茜色の君

現夢いつき

第1話 

『残ねーん、一二位は射手座のあなた。とっても不幸な予感。何気ないことで足下を掬われちゃうかも!? でも、大丈夫、あなたが好きだった人がきっと助けてくれる!』


 今日も今日とて、本当にどうでもいい内容しかテレビのニュース番組はやっていなかった。何が情報番組だ、バラエティと何ら変わらないじゃないか。

 勿論、そんなことを思うのなら、純粋に情報だけが欲しいのなら大人しくNHKのニュース番組でも流しておけば良さそうなものだが、受信料を払っていない手前、少しだけ抵抗を覚える。

 僕はそんな何時もの――一年前から何一つ変わらない朝を迎えた。無論、一つ。いや、最近になって増えて合計二つ大きな変化があった。

 朝食の鮭は程よい塩加減で、口の中に入れると旨味とともにほろろとほぐれていく。味噌汁が身体に染み渡るようにして、僕の体温を上げる――ということはあり得ない。


 だって、僕は味覚が正常にはたらいていないのだから。

 もっとも、五感のうち、味覚以外は比較的まともに働いているわけだから、日常生活に支障が出るほど深刻なものではない。しかし、最近になってさらに嗅覚が怪しくなってきたことは見過ごせない問題であった。

 目下一番の問題である。

 本来なら病院にでも行けばいいのだろうが、僕は病院に行くどころかそもそも、誰にもこの症状を打ち明けていない。実家暮らしをしていれば、あるいは、友達ともっと飲みにでも行っていれば、僕が言うまでもなく露呈してしまっていただろうが、最近になって人付き合いが悪くなった僕の変化など、誰も気づくことはなかった。


 もはや無味微臭というよく分からない感触のモノを、もちゃもちゃと口の中で咀嚼する作業を繰り返す。それを何度繰り返しただろうか。時刻が七時を回った時には、目の前にあったはずの食料はすっかり消えていた。

 何の感動もなく、ただただ食事を終えてしまった。いつから僕は食事をすることに対して感謝をしなくなったんだっけ? 思い出そうとして、とても悲しい気持ちになった。思い出してはいけない記憶にぶち当たり、顔をしかめる。

 鮭の黄色よりの赤い焼き汁が、乾いてしまわないうちに皿を流しにだした。夏の、もっと言えば明日からお盆という季節柄、不衛生なシンクは悪臭を発するというのが世の常である。僕はここに住み始めてからもう二年経つが、少し前にそれを知ってから慌てて綺麗にするように努めている。


 もっとも、そんな涙ぐましい僕の努力なんて焼け石に水みたいなものだったのかもしれないが。その証拠と言っては何だが、キッチンからは異臭が微かに漂っている。嗅覚に支障をきたし始めている僕でこれなのだから、実際はもっと酷い有様なのかもしれない。

 そんなことを思いながら僕は包丁を洗う。持ち手がぬめぬめとしており、下手したら滑って落としてしまいそうである。種類は違うがあと三本の包丁が、シンク下の棚に収納してあるのだから、取り替えてしまえばいいものの、怠惰な僕はそんな面倒をしなかった。

 きっと、明日も僕は替えないのだろう。どころか、明後日、明明後日になっても。

 洗い物を終え、両手を振って水滴を飛ばした。


 一人で済むには広すぎると思わなくもないような、1LDKの一室に僕は住んでいる。自分以外の誰かがいないと、寂しい思いをするんじゃないかと僕に近しい人達は言うけれど、そんなの、誰かと一緒にいようとこの気持ちは変わらないと思う。

 朝っぱらから、どんよりと鉛のように思い気持ちが腹の底からゴポリと吹き出す。どうしてこんな思いをする必要があるのかと溜息をもらした。

 何時ものようにスーツに腕を通し、まだ時間に余裕があったので、カレンダーを確認する。覚えてはいたけれど、というか忘れることなんてできないけれど、三日後があの日だと知って、なけなしのやる気を振り絞る。


 よし、三日間はこのために生きられる。


 目を瞑り、胸の中でその言葉を反芻させる。まるで呪文のように。いや、もっと有り体に言えば、僕自身を説得するように――繰り返した。

 それをすることで僕はほっとする。まだ生きていたいと思っていることに安心する。しかし、その反面、こうも思うのである。まだ生きたいとはなんと意地汚い。死にたい死にたいって毎日言っているくせに、本当は死ぬ勇気がないだけだろう、って。

 どうして僕はまだ生きているのだろう。

 もう一度、カレンダーを確認してから、僕は視線をベランダにやった。ガラスで仕切られたそこは、何時ものようにカーテンに遮られている。そこからもれる光を見て、僕はカーテンを開けた。

 ここ最近は夏だというのに曇り続きであったが、今日は一転して雲一つない青空が広がっていた。日本晴れとはこういうことをいうのだと再認識する。

 出社時刻まで実はかなりあった。今から行ったのでは、何時も乗っている電車よりも一つ早くなってしまう。そんなことを考えて、もう少し家で適当な小説なんかを読もうかとも思ったけれど、天候を見て気が変わった。


 僕は肌を焼かなければならない。というのも、僕は生まれながらにして色白だったのだが、それがつい一年ぐらい前からかなり深刻になってしまった。もはや白蠟である。目の下にできた隈もまずかった。これらのことによって、僕の職場の人々は勿論、初対面の人にだって顔色を心配されるようになってしまった。僕がいくら健康そのものだと主張したところで、誰も聞く耳を持たない。

 何かあるたびに、有給を取らせようとする始末である。

 だから、僕は肌を焼く必要があるのだ。いくら病弱そうに見える白い肌といえども、陽の光で表面を焦がされては、健康そうに黒くなるほかない。

家の戸締まりをしっかり確認した後、家を出て会社までのおよそ四キロという道のりを歩き始める。四キロといえばおよそ一時間でつく距離だ。もっとも、今から一時間と考えても始業時刻にかなり余裕をもって着いてしまうが、それでも、電車で行くよりはマシな時間になるだろう。


 外に出ると、予想以上に陽が強かった。思わず、顔をゆがめて手でパタパタと扇ぐ。もともと、それで涼しくなるとは思っていなかったけれど、そうすることでかえってむわっとした言いようのない不快感が僕の肌に絡みついてきた。

 歩くこと数分もしない間に、汗が額から吹き出した。想像以上の早さで出番が回ってきたハンカチでそれを拭きながら、僕はさながら電灯の光に誘われた蛾のように、そこに向かうのだった。


 そこというのは、勿論会社――ではない。徒歩五分でたどり着ける最寄りの駅である。もっと言えば、そこに設置されている冷房に僕は惹かれたのだった。

 ほんの少しのつもりだった。それこそ、汗が引っ込み、水分を購入したらすぐにそこを離れるつもりだった。陽の光の圧倒的な熱量に蹂躙された僕は、装備を調えて少しでも形勢を有利な方へ動かしてから果敢にもまた挑むつもりだったのだ。

 しかし、汗が引っ込むかどうかといった時には、そんな思いなどどこかに捨てていた。きっと汗と供に流れていったのだろうと、冷静な頭で考えながら購入したスポーツドリンクで喉を潤す。(味はしないが、塩分、ミネラル等の成分のことを考えるとこっちを買った方がよかろう)

 我ながら馬鹿であった。自然に人間が勝てるはずがないのだ。精々その出来事を教訓として次に活かすぐらいのことしかできないのだ。水を飲み干し、近くのゴミ箱に入れてから駅のホームに出た。


 流石にここには冷房なんて気の利いたものは付いていないのだろう、横戸を開けて出てみると今まで忘れていた不快感が汗となって僕の身体にまとわりついてきた。

 まだ誰もいないうちからホームに並んだ。普段、立っているだけでも辛いというのに、この暑さで立ち続けるなど確実に僕が死んでしまう。そう考えると、先程の徒歩で出勤するというのは紛れもない自殺行為だったことが分かる。

 先程の無謀な行いに対して、背筋を冷やしていると、徐々に人が集まってきた。いつもと違って人が多いことに違和感を覚えたが、考えるまでもなく、自分が一つ早い電車に乗車しようとしたことで通勤ラッシュに重なったのだと気づいた。

 左頬を一筋の汗が伝っていった。


 電車の中にこんなに多くの人達が乗ると思ったらゾッとした。車両内では、いったい、どれ程の湿度を誇るというのだろう。今からでも次のやつに乗ろうかと、購入した切符を出しながら考えたけれど、今なお人が並のようにホームに流れ込んできている様を見ているとどうにも不可能らしかった。

 やがて人の流れも止んだあたりで、もうすぐで電車が来るという旨の案内が放送された。それと供に、誰が作ったのか分からない曲がなり始める。

 クーラーがガンガンに効いていることを祈りながら、僕はその場に立っていたけれど、汗でベトベトになっていた右手が、切符を落としてしまった。幸いなことに、落ちた場所は目の前で、すぐに拾うことが可能だ。これが線路の上に落ちていたらあわや大惨事であろう。パニックに陥った僕が謎の判断でそこに飛び込むかもしれない。

 足をあまり曲げず、腰だけを曲げて切符を取ろうとする。


 しかし。


「やべえ、遅れちまう!!」


 そんな声と供に高校生が列に割り込んでそのまま違う車両の列まで走って行った。勿論、その光景を僕は見ていないし、声と後ろから押される感覚から列に割り込んできたのだろうと僕が判断しただけである。しかし、割り込まれた帳尻会わせは先頭に行くものであり、故に、体勢が不安定だった僕は後ろから押される力に抗うことができず、そのままレール上に飛び込んでしまう。


 え? と思う暇もなかった。僕にできたことと言ったら、本能的に目を瞑ることぐらい。

 甲高い音がした。どうやら、電車が急ブレーキしようとしているようだった。もともと、減速しているとはいえ、今からでは止まることなどできないだろう。

 あと三日間生きるという目的を達成できなかった悔しさはあったけれど、これで終わるんだという開放感があった。しかし、それは充実感や幸福感とはほど遠いものだった。


 これで終わってしまうのかという呆気なさが胸のなかで滲んで広がった。

 駅の音楽も、僕の後方でスマホをいじっていた人の悲鳴も、全て電車のすり切れるような金属音にかき消された。

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