オーバーデイズ

第1話

 外は雪が降っていた。この時期にしては実に早い。まだ秋の半ばだというのに空から小ぶりな雪が降っていた。積もることはないだろうがそれだけ外が寒いということだろう。帰りは震えながら自転車を走らすことになりそうだった。それにしても本当に早い。異常気象というやつか。ここ数年季節感がひっちゃかめっちゃかな気はする。テレビでまた騒がれるんだろう。

「じゃあなー」

「おう、また明日なー」

 俺は友人に手を振り古本屋を後にする。今日は部活が早く終わり、暇なので古本屋に立ち寄ったのである。気になっていたいくつかの漫画の一巻を流し読みして、面白いと思った一冊の一巻と二巻を購入し店を出ると、すっかり遅くなっていた。帰って晩飯を作らなくてはならない。

 俺は名前を野尾春太といった。なんでもない普通の高校生である。人並みにそこそこ得意なことがあり、人並みにそこそこ不得意なことがあり、プラマイで考えれば平均みたいな普通の人間である。部活は別に強くもない卓球部で、勉強の出来は中の中といったところ。得意科目は化学で、苦手科目は英語だ。

 一応俺が住んでいる街を紹介する。ここは湊市。日本海に面した北国の港町である。なんのひねりもない名前をしている。大型ショッピングモールがあったり、中心道路には有名チェーン店がいくつも並んでいたり、このあたりでは一番の都市である。しかし、所詮は地方都市の域であり、本当の都会の人間からすればいわゆる「何もない街」である。しかし、北には大都会に向かう大きな道が走り、東西にも海岸伝いにひたすら地の果てまで続く国道がある交通の要所である。なので、車の行き来は非常に多い。国道で立ち止まって車のナンバープレートを見れば古今東西様々な地名を見ることができる。街の中心産業は米づくりにはじまる農業と海で行う漁業。空気がきれいなので郊外には半導体の工場もある。あと酒蔵もいくつか。しかし、どれも全国シェアトップというものはない。これといった特徴のない街である。街を出ると北西東、どこへ行ってもひたすら田んぼと道、そしてその中に集落が点在する景色が続く。ど田舎というほどではないが都会というほどでもない。そういう街である。俺はこの街を結構気に入っている。

 俺は古本屋から自宅に向かって自転車を走らせる。家は国道を超え、住宅街を抜けてしばらく田んぼの中を抜けた場所にあるアパートだ。俺はそこで一人暮らしをしている。雪はもうほとんど形を失ってみぞれになりはじめていた。みぞれというやつは半分固形だから当たると痛いし、半分は液体だから濡れるしで実にたちが悪いと思う。俺は傘を差して家路を急いだ。住宅街を抜け田んぼのエリアに入る。風がないのが幸いだ。ここは何も遮るものがないのでモロに当たる。もう日は大分落ち、あたりは薄暗くなっていた。薄暮というやつか。景色が青色に染まっていた。立ち並ぶ鉄塔には赤色灯が灯り、果てしない先まで家々の明かりが散らばっていた。綺麗な景色だが見とれているよりさっさとペダルを踏まなくてはならない。家まではまだまだあるのだ。みぞれが本降りになる前にたどり着かなくてはならない。俺はひたすら親戚から譲り受けたボロいママチャリを走らせる。住宅街を離れてから4つ目の交差点を右折する。細い街頭もない道で、車通りもほとんどない。こちらの方が近道でいつもこっちを通っている。本当に誰も居ない。高校生活を始めてから2年目になるが誰かとすれ違ったことは数える程しかない。この時間になると一度もない。恐ろしく寂しい道である。俺はそこをひたすら走る。

 走って走って、しばらく進んで、ふと前方の異変に気がついた。

「なんだありゃ」

 思うわず俺は一人言を漏らす。

 異変だった。普段はないものだ。この道では見たことのないものだ。俺は自転車を走らせ、その異変に近づいていく。その正体が何かを確かめるために。

 それは紫色の光だった。それが田んぼの真ん中にあるのだ。それは円系で、妙な図形がいくつも中に描かれていた。小さくて見づらいが間にはおそらく文字であろう文様も見えた。何か円形の板に電蜀が埋め込めれているのだろうかと思った。というか、あれはいわゆる魔法陣というやつではなかろうか。漫画やゲームなんかで見る奴だ。なんだろうか。誰かの撮影か、それとも趣味が暴走したのか。はたまた新興宗教か。俺は怪しいので自転車の速度を落とした。ゆっくりと、その正体を見極めようと試みる。そして異常に気づいた。魔法陣の図形の間、光と光の隙間に、家の明かりが見えたのだ。それはこれが板に貼り付けられた電蜀でないことを意味していた。なら針金か何かにくくりつけられているのかという仮説もすぐに打ち消された。とうとうその光のそばまでやってきた俺は目を丸くした。魔法陣は空中に浮いていた。何か土台があるのではない。正真正銘空中に浮いていた。いや、それも的確でないかもしれない。これは、そう、空中に描かれていたのだ。何もない宙空に図形やら文字が刻まれていたのである。俺はなんなんだこれは、と状況が飲み込めずに呆然とした。

「やぁ、人間じゃないか。おいおい、話が違うぞこれは」

 背後から声がした。それはいわゆる合成音のような複雑な響きをしていた。俺はゆっくりと振り返る。それは魔法陣の紫色の光に照らされ闇にぼんやりと姿を浮かび上がらせていた。そいつは大きかった。背丈は建物の2階部分に届くであろう高さだった。そして人型ではない。なんだか良くわからない肉の塊のようだ。表面はすべすべしたナマコの皮膚に近いだろうか。はヌラヌラと光っている。顔にあたる部分はのっぺらぼうで、ドレッドヘアーのように触手のようなふさがいくつも垂れている。獣のように裂けた口に人間のような揃った歯が並んでいた。色々と言葉を並べ立てたが、一言で言うならば化物だった。

「おおおおお!」

 俺は間抜けな叫び声を上げて腰を抜かし、尻餅を付いた。何が何やら、状況が謎である。何故目の前に化物が居るのか。作り物にしてはあまりにリアルだった。それとも、最近の特殊メイクはここまで進化したのか、とか必死に状況を分析する俺を尻目に化物は顎に手を当ててさすった。

「困ったねぇ。邪魔が入らないっていうからここを選んだのに。面倒だねこれは」

 化物は困っているようだった。何が困るのかはとんと見当がつかない。

「な、なんだお前は!」

 俺は叫んでいた。何か言葉を発したほうが頭が落ち着く気がしたのだ。

「なんだい。随分強気じゃないか。こんな怪物を前にして大したもんだね」

「な、なんだそりゃ」

「いやね。前の人間は言葉も発さず震えてるだけだったからさ。僕が何かといえば、見ての通り化物だよ。アザムヤゼムっていう名前さ。この世界のとなり側。『ストレンジ・グラウンド』からやってきた」

「な、なんじゃそりゃ。マジで言ってんのかお前」

「大マジだよ。それで僕は向こうとこっちをつなぐ大きな『門』を作ろうとしてるんだ。その鍵が後ろの法陣なんだよ」

 アザムヤゼムは俺の後ろを指差す、しかし振り返れない。この化物から目をそらすべきでないと俺の本能が言っていた。

「全然意味が分からん。状況が飲み込める気がしない」

「ははは。まぁそうだろうね。飲み込めてたらむしろ異常だよ」

「そ、その門とやらを開いてどうするんだ。文化的交流が始まるのか」

「ははぁ、その発想はなかったな。それはそれで面白いかもしれないけどそうじゃない。『古き母』を現界させるんだよ」

「なんじゃそりゃ。とんでもない婆さんってことか」

「あながち間違いではないけれど正しくはないかな。まぁ彼女のことは説明する意味はない。とにかく彼女を現界させることに意味があるからね。彼女はその力で世界を塗り替えるのさ。つまりこちら側があちら側と同化するんだ。僕たちはそれを目的としている」

 アザムヤゼムはニンマリ笑った。目はないからあくまでその獣のような口元が大きく歪んでいるのだがとてつもなく不気味だった。

「するとどうなるんだ」

「僕たちにとってパラダイスになる。まぁその場合は残念ながらこの世界の生物にはご退場いただく必要があるけどね」

「そりゃつまり、この世の終わりってことか」

「そういうことだね」

 アザムヤゼムの笑顔が一層深くなった。実に嬉しそうだ。しかし、当の俺は会話したことの9割型を実感できていなかった。まったく意味がわからない。まだ、後ろの魔法陣が空中に浮いていることさえ飲み込めていないのだ。化物も化物の言うことも全部入った途端に抜けているといった感じだ。俺は眉をひそめ、口をあんぐり開けてフリーズした。

「おーい、大丈夫かい。まったく動きが止まったけど」

「あ、ああ。大丈夫だ」

「そうかい、何よりだ」

 アザムヤゼムはクツクツと笑い声を漏らした。それから、がばっと体を起こした。アザムヤゼムの下半身が闇の中に浮かび上がる。そこには口があった。口といっても上の生物的なものではない。ドロドロとした触手が何本か並び、その真ん中に何かを入れそうな空洞がある。そこからは悪臭が漂っていた。

「な、なんのつもりだ」

「ああ、話もひと段落したからね。そろそろ君をいただくよ」

「はぁ!?」

「食べるってことさ。こんなところ目撃されて、情報まで知られて、生きて返すわけにはいかないだろう」

「情報はお前が勝手に話したんだろうが!」

「そうだったかな。でもはじめに聞いたのは君だったのは間違いないよ。まぁ、どっちにしても君を食うことに変わりはないからね。丁度腹も減っていたんだ」

「じょ、冗談じゃない!」

 俺は一目散に走り出す、つもりだったが動かなかった。足がもつれにもつれ、腰も抜けたままで全然力が入っていない。しかし、なんとか動こうと這うように手足を動かした。

「ははは。それは逃げてるつもりなのかい。随分間抜けだけど。まぁ、そういう意思があるのはいいことだ。この前の人間はすぐ食べれちゃってつまらなかったから、この前よりは面白いよ。さて、じゃあいただこうかな」

 アザムヤゼムの口が開く。触手が伸びてきて俺の体を絡め取った。それはヌメヌメしていて実に不愉快だった。なんてことだ。思考が追いつかないことばっかりでまだ頭は回っていないが、今生命の危機に晒されているということだけは分かった。食われる、というのは全然現代の人間が経験する死に方ではないだろう。どぎつ過ぎる。俺は必死に地面に手足を喰い込ませ抵抗する。が、俺が部活で曲がりなりにも鍛えた肉体の抵抗は、しかし大した効果を発揮しない。ずるずると口に引き寄せられていく。そして、足先がアザムヤザムの口に入った。

「うおおおおっ」

 それは食われているという感じではなかった。食うといえば歯か何かで噛み潰されるというイメージだったがそれは今まで感じたことのない感触だった。近い感覚があるなら溶けているというのに近いんだろうか。とてつもない激痛とともになんというか足先から自分の体が失われているかのようなのだ。俺はすさまじい恐怖を感じた。俺はただ叫ぶことしか出来なくなった。

「うわぁあああああ!」

「僕は侵食して同化することで獲物を食べるからね。ちょっとこの世界の生物にはない食事の仕方さ。随分気味が悪いだろう」

 アザムヤゼムはまた楽しそうに笑っていた。しかし、もうそんなことに何かを感じている余裕はない。ただ、叫び、気を失いそうな恐怖で恐慌状態に陥りながら、わずかに残った理性で必死に地面に手を食い込ませることしか出来ない。もう足は動かせない。俺の体はもう下半身までアザムヤゼムの口に埋まっていた。俺は激痛に叫び続けた。

「あああああああ!」

「ははははは。いいなぁ、やっぱり。生きて絶望しながら叫んでる人間をゆっくり咀嚼するのは。わざわざ自分でこっちに出向くかいがあるよ」

 もうアザムヤゼムが何を言っているか耳には入らない。本当にまずい。これはまずい。本当に死ぬ、と思った。というか状況を見るにもうほぼ確実に死ぬ。こんな田んぼの真ん中で俺の叫びが聞こえる人間なんて居ないだろう。よしんば居てもこんな化物に人間が適うとは思えない。自分では助からない。他人の助けも期待できない。つまり、俺は死ぬということだった。鼻先に死が迫っている。しかもこんな死に方。胸が潰れそうだった。恐ろしくて苦しくてたまらない。涙が出て、鼻水が出て、だが、何をしようがどうしようもない。俺は人でなしの化物に食われて死んでしまうのだ。苦痛と絶望に飲まれて死ぬのだ。なんて突然なのだ。まだ、全然生きてないのに。やりたいことがなんなのかさえ分かっていないようなクソガキで、まさに人生これからだというのに。これなら本屋に寄るんじゃなくて寿司屋にでも寄ってたらふく旨いものを食うんだった。なんて悲しいことだ。こんなところで死にたくはなかった。誰かに助けて欲しかった。

「何やってんだ。クソ野郎」

 声がした。女の声だった。俺はパニックで正気を失っていたが、その声の元に目を向けた。そこに立っていたのは俺と同い年くらいの女だった。アザムヤザムの触手が止まった。

「なんだいお前は。普通の人間じゃなさそうだな。まだ、管理局の連中が出張ってくるには早過ぎるはずだけどね」

「管理局なんて関係あるかよ。アホが」

 女はスニーカーにカーゴパンツにパーカーという服装だった。そして頭にはキャップを逆さに被っている。髪は随分短い赤色。声を聞かず、後ろ姿だけ見ると多分男と見間違えるような服装だった。女はふっと右手の人差し指を立て横に振った。と、

「!? ぐぉっ」

 アザムヤゼムが悲鳴を漏らす。そして驚愕と衝撃とで体勢を崩した。俺も一緒に地面を引きずられる。熱で皮膚が軽く火傷した感じがした。何が起きたかといえばアザムヤゼムの側面で突然爆発が起きたのだ。まるで爆弾でも炸裂したかのような大きな爆発だ。アザムヤザムの体表は焦げて煙が上がっていた。

「っち。たったそんだけの傷かよ」

「おいおい、まさか今のがお前の全力だったのかい」

「なわけあるか。ただ、普通の魔族なら骨が見えるほどの傷は負わせられる術だったからビビったって話だ」

「そりゃあ、僕は貴族だからね。そんな程度じゃまともな傷さえ付かないさ。それにしても同胞だったわけか。随分なご挨拶だね、魔族の魔術師。僕にそんなに堂々と敵意を向けるということは『白銀の月光同盟』の構成員だろう」

「察しがいいな、アザムヤゼム男爵。さすがにこんな姿でもバレるか」

「そりゃあ、僕には効かないとは言え今のは中級クラスの威力はあったからね。そんなもの詠唱なしで使うなんて人間業じゃないし、良く見れば向こう側の魔力の流れを感じるからね」

「さすがにただの金持ちのアホじゃないか」

 女は苦々しげに口元を歪めた。今日は本当に次から次に意味不明の出来事が起きる。アザムヤゼムは確かに『魔術』と言った。それはいわゆるファンタジーに出てくるあれのことだろう。こいつらは魔法陣だの魔力だのとファンタジーの用語を連発している。にわかには信じ難いが本人たちは明らかに真面目に言っている。そんなもの実在するなんて露ほども思っていなかった。だが、とにもかくにも死の危機は一旦落ち着いたようだ。相変わらず下半身は激痛が走っているがこれ以上食われている感じではない。アザムヤゼムの意識はあの女の方に向いているのだ。

「見たところお前は下級魔族だね。しかも色々と混じってる。その人間の姿も変化じゃなくて地だろう」

「うるさいな。だったらどうしたんだよ」

「ははは、なら僕に勝てるわけないじゃないか。見たところ魔力も人間の上位魔術師程度しかない。『カラー』だって上位の僕には通用しないんだ。打つ手なしに思えるけど」

「そうかね。何事もやり方次第だぜ。こと戦略の幅で魔術師の右に出るものは居ないんだ」

 そう言って女が腕を振るう。すると降りしきるみぞれが横薙ぎに吹き飛び、アザムヤゼムを襲った。

「ぬぐ」

 アザムヤゼムの体表にいくつも裂傷が生まれる。いわゆる真空波のようなものらしい。風の刃があの女から放たれたのだ。しかし、やはりアザムヤゼムには大したダメージを与えてはいない。

「こんな魔術じゃ何の意味もないけどね」

 しかし、女を見ると姿を消していた。どこかに隠れたのかと思った時、今度は別の方向から風が飛んできた。

「ははぁ、透過の魔術か。姿を隠して隙を伺おうっていう魂胆かな」

 そういうアザムヤゼムにまた別の方向から風が襲う。信じ難いがどうやら女は透明になって移動しながら風で攻撃しているようだ。

「でも」

 しかし、これでは、

「仕掛ける時間を間違えたね。雨粒で魔術の出どころが丸分かりだよ」

 ズン、と。鈍い振動が辺りを揺らした。魔法陣の紫色の光が一際強く輝く。すると、何か、真っ暗でよく見えないが、羽虫のような小さな黒い粒がアザムヤゼムを中心として辺り一帯から吹き出した。おびただしい量の羽虫が舞い上がりウゾウゾ動き実に気持ち悪い。それは一斉に群れをなして、さっき雨粒が乱れた、おそらく女がいるである方向に向かっていった。

「っく」

 暗闇からうめき声が漏れる。それと同時に大きな炎が吹き上がった。女が羽虫に対して放った魔術のようだ。しかし、それでも羽虫は止まらなかった。羽虫はその炎の周りをグルグルと取り囲む。

「チッ」

 その真ん中には透過を解いた女が居た。苦悶の表情でしゃがみこんでいる。片腕を垂らしているところを見ると傷を負ったらしい。状況は女の劣勢だ。女は必死に腕を振るい炎の魔術で羽虫達に攻撃するが、それはどうやら効いていない。炎が直撃しても羽虫達はびくともしないのだ。今女を襲わないのは、単に司令官の命令を待っているだけなのだろう。

「その子供達は僕と同格だ。お前の魔術は効かないよ。まったく、下級魔族が付け上がるからこうなるんだ。いい社会勉強になっただろう。まぁ、もっともそれが生かされることはないけどね」

 女は答えない。ただ、アザムヤゼムを睨みつけている。

「こいつらは魔力の伝導率が実に高くてね。魔力を通して並べてやれば即席で魔法陣を描くことができる。簡単なものから」

 羽虫たちが淡い青色に光りながらうごめき女の周りに形を成す。

「大掛かりな下準備が必要な大魔術までね」 

 それは実に複雑怪奇な図形の集合体だった。そこにもまったく脈絡なくすさまじい量の数字が書き込まれていた。これもおそらく魔法陣だった。ただ、後ろに浮いている紫色のものとは大分様子が違う。整合性の欠片もない奇怪な文様だった。

「精神喰らいの魔法陣か」

 女が言葉を漏らす。

「その通り。派手さには欠けるが、確実に相手の精神を崩壊させる大魔術だ。快感から苦痛まで、ありとあらゆる感覚が極限の強さで一篇にお前を襲う。笑いながら泣きながら叫びながらショック死する様は何度見ても愉快なものだよ」

 なんておぞましい魔術だろうか。アザムヤゼムはまたニヤニヤと笑っている。女は絶体絶命だ。魔法陣以外にも羽虫が女を取り囲んでいる。逃げ場はない。このままでは本当にえげつない死に方をしてしまう。

「さぁて、お別れだ。向こうで君の無残な死に方をお仲間に喧伝しておくよ」

 アザムヤゼムが手を前に出す。すると魔法陣の光が強まった。おそらく魔術が発動するのだ。しかし、女はみじろぎもしない。腕を抑えてしゃがみこんだままの姿勢だ。逃げる素振りすらない。全てを諦めているのか。しかし、よく見ると女は何かをブツブツと呟いていた。

「さようなら。”フェガアマル”」

 アザムヤゼムが呪文の名前らしきものを言った。すると、魔法陣から赤い霧が立ち上る。それが女を襲っていく。恐らくあれが触れると魔術が発動するのだろう。しかし、その中で女も言った。

「己が力で己を滅ぼせ。”エクスオルキスタ”」

 途端、女を包んだ赤い霧がどんどん薄まっていった。

「詠唱? 今の呪文は確か・・・・」

 そして、女を囲んでいた魔法陣が再び、さっきよりもさらに強く発光した。ただし、瞬くようにバチバチと。それは一定ではなく、まるで動作不良を起こしているようだった。

「魔族殺しの古代魔術ハイ・エンシェント!」

 魔法陣の瞬きが一気に止まった。しかし、今度は代わりにアザムヤゼムの体が強く動作不良のような発光に包まれた。

「ぐううぅう!」

「お前の魔力を現界のものに変質させてお前自身に返した。私自身の労力は魔力の属性と流れの変質だけ。ダメージはお前が使った魔力のフィードバックによるもの。強大な魔力を操る上位魔族にこそ有効な魔術だ」

「貴様! 人間風情の魔術を堂々とこの僕に向けて使ったのか!」

「ああ、その通りだ。人間が私たちに対抗するために作った実に合理的な魔術だぜ。誘いに乗ってわざわざ『精神喰らい』なんて強力な魔術を使ったお前自身を呪うんだな」

「ギイイィイイィ!」

 アザムヤゼムは尋常でなく苦しんでいた。さっきまでどんな魔術でも有効なダメージを与えられなかったのにこれは本当に有効なようだ。ただ、何故だか俺も実に苦しくなってきた。腰から下、さらに上半身まで伝わった苦痛は頭まで達し、最後には全身が鈍痛に見舞われた。俺はたまらず叫び声を上げる。

「っと。そういやこいつのカラーは『侵食』だったか。もうほとんど同化しちまってるみたいだな。今助けるぞ」

 すると女の腕にひと振りの刃が現れた。持ち手のない本当に刃の部分だけだ。それを何本も出現させ、俺の周りに放った。刃は通りこそ悪かったものの数を打つと徐々に俺の周りの肉を刻み、やがて、おれとアザムヤゼムを分断した。すると鈍痛も収まった。

「思い出した、思い出したぞ。人間の姿で人間の魔術を使う同盟の構成委員。お前『ペテン師のイオ』だな」

「その通り名はダサいから気に入ってないんだよ」

「そうか、そうだったか。顔はしっかり覚えたぞ。次の体では真っ先にお前を始末に行ってやる」

「そうかい、楽しみにしてるぜ」

「ははははははは」

 アザムヤゼムは大笑いした。下卑た実に気味の悪い声だった。そして、その笑っている口がどろりと溶け形を失うと、その周りから一気に全身が液体に変わっていった。そしてそのまま地面に広がり水たまりになると、端から霧になって消えていった。

「派手な散り様だな。ったく」

「・・・・勝ったのか?」

「ああ、一応はな。ん、お前」

「え?」

 女が表情を固くする。その視線の先、腕を見る。俺は戦慄した。指の先が溶けている。アザムヤゼムと同じように形を失い始めているのだ。

「うわあぁあ! どうなってんだこれは!」

「あいつ、最後の最後に同化を進めやがったな。まずい。このままじゃお前も溶けちまう」

「ど、どうにかしてくれ!」

 せっかく命拾いしたと思ったが、まだ一件落着ではなかったらしい。このままでは俺も水たまりになってしまう。それもやはり人の死に方ではない。

「仕方ない。お前、私と契約しろ」

「け、契約? なんだそれは。ハンコでも要るのか」

「こんな時にボケかましてんじゃねぇ。私の眷属、まぁお前ら風に言えば部下になるみたいなもんだ。ただ、色々と厄介事まみれになる。今までどおりの生活は望めないぞ」

「なんでもいい! 死ぬよりましだ!」

「よし、分かった。なら私の手にお前の手を合わせろ」

 そう言って女は手の平を差し出した。俺は言われたままに、もうプルプルのゲル状になった右手の平を女の手に合わせた。

「大分痛いが、我慢しろよ」

 そういう女の後ろから何かが伸びた。それは刺の付いた尻尾だった。

「な、なんじゃこれは」

 驚く俺を無視して女はその尻尾を振るい、俺の腕に突き刺した。

「いっっっっっっってぇえええ」

 激痛だった。純粋な痛みだった。アザムヤザムに取り込まれた時とはまた別の、正真正銘人体に欠損が出来た時の痛みだった。だが、その痛みと同時に何かが俺に流れ込んでくるのを感じた。その流れが俺の胸、心臓あたりまで達するとカチリと何かがはまったような妙な感覚があった。それと同時に痛みは消え、全身にあった取り込まれた後遺症であろう不快感も消えた。そして、一気に眠気が襲ってきた。抗おうとしてもどうしてもまぶたが降りてくる。

「うまくいったみたいだな」

「だ、だめだ。眠い」

「ああ、ゆっくり寝ろ。とにかく一旦休まないとお前はもたない。起きたら全部説明してやるよ」

「・・・・おう」

 女の言葉もうまく聞き取れないまま俺のまぶたは完全に閉じた。そしてそのまま意識が途切れ、俺は夢も見ることのない深い眠りに落ちた。

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