第8話
昨日のメイのあのやりとりが言い争いと言ってしまっていいものなのか、僕は判断に困るところだけど、とりあえず、あの後、僕は彼女の問に対して明確な答を出さないまま、眠りについた。完全に言い負かされて敗戦逃亡したように見られるだろうが、事実そうなので否定はできない。
で、朝起きたら時刻は五時を回っていた。三時に寝て五時起きだから、別段、何時もと変わらないような睡眠時間であったが、出勤するための支度をしていた段階で、今日が定休日であることに気づく。
何もすることがなく、ただただ無為に時間を潰さなくてはならない。そう思うと無為な時間でも生産性があって、しかも何をすればいいのかハッキリしている仕事のありがたみが痛いほど分かる。一瞬、仕事をもらいに行こうかとも思ったけれど、僕個人の休暇ならまだしも、会社全体の休暇である以上、職場に誰もいないということは簡単に予想がついた。
事故に巻き込まれた昨日の今日で、どこかに出かけたくないという気持ちがあることもここに明らかにしておこう。
となると、僕に残された選択肢は、読書をするかメイと雑談でもして暇つぶしをするかの二択になる。まあ、昨日のことを思うに後者はすぐさま消滅したが。
僕はかなり前から読みかけであった『アウル・クリーク橋での出来事』を読むことに決めた。実は、二年前に購入しずっと置いてあったのだが、それは、この本が著作権が切れているいわゆる青空文庫であり、ネットで読んでしまったからという理由がある。
詳細は避けるが、ラストがかなり衝撃的な作品である。あれは流石に盲点であると思う。よもや、あの一瞬のためにこの作品の全てが書かれているとは思うまい。
と言うわけで僕は、この本を部屋のインテリアの一部にするという愚行を、約二年ぶりに挽回するべく埃を払いながら頁を開いた。
はたしてどれくらい時間が経っただろうか。まだ半分程度しか読めていないので、おそらく五分も経っていないと思われる時に、視界の端で、僕の布団がごそごそと動いているのを捉えた。
一瞬、何事かと身構えたが、冷静に考えればメイに決まっていた。すこしばかり動揺してしまったが、それは僕が彼女と同衾していたからというわけではない。むしろ、吸血鬼の設定的な部分を気にしたからである。
時刻は午前六時を回った。陽の光は薄いカーテンから漏れだしていて、お世辞にも吸血鬼に優しい時間帯とは言えないだろう。だというのに、彼女はこれこそが私の生活スタイルのあるべき姿と言わんばかりに、さながら芋虫のような堂々たる起床をした。
「おはよー」
寝ぼけているらしく、かなり舌足らずになっている。その細い目はトロンとしており、地に潜っていた彼女の吸血鬼たる威厳は、とうとう地中深くまで進みマントルの熱に焼失したようだ。
吸血鬼ではなく、実はただの地縛霊でしたというオチがきても不思議ではない。
いや、そうなると僕は死ねなくて非常に困るのだけれどね。
「おはよう。……なんか食べるか、メイ?」
「んーん。まだ喰わない。でもトマトジュースは飲む」
食べることと飲むことに何か差があるかのような言い方であるが、思えば昨日だって、食べものの名前にはこだわっていたのに、飲み物であるトマトジュースの原材料を気にすることはしていなかった。いや、それ以前に、食べるとも違うのか。食べると喰うの違いについても何か言っていたような記憶がある。
僕はどういう訳か買った覚えもないのに、平然とトマトジュースがあることを疑問に思いながらも、コップにそそいで彼女に与えた。
「っはあ! 朝はやっぱりこれに限るわ!」
朝っぱらからトマトジュースを勢いよく、それこそ仕事終わりのビールのように飲み干す少女の姿がそこにはあった。トマトでこれだというのなら、血を吸ったときはどういう反応になるのか気になるところである。吸ってもらう際には、是非正面で向かい合う形でしてもらおうと心に密かに決めた。
「朝っぱらから、読書? 暇なの?」
「暇だよ。仕事がなくっちゃ、何をしていいのか分からないんだ」
「ふーん。かなり寂しく生きているね、お前」
ほっとけ。と内心毒づいてみる。
「しっかし、読書ね。……実は、昔。といっても高校の時なんだけど。私も書いてたんだ、小説」
少し強引な気もするけれど、そんなことがどうでもよくなりそうなレベルの発言である。
「え、君って、高校とか行ってたのか!?」
「え、あー。……行ってたよ、うん。そりゃね……」
ものすごい勢いで、設定が崩れて行っているような気がするのは僕だけだろうか。そんな疑わしい視線を彼女に送り続けていたからだろうか、彼女は最後に折れるようにして白状した。
「はいはい。私は行ってない。行ったのは、私が喰ってきた人達。ついでに言うんなら、小説を書いたのも他の人間。ほら昨日も行ったでしょ? 私は誰かを喰う度に、自分というものが薄くなっていって、代わりに他の存在を取り入れているって。だからこそたまに間違って言うってしまうの。決して設定崩壊とか言うんじゃない!」
いや、設定崩壊云々を君が言うなよ。
「で、話を戻すんだけど」
「…………」
都合が悪くなり始めたタイミングで、彼女は無理矢理話を戻した。
「執筆すると、誤字とかってやっぱり多くなるのよ。私なんか特に酷くて、最盛期だと一頁に二個ぐらいのペースでやらかしてたし。誤字でリンゴ農園を擬人化させちゃった先輩もいたんだけど、その人が質なら私は量って感じ。……あ、勿論、私じゃなくて私の中の私だから、そこのところ私の許可もなく、私のことだと思わないでね。あくまでも、これは私ではなくて。この私ではなく、私の中の私の私情なんだから、私?」
私私言い過ぎて、ゲシュタルト崩壊起こしそうな字面であった。というか、最後噛んでんじゃねえ! この流れだと最悪誤字だと思われかねない。正確には、「わかった?」と言いたかったのだと思われる。わという一文字しか合っていないという始末であった。
しかし、それは流石に故意でやったのだろう。彼女は別段気にすることもなく、話を続けた。
「でね、酷いのはね。私……の中の私は、友達同士で作品を見せ合ってたんだけど、気がつけば、誤字と言えば私、私と言えば誤字。書けば誤字書いても脱字歩く姿は誤字脱字と、その仲において誤字脱字マスターの名を欲しいままにしたの!」
今度は誤字だけで、ゲシュタルト崩壊を目論んでいるのだろうか。いや、それよりも誤字脱字の擬人化のような扱いをされていることを指摘した方がいいのだろうか?
誤字で擬人化させた先輩と、誤字の擬人化であった彼女……の中の誰か。いったいどんな集団で作品を見せ合ったらそんな事態に発展するのだろうか。……何となく、集合をかけても時間内に全員が集まることはなさそうである。最悪、集合時間の約四時間後に起床するやつとかいそう。
などと、僕は自分が持てる限りの想像力を駆使して、その集団を妄想していたところ、メイは僕に先程まで赤い液体が入っていたグラスをつきだした。
「おかわり頂戴」
彼女の言われたとおりに、再びジュースを注いで目の前に出してやった。
「そういえば、君はずっとそれしか飲んでいないけれど、大丈夫なのか? いや、今すぐに食べられるのは流石に困るけれど、ほら、もとを正せば君は行き倒れてたわけで、トマトジュースで何時までもしのげるわけじゃないだろ?」
それができたのなら、これまで誰かを食べることなどしなかったはずだ。
「ええ、確かにこれだけじゃ少し足りないけれど。これって、ある意味キリスト教で言うところのワインみたいなのに過ぎないわけだから。そうだな、ほら、人間にも大まかに言えば一日三食みたいなサイクルがあるわけでしょ? それに近いものが私にもあって、一年に一回喰えればいいの。……勿論、お前達みたく余裕を持って喰ってるわけじゃないから、この期間を過ぎると普通に餓死する羽目になるけど」
「餓死って……。まあ、でも、今回は何とかなってよかったな」
かなり厳しいメイの食事情を知っても、僕は――食べる意味が分からない僕は――そんな有り触れた言葉しか返してやることができなかったけれど、彼女はそれを受け手ほほえみを浮かべるだけだった。
「そうね。ええ、今回でなんとかなる」
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