ヴィレント

 最初に記すのは、私の兄、ヴィレント・クローティスの話。

 とても強く、とても恐ろしい兄の話。

 初めて兄に殴られたのは、いつだったか。

 あれは確か、父と母が殺され、私と兄、2人での生活が始まり、1年ほど経った頃だったと思う。

 私達は、焼かれた家を捨てて、あちこちを放浪していた。

 その生活が始まった時、兄が12歳、私が8歳だった。

 幼い私は、行く先々の安宿の一室で、兄の帰りをただ待つだけの日々。

 1人で出かけて行く兄は、短くても丸1日、長いと数週間帰らなかった。

 戻ってきた兄は、いつもヘトヘトになりながらも、持ち帰った大量のパンを私に突き出すと、一言も話すことなく、横になって寝てしまっていた。

 そんな毎日が続き、そして、あの日──。




 いつものように出かけて行った兄は、その時、1ヶ月以上も戻らなかった。

 渡されていたパンもとうに尽き、私は空腹のまま、兄の帰りを何日も待った。

 その街は治安が悪かったため、幼い私には1人で外に出る勇気はなく、また、一銭も持ち合わせていない私が、もし街へ出たとしても意味はなかった。

 その夜ふけに、兄は帰ってきた。

 私は、空腹で眠ることもできず、兄を迎えた。

 いつも以上にボロボロの姿で扉から現れた兄は、両手には何も持たず、ふらふらと数歩歩くと、何も告げずに横になった。


「兄さん……?」


 その姿を見れば、ただ事ではないことを察することはできたはずだった。

 心配すべきは兄の体であり、何もできぬのなら、せめてそっと休ませてやるべきだったのだ。

 だが幼く、その時空腹に耐えかねていた私には、そんな余裕さえなかった。

 私は横になった兄に這い寄ると、


「兄さん。ねえ兄さん。お腹すいたよう。お腹すいたの、兄さん」


 言いながら、揺り起こそうとした。

 中々起きない兄を何度も揺らし続けていると、兄は唐突に、むくりと上半身を起こした。

 放心したようそれを見つめていると、次の瞬間──

 私は顔面を殴りつけられ、床に伏していた。

 何が起きたのかわからなかった。体を起こした後、頬に激しい痛みが伝わってくると、殴られたことを理解し、涙が零れた。


「痛い、痛いよう。兄さんが、ぶったよう。父さん、母さん、痛いよう」


 涙をぼろぼろと零しながら、痛い、痛いと、私は泣き喚いた。死んでしまった父と母を呼びながら。

 だが、私を慰めてくれる両親の姿は、もうそこにはない。

 1人、喚き続ける私。

 無慈悲にも、2度目の兄の拳が叩き付けられた。

 今度は痛みと衝撃で、泣くことすらできなくなった私は、床に転がった。

 必死に顔を起こすと、寄ってきた兄に胸ぐらを掴まれた。

 兄は恐ろしい顔で私をにらみつけると、静かに言った。


「黙れ」


 涙は止まらなかったが、恐怖で声は止まった。

 私が黙ると、兄は掴んでいた手を放し、再び横になった。

 その日の夜、私は部屋の隅で、嗚咽が漏れぬよう、声を殺して泣き続けた。




 翌朝、兄は早くに出かけていった。

 その時私は、このまま捨てられてしまうのだろうかと思った。

 しかし、意外にも兄はすぐに戻ってきた。

 昨夜のことに、謝るでも、怒るでもなく、いつものように無言でパンの袋を投げつけると、部屋の反対側で横になった。

 投げ突けられた袋を受け取り、しばし呆然としていた私だったが、もはや空腹が限界に達していたため、後は何も考えられずに必死にパンを貪り、そして眠った。

 これが悪夢のような日々の始まりだと、私は想像もしなかった。

 昨夜の出来事は、何かの夢だったのだろうと、鈍った思考で、呑気に考えていた。

 この日を境に、兄は何かと私に暴力を振るうようになっていった。

 そして私には、兄が何を考えているのか、わからなくなっていった。

 私を殺すでも放り出すでもなく食料を用意し、でも気に入らないことがあれば、たびたび殴りつけた。

 酷い時には、髪を掴んで引き摺られたり、腹を蹴られたりもした。

 泣き喚くとさらに酷い目に遭うため、黙って必死に耐えるしかなかった。

 私は兄に怯え、機嫌を損ねぬよう口数は減っていった。

 今だから言えることであるが、兄が悪いわけではない。

 兄もまた、私より4つ年上というだけで、幼くして過酷な生活を強いられていたのだ。

 兄は12歳の身で、1人で2人分の食料を稼ぎださなければならなかった。

 危険な仕事も沢山受けたのだろう。盗みを働いたこともあったのかもしれない。いつもぼろぼろになって帰ってきた兄の姿を思い出せば、想像できる。

 でもその時の私は、そんな苦労も想像できないほど幼くて、兄を労うでも、支えるでもなく、ただ待つだけしかしなかった。

 兄とて、自分1人で生きていくだけなら、いくらか楽だっただろう。私さえいなければ、と考えたこともあったのかもしれない。

 だから、大人になって思い返すと、私は兄を責められない。

 だが、8歳の私にも、これ以上何かができたとは思えない。

 これは悲劇である。私達兄妹に起きた、どうにもならない、避けようのない悲劇。

 そうして、私達の関係は修復不能なほどに歪んでいった。

 私にとって地獄のようなこの日々は、この後5年もの間続いたのである。

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