第5話

 非日常とはどういうものだろうか。僕は、特に『吸血鬼カーミラ』を読んでいる僕としては、真っ先に吸血鬼などの怪物との邂逅を思い浮かべる。しかし、かといってそれが世で言うところのスタンダードかと聞かれれば否と答えるしかあるまい。

 世間ではもっと身近な、それこそ、交通事故などを思い浮かべるだろう。

 人を傷つけ、下手をすれば死に至らしめる。それだけでなく、その事後処理は事故の規模に応じて人の動きを制限する。

 僕は帰りにそのことを再認識した。思えば、自分がこんなことになったのも、これが原因の一つではあるというのに。一年間を過ごすうちに、そんな非日常と日常の境が曖昧模糊になったという解釈もできそうだったけれど、そうでないことは僕が知っている。


 僕が帰路についてから七分後、どのような場面に出くわしたのかというと、そこでは、交通規制が行われていた。

 病院で半ば強制的に(それなり以上の対応はしてもらったが)退院させられたことを思い出した。そして、あの時言っていた大規模な交通事故とはこういうことだったのかと理解した。

 詳しくはどうなったのか分からなかったけれど、車両運搬車が横転した車を回収しようとしていることからも、それはそれは悲惨な出来事であったのだろう。医者の話的に、もう一つ潰れている車があるはずだが、どうやらもうすでに回収済みらしくもう姿は見えなかった。


 もし仮に、ここで車と人との衝突事故が起こっていた場合、僕は少しばかり、いや、強がるのは止そう、かなり大きな精神的ダメージを負っていたに違いない。だから、その意味では車と車の事故で助かった。

 しかし、僕が軽い精神的ダメージを負うだけで今日が終わるかと言えば、そうは問屋が卸さない。電車に轢かれ、半日以上意識を失い、過去のトラウマをフラッシュバックさせられそうになった僕を待ち受けていたのは、さらなる不幸であった。


 そういえば、今日の占いは最下位であったが、なるほど、こういうことであったか。


 交通規制がかかっていた事件現場は車道どころか、歩道までも進入することができない有様だった。車両運搬車というかなり大きい車種が、比較的小さい道で作業するのだ。進行方向に直角な壁を作るかのようなかなり無茶な姿勢で停まっていた。そんな体勢にせずとも、もう少しやり方はあっただろうと思うが、なにぶんプロのやることである。僕なんぞ到底理解のできないノウハウがあそこにはあるのだろ。

 というわけで、僕はそこよりもさらに狭いという裏道を使う羽目になった。歩道と車道の境界線など当たり前のようにないそこは、幸いなことに僕以外に誰もいなかった。もともと、こんな時間である。出歩いている人はもとより自動車の交通量もかなり少ないのだ。


 病院とマンションをほぼ直線距離で結ぶこの道であるが、あの日以降、この道を使ったことはなかった。確かに、あの道で一五分もかかるところがここでは一二分で行けるのだが、それでも、どれほど急いでいたとしてもここの道は使わなかった。

 だって、先程の交通事故が軽いトラウマなら、ここは僕の中で最も重いトラウマの場所なのだから。いくら今、零時を回ったからといっても、できれば使用したくなかった。

 この先カーブ注意! スピード落とせ! そんな標識を横切って左右あるうちの右の道に進んだ。一年ぶりに通った道であったが、こんな看板が新しく作られていることを初めて知った。こんなのを作る程度なら、ガードレールを造れと思う。

 裏道は相も変わらず、最低限の光だけは灯っていた。等間隔に電灯が置かれているのだ。

 一つにつき、およそ三〇メートルの間隔であったから(ある時、暇をもてあました僕達はメジャーを使って計ったのだ)、およそ分かれ道から一二〇メートル進んだところで、もう一つ向こうの電灯の下で誰かが倒れているのが見えた。


 一瞬、酔いつぶれたおっさんかとも思ったのだが、その姿は成人男性の身長と比べてかなり小さそうであった。およそ、一五〇センチあるかどうかだろう。僕は相手の身長を目測で測ることにある程度自身があったので、何の疑いもなく少女だろうと思った。

 目測がかなり正確な理由は、僕の身長があまり大きくないことに由来する。高校時代までの僕は、身長の高い人の横に立つのを妙に嫌った。それ故、できるだけそんなことにならないように、相手の大まかな身長が分かるようになったのだ。

 いや、今はそんな悲しい事実はどうでもいい。

 はたして、彼女は一五〇センチらしかった。僕と一五センチ……およそ二〇センチも身長に差があるのだ。確実に一五〇センチである!


 じゃなくて。


 彼女に駆け寄った僕は先ず、顔色が見えるように、うつぶせの状態だった彼女を抱き起こしてこちらに向けさせた。白い髪に色白な肌はなるほど、僕以上に不健康そうである。血でも足りていないんじゃないかと心配してしまう。ここで、通行人があれば僕達はすぐさま病院に送り帰されてしまうに違いない。

 驚くほど軽い彼女の身体を抱き寄せながら、救急車を呼ぼうと思ったが、それよりも前に彼女の口から一言、


「……トマトジュース」


 という言葉がもれた。

 外見的に、外国の方かと予想していた僕だったけれど、出てきた言葉は思いの外日本語だった。発音的にも英語のそれではない。ここで、僕は自らの杜撰すぎる、それこそ吹けば飛ぶような英語力を発揮しなくても済むと安心した。

 できるだけ彼女の意思に応えようと思ったが、いかんせんトマトジュースである。近くに自販機はあるのだが、そんなに都合よく、トマトジュースなどというレア種の飲料が売っているはずも――あった。

 記憶を遡り、昔付き合っていた彼女と供にふざけてここの自販機で購入していたことを思い出した。それがあまりにも不味いがために、割り勘の六〇円が霧となってコンクリの染みに消えたことを思い出した。

 僕は彼女を優しく地べたに下ろすと、トマトジュースを買ってきた。


「……トマトジュース」


 乾ききった砂漠の中で、見えもしないオアシスを望んでいるかのように、悲壮感漂う台詞に心を打たれそうになる。一刻も早く多量に摂取させてあげたいという母性に近い(おそらく違う)感情が心の底から、湧き水のようにこんこんとあふれ出す。

 僕は彼女の上半身を起こし、頭を右手で、背中を立てた右足で受け止め、その体勢でトマトジュースを彼女の口に流し込んだ。ジュースがトクトクと注がれていくにつれ、顔色が徐々に明るくなっていく。


 ゴキュゴキュゴキュゴキュ!


 しばらくすると、彼女の瞳がカッと見開かれた。紅くさながらルビーのように見る者の視線を独り占めする瞳だった。


 ゴキュゴキュゴキュゴキュ――――ブシャア!!


 その瞳に視線を奪われたまま、ただひたすら、赤い液体を彼女の喉に流し込むという作業をしていたら、缶も半ばを過ぎたあたりで真っ赤な噴水が上がった。およそ、少女がならしてはならないような効果音とともに吹き出されたそれは、霧になって露と消える前に、僕のスーツと彼女の白いワイシャツに赤に赤い斑点を作った。


「…………」

「…………」


 彼女の赤い瞳が僕を無言で見ていた。目が覚めたら、見知らぬ男に抱き寄せられているという彼女の心情を推し量ってみると、そこには恐怖しかないだろう。

こういう時、僕は何て話しかけるのが正解だっけ? ありがとうございましただっけ? あ、いや、それは考えるまでもなく駄目だろう。僕が完全な変態と化してしまう。

 無表情ながら、心中でそんなことを考えている僕であったが、最初に話しかけてきたのは彼女の方だった。


「お前、私を殺す気か! 流石の私でも、トマトジュースで殺されるなんて堪ったものじゃない! ……いや、まあ、実際に死にはしないけれどね」


 彼女はキレていた。死に際を助けられてその態度とはかなりいい性格をしていると思うが、その後に、蘇生した彼女を溺死させようとしたのが僕であるということを考えれば、その態度にも納得がいくというものだろう。完全にマッチポンプである。


「いや、マッチポンプじゃないでしょ。むしろ、その対極をなすものだと思うよ!」

「は、はあ。まあ、すいません」


 彼女が僕の内心に突っ込んだことに、少しばかり度肝を抜かされたが、後で訊いたところによると、独り言としてもれていたらしかった。しかし、それ以上に僕の受け答えが少々曖昧になってしまった感が否めない。

 事実、彼女も少しばかり不機嫌そうに顔を歪めたが、助けられたということには自覚があるのだろう、そのことに関しては見ずに、もとい水に流してくれたようだ。ただ、機嫌はそう簡単に直るものではないらしく、僕は謝罪にさらに言葉を付け足した。


「君の瞳があまりにも綺麗だったから、つい……」


 言ってから思ったが、このシュチュエーションでこの話を切り出すのはいかにも、不自然で露骨に機嫌を取ろうとしていることが見え見えであるし、むしろ、世の中にありふれている台詞でもあるため、場合によっては馬鹿にしていると受け取られるかもしれない。もっとも、それ以前に、これでは君の目が原因でこうなったと暗に責任転嫁しているようなものである。

 はたして。


「ははは! まあ、見とれちゃうんなら仕方ないよね! なんたって、私吸血鬼だし! お前みたいな人間に男なんか瞬間で落とすことできるし! これこそ、吸血鬼たる余の宿命よ!」


 彼女の機嫌はうなぎ登りであった。瞳を褒められた程度でここまで調子に乗るようなやつがあっただろうか。それも、一人称まで変えるほどである。……一瞬、あの子の笑顔が頭をよぎったが、慌てて頭を左右に振る。流石の彼女でもここまで酷くなかったはずである。


 多分、おそらく、きっと。


 これを彼女の性格に難があるとみるか、それとも、単純に彼女のキャラクター性が定まっていないからとみるべきか議論の余地はあったが、まさかここで始めるわけにも行かないので、僕は保留にした。

 いや、それ以前の問題として、僕は先程彼女の口からポロッと出た衝撃的な発言をよく掘り下げなければならない。


「……。君、今、吸血鬼って」

「ふふふ、聞いて驚け、見ておどろけ! 私こそは、メイト・エヌス・ホップ。吸血鬼なり!」


 クハハハ! と若干、背中をのけぞらせて嗤う彼女。その堂々とした振る舞い、自信に満ちあふれた表情。平均よりも高いはずの彼女の声までもが、腹の中まで響いてくるかのような高らかな名乗りだった。カリスマとはこういうことを言うのであろうか?

 もっとも、彼女の体勢がその全てを台無しにしていたのだが。

 抱き寄せられている状態での発言であることが、この上なく口惜しかった。これでは、格好いいどころか可愛いである。それこそ、今、ここで彼女の身体の支えとなっている右腕と右脚を一気に引くとどういう反応をするのだろうとか考えさせられてしまう。

 しかし、彼女は自分が吸血鬼であることを認めた。一般的には、いや、平生の僕でもこの発言は流石に眉唾物だろうと、一考する価値もない戯言だと一蹴していただろうが、残念ながら今の僕は少しおかしかった。

 

いや、完全に異常だった。

 

 明日への希望もなく、かといって死ぬこともできず、さらには明日からはお盆休みで仕事もできない。何をして時間を潰せというのだろうか。それ以前に、仕事をすることにも虚しさを感じてしまう今日この頃である。お盆をこのまま無為に過ごしたところで、始まるのはそんな日々だ。目の前の彼女が吸血鬼であるというのなら、僕を殺して欲しかった。

 故にこれはある種、藁をも掴む気持ちと変わらないだろう。知らぬ神より身近の鬼ではないが、僕は彼女に願った。


「君が吸血鬼だというのなら、僕を殺してくれ!」

「ちょ、ちょっと。いきなりどうしたの!? 流石に怖いんだけど! 目的も分からないのに、私に食べられようとするとか……。怖っ! 人間怖っ!」


 結果、立場が逆転した。襲う立場にあるはずの彼女は僕の腕の中でブルブルと震えだす。微妙に涙を目尻に浮かべているところが、彼女のポンコツ具合をこれでもかという程表していた。もともと地に落ちていた彼女の威厳であったが、この件で完全に地中に潜ったと言っていいかもしれない。

 しかし、曲がり曲がっても。評判が潜りに潜っても、彼女は吸血鬼である。そう、腐っても吸血鬼なのである。


「大丈夫だよ。君だって、そこで行き倒れてトマトジュースを乞うくらいには、お腹が減っていたんだろ? ほら、血液だよ? 僕の分全てを君が飲んでも構わないんだよ?」

「怖っ! なんか誘拐されそうな口調なんだけど!? 本当に意図が読めない! 説明してよ。じゃないとお前は完全に異常者のそれにしか映らないから!」


 できるだけ丁寧に言ったつもりだったが、それが逆に誘拐犯のように映ったようである。しかし、それはかなり正鵠を射た突っ込みであったと思う。行き倒れるまで空腹に悩まされた彼女にとって、突然の食料はかなり怪しいのだろう。目的も分からないような相手に血(飛躍させれば命)を突然捧げられるというこの状況も、そのことに拍車をかけているに違いない。


 だから、僕はストレートにこう言った。


「僕は死にたいけど、死ぬ勇気も、死ぬ機会も逃してしまったから、君に殺されたいんだ! 君ならきっと完全に僕を殺してくれるだろう? というか、そうした方が食料的には助かるだろ?」

「いや、やだけど」


 彼女はそう即答した。


「流石に、吸血鬼にも何を喰うか程度の自由はあると思うのよ、うん。賞味期限がきれてもはや腐りかけの食糧をお前だって、喰わないでしょ? それと同じよ。いくら社会的に弱い立場に置かれた私でも、それぐらいは許してよ。というか、私が喰うものくらい私に選ばせて!」


 彼女は食に執着していた。不幸な私から、ささやかな自由を奪わないでよ! と言いたげな表情である。

 というか、僕に対する彼女の評価があまりにも辛辣だった。

 食品売り場で売れ残り、野生の生き物にも相手にされず、ゴミ箱の中でゆっくりと発酵していく豚肉に変な親近感を覚えてしまいそうになった。


「いや、でも君。実際にはお腹も減って、しかも行くあてもないだろ? ここはWINWINの関係ということじゃ駄目なのかい?」

「……お腹下しそう」

「すまないけれど、僕をそこら辺に落ちている生ゴミみたく見るのは止めてくれるかな?」


 下手したら生ゴミ以下の存在に成り下がっているかもしれない僕だったけれど、彼女はそこで少し考えながらこう言った。


「でも、お前はそこまで死にたいとは思っていないでしょ? それこそ、生きる目標みたいなのはあるように思えるけれど、どうして死にたいの? 私にはそれが分からないよ」


 そこまで言われてから、僕はようやく自分が言葉足らずなことに気がついた。しかも、それは一番最初に彼女に伝えるべきことであった。

 明日の希望はない僕でも、二日後にはやるべきことがあるのだ。

 いったいどうして彼女が、僕の事情を理解できたのかはよく分からなかったが、しかし、それはかなりありがたい指摘だった。もし仮に、ここで僕が死んでしまったらその時は微妙な後味の悪さが残ってしまうから。もっとも、死んでしまえばそんなことは露と消えてしまうだろうから、あまり大差はなかっただろうが。


「すまない。完全に言い忘れていたんだけど、君に今すぐに僕の血肉をあげることはできない。でも、あと三日。いや、もう二日間待ってくれ。そしたら、僕のこの身は君にあげよう。そして君の血となり肉となろう!」


 彼女を抱き寄せ、そう宣言した。さながら、姫に忠誠を誓う騎士のように。

 対して、彼女は驚くほど冷ややかな視線で、それこそ全てを射貫くような冷酷な視線を僕に向けた。それは僕を緊張させ、心臓の鐘を早鳴らせるに足る眼光である。口が少し開かれた。そこに覗くのは少しだけ長い八重歯。僕はその挙動の一つ一つに高貴な吸血鬼としての片鱗を見た。


「ねえ、そんなこと言って恥ずかしくないの?」


 ……何かが急速に冷まされていく感覚がした。まるで思い出したかのように、甲高い耳鳴りが頭の中に響く。

 その言葉は、しかし、彼女が締まらない自己紹介をしたあの時にでも、返してあげたかった台詞だった。

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