推敲後
ひし形の大陸の南端にひらける神域の森と、その先の白銀連峰。
聳える峰々の彼岸にみずからを占める王都を、バールはひとりで目指していた。
山越えに不向きな時季ではけしてなかったけれど、あえて迂路をとっている。家訓と化した旅程の心得を遵守した末の選択だった。安全の確保、旅程の計算、路銀を出て行かせないための創意工夫。綿密にそれらをこなせばこなすほど、いつしかこのまま、旅に終わりが来ないような錯覚にとらわれていった。
通りすがりの景色の中で、気候に合わせひとびとの営みも縷々変化した。調べていた既知も、取り落としていた未知も、目で見て、肌で感じることができた。が、感想を抱く暇もなく、それらは彼の内面から流れ去り、あいかわらず旅は続いた。
けれどいまや、目的地が近づいている。
「慣れて油断してきたときにかぎって、一瞬で身ぐるみ剥がされたりするんだろうな」
唇から転げた懸念をぬぐうように、馭者台の上の彼は顔を上げる。視界にひらけた大地の向こうへ、切り出したような都が、山脈のように勃然とあらわれる。 断崖の
古色蒼然たる叙景と、魔術的な異形がこともなげに共生している光景を、白昼夢のように呆然と見つめた。
馭者台を占拠していたのは、彼自身が馭者だったからだ。乗り合い賃がてらのお勤めを切り上げ、目的地の玄関口に降り立つ。
無事に着いたこと、それ以上にその、端正で文化的な街区の装いに胸をなで下ろす。以前に滞留した小村のような、着替えや食事、果ては排泄に難儀するような事態は避けられそうだ。
とはいえ、荷をほどき、腰を落ち着けるより先に、向かいたい場所がある。
●
この地で栄華をきわめた古代魔法帝国。一夜におけるその滅亡は、みずからのゆきすぎた文明の刃先によるものだったとか。
爾来、魔力……、ことに魔法の脅威は人心に根を張り、それは魔術を扱う者たちの冷遇につながった。
さて、小国がたがいに睥睨をきかす群雄割拠の時世。冷遇による忘却の過程にあったそれらの力能を、あえて国力として表舞台に引きずり出した治者がいた。やがて大陸随一の領土を占めることとなった王国は、以後も魔法の研究に注力してきた――魔術師の育成を目的とした専門機関を、王都に設えるほどに。
そのような経緯により、現在、北方の魔導の国に位置する妖都、ないし魔術士たちの知識の集まる西都と並び称される、魔法使いのための指導機関が、この地にはある。
●
「王立魔法大学マリテュスへようこそ」
受付係の男は、土埃と汗に湿った若者へ向けて、事務的に告げる。
敷地だけで小規模な街のひろさを有する魔法大学に、正式な出入り口は正門ひとつだ。そこにある迎賓館は、その正門じたいをふさぐように、横へ長く伸びたつくりである。したがって、学内の様子を外部の者が垣間見ることは難しい。
若者が門前で、学内どころか門じたいの黒鉄の威容、あるいは建物の装飾に気を取られる様子を、詰所から観察する。お上りさんの類型的な反応だ。
男は顎を鳴らして、あくびをしてみる。猫みたいに。
踵を返すと踏んでいたが、予想に反し、意を決したように詰所へ歩み寄ってきた。
男は若者をあらためて観察する。童顔に似合わず、肩幅がある。胸板も厚いが、腰回りの寸胴っぷりに違和感をある。着ぶくれだろうか? 骨太で固太りしているだけか?
値踏みする自身を悟られる前にと、矢継ぎ早に台詞を口にする。
「騎士見習いの受付はここではありません。戦士または傭兵の志望でしたら、組合の方を」
「ちがいます!」
淡い金褐色の髪をゆらした若者は、灰青色の瞳を輝かせて即座に否定する。
薄汚れた旅装、ふくらんだ荷袋。王都に着いた足で直行してきたのだろう。働き盛りの若牛のような壮健に、羨望を覚える。
「農夫は」
「だからちがいます! 魔法使いになりにきたんです!!」
「……なるほど?」
健やかなばかりでなく、無垢でもあるらしかった。つまり、自分がすさまじい魔力を持っているという、根拠のない空想を抱いている。
「今までに、魔法を使われた経験は?」
「ありません!」
「どこのお生まれですか?」
「バルトリア半島の、海沿いです」
では、農夫よりも水夫に近い。
「今までのお仕事は?」
「仕事というか、……実家は、港の大店ですけど」
「縁者に、魔術や魔法に携わる方は?」
「いません。ひとりも!」
なるほど。なら今のところ、素質はなさそうだ。
「あの……魔法使いになれるかどうか、そんなことでわかったりするんですか?」
「いいえ。ただ、可能性が高いとはいえないかもしれません」
遠まわしに告げたつもりが、若者は過敏に反応した。
「そこをなんとか!」
「あくまで可能性です。魔術士の両親から魔力の低い子供が生まれることもあります」
魔力の低い親から魔力の高い子どもが生まれる可能性は、皆無だけど。
なだめすかしながら思うが、口には出さない。
「なんかもっとはっきりわからないんですか? 手相とかで」
「手相?」
思わず口に出した。妙な沈黙が流れる。
男は咳払いをして、肘を置いた机を指先で叩く。
「個人の魔力は、そんなもので決定されません。種族も、性格も、生年月日も、星座も、血液型も、……その人の魔力を判断する材料にはならないんです。血の記憶は例外ですけどね。つまり、血縁関係ということです」
「だめじゃないですか」
肩を落とす、目の前のやさしげな若者に、魔法という強大な力は似合わないだろう。それが男の個人的な感想だった。とはいえ、一介の事務員を相手に食い下がる懸命さが、気の毒に思えないこともない。
うろうろとさまよう視線が、ふと差し向けられる。
「あの、失礼ですけど、おじさんは魔法使えるんですか?」
「使える」
おじさん。
「すごいですね!!」
青天の下の川面のような眼差しがまぶしい。三十路に至らぬというのに壮年扱いされたことへの動揺も、この純朴さに呑み込まれていくかのようだ。
「まあ、あれだ。あきらめきれないなら、適性試験を受けたらいい。それではっきりするから」
「魔法が使えなくても、試験を受けられるんですか!」
若いから何も知らないんだな、という嫌味を呑み込み、平静を装う。
「魔力値が高ければ、それだけで入学が認められるようになってる」
「がんばります!!」
がんばりの問題ではないことを説明したつもりだが、わかってもらえなかったようだ。心なしか胃が痛む。
「君は、どう見ても初心者だな。年齢は?」
「15です」
「じゅう……じゅうごっ!?」
てっきり相手が成人していると思っていた受付係は、にこやかな少年を見上げる。
大柄な身体、意思の強そうな瞳。
若ければ、やり直しもきくか。……たとえここで夢に挫折しても。
●
「ありがとうございました」
適性試験の受付を済ませたバーレイ・アレクシアは、意気揚々と街並みに戻っていく。見送る人影はないが、そんなことは気にも留めない。
二年に一度おとずれる受付期間のあいだ、遠方から、数知れぬひとびとがやってくる。
その大半は、適性基準を満たすことなく、
余談だが、そういう残酷さを上手に伝えるのも、魔術士の端くれである受付の仕事だった。毎回、うまく伝わるとは限らないにせよ。
●
一ヶ月後、試験の順番が回ってきた。
住み込みで働き始めた粉屋を後にして向かった
迎賓館前の車寄せに、拡声魔法の案内がひびく。
指定されていた館内の中央回廊まで、人波をかきわけて進む。
通りがかった中庭では、すでに心得がある者のための試験が行われている。後ろ髪を引かれながらも、自分のことに集中しようとつとめる。人の流れに逆行すれば戻れなくなるという不安もあった。
多くの受験者は、バールと同じく、地方出身者と見えた。辺境に特徴的な髪型や服装、装身具が眼につく。亜人も、あるいはその出自にとんと見当のつかない容姿の者もいる。
彼はいつしか、観光にでも来た心地になっていった。
●
弛緩した表情の若者を、老魔術士は見上げる。水晶玉にも、気質を悟られぬよう伸ばした白眉にも、動じる様子はない。
「バーレイ・アレクシアです! よろしくお願いします!」
耳鳴りに顔を背けながら、ひとまず手で着席をうながす。元気なのはいいことだが、老人の鼓膜を考慮したあいさつを心がけてほしい。
今までの経験、仕事、血筋。決まりきったことを尋ねながら、最後につけくわえる。
「おんしは、魔力が何かわかっとるかね」
少年は黙考し、首をかしげながら答えた。
「みんながもってるもの」
沈黙。
「ぢゃ、水晶球の中を見て。……何が見える?」
「下に敷いてある布。白いです」
蓄えた顎鬚をしごきながら、軽い調子を意識して、本題を告げる。
「おまえさん、その白いとこに〈MANA〉って字が書けるかい。字を目の前に想像するんだな」
少年の視線を、彼はひそかに追う。しばらくすると、見えない絵筆で刷くようにして立ち現われるものがあった。
「できました。太くて黒い字ですけど」
「ならそれを、ゆっくり剥がすんだ」
自分で想像したものを、自分で変化させる。適性を測る上で、最も重要な技巧のひとつ。
「ゆっくりは重要ですか」
「いいや。字が崩れないってのが重要だよ」
「字が……」
岩礁の藻草を指で毟り取るようにして、引き剥がされた文字が、宙を舞う。
想像力に意思が介在した瞬間だった。
水晶球が反応する。文字が色づく。噴き出た紅は炎のようで、それは真紅から緋色、山吹、明るい黄に刻々と転じる。
文字の輪郭が見えなくなる。直後、花弁がひらくようにして、ぱっと弾けた。
水晶球の内奥に火の粉が散る。
「これが魔力じゃ」
少年は口を開き、何かを叫ぼうとした。
待ち構えていた老魔術士の眼が眩む。横合いから迸った閃光のせいだった。大回廊が白く染まる。
次の瞬間にそれは収まった。代わりとばかりに、柱を挟んだ隣の机で、試験官が絶叫する。
「合格っ! 合格だよっ!! すごい潜在能力だ、間違いない。いやぁ水晶が壊れるかと思った」
合格を名指されたのは、線の細い少年だ。老魔術士はその、頼りなげな横顔を記憶しておくことを決めてから、目の前の、自分が担当している受験生に視線を戻した。
「ほあー、すごいなーあの人。オレより年下なんじゃないかなぁ」
間抜けな独語を発してから、受験生も老魔術士に視線を戻す。いたずらがばれた丁稚のような仕草に漏れ出る微笑を、顎鬚を撫でてごまかす。
「うーむ、どうしようかの」
「あるんですか、ないんですか?」
「ある。おんしも言うてただろ、みんなある」
喜びかけた少年が、そこで固まった。
「おまえさん、これは入ってから厳しいぞ。どうしても魔術士じゃないとダメか?」
「……商人でも」
ぼそりとつぶやいた言葉を、老人は聞き逃した。
「ん?」
「いえなんでも。だめだったら、弟子にしてくれるまであなたの所に押しかけます」
なるほど。どうやら聞き逃すべきではなかった。
「んー、いやな奴だなおまえさん」
意に沿わぬ弟子を取る面倒と、平凡な者を招き入れた判断で生じる責任。天秤にかけ、後者を選ぶことを決めた。
「見込みが皆無じゃないからな、合格にしといちゃる」
「ありがとうございます!!」
明朗な返事は、むしろふてぶてしさを予感させる。
「後悔させるなよ、若僧」
渋い声音で告げても、彼は頭を上げようとしなかった。
●
許可証を携えた少年が、奥の間へ向かっていく。その後ろ姿を見送ってから、ラガード・ハッシュは水晶球を覗き込んだ。
「……持続力は基準値超えか、しまった」
申請用紙には、すべて「並」と記して渡している。別の意味で責任を負うはめになるかもしれない。
ひそかに焦るラガードを尻目に、火の粉はゆっくりと消えていくところだ。
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