第7話

「ねえ、そんなの食べて美味しいの?」

「……少なくとも、君が飲んでいるトマトジュースよりは、僕好みの味だったよ」


 彼女の問いかけに僕は真顔で応えた。夕飯(というかもうや夜食)は、味噌汁と野菜炒めだけとかなり簡単に済ませた。過去形だったことに一瞬疑問を抱いたらしい彼女であったが、細かいことはどうでもいいと思ったのだろうか。トマトジュースをストローで吸った。

 片方だけがどういう訳か萌え袖っぽくなっている左右非対称のワイシャツ(どういったデザインだろう。まるで、キャラデザをする際に左手を描いて面倒くさくなったので、萌え袖で残った右手を隠しましたと言わんばかりである)で、僕を指さして訊いた。


「じゃあ、お前は何のためにそれを喰ってるの?」


 それはかなり核心に迫る発言であった。何のために食べるのか。それはともすれば何のために生きているのかと訊かれたに等しい。そんなもの、僕の方が知りたい。

 よもや、食事を残すと食材となった動植物が可哀想だからとは言うまい。

 僕はこの質問に対して答を出すことを放棄した。今考えたところで、答はでないだろうし、この後の人生で解くとしよう。無論、あと二日で死ぬ身で後の人生も何もないのだが。

 故に、僕はかなり強引に話題を変えることにした。


「そういえば、君の名前はなんて言うんだっけ? 横文字はあんまり覚えられなくって……」


 それは半分嘘で、半分本当だった。確かに、横文字は苦手であるが、それでも、彼女の名前は覚えている。それは、明子が名前に酷くこだわりがあったという印象が尾を引いているからかもしれない。


 メイト・エヌス・ホップ。

 彼女は目の前にあったペンでスラスラとアルファベットを綴っていく。当然のように筆記体で書かれたそれは、純粋な日本人(しかも、英語嫌い)な僕から見れば暗号のようであったけれど、中学生時代の知識を用いて、辛うじて読み取ることができた。

 『Mate Nth Hop』そこにはそう書いてあった。

 直訳、というかかなり意訳すれば、『乗り越えるN番目の相棒』という意味になる。なお、そこにどのような意図が込められているかは不明である。


「私は名乗ったけど、そういえばお前は名乗らないの?」

「いや、名乗り忘れてたってわけじゃないけれど、ほら、名乗っていいのかなって思ってさ」


 そう言うと、彼女は不審そうに表情を曇らせた。


「だって、君にしてみれば僕は食料以外の何物でもないわけで、となると、名前を言ってしまうとかなり食べずらいと思うんだけど」


 そこまで言うと、彼女も合点がいったように。そうそう、そんな見方もあるね、と口を開いた。


「ああ、まあ、確かに名前を知っちゃうとかなり食べずらくなるね。でも、お前は名乗りなさいよ。というか、食糧として喰う時も名前はちゃんと訊くわよ」

「でも、食べにくくなるんだろ? 僕だって、肉を食べるときにそれが生きていた時の名前を聞かされたら、もともとない食欲が完全になくなってしまうし」

「そうね。吸血鬼の私ですら、人間の名前を聞いたら、あんまり喰いたくなくなる」

「なら――」

「でも、名前も知らない得体の知れないものを、それこそ何処の馬の骨とも知れないやつの血肉を喰うだなんて願い下げよ。だって、それが巡り巡って私の血肉となるわけでしょ? 正直、気味が悪くない?」


 勿論。


「名前を聞くほど、厄介なことはないけれどね。だって、名前を訊いちゃったら、それは食事にならないからね。もはやそれは、その人間の肉を食べるんじゃなくて、その何某という存在を喰っていることになる。正直、辛いわ。もう止めてしまいたいほどにね。でも、そうすることはできない」


 どうしてと僕が問うと、彼女はただ一言、吸血鬼だからと言った。


「私は吸血鬼だから。お前みたいに生まれ変わらない。人間のように何年おきだったか忘れたけれど、自らの血肉としたものが消滅することはあり得ないの。私という核の割合を減らしながら他の存在を取り込んでいくしかない。だから、嫌なのよ。名前も知らないやつが永遠の隣人として私の中に居座り続けるのが」


 人間の細胞が全て入れ替わる周期は約七年である。これをある種の死だと仮定すれば、七歳、一四歳、二一歳の時に僕は死んでいると言うことになる。裏を返せば、彼女とつきあい始めてからの記憶は全て残っているというわけである。僕はその事実にこれ以上ないほどの安心感を得たし、同時に次に来る二八歳に同じくらい大きな絶望を覚える。

 メイ(名前が一番短くすむから採用した)は、僕の食事姿を見てさらにこう言った。


「ねえ、せめてもう少し美味しそうに食べれない?」


 再度繰り返すことになるが、今日の献立は、ご飯と味噌汁に肉と野菜を適当に炒めたものの三点だけである。勿論、一人暮らしの僕にとっては十分すぎる食事量だが、だからといって美味しいかと訊かれれば、いいえと答えるしかあるまい。

味覚が消えた僕にとって、食事など精々味のない栄養価が高いガム程度の認識である。まだしも、何度も噛まれることを前提として開発されたガムの方が、食感としては心地よかったりする。

まあ、五十歩百歩ではあるのだけれど。


「僕には美味しそうに何かを食べることなんてできないよ。味覚はないし、嗅覚だって最近異常が出てきたんだ。そうだな、あと数年くらいしたら美味しそうに食事する演技ができるかもな」


 もっとも、数年と言わず僕の命はあと二日間もないのだが。

 そんな受け答えに対して、メイはただ一言。


「はい?」


 と不満を隠すこともせず、むしろ表情を使って己の不満を最大限に表現して見せた。幼児が嫌いなものを食べた時もこういう表情はするまい。


「お前。何かを喰うってことは、命のやりとりでしょう? どうして不味そうに喰うの? もう少し感謝して食べないの?」


 感謝して喰え――ああ、僕の嫌な言葉である。普段なら、じゃあ、君はして食べているのか? その食材の名前も知らないくせに? とでも言っておけば終わる話だが(なお、今までこんな話をしたことはない。そもそもそんな友人がいない)、メイの場合はその手法が使えない。しかし、かといって僕の持てるカードがそれだけというわけではない。大人げないかもしれないが、何かを教えるというのは大人の仕事である。

 よろしい。食材に感謝すると言うことがどれだけ偽善にまみれ、欺瞞に満ちた行為なのか一つ人生の先輩として教えてあげようではないか。

 どころか、食材にとっては迷惑にしかならないのだと。


「感謝して食べろと君は言うけれど、それは自己満足に他ならないだろう。考えてもみろ、僕が今これに感謝しても、これにとっては迷惑どころか嫌みにしか聞えないだろ? 食材にしてみれば、僕が生きるための犠牲に勝手にされたみたいなもんなんだ。感謝されて何になる? ただただ憎しみを煽るだけだろう」


 メイは何度も頷いた。なるほどなるほど、と僕の言葉の意味をゆっくりと咀嚼するように相づちをうった。僕の話が終わるや否や、その通りと言った。そしてすぐさま口を開いた。


「で。だから、どうしたの?」


 目を瞑って、いかにも理解したという表情で同意した後のこの反応である。あまりの温度差に僕は言葉を詰まらせた。


「いえ、それはそうでしょ。何かを喰うってことは、食糧だったものが持っていた生命を我が物にするってことだから、自己中心的な行動以外の何ものでもないしね。それで、感謝されちゃあ、食糧も困るでしょうね。でも、それでも、お前はそれを喰ったんでしょ? どうして今更それらに気を遣うのよ。何かを喰うことの罪悪感から逃げるのよ? 喰ったんだったら、その責任を持ちなさい。逃げないで。――いえ、それ以前の問題として、こう言った方がいいのかな? お前は、感謝するということ自体よく分かってないでしょう」


予想だにしなかった反論に僕はまだ困惑していた。でも、いくら何でもそれは暴論ではないか? 罪を犯した時点でもう悪なのだから、もっと罪を犯せ。言ってしまえば彼女はそんなことを言っているのだから。


「でも、それは暴論だ。罪を犯した人が正義を志したっていいはずだ」


 彼女はふんと心底僕を馬鹿にしたように笑った。


「ははは! だから、この話に対してそんな例え話を持ってくるからお前は、全然分かっていないって言われるのよ。いい、言うけれどね。罪人が正義の味方を志すのは結構よ。でも、それとこれとは話が別。正義の味方はなろうと思ってなるものだけど、感謝はしようと思ってする物じゃない。できるのは、精々、ああまた感謝してしまったって自分の罪悪感を煽る程度。しようとしてした感謝なんてただの出任せ。嘘よ。なのに、お前が感謝の念を抱かずにいれるというのは、つまり、それを喰う意味がないってことでしょ? ただただ無為に食べているだけでしょ?」


 僕は目の前の彼女が吸血鬼であるということを思い出した。いや、正確には今この瞬間確信したと言うべきだ。だって、相手が吸血鬼だと心の底から信じていれば、不死身の相手を僕よりも年下だと思うはずがない。

 背筋が少し寒くなり、その上を変な汗がつーっと流れていった。今までかいたことがない種類の汗だった。ここまで人に見透かされたのは、久しぶりである。しかし、あの時はここまでではなかった。

 そんな僕の心情などお構いないに、彼女はこう言って追い詰めた。


「で、お前は何のためにそれを喰っているの?」

二度放たれたその言葉であったが、黙るだけで済んでいた一度目のそれとは比べものにならなかった。もはやそれは僕にとって殺し文句だった。

 胸が痛い。もともと皆無に近かった食欲が完全になくなった。

 しかし、どういう訳か僕は懐かしい気分にもなった。こういう言い争いが実に一年ぶりだと言うこともあるし、どういうわけか、彼女の喋り方がどことなく彼女に似ていた。


 彼女――明子に。

 言い合いになると、前に言った言葉を殺し文句として使ってくるところなんて特に。

 しかし、僕はその一致を否定する。彼女と誰かを重ねてみることは僕にとって許されざる行為だった。

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