のせいだった。急いで拾おうと手を伸ばしたが、それよりも早く彼女は包丁をしっかりと握って回収した。
まだ熱いままの頭で、瞬時に残りの参本の包丁のことを思い出したが、それらが収納してある棚は彼女の足下にある。
万策尽きた状況になって、僕の頭から徐々に熱が引いていった。
彼女が何かを叫んでいる。言葉の意味が分からないのは嗚咽が混じっており、聞き取りにくいからと言うだけではない。僕は、熱が引いた頭でどうして自分が死ねなかったのかを考えていたのだ。
六回――その回数だけ僕は死に損なってきた。これを入れれば七回も失敗している。今更感が否めないが、これ程まで生き残ることに何かしらの意図を感じた。どれほど死を望もうが、さながら呪われているかのごとく僕が生き残るのだから。
一度目の首吊は、縄の強度が足りなかった。
二度目の焼身は、火元の燐寸が湿っていた。
三度目の事故は、致命傷だけは避けていた。
四度目五度目は、何か言う必要もなかった。
六度目の事件は、無意識で受け身をとった。
七度目の茶番は、僕の怠惰で死ねなかった。
――こう並べれば、どうして僕が死ねなかったなど明白ではないか。火を見るよりも明らかである。
今にも切れそうな縄を選んだのは。湿気った燐寸を使用したのは。不意の出来事にも咄嗟に対応したのは。語るにも値しない死に様をことごとく避けたのは。電車に轢かれ意識を失いながらも受け身をとったのは。何時までも包丁の柄を替えなかったのは。
――いったい誰であろうか?
言うまでもない、僕である。
僕は決して死ねなかったのではない。ただ死ななかっただけである。
いくら心の表層で死にたいと願っていても、心の深層では死にたくないと願っていたのだ。我ながら矛盾も甚だしい心情であるが、それが心の真相であることは明らかであった。ゆえに、一年間に七度死の機会を得てもことごとく不意にしたのである。
しかし、それは何のためであろうか?
浮かんできた疑問はすぐに氷解した。
何かを喰うということは、それを自分の中に取り込むということであると、と吸血鬼に扮した彼女は言った。それは恐らくその場限りの出任せだったのだろう。それっぽいことを口にして、僕に生きる意味を見いださせようとしたに違いない。
あの時、僕は物質的な意味では、人は七年おきに死ぬということを連想したが、当時、もう一つ心の奥底で思ったことがあるのだ。
まるで思い出ではないかと。
当時の体験を心の中で想起することは同時に、その場にいた人も思い出すと言うことである。それは、その人を一時でも自分の心の中に取り込んだことにはないだろうか。
その思い出の中の人は、自分の心の中で生きているということにはならないだろうか。
じゃあ、僕が死ぬことは何を意味する?
そんなの、彼女を殺すことと同義である。
そこまで考えが至った時、僕は力が抜けて、その場に膝をついた。
何だ、生きる意味などあったではないか。どころか、僕が気づいてなかっただけではないか。気づくどころか全力で水泡に帰させようとしているのが愚かしかった。
見れば件の彼女は泣き止んでいた。思えばここ数十分の彼女の号泣はあの霧雨雪雫もここまでは泣くまいと思われるほど堂に入ったものであった。もっとも、僕も負けず劣らずの奇行ぶりであったが。(論破され、自殺を謀り、そして止められたと思ったら黙りだして急に膝を折ったのだ。情緒不安定にも程がある)
僕は立ち上がって、彼女に言った。それは宣言であった。――きっと彼女にとっては不本意極まりない。
「……僕は生きるよ。君との記憶を忘れないように」
結局僕は全てを否定したのである。彼女を殺すことも、自分自身を殺すことも、新しい目標を見つけることも――全て。
ただ一つ、彼女のために生きるという自己満足を除いて。
自己中もここに極まり、という内容である。しかし、自分の人生なのだから結局は自己中心的で然るべきなのであると、勝手極まりない補足を加えておく。
ただ、これは彼女の問いかけに対しての答であることに間違いはなかった。ずっと放置してきた問題に一つの解答を見つけたのだ。
彼女は突然のことに、思考が追いついてないようだ。しかしそれは当たり前である。僕のこれは殆ど自己完結的に見つけたのだから。僕以外の誰かが理解できる論理展開をしていない。
例え、僕の道先を優しく照らしてくれた人でも。だって、僕は自分で新しい道を進んだのだから。
未だ呆けているような彼女の表情を見て、僕は今更ながら、白髪と紅い瞳を黒くすれば完全に明子と重なると言うことに気づいた。それに気づくのは我ながら遅かった。
しかし、遅すぎると言うことはなかった。
血と葡萄酒の関係を思い出す。
それと供に先程の彼女の言葉を思いだす。
――お前が望めば私は死ぬというのに。
うるさく鳴り響く耳鳴りの正体を悟る。
ああ、この癪に障るほど甲高い音は。金属通しがこすれ合うかのようなこの音は。
僕はこの時、全てを理解した。
彼女がどうやって僕の中から、自分自身を殺そうとしたのか。そして、現実の自分が現在どのような状況なのか。
さあ、そろそろこの夢から覚めようではないか。
けれども、その前に一つ聞いておこう。
「なあ、これからも僕と生活することってできないのか?」
直前まで、呆けていたくせにそれを聞くと彼女は即答した。
「無理だよ。まさか私が現れた日を忘れたわけじゃないでしょ?」
僕と彼女が再会した日はお盆初日である。
お盆――それは、死者が生者のもとに帰ってくる日。
なるほど。と納得しかけてこれが彼女の意趣返しであることに、つまりは真っ赤な嘘であることにギリギリのところで気がついた。危なかった。もう少しで鵜呑みにしてしまうところであった。
そもそもの話、今日はお盆でも何でもない日だろう? それでも、いてくれるというのなら、それは嘘に相違なかった。
耳鳴りが五月蠅くなっていく中、僕は叫んだ。キ――――――ン!! という音に負けないように。
「何時もありがとう!」
――そして僕はようやく、瞳を開けた。
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